2008年01月31日

「とき」と「時間」のあいだ(間)

 書類の山(不謹慎ですが、「お皿」にたとえると、1,152枚をあと10日で洗わなくてはなりません)を目の前にしながら、窓を開けてこれが冬の乾いた風に流されて、飛んでいったら、どんなに清々するだろう。清清しいだろう。そんな「不幸せな日々」(獅子咆哮弾ではすまないぐらい気が重いです)が続いておりますが、ふと闇の中で光を見ました。

 漸く、志賀浩二『変化する世界をとらえる』(紀伊国屋書店 2007年)を読み始めましたが、「第1章 微積分へのプレリュード」を読みながら考え込んでしまいました。次の引用に続いて関数を説明するにあたって、時間と運動の関係がでてくるのですが、数学の本であることを忘れて考え込んでしまいました。

 時間とは何かと聞かれれば,それはたぶんだれも答えられないだろう。時間の流れが数の幾何学的表現である数直線上の点の動きとして表わされるようになったのは,時計の発明以後のことと思われるが,それよりももっと深いところで時間と数とのあいだに何か予定調和のようなものがあったのだと考えたほうがよいのかもしれない(16頁)。


「もっと深いところ」

「もっと、もっと深いところ」

「もっと、もっと、もっと深いところ」

……。

……。

……。

……。

……。


などと思弁を走らせているうちに気が遠くなりました。なんのことはない、電車が駅に着いて目が覚めたのでした。とっても気持ちよかったです。このまま、目が覚めなくてもよいぐらい、幸せでした。ま、寝不足ですな。

 志賀先生のタッチは、哲学的なイメージをもたせながら、どこまでも数学のスタンスを維持するという感じでしょうか。「時間とは何か」でなんともいえない快感を覚えました。このブログの「時の最果て」は、どこか「時間」という堅苦しい言葉よりも、「とき」というもっと曖昧でつかみ所がない、しかし、誰もが存在と切り離せない「なにか」ということへの執着をあらわしています。

 「時の最果て」という名前(「寝言」の方は「妄言」でも「つぶやき」でもなんでもよかったのですが)は、『クロノ・トリガー(Chrono Trigger)』というゲームからとりましたが、どうも元のゲームですら、堅苦しい時間から自由ではない感覚があります。「時間」以前の「とき」をイメージすることは現代人にはあまりに難しくなったという妙な感覚があります。もっと危ないことを書いてしまうと、「とき」そのものを表現することはできないから、「時間」という概念で「とき」を記述していることにしている。そんな感覚でしょうか。

 志賀先生が同じ感覚(ちとあぶなっかしいのでまともな数学者がそんな感覚をもっているとは思わないのですが)を共有されているとは思いませんが、コラムでプラトン以前のギリシア哲学がでてくるあたり、どうも人間の思考というのはそうなっているのかもと思ったりします。「万物は流転する」とは昔の人もよく考えたものだと感心します。ただ、日本語訳では「万物」が主語で「流転する」が述語になっていますが、古代ギリシア語ではどんな表現だったのだろうと。なんとなく、この定訳自体に現代的な感覚をかぎとってしまいます。

 「流転」を卑小な人間の個別の脳は「万物」としてしか知覚できないというのが真実ではないのか。もっと、あぶなっかしいことをいえば、「虚構」の世界に映さなくては、人間は「真実」を見ることができず、真実そのものを見ようとすれば、脳は壊れてしまう。人は、「真実」を見ようとして「虚構」を重ねてきた、あるいは文明を進歩させてきた。永遠に真実を見ることはできず、真実が残るとしたら、この世から人影、あるいは「知的存在」が死滅したときだろう。そんな「寝言」が浮かびます。

 ただ、そのような営みをシニカルに笑う気にはなれません。「とき」と「時間」の間にはどうにもならない飛躍があるという感覚の持ち主からすると、「虚構」を重ねることも真剣なことなのであって、笑うことではないのだろうと。「真実」に近づこうとすればするほど、真実は逃げてゆく。「とき」を「時間」として表現するほど、どうにもならない裂け目が広がってしまう。

 「始原」でもいいですし、数直線上の原点でもいいのですが、そのようなことを設定した途端に「とき」と「時間」に「あいだ」あるいは「間」ができてしまう。「とき」には始まりもなければ、終わりもなく、実に自由自在な「なにか」としかいいようがありません。「時間」は「とき」そのものでありながら、「とき」そのものにはなりえない。「時間」が「現在」と表現するところは原点であり、「時間」が「過去」と表現するところが原点であり、「時間」が「未来」と表現するところが原点である、そんな世界が「とき」で、人によっては「神」をもってくることもあります。

 私だって、「とき」そのものをとらえることはできないわけでして、「とき」らしきものを感じることはあっても、「時間」を捨てて生きてゆくわけにはゆきません。ただ、なんとなく、時間を忘れると、ときらしきものを感じるだけです。ただ、これでは「寝言」にしかならない。志賀先生の本を拝読しながら、人は無限を生きながら、無限をつかもうとし、無限を憧憬するのだなあと感じます。こんなことを書いている私自身、「とき」を断念して「時間」を生きているのが現実です。それでも、ふとした瞬間に「とき」と「時間」のあいだの深さに目がくらみそうになります。

 『数と量の出会い』もハッとさせられることがたくさんありましたが、『変化する世界をとらえる』は人間がつくりだした「虚構」の偉大さを、数学的センスがまるでない私でも感じさせてくれます。恥ずかしいのですが、数学の本を読んで、自分は実は無意識にすさまじいことをしているのだと気がつかされます。このシリーズ(『大人のための数学』)もそうですが、『数学30講』シリーズでも、燦然と輝くところで、あえて抑制した、パステルともちょっと違いますが、なんともいえない味わいを感じます。そして、ときに実に穏やかに「驚き」が散りばめられていて、どんどんと数学という現実離れした学問(素人にはそう映るだけで、人間の数と量に関する認識の形式そのものではないかと思っております)がまるで現実そのもののように感じます。

 以前、「緑表紙の算術教科書」という「寝言」を書きましたが、「驚き」と「無限への憧れ」という原点がしっかりしている方の描く世界は、堅牢な印象を読者に与えます。歳をくってからでは遅い気もしますが、あらためて、「驚き」と「無限への憧れ」を、一瞬とはいえ、新たにした一日でした。『大人のための数学』ではありますが、まるでこどもに戻ったように。なんの役に立つのかといえば、役に立たないのでしょう。そんなことより、楽しんでしまいます。恥ずべき享楽的な人生ですが、楽しみがあるというのは幸せなことだと実感いたします。
posted by Hache at 01:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 幸せな?寝言
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