2006年05月15日

日英同盟の形成にみる偶然と必然(3)

 本題に入る前に、やじゅんさん、雪斎先生から興味深いコメントを頂きました。御礼申し上げます。コメントをすべてご紹介すると長くなりますので、できるだけ簡潔に参ります。やじゅんさんは、「『コメントが記事ほどではないにしても、異様に長い』とのことですが、ご自身のブログを作られてからの解き放たれたかのような発信の濃さに圧倒されております(笑)」というコメントを頂きました。リプライでも書かせて頂きましたが、長文のわりに内容が薄く、恐縮です。言い訳になるのですが、とくに「ある敗戦国の幸福な衰退史」は、文章としてまとめる前にいろんな論点について、「脇道」も含めて様々な無駄な「読み」を恥を掻くことを恐れずに書いてまいりたいと考えております。



 雪斎先生のコメントは、私みたいな門外漢にはちょっと重い問いかけでした。「キッシンジャー流の現実主義というのは、ケナン流の現実主義とは色合いを異にしているところあります」というのは門外漢にも感じるのですが、そのニュアンスの違いを説明するのは門外漢には少し荷が重いというのが率直なところです。というのは、キッシンジャーもケナンの実務経験や著作から影響を受けないはずがありません。難しいのは、ケナンが「封じ込め政策が展開されるうちに、的確ではあるけれども、それぞれの時期の政策担当者からすれば、「じゃあ、どうするの?」という疑問を持たざるをえない批判をしていることです。いささか感傷的ではありますが、ケナンの不幸は、あまりに多くの弟子を抱えてしまったことであり、彼の幸福は彼から見て不適切だという政策が積み重ねられたにもかかわらず、そして、その結末が彼の本意とかならずしも一致しないにもかかわらず、やはり彼の見通しの正しさを、大局的には多くの誤りの積み重ねのうちに示されたことだと思います。



 「岡崎大使は、ケナンよりもキッシンジャーに近いかもしれませんね」というコメントには、トゥキュディデスをもちだしましたが、ネオコン論議が華やかな頃、ある会合で「あなたがどういう立場なのか」という問いに岡崎先生が「トゥキュディデスだ」と躊躇うことなく答えたというお話を伺ったことがあります。気負わない程度に、少なくとも心構えだけでも岡崎先生のような広い視野から論じてまいりたいと思います。



 本題に入ります。民主主義の初期段階での「失敗」についてです。この問題は、説明を始めると長くなりそうなので、まず、要点を絞ります。



(1)19世紀から20世紀のヨーロッパではイギリスなどを例外にして民主主義と民族主義は分かち難く結びついており、しかも、現代とは異なって民族の独立という目標が達成されると、排外的なナショナリズムと結びつく傾向が強かった。



(2)「ヨーロッパ協調」は、国際関係の面では安定的で強固なバランス・オブ・パワーを作り出すことに成功した。同時に各国の国内体制では民主化のテンポを緩めることにある程度まで成功した。民主化の抑制という点では1848年の「諸国民の春」、国際関係の面では1853年のクリミア戦争によってウィーン体制は崩壊するが、その後、ドイツの統一プロセスにおける大国間戦争を除くと、その後も、第一次世界大戦に至るまで比較的、安定的な国際秩序が保たれた。ビスマルクは、自分がヨーロッパ協調にとどめを刺した確信犯であったが、ドイツ統一後は安定的な国際秩序をつくるべくリアルポリティークを展開した。しかし、それは彼のような洞察力がある指導者の下でのみ可能である脆弱なものでしかなかった。



(3)キッシンジャーは、第一次世界大戦を外交面からはバランス・オブ・パワーの硬直化、軍事面からは軍部の全面戦争に至る作戦立案とそれを抑え切れなかった政治的指導者の問題から捉えている。その背景には、政治体制を問わず、列強の外交政策に世論が大きく反映し、とくにドイツ・オーストリアなどでは対外強硬的な世論が政治的指導者の選択肢を狭くしてしまった。



(4)日本は幸運にも、対外強硬の世論を日清・日露戦争の政治的指導者に瀬踏みするだけの人物が政府部内にいたために、日英同盟の締結によって民主主義の「失敗」が生じても、社会的な不安定を避けることができた。しかし、日英同盟を失った後は、盧溝橋事件以後、民主主義の「失敗」は、国の安全を脅かすに至った。



 この問題を論じるのは、(4)の論点にかかわる補助線をひくことが目的です。もう一つは、中国の民主化の意義を過大評価しないようにという門外漢の素人的な発想もあります。ただし、これらの点まで議論を広げてしまうのは、既に議論が拡散している状態であまりに困難を覚えますので、以下では(1)から(3)まで見た上で、『第一次世界大戦と日本海軍』に関する覚え書きに移りたいと思います。



(追記)ジャファリーさんのご指摘により、下線部を次の通り訂正いたしました(2006年5月15日)。



(誤)「1948年」→(正)「1848年」 (誤)「1953年」→(正)「1853年」

この記事へのコメント
すいません。ROM専だったのですが(2)の諸国民の春の部分のとクリミア戦争は年代が100年ほど違うかと思われます。
無論、ナポレオン戦争と2つの大戦の類似は著しいものですが、訂正をお願い致します。
それでは、失礼致します。
Posted by ジャファリー at 2006年05月15日 21:39
>ジャファリー様
ご指摘頂き、ありがとうございます。「1948年、「1953年」は、それぞれ「1848年」、「1853年」の誤りです。ご指摘にしたがって訂正いたしました。他にもお気づきの点がございましたら、お手数ですが、ご指摘賜りますよう、お願い申し上げます。
Posted by Hache at 2006年05月15日 23:02
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