2010年03月05日

経済危機の後に思うこと

 "Europe's Original Sin"を読みながら、自分の語学力の貧困さを痛感します。この記事は緻密に事実を積み重ねて、意見は控え身という玄人好みの文章ですが、読みこなすのには骨が折れます。悪いことに、自分の下手くそな文章にも手を入れなければならず、この作業が本当につらいです。もう最終の段階ですので、微調整で終わらせなければならないのですが、想定される読者にお出しする順番、イメージの膨らませ方、そして読みやすい文章ということを考えると、すべてをご破算にしたい衝動に駆られますが、何事もなかったように、ちょっとでも拙い文章に直すことに専念しております。私程度ではなかなか日本語と英語の双方の思考を切り替えることができないことにふと気がつきます。まあ、この程度の生産性でやってゆけるのだろうかと不安にもなりますが。

 リーダーで読むべきものが少ないなどと過疎地の「時の最果て」の運営者が嘆くのは気恥ずかしさもありますが、伊藤洋一さんの「韓国企業に学ぶ」という記事は、短いながら、さすがだなあと。五輪が終わっていまだに一部では反韓国感情が強いなかで当然のことを述べられているだけです。しかし、感情論を排して述べるのは決して容易ではないでしょう。「経営判断の素早さ」というのは同感ですが、ちょっと違う角度のことも考えたいものです。

 私自身は出不精で韓国に行ったのは一度きりです。どちらかと言えば、学生時代から留学生との交流が多く、楽しい時間を過ごすことが多かったです。1990年前後には私自身は学部生でしたが、ゼミの合宿で大学院生の方ともご一緒しました。当時のボスがかわいがっていた女性の院生は非常に優秀で、本人から聞いた話では何度もボスに修士課程(現在では前期博士課程と呼ぶことが多いようですが)から博士課程に進んでほしいという希望を伝えられていました。彼女も相当、悩んだようですが、韓国の商社への就職の道を選びました。本人の話では、歴史学研究ではとても先生のようにはなれず、自分は日韓の絆を実務で深めたいとのことでした。まあ、学部時代のボスは、当時の歴史学、あるいは経済史の分野ではやや異端で、とくにお弟子さんは、日本が韓国の植民地時代に韓国経済の高度成長に役割を果たした側面を探求していたようです。ボスは『親日派の弁明』でも紹介されている方です。

 彼女は、過去の歴史でいがみ合うのではなく、将来に向かって韓国が日本の成功に学び、韓国自身がさらに自信をつけ、日本と新しい時代を築きたいという理想を語っていました。個人的な話で恐縮ですが、私は彼女に好意をもっていましたが、私では不釣合いかなとアプローチをしたことがありませんでした。もっとも、彼女の部屋でとんねるずの番組を見ながら二人で楽しむことはありましたが、韓国人女性と性的関係を結ぶことはどのような意味をもつのかということぐらいは理解しておりました。退官記念のパーティで、韓国から参加して当時の同窓生にプレゼントを渡していましたが、他の人とは明らかに異なるプレゼントを頂いてびっくりしました。あとで、先輩に、「お前は本当に鈍いなあ」と言われて、人生でも数回しかない機会を逃したことに気がつきました。

 光景が激変したのは、アジア通貨危機です。当時は、別の留学生も生活に困るほど、ウォン安が進みました。私が接触した範囲ではIMFの強権的な介入に反発を覚えながらも、私たちの国を再建するためには苦い薬を飲まなければならないという苦渋のなかに希望を見出そうとする姿勢に強く印象を受けました。IMFのネポティズムへの批判などはかならずしも的外れではなかったと思いますが、多くの財閥系企業が整理され、それまで裕福だった層が没落するという社会の激変を招きました。しかし、いわゆる「既得権益」を奪われた韓国人ですら、祖国の再生のためにやむをえないことなのだと、新しい国づくりのために運命を甘受するともに、危機において新しい目標をもっている韓国の人たちを見ると、当時、経済的にも政治的にも低迷していただけではなく、単なる不況からの脱出だけではなく、日本とは明らかに異なる積極的な目標が韓国人に共有されていたことが、「経営判断の素早さ」という問題だけでは解決できない韓国企業、経済の強さにつながったと考えております。

 翻ってみれば、1980年代から1990年代に日本経済はピークを迎えましたが、欧米へのキャッチアップという明治以来の目標を、あくまで経済活動に限定した問題ですが、喪失した時期でもあります。「失われた十年」という表現には違和感がありますが、この時期には国内において欧米へのキャッチアップという目標から、グローバル市場における競争へと製造業企業を中心に目標が変質していきました。それは同時により長期的には企業の成長が国民経済の発達と合致するという、高度経済成長期の幸福なコンセンサスが失われる、最終的な段階だったのかもしれません。

 1990年代から2000年代の日本企業は「債務の過剰」、「設備の過剰」、「雇用の過剰」の解消を迫られましたが、そのような後ろ向きの問題だけではなく、海外への進出が進んだ時期でもありました。以前のような欧米へのキャッチアップから欧米企業と競争し、それまでに先進性を発揮する時代に入ったのでしょう。移動体通信では通信規格や端末などで日本の特殊性が強調されますが、トヨタ自動車のプリウスなどに象徴されるように(現在はリコール問題で苦しんでいるとはいえ)、「グローバルプレイヤー」としての性格を強めてゆく傾向は後戻りをしませんでした。2000年代の半ばには製造業の国内回帰の傾向もありましたが、海外売上高比率を2008年度の連結決算で見れば、トヨタ自動車は73.6%、本田技研工業は85.6%、日産自動車は75.8%です。キヤノンは暦年での通期決算ですが、2008年は78.8%です。製造業以外でも、2008年度の決算では海外売上高比率は日本郵船が84.6%、商船三井が89.9%です。企業の活動範囲と国境が一致しない時代を明確に迎えているといってよいでしょう。

 1950−60年代にはアメリカ企業の多国籍化が進み、1980年代から90年代にかけて日米貿易摩擦という不幸な交渉を招く素地をつくりました。日本の場合、日本語の壁もあり、アメリカのようなトップマネジメントレベルでのグローバル化は急速には進展していません。今後、トップマネジメントのグローバル化がどの程度、進むのかは予想できませんが、先ほども述べたように日本の大企業の活動範囲は確実に国境を越える時代です。経済危機の後、大企業の拡大がただちに日本経済の成長を迎える時代は遠い過去になるのかもしれません。韓国はアジア通貨危機で強制的に「開国」を強いられました。韓国から学ぶことは、経済危機の後、個々の企業レベルでの海外進出やトップマネジメントのグローバル化とともに、経済活動が国境で妨げられない時代にふさわしいふさわしい諸制度の準備なのでしょう。


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posted by Hache at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言