2006年06月30日

南洋群島の占領 『第一次世界大戦と日本海軍』メモ6

 今回は、南洋群島の占領の問題です。第一章の終わりでは、南陽群島の占領によって日米両国が互いに仮想的国として見る一歩となったことが述べられています。第二章冒頭で日本による南洋諸島の占領がどのような戦略的意義をもつのかが、簡潔に示されています。



「第一次世界大戦時の日本のドイツ領南洋諸島の占領は、イギリス自治領オーストラリアやニュージーランドにとっては仮想敵国視する日本の脅威が南下接近することを意味し、アメリカにとっては本土とグアム・フィリピン間の海上交通を遮断されるため、国際政治上極めてデリケートな問題であった」(平間[1998]、58頁)。イギリス海軍は、米豪への配慮から日本海軍の行動に制約を加えようとしました。結果からいえば、イギリス海軍は、太平洋とインド洋、そして自治領オーストラリア・ニュージーランドへの海上交通路の安全を日本海軍に依存せざるをえず、日本海軍による南洋諸島の占領を許してしまいました。



 ここで脱線しますが、当時は「帝国の時代」、すなわち、列強によるパワー・ポリティクスの時代です。ビスマルク亡き後のドイツは、海外へ植民地を求めてアフリカ、太平洋の島嶼などへと「力の空白」に勢いで進出してゆきました。このこと自体を善悪で論じることは、無意味とはいいませんが、歴史を理解する上で重要な点であるとは思えません。ドイツにとって重大であったのは、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争、普墺戦争、普仏戦争などドイツ統一のプロセスでヨーロッパ大陸で最強の陸軍国となったことに加え、海外進出にともない、海軍力も飛躍的に増強したことでした。1916年のユトランド沖海戦ではイギリス海軍はドイツ海軍に対して戦略的には勝利を収めました(ただし、この開戦でイギリス海軍は、量的にはドイツ海軍よりも大きな損害を被りました)。以後、ドイツ海軍は、イギリスの制海権に正面から挑戦することをやめますが、1917年初め頃から無制限潜水艦作戦を開始して、アメリカの参戦を招いてしまいます。ドイツ帝国の無定見な海外拡張政策は、英米の覇権への挑戦となり、滅亡を招いたのでした。



 他方で、イギリス海軍は「七つの海を支配する者」という立場にありましたが、北太平洋には拠点をもっていませんでした。第一次世界大戦を全体から俯瞰すれば、太平洋を巡る英独の対立の比重はさしたるものではありませんが、日本海軍の助力なしには、アジアにおける権益や自治領オーストラリア・ニュージーランドなどへの海上アクセスの確保ができない状態におかれていました。ドイツの脅威の下では日英は基本的には補完的な関係にあったと考えますが、それが脅威ではなくなったとき、日本の政策しだいでは太平洋において日本がドイツと同様の立場におかれる可能性があったことをどれほど日本政府、海軍が理解していたのかは疑問です。



 もちろん、南洋群島の占領が直ちに日米、日英の戦争を必然にしたわけではないでしょう。しかし、パワー・ポリティクスというのは、本質的に強力な敵とお互いに手出しができないという意味で均衡をつくりだすか(バランス・オブ・パワーと区別が難しいところですが)、より強力な敵に破れるまで拡張をやめることのない、本来的には自己破滅的な側面を含んでいます。戦前の政治的軍事的指導者を過小評価するものではありませんが、パワー・ポリティクスの危険性を理解していたのは、世界の覇権を数世紀にわたって握ってきたイギリスとドイツ統一後、ショックを和らげようとしたビスマルク、冷戦期のアメリカぐらいなのかもしれません。



 少々、脱線が長くなりましたが、平間先生の叙述による南洋群島の占領に話を戻します。南洋群島への進出の主導者は、海軍でした。海軍は、「帝国国防方針」(1907年)でアメリカを仮想敵国とし、八八艦隊の建設を推進しました。この際、南進論を正当化するために、ジャーナリストや学者の関心を高め、世論へのはたらきかけを強めてゆきます。このような軍事的な側面からの南進論に呼応して農商務省を中心とした経済的な南洋諸島への進出熱も高まってゆきます。「…一九一三年には南洋興業合資会社が設立され、開戦時には小規模ながら五社がサイパン、ポナペ、トラック、ヤップ、パラオ、グアムなどに支店を開設し、西カロリン諸島およびパラオ諸島に五六名、マリアナ諸島に五一名が在住するなど、民間レベルの進出も徐々に活発化しつつあった」(平間[1998]、58頁)。



 当然ではありますが、日本の参戦によってアメリカやオーストラリア、ニュージーランドはドイツ領南洋群島への日本海軍の進出を警戒しました。イギリスは、大戦でこれらの国々の協力が不可欠であり、戦域制限交渉などを通して日本海軍の行動を制約しようとしました。他方で、イギリス海軍は、カナダ方面への警備依頼、シンガポールへの艦隊派遣依頼などによって事実上、日本側に戦域制限を撤回したと考えさせるシグナルを送ってしまいます。これによって、日本海軍は、南洋群島への進出を始めました。ただし、シンガポールに派遣された伊吹艦長加藤寛治大佐が終戦の際に事実上、南洋諸島を押さえておく具申をげると、「…政府の意向は『対外関係ヲ考慮シ島嶼ノ占領ヲ不可トシタルヲ以テ』、海軍としては『単ニ一巡ノ索敵行動ト敵ノ軍事的設備ノ破壊トヲ目的トシ群島中ニ根拠ヲ作成スルコトヲ避ケ、揚陸しても、作業を終了したならば、速ニ撤退スルよう部隊にも指示していた」(平間[1998]、60頁)とあるように南洋群島の占領に慎重な傾向も存在しました。



 それにもかかわらず、参戦直後の1914年内に海軍は南洋群島の占領を果たします。平間[1998]の62頁にある表を掲げておりきます。

   占領日時   占領島嶼    占領部隊     艦名



   10月 3日   ヤルート    第一南遣支隊    鞍馬
        5日   クサエ          同上       浅間
        7日   ポナペ          同上       筑波
               ヤップ       第ニ南遣支隊     薩摩
            8日   パラオ         同上        矢矧         
        9日   アンガウル      同上        同上
       12日    トラック      第一南遣支隊   鞍馬
       14日    サイパン     通信中継艦    香取

 平間[1998]では南洋諸島の占領に踏み切った国際的な背景に関して詳細な分析が加えられていますが、この点に関しては次回に論じます。南洋群島の占領の最も積極的な主体は、海軍でした。南洋合資会社社長横井太郎からの南洋諸島占領の意見具申に対して八代海軍大臣はサインし南洋群島の占領を正当化する主張に傍線を引き、秋山軍務局長は捺印をし、百武三郎大佐の意見具申に賛成する欄外注記があるなどの史料によって平間先生は、間接的にではありますが、あらためて海軍の南洋群島の領有意欲が強かったことを示しています(平間[1998]、66頁)。海軍の南洋諸島への領有の動機は、第1に、対米国防圏の拡大であり、純粋に軍事的なものでした。第2に、海軍力の増強を補完する商船隊の充実、貿易振興など何進政策の推進でした。また、「シーメンス事件で失墜した海軍の威信を南進によって回復し、陸軍に対する優位を確保し、陸軍の『大陸発展論(北進論)』から海軍の『海洋発展論(南進論)』へと国民の目を転じさせたいとの願望が強く働いていたのであった」(平間[1998]、67頁)との指摘もあります。



 最後に、指摘おかなくてはならないのは、海軍の南洋群島への進出に消極的であった、加藤外相も、既成事実に引っ張られる形でこれを追認し、結局は積極論へと転じていったことです。加藤外相は、10月12日に南洋諸島の占領に関して在米大使に占領が一時的であるのか恒久的なものであるのかコミットしないよう訓電を送りますが、わずか3日後には米国世論の反応を探るよう、訓電を送り、姿勢を転換してしまいました。さらに、11月27日には英駐日大使グリーンに「相応ノ分ケ前」を求める申し出をし、1915年8月の単独不講和宣言への加入に際してグレー英外相に南洋群島の占領を認めることを明確に求めています。大隈総理にいたっては、『実業之日本』1913年11月号に「南洋諸島への雄飛」との記事を書いていました。もっとも、大隈総理はもともと主張に一貫性の欠いた人物だったようですので、南進論者として扱うべきではないかもしれませんが。いずれにせよ、総理が南進を制限する姿勢を見せなかったことは事実でしょう。



 上記の事態の推移は、対米戦争にいたるプロセスと直接に対比することはできません。しかし、南洋群島を占領することが軍事的見地からのみならず、国家レベルの戦略的な観点から検討された形跡は、ほとんどないようです。ここで注意していただきたいのは、私自身は南洋群島の占領の是非について論じているのではありません。問題は、政治的指導者が南洋群島の占領という行為の戦略的価値――対米戦争を必然的にするレベルではないが、可能性を高める――を理解した上で軍略に対して政治的影響力を行使していなかったということです。以前、齋藤健『転落の歴史に何を見るか(ちくま新書、2002年)で明治の指導者と昭和の指導者の「断絶」という歴史の捉え方に批判的な検討を行いましたが、日露戦争以後、政治と軍事を双方、理解した上で戦略的な判断ができる政治的指導者は、既にこの時期にも見出すことが困難です。それでは、あの記事を書いた頃と私の考えが変わったのかといえば、変化はありません。双方を理解するリーダーが恒常的に生まれる為には、失敗を重ねながら、生き延びてゆくという試行錯誤のプロセスが不可欠です。結果的に帝国は対米戦争における敗戦によって滅んでしまいますが、結果からプロセスを断罪する歴史観から自由でありたいという立場には変化がないことを、最後に述べさせていただきます。



(追記) 下線部を修正いたしました(2006年7月1日)。 

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