2014年07月20日

計算量と水平線効果

 世論調査の結果を斜め読みしている程度ですが、集団的自衛権への懐疑が根強くあるように感じます。他方で、集団的自衛権の行使を認めるべきではないと原理的に否定されている方にはびっくりですね。失礼な言い方ですが、50代後半以降の世代の人はそんな程度ではという感じですが、30代前半でも稀にいるんですね。困ったことに、個別的自衛権と集団的自衛権の違いがわからないなみたいなとぼけ方をしたりすると、しどろもどろになるので、こちらがひきます。結局、憲法第9条を守れみたいな話になるので、相手にするのが疲れます。ひどい言い方になりますが、党派的な主張というのは本当に楽なもので、本当に分析が必要なところは相手任せ、都合のいいことだけを見る、具体的な話は避けるという具合で、あまり深入りしたくもないですし、親切心もないので、えらい人が説得してくだされで終わりですねえ。あんまりないとは思いますが、極論の類が増えているとなると、なかなか大変だなとは思いますが。

 第3回電王戦第3局であからさまにコンピュータ側の指し手に違和感を感じたのですが、以前、書いた通り、水平線効果という話のようです。あんまり、わかっていないのですが、コンピュータの読み手が1秒で百万手単位、千万手単位になっても、だいたい20手ぐらいで読みを打ち切らないと、計算量が莫大になって結論が出なくなるそうです。20手以内という制限で「最善手」を見つけるとなると、かなり無理もあって、20手以内にコンピュータ側が自身の形勢が極端に損なわれる局面が出現すると、それよりはマシな局面を作り出すために、人間だったら指さないタイプの悪手を指してしまうようです。私程度の棋力でも違和感があるので、もっと強い方なら一目瞭然でしょう。当初は、コンピュータが処理する計算量が増えれば解決するのではと考えていましたが、評価関数を改善する方が先のようです。もっとも、スーパーコンピュータに計算させたらどうなるんでしょみたいな話はおもしろいのですが。

 他方で、プロ棋士や奨励会三段レベルあたりになると、序盤の段階で終盤を構想するというのは珍しいことではないそうなので、おっかない話です。プロ棋士相手に高い勝率で勝ち越しているというのは、コンピュータ将棋が既に高い棋力をもっていることを示しているのでしょう。他方で、プロ棋士でも一秒単位では読める手という意味をなさないようなので、その計算量でコンピュータ相手に、まったく勝てないというわけでもないということは、人間の思考というのは遅いようで、意外と効率が良い面があるかもしれません。

 これは私自身の棋力が低いからかもしれませんが、棋力が高い人ほどコンピュータ将棋と人間の指す将棋の違いを感じるようです。序盤よりも中盤、中盤よりも終盤という具合で、コンピュータが強くなる傾向のようです。よって、コンピュータ将棋を相手にするときには定跡を外すのが有力な方法で、棋士でも相当、意識されているようです。他方で、計算量が飛躍的に改善すると、水平線効果のような現象は回避できるのかもしれませんが、コンピュータ将棋がどんなに強くなったとしても、人間の所産というのは変わらないのではと。ただ、計算量が膨大になってくると、開発者の方でもコンピュータの指し手を理解できなくなるので、他分野に応用する際に、コンピュータが選んだということ自体が理由になるのはちょっと怖い気もします。将棋ならば、勝敗のみならず、棋譜という形で一応は過程も検証できるのですが、そうではない分野での応用ではまだまだハードルが高いと思います。現状では、スマホでさえ、使うというより使わされている光景も目にしますので、難しいところですが、人間の意思決定を補助するツールとして以前よりも、役割が大きくなるだろうとは思うのですが、代替する事態は起きないだろうと。補助ツールとしてさえも、なにかトラブルが生じたし際に、どの過程に問題があるのかが検証できないと、能力が高くなっても、役割は限定されるのでしょう。


 「寝言」のお題がよくなかったかもですね。プロの方ではないのですが、コンピュータ将棋を公開の場で相手する側からすると、終盤の踏み込みは人間には真似ができないようです。コンピュータには感情がないので、人間なら恐怖を感じるところで、何事もないように形勢がよくなると判断すると、選択できるあたりがわかっても人間には指しづらい部分のようです。さらに、人間側には、どんなに強くなっても、単純な読み落としや記憶の不確かさがともなうとなってくると、やはり人間の意思決定を合理的な計算機のように扱うのは間違いではないけれども、かなり雑な単純化をしているということになるのでしょう。

 ここではたと気がつくのですが、私自身の関心は意思決定を正しく行うにはどうすべきかということではなく(無関心というわけではないのですが)、意思決定のあり方自体の方に関心が偏っているなあと。加齢とともに、弱気になるのですが、どうも、自分の意思決定が正しいとは思えなくなってくることが増えるのですが、それ自体をなんとかしようとするよりも、どうしてもこうも愚かなのかを見定めてやろうという感じでしょうか。失礼な言い方かもしれませんが、自分の決断に迷いがなくなるというのは幸せかもしれないけれども、単に感性が麻痺してしまった結果にすぎないという感覚がなくなること自体を畏れる感覚でしょうか。そんな感覚を持っていることが、幸せにつながるとは思えないですし、まして正しい人生とは無縁な気がしますが、病気みたいなもので、死ぬまで付き合うしかないのかなという感じです。リスクや不確実性を回避しようとする行動になんらかのインセンティブを与えて、適切な行動に導くことよりも、適切な行動自体が特定の個人によって決まるのではなく、社会的に決まるプロセスに開かれた記述の方により関心があります。ただ、それでは話があまりに難しいので、私でもわかるレベルにどう落とすかで四苦八苦している感じでしょうか。
posted by Hache at 00:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言
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