「寝言」としてはやや重めのタイトルか。確か、エラリー・クィーンの作品に邦題でこのようなタイトルの小説があったと記憶しているが、内容は忘れてしまった。社会のあれこれに関心を持続することが困難な状態が昨年から続いており、ふと自分自身のことを振り返る。あるいは、平均寿命からすれば、ようやく折り返し地点に差し掛かったということが大きいのかもしれない。子どものときからすれば、ここから先の人生を考えたことがなかったので、まだ先があるかもしれないと思うと気が遠くなるというのが率直な実感なのだが。
私にとって「心地よく秘密めいた場所」というのは、やはり祖母の存在だ。誠に申し訳ない限りだが、母親にはそのような感覚はまったくない。祖母は、いつも私をほめていた。幼稚園に通っている頃に、漢字が書けるようになり、九九ができるというだけで、「末は博士か大臣か」と嬉しそうに両親に話していたそうだ。正直なところ、子どもには意味がわからなかったのだが。あるいは、両親が買ってくれない小学生向けの事典やおもちゃを与えてくれた。もっと些細なことでは、百貨店のレストランでハンバーグにタバスコをかけてしまい、口に含んだ瞬間に泣きだしてしまったら、慌てながら水を飲ませてくれたり、両親は顔をしかめていたが、代わりの料理を注文してくれたりした。物質的な記憶ばかりだが、なんとなく感じていたのは、無私で無償の愛を受けていたということだろうか。正確には、孫である私や弟にそのような愛情を抱いていたのだから、「無私」というのは美化なのだろうが。なにかを与えるが、私が嬉しそうにしているだけで満足そうだった。今、考えると、「末は博士か大臣か」というのは恥ずかしいが、私にはこういう人物になりなさいという話はまったくなくて、そういう面ですら、見返りを求められている気がしなかった。
両親が愛情に乏しい人たちだとは思ったことがない。ただ、彼らの愛情は、私に対して投資することによって将来の収益を期待するところが大きかったように思う。したがって、祖母の愛情を無償だと感じたのは、将来の収益を期待するところがなかったことだと思う。もちろん、両親が私をしつけ、教育することに将来の収益を見いだすこと自体は、不純だとは思わない。しばしば、そのような条件付きの愛情は子どもの能力を開花させることもあるだろう。私と祖母の関係は6歳で祖母が亡くなって終わってしまったが、失ったものがあまりにも大きく、おそらく、20代前半まで抑鬱の遠因になっていたように思う。両親を失っても、これほどの傷を負うことはないだろう。表現が悪いが、その程度の絆でしかない。
ませてくると、嫌な表現だが、男女間の恋愛の基礎に性欲があるということに気がついた。平均よりも比較的、遅かったのかもしれない。そんなものかと思うと、愚劣でもあり、それが健常な人間なのかもしれないとも。一時的にそのような欲求に身を任せていた時期もあった。特に、後悔はない。相手に快楽を与えることが楽しかったし、同じく快楽を与えようとする女性はかわいい。
24歳のときに、ある女性を紹介された。紹介してくれた知人にあとで聞いた話だが、まさか付き合うとは思っていなかったようだ。私自身もだ。初対面で、これほど美しい人がいるとは思わなかった。正直なところ、後にもいない。不思議なことに、相手が美しいと意識すると、あがるものだが、2時間ほど話が弾んで、別れ際に私の方から自然と電話番号を書いた紙を渡した。これも、私らしくなくて、後にも先にもない。もう一度、話ができたらとは思ったが、こんな時間が過ごせただけでもいい思い出で、本気で電話をかけてくれて会えるとは期待していなかった。驚いたことに、帰宅してからすぐに電話がかかってきた。今度は二人きりで会いたいという。そんなわけで、縁がないだろうと思っていた相手と付き合うことになった。物腰から私よりもはるかに上流の人だろうと思っていたが、想像以上で腰が抜けそうになったこともあった。欠点といえば、私よりも10cmほど背が高いことぐらいだろうか。キスをしようとして、背を伸ばすと、ヒールを履いた状態で上を向かれたり、母親が子どもにするように軽く頬にキスをするだけで適当にあしらわれたときには少しだけ腹が立ったが、不満はなかった。二人で歩いていると、人目をひくので、それはそれでつらいこともあったが、あの人が私をいつも立ててくれていた。
ある晩、あの人が身の上を話した。聞いているうちに、静かに涙がこぼれた。詳細はいいだろう。ほぼすべての内容を覚えているが、すべてにおいて恵まれている人がこれほど不幸なことを経験していること自体が、今では不思議ですらある。私は話を聞きながら、それを背負うことを決意した。その後、本当に私の愛情が本物かどうかテストされたのには閉口した。唯一、不快だったのは私自身をテストしていることだった。この時期にはおしまいにしようと何度も思ったことすらある。愛情を試すこと自体を許さない私が自分で考えている以上に自尊心が肥大化しているのかもしれない。
しかし、一緒に住み始めると、別の困惑を覚えた。私のスタイルでもあるが、学生だったこともあって仕事をするのは自宅になる。机を前に途方もなく孤独で、道に迷うような時間を経験する。あの人は、もともと国際的な舞台で活躍していたが、いろいろあって嫌気がして、会社勤務をしていた。平日は秘書の仕事で、当時22歳だったが、朝7時には家を出て、二人の生活費600万円以上を稼いでいた。そんなときにも、あの人は、土日には常にそばにいた。私の集中力が限界に達したと察すると、すっと無言で立ち去って紅茶やコーヒーを準備してくれた。どんな仕事をしているのかはわからないと言っていた。他方、家族が、私よりも実践的で、はるかに難解な分野だが、同じような状態になることもあり、そのときの孤独感がわかるのだった。そんな私を見ていると、ただただ、そばにいたいと言っていた。
恋人と祖母を一緒にするのは変な話だが、無償の愛というのは祖母だけではないのかと思った。あの人自身は、「無償の愛」と言っていた。他方で、失ったときの悲しみはあまりにつらいことも思いだした。あの人は、私との結婚を切望していた。したがって、あの人の両親とお話しなくてはならないのだが、事情が複雑でハードルが高かった。一応、そのことを理由に離別したのだが、本当は失うのが怖かったのだと思う。別れ話をしている最中に私自身もあの人もとり乱した。諦念したかのように、最後は、「逃した魚は大きいぞ」と笑っていた。別れてから2週間後、親族の方が訪れた。正確には、名乗りながら、ドアを叩いていた。とても怖い体験だった。前日に、なぜかあの人が夢枕に立ってさようならを言っていた。祖母が亡くなったときもそうだった。彼女は恋愛を苦にして一度、自殺していたから嫌なことも考えた。もちろん、自分でもそれが幻覚でそうではないだろうと思ってはいた。それ以上に、失うことを恐れた以上、元に戻る資格はないと感じていた。
3年前には韓国人の留学生に好意を抱いていた。相手が韓国人の留学生ということもあって、迂闊に肉体関係には入れないし、相手が好意をもっているのかも自信がもてなかった。二人で料理を作って当時の番組を見ながら話をしていると、韓国人だということを忘れるぐらい、楽しかった。決して美人といえるほどではなかったが、合宿先で上着を脱いだ時に、「下にこんないいセーターを着てはダメ」と言いながら、ジャケットの裏側についた毛玉をとってくれていた。彼女は韓国に帰り、寂しかったが、同窓会で会うと、私にだけ手作りのチョコをくれた。あとで先輩連中と話していたら、「え、なにも声をかけていないの?」とびっくりされた。恩師に将来を嘱望されて日本に残ってほしいとお願いされたほど優秀だったが、彼女自身はとても恩師にはおよばないと実業を選んだ。とても家庭的で温かく、みんなから愛されていた。そんななかで私に対しては、特別、好意的だったそうだ。先輩から、ひどい振り方だと怒られたが、先輩の判断が正しいのかは今でもわからない。
私はどこか臆病で、自分が相手に好意をもっていても、相手はそうではないという前提に立つ。それでいて、無私の愛に触れると、失うことを恐れて立ちすくむ。臆病だということでは一貫しているが。さらにいえば、私自身が受けている愛情よりと少なくとも同等に愛情をそそぐことができるのか、不安になる。そんな帳尻などどこにもないことは理解しているのだが、大人になってから、そのような愛情を受ける資格があるのだろうかと立ちすくんでしまう。その意味では親離れができていないのかもしれない。なにか、受けたものに見合うものがなくてはと考えているという点で。
木曜の晩にほぼ同年齢の既婚女性と酒を飲んでいた。静岡県出身者で、年をとったら静岡に帰りたいと話したら、意気投合したからだ。からかうように、いい人を作りなさいよと絡んでくる。そんなに簡単にできたら苦労しませんよとこちらも気楽に返していた。「どんな人が好みなの?」と尋ねられたので、「基本的に面食いです」と正直に話した。「婚活はしないの?」と尋ねられて、結婚が前提というのが理解できないとやはり正直に話した。女性も30を過ぎれば、パートナーがほしくて必死になるものよと言われてそんなものかなあと。いろいろな例を聞いているうちに、頭では理解できないが、なんとなく気もちはわかるようになった気がした。男はなんで若い子がいいのかしらと言っていた。酔っていたのかもしれないが、25歳のかわいい人と35歳で女らしい人のどちらかを選べと言われたら、35歳を選ぶと言った。相手はちょっとびっくりした様子だったので、だって35歳を過ぎたら、そのまま死ぬまで女でいてくれる確率が高いからと話した。でも、普通の男は25歳を選ぶだろうと。男はギャンブルが好きな場合が多いからと。「婚活しなさいよ。すぐにいい相手が見つかるから」と言われて、よくわからなかった。
結婚式は苦手だからと話すと、女性はウェディングドレスを着ること自体、嬉しいのだから、あなたの好きな人が喜ぶことを嫌がることはないじゃないと言われると返す言葉がない。あの人も、パリの職人に愛されてオートクチュールのドレスを特別に用意してくれているのと話していた。「ただ、結婚式で終わりじゃなくって、そこからスタートでしょうって話でしょ。二人で試行錯誤しながら生活を営むのだから。そちらが本当にうまくいくのかどうかを考えてしまう」。相手は、珍しくしばらく沈黙して話し始めた。
「私はね。男性に老いていく自分を見ていてほしいの。女として愛されながら」。これは、「時の最果て」の「寝言」とはいえ、文字にすると恥ずかしいのだが。おかげで自分が幼稚だということがようやくわかった気がする。あれこれ考えているようで、なにもわかってはいなかったのだと。そう、若いときには、相手と一緒にいたいという一念だったが、年をとればお互いに老けていく。そんな姿を、愛情をもって見守っていればよいのだと。なにも特別なことではなく、世間の多数の人たちは考えることなく、行っていることを私は考えるばかりでなにもしていなかっただけだった。
ただ、もう41歳になると、25歳のときのような経験はない。相手を必死に探して、無償の愛を求めようとも、発露しようとも思わない。求めれば求めるほど、そういう関係をえることはできないという気がする。また、無償の愛は、本人がその発露だと思っている場合、相手にとってとても迷惑だということもあるということを理解できる程度には年齢を重ねたのだと実感する。ただ、そのような機会を自ら求めないだけで拒まないという態度は実質的には諦念なのかもしれない。
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