2011年04月26日

カルロス・クライバーの風景

 日曜日に晩ご飯の下ごしらえを終えて、まだ早いなあと。微妙なタイミングですが、カルロス・クライバー指揮、南ドイツ放送交響楽団(現シュトゥットガルト放送交響楽団)のCD(と思い込んでおりました)が手元にあったので、病み付きになったように再生してしまいました。音源としては最悪なのですが、Windows7で再生。びっくりしたのは、DVD再生ソフトが立ち上がって、ありゃまというところでしょうか。曲目はヨハン・シュトラウスの喜歌劇「こうもり」序曲とウェーバーの歌劇「魔弾の射手」序曲なのですが、リハーサル光景が始まって、さらにびっくりしました。どうせ消費税率を上げるんでしょと考えると、第一に必要なもの、第二にほしいものと財布の紐が緩んでしまい、碌に中身を考えずに、買いあさった結果ではあるのですが、えらいものを買ってしまったなあと。

 10分ぐらい見入っていたところ、「アットニフティ」を名乗る女から電話があって、イライラしました。最初は、バカ丁寧に「先の東日本大震災でご本人様、ご家族様はご無事でしたでしょうか?」と紋切り型のでだし。適当に、ええまあというところですね。せっかく極上のものを楽しんでいる最中なのに、なんと、バカ丁寧に保険のアドバイスをしてくれるとのことで(自社の利益になる保険商品を紹介するのがミエミエですが)、先物業者並みの「迷惑電話」です。「迷惑電話の撃退法 テクニック集」という「寝言」自体の存在を書いた本人が忘れていたのですが、今になって読み返してみると、よほど腹に据えかねていたのか、声が不細工だったせいか(ルチア・ポップのごときソプラノだったら苛立ちも控えめだったのでしょうが、ガマカエルが轢かれた後のバスのような声では苛立ちも万倍)、何も考えずに反射神経でいきなり「応用編III」を発動。相手がなにか言っているのですが、スピーカーモードにして、「もしもし」を連発して約2分ほど放置。おもむろに受話器を手に持って、「今の時期を考えろ。自粛しろ」と低く抑えた声で話して、通話が途切れない程度までに受話器を親機に近づけて、相手がガチャっという音が聞こえる程度に、ただし親機や受話器が壊れない程度に力を込めて、切りました。これは、相手にこちらが受けた精神的ダメージの1万分の1程度を返して二度とかける気力を失わせるテクニックです。名人戦も速く決着がつきそうですし、メールも@niftyから完全に移転しようかな。って自慢げに書くことではなく、もちろん書いた本人も自爆覚悟で書いておりますが。

 再度かけてこられると、極上の楽しみを邪魔されるのが本当に迷惑なので電話線自体を親機から遮断して防護。そんな話はさておき、映像で見たクライバーは驚きでしたので、このDVDはありがたい限りです。くだらない電話を忘れて(夕食まで放置したのは痛恨でしたが)、「こうもり」序曲だけでリハーサル34分に見入ってしまいました。実際の演奏は8分。「こうもり」序曲の収録が1969年12月から1970年1月、「魔弾の射手」序曲が1970年4月の収録なので、私が生まれたときとほぼ同時期です。カルロス・クライバーが1930年7月3日生まれなので、40歳を迎えようという年齢でしょうか。映像はモノクロなのでもっと古いのかと思いましたが。解説自体は、小冊子がそれなりに詳しいので、あまり興味はありません。金子建志氏の解説の冒頭が次のようにあって、思わずお茶を噴きそうになりました。

 C. クライバーほど指揮ぶりを後ろから見た印象とリハーサルが異なる指揮者はいない。本番での指揮ぶりは、しなやかな曲線の中に、反射神経の塊のような切れ味を織りまぜたようなもので、華麗かつ鮮烈。バレエとフェンシングをミックスしたようなその変幻自在な指揮ぶりは、素人目には適当に恰好をつけて踊っているようにしか見えないようだ。多少とも指揮やオーケストラ経験がある人なら、全く恰好だけの『即興的に、その場のインスピレーションで振る感覚派』といった判断を下しがちだ。しかし、この2曲の練習風景を見れば、そうした見方が全く誤りだったことを思い知らされ、唖然とするに違いない。


 文章そのものは悪くないと思いますが、啓蒙的な話が多すぎて、かえって話の中核に行くにはけだるく感じます。音楽がわかる人ほど、わからない人に無理に伝えようとして、かえってわかりにくくなるのかもしれませんが。録画とはいえ、生の演奏で見せている自由な指揮の背後がこれほど作為的であり、作為的ではなかったとはというのが素人の感想ですね。間違っても、「即興的に、その場のインスピレーションで振る感覚派」という印象をもつことは、私みたいなど素人でもない。あれだけ自由な演奏を観客に魅せ、堪能させることができる背後を見る気分です。

 冒頭から、入り込んでしまいます。「名人芸を見せられるところがあります」と相手もプロだけに、立てながらも、「失敗をおそれずに。勇気をもって」という最初の方で、参ってしまいます。オーボエの奏者にはスタッカートを犠牲にしてでも軽さを要求しているのですが、若干、指示を受けた側はわかったようなわからないような表情のような印象を受けました。再生時間にしてまだ4分ちょっとですが、トロンボーン奏者に対して、寒さで純粋さがでていないようですね(硬いということか)と冗談交じりに語りかけて、「ここでは綱渡りのような危険が伴わなければ、リーダー役は必要ありません」というあたりで、あなたがリードするところですよという指示であるとともに、譜面どおりのあぶなげのない演奏を求めているのではありませんよという強い意思を伝えている印象をもちます。続く音色への説明で思わず他の楽団員も笑顔を見せているのがまた印象的です。最初の数分で、リスクのない演奏を求めていないですよ、もっと不真面目に、譜面どおりではダメですと、シュトゥットガルトを相手になかなかいい度胸だねという感じです。臆面もなく、こんな「寝言」を書いているてめえがいい度胸じゃねえかと言われれば、沈黙あるのみですが。

 それにしても、求めている音感と申しましょうか、音楽が実に磨き上げられたものであることを実感するDVDです。スタッカートを犠牲にしたり、保つように指示したりと実に細かいのですが、既に、8分47秒でオケをとめて、オーケストラ全体に語りかけるあたりで痺れました。

 「待って。ありがとう聞いてください。まず考えてほしいことは皆の演奏が勝って私が無用になる・・・そんな演奏です。時間があるから実現するでしょう」


 この後の語りもユーモラスでありながら、オーケストラをより高い境地に導いていく様子がうかがえて興味深いのですが、くどくなっていますし、著作権にも触れそうですから割愛します。言葉では語りきれない真髄を極めようと言う姿勢が伝わってきます。もちろん、「真髄」といっても、それはあくまでクライバーの考える主観でしかないといえば、そうなのですが、あえて「高い境地」とか臆面もない表現を用いるのは、まさに「天籟」ともいうべき感覚をクライバーがもっていて、それを実現するためにこれほど後で登場する、より専門的な指示を出していることに感服しました。ここまで一貫しているのは、優等生では困りますよという指示でしょうか。この指摘を、シュトゥットガルトを相手にする40歳前のクライバーはすごいの一言につきます。きちんと制約を課しているとはいえ、クラシックの奏法にこだわらずにという指示が既にぶっとんでいるのではありますが。17分すぎで「私の意向を推測するでしょうが、私は何も求めません。皆さんに何かを求めてほしいのです。私は表現の方向性ときっかけを与えるだけにしたい」というあたりも厳しく、しかしオーケストラの力を出し切らせようというすごい指示です。それに続く、「ウソの涙を流すが女性には一種の真実だ。涙は涙なのだから」というあたりで、「天籟」といっても、「為さざるを為す」ということを表現するのがいかに難しいのかを実感するとともに、表現そのものはありきたりかもしれませんが、音楽を表現する際に人間性への感性が最も重要なことなのだということを教えられます(ちょっと『荘子』に偏った評価になっておりますが)。

 20分すぎから、徐々にシュトゥットガルトとの、より専門的な指示が増えてくるのが興味深いです。オーボエ奏者の方が実に重要なのですが、オリジナル通りに1音ずつ切るのは賛成しないが、滑らかすぎず。クラリネットも16分音符の前で一瞬の間をとって」と実に細やかな指示。「『ワグネリアン』になったかのような劇的な表現」というあたりはいろいろな意味で笑える部分もありますが。ちょっと震えるのが、ヴァイオリン奏者に対してトリックが使えますよという指示で、リピート記号の位置を付けて譜面をめくるタイミングをずらすことができると指摘して、実にこまやかです。アバウトな指示が多いように見えますが、音楽の全体像とリズム、ごく細部の響き、もちろんテクニックとノウハウは当然として、なによりも全体のバランスが本当によく見えていると感心します。

 リハーサルの終盤でクライバーの本質の一部が見えてきます。「聞いてください。皆さんは私とは派閥が違いますね。またアカデミックになってしまった」とリズムと響きの違いを指揮棒を叩いて示したうえで、次のように語りかけています。

 「殴り・・・殺して・・・やる」と「殴り殺してやる!」。深い意味はありませんが、バイオリンが指揮者に言いたそうなことだから。私も言われそうだ。私は武器をもっていますよ。


 ユーモラスですが、クライバーの指揮の本質がよくでていると思います。どんな指揮者でもオーケストラと対話をしている。その対話の中で最上の響きで聴衆を魅せるのが演奏だが、それは普通にやったのでは実現しない。クライバーは決して、オーケストラを支配しようとはせずに、相手の最上の音色を引き出すべく、私に喧嘩を売るぐらいの勢いで自己表現をしなさいという形で対話を盛り上げる。それが、ラスト手前の「ニコチンの少ないタバコのように8分音符が物足りない。もう少し毒気がほしい。・・・酔った時を思い出して。歩けなくなるほど飲みすぎないで」という、演奏をとめた小節だけではなく、全体における指示につながる。表現は曖昧で感覚的な印象を与えます。おそらく、それはクライバーの意図するところなのでしょう。問題は8分音符で遊び心がない。私は、こんな音を求めていますが、奏でるのは皆さんですよと語りかけ、演奏者自身の音を引き出そうと対話をしている。

 クライバーの指揮は徹頭徹尾、作為的ですが、作為なくして「為さざるを為す」ことはできない。そして、真・善・美のうち、あえて乱暴に単純化をすれば、「真」は、ある手続きを踏めば、その手続きの煩雑さに根を上げない限りは、ある範囲内で合意に至る。あるいは、生きているものを殺してデスマスクをとるような感じ。「善」は、良き生を送りたいと思わない人は少数でしょうから、多くの人がそれを願い、死んでから確定する。まあ、私のような底辺の人生を送っているものからすれば、死ねばみな仏さんとしないと私自身がアウトですしね。「美」は、生そのものであり、芸術というのは美の表現であり、生そのものを全体として表現する。ヨハン・シュトラウスにワーグナーの劇的な表現をもちこむのも、猥雑さをもちこむのも、それが真であるのか、善であるのかという問題ではなく、生を表現することにある。生がすぐれて個人そのもので以上、それを聴衆にあますことなくさらけ出すためには、それを音楽として表現するには、指揮者とオーケストラがともに生き、楽しまなくてはなくてはならない。クライバーは美しい音楽を奏でる優れたマエストロという程度のイメージでしたが、このDVDのおかげでより深く美を楽しめるようになりました。散々、からかってきた方の術中にはまって、美しい音を聴くだけで鼓膜が痛む通風にならないかとひそかに怯えてはおりますが。

 こんな「寝言」では、カルロス・クライバーの音楽の真髄の表面すらわからないでしょう。是非、クライバーの音楽を深く愛した金子建志氏の解説を片手にこのDVDを味わっていただきたいと思います。パイオニアの回し者ではないので、ご安心のほどを。なんだか「時の最果て」にふさわしくない「寝言」になってしまい気恥ずかしいので、「こうもり」序曲の話で終わりましょう。


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posted by Hache at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言