2008年01月29日

日本人の「不安」

 市場も大荒れの第2弾という感じのようですが、私事でも、こちらは例年の恒例行事ですが、来週まで「死のロード」が続きます。「寝言」も不定期更新になるかもしれません。カワセミ様から、刺激的なコメントを頂き、あれこれ考えておりますが、こちらが楽しくなって本業での集中力がそがれるのが怖いので、あらためて「寝言」する予定です。マーケットの話は、伊藤洋一さんかんべえさんぐっちーさんにお任せして、どうでもよいことに目が移ってしまいます、というより、私の能力ではいまだに「マグニチュード」がわからないので。利下げと減税のパッケージで済むのなら、それほどでもないかなという感じです。たぶん、本筋ではないのでしょうが、M様がコメントで指摘されていたECBの「ゼロインフレ原理主義者」が気になります。1990年代以降の日本の金融システム不安は国際協調体制そのものに影響をあたえることはなかったとおもいますが、今回の金融システム不安は素人目にはアメリカだけではなく、欧米全般へ既に広がっているので、ECBが金融システム不安よりもインフレ目標を優先させると、一時的な現象に留まるのかもしれませんが、国際協調体制が機能しなくなるリスクがあると思います。当面は、アメリカの資本市場と財市場の動向が大切なのでしょうが、今回の金融危機で国際協調体制が崩れてしまうと、経済的混乱が長引くリスクが高いと思います。

 「続き」が今回の「寝言」です。嵐のときにのんびりしている印象を受ける方が多いのでしょうが、みんなが「危機」を連呼しているときに、別のことに頭が移ってしまうのは「外道」というより、「ずれた人」の悲しさでしょうか。そんな「ずれた人」の感性を笑いたい方は、「続き」をどうぞ。


 慌しい中でじっくり味わっているのが、高坂正堯『文明が衰亡するとき』(新潮社 1981年)です。今回は、じっくり読むのが3回目ですが、高坂先生に気がつかされることが多く、楽しみながらも、考えさせられる記述が多いです。モノが見えている方にはよく見えているものですが、私がそのような域に達することはないだろうと感じます。いろいろ引用したい部分があるのですが、「歴史を読むことはわれわれに示唆を与えてくれる。また、われわれに運命への感覚を与えてくれる」(前掲書 245頁)という感覚を私なりにもちながら、終章の「通商国家日本の運命」の一節を引用いたします。この書での「現代」は1980年代ですが、まるで今日の日本について述べられているような「錯覚」におそわれます。

 「石油ショック」の後、日本人は資源がないという脆弱性に強い不安を持った。その困難は日本人の努力によって一応克服されたけれども、今度は日本製品が世界的不況のなかで売れることに対して世界の批判が強まった。その批判を日本人は一方では気にしながら、他方では、日本が経済の競争力を失ったときにはまるで相手にされなくなることを知っており、したがって「うさぎ小屋に住む働き狂い」と言われても、そのあり方を変えるわけにはいかないと考えている。つまり、世界に嫌われても日本は衰頽するし、力がなくなって嫌われなくなってもやはりそうなるというのがわれわれの基本的な悩みである(265頁)。


 1980年代初頭は貿易摩擦が目立ち始めた時期でした。この時期に、単に経済摩擦による先進国の反感だけでなく「力がなくなって嫌われ」ることも指摘されていることは、高坂先生の視野の広さを感じさせます。今日の日本人の「不安」は、弱いが故に嫌われるという点なのでしょうが、30年近く前、オイルショック後の日本経済のパフォーマンスが高いことに国際的な注目が集まっていた時期に、このような犀利な指摘をされていることに驚きます。日本人の「不安」の両義的な性格を平明な文章で書かれていて、驚きました。

 こうした政策をとる国(オランダ:引用者)とはまことに当然である。あるいは、より抽象化して次のように言い換えることもできる。通商国家は戦争をしないか、あるいは避けようとする。しかし、平和を作るための崇高な努力もしない、それはただ、より強力な国々が作り出す国際関係を利用する。そして、このことはわれわれの経済活動についても言えるであろう。われわれはもっとも積極的な意味でものを作り出す存在ではない。われわれは一次産品や半製品を買い、それに手を加えて――すなわち他人の生産を利用して――生きるのである。それらはともに客観的に見て悪いことではない。またいずれの点でも、われわれの生き方は他人にも利益を与える。しかも、その意思さえあれば、われわれは他人に利益を与える行為を増やすことができるし、われわれはそうしなくてはならない。それにもかかわらず、巧妙な生き方をするが故に、通商国家が他人に好まれないのも、人間の性からしてやむをない。
 ただ、それ以外に通商国家の生き方はない。貧弱なパワー・ベースにもかかわらず、広汎な通商関係からかなりの力を持つようになった国の外交はそれ以外にはありえない。そして、そのことを自覚しておこなえば、そうした生き方はそれなりに堂々としている。塩野七生氏が書いたように、ヴェネツィアでもまた偽善によって彩られた。しかし「それをしていることを十分に承知している人間の行う偽善は、有効であるとともに、かつ芸術的に美しい」のである。
 だが、それはやはり難しい。それにはよほど逞しい精神が必要だが、通商国家としての生き方には逞しさを衰頽させるところがあるからである。まず、絶え間のなく変動する国際情勢に巧みに対応することは人々を疲れさせる。しかも、その対応とは、所詮妥協だから、それをくり返しているうちに、自分たちの生き方への確信が失われる危険がある。そこに、通商国家として成功して豊かになったときに不可避的におこる頽廃が加わる(266−267頁)。


 現在、国際的な財市場(モノ・サービス)では相変わらず、日本の「底力」は健在です。他方で、国際情勢への対応は基本的に受身であり、日本の存立基盤が「通商国家」である以上、この叙述は、今日でも現代的なのでしょう。経済の面では通商国家として衰えを見せていない反面、中国の台頭に動揺する背景には、「自分たちの生き方への確信」が揺らいでいることがあると思います。日本の「衰頽」は、単に人口が減少するという「縮み」だけではなく、自己の制約を理解して上で、自己保存のための「偽善」を他国の利害と一致する意識的な努力を行う意思を失うことなのかもしれません。そのような「意思」は単なる精神論ではなく、政治的リーダーシップによって明確化されることが肝要であるというのが、今日の「寝言」です。
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