2008年04月27日

ダメなブログの作り方

 アクセス数の多い方のブログに関するお話を拝読すると、過疎地の住人とはやはり感覚がまるで違うなあと。違うというだけで、どうというわけではないのですが、やはり志の質がまるで違うなあと。それは、ネット以外での実体験の違いが大きいという気もいたします。なんと申しますか、そもそも、他人に理解されたと感じたこと自体がなく、また、他人を理解したと感じた経験も皆無で、そもそも、自分で自分を理解したなどという体験がないので、自分に対しても、他人に対しても、もともと期待値が低いんだなあと感じます。もっとも、これは「時の最果て」が変なだけで、アクセス数が多い日にはコメントがまるでなく、アクセス数が減ってくるとなぜかコメントが増えるという妙なブログを運営しているからかもしれませんが。そうはいっても、ふだんは一日3000程度のアクセス数が4500を超えるとか、その程度の変動でしかないのですが。ちなみに、コメントを催促しているわけではないので、悪しからず。

 てなわけで、注目もされず、過疎地で「寝言」を書いている人ならではの「ダメなブログの作り方」を書いてみましょう。賢者様たちの寝言が最近、長いので、私自身の「寝言」で代用する週が続きます。とりあえずは、「寝言原論」としゃれこみましょう。

【原則1】自分のために書く。間違っても、他人のためになろうとか、親切なことを考えない。

 まあ、基本は自分のためです。あのとき、こんなことを考えていたんだなと自分自身を見ることができるのが、ブログ、あるいはもっと広い意味でのサイトの効用と私自身は感じております。私みたいな可もなく不可もない(いや不可はあるかな、いっぱいかな)人間が他人のためと思ってやることは、たいていの場合、相手のためにならないことがほとんどです。他人がゴミと感じても、自分にとってはかけがいがないものであることもあるでしょう。力む必要もなく、自分のために書いていれば、自然とダメなブログのできあがりというわけです。

【原則2】自分という自分でも他人に理解できないものを他人に理解を求めてはならない。

 上で述べているので、繰り返しませんが、自分で自分のことを6割以上、理解できたら、歴史に名を残す人物じゃないかなと。私などは自分自身のことを1割も理解しているかどうか。その程度の人が他人に理解を求めること自体、おこがましいというより、無理じゃないかなと思うので、正確には、「他人に理解を求めてもムダだ」という感じです。ブログを始める前からそう思ってましたが、この点はブログを書いていても、あまり変わらないです。

【原則3】自分は他人だ。あとで自分の書いたものを読むと、それはもはや自分ではない。

 「寝言」も600を超えましたが、あとで自分の書いたものを読むと、既に過去となっていて、なんであのとき、こんなことを書いたのだろうと首をひねることがあります。これがブログを書いて一番ためになったことで、自分は気分しだいの、ちゃらんぽらんな人間なんだと自覚させられるわけです。

 たとえば、国際情勢を見ていている場合、情勢判断が変わるのはプロ筋なら見えていなかった事実が明白になるとか、読み落としていたり、軽視していた筋が浮上してくるとか、それなりの理由があるのでしょう。素人の場合、ほとんどは読み落としが大きいわけですが、それ以上に気分が大きいことを感じます。そんな人間が「寝言」を書き続けるのは、言ってみれば、生き恥をさらすということにほかならないのでしょう。サイトでなにかを書くということが特別なわけではなく、生きていること自体が恥であり、穢れでもあるのでしょう。

 そう気づいたからといって、人生が変わるわけではないのですが、志をたてようとしていたのが、そういうものではないということがなんとなく実感できます。だんだんと人生というものが、地球上で上に投げた物体が下に落ちてくるがごとく、自分自身の意思ではコントロールしきれるものではないことに気がつく。他人との相互依存という、ある種の制約もありますが、他者の目なるもの自体が、自分自身が「他者の目」として了解したものにすぎない。他人との関係の中で自分がわかるなどというもっともらしい思想をらっきょうの皮を剥くように、取り除いていって、自分自身を見たところで、理解できるのはごくわずか。そのごくわずかさえ、自分が自分で理解したと思い込んでいるのにすぎないのかもしれません。

 「寝言」を書いていてびっくりしたのは、こんなになにもわかっちゃいないのに、なぜか生きているという現実があって、わからなくても生きているということに驚いてしまいました。もちろん、本人が生きていると思っているだけで、実際には死んでいるのかもしれません。自分の書いた「寝言」を自分で読むと、まるで自分の死骸を見ている気分になります。なんとなく、この感覚は生きているということと同等だと感じます。この「寝言」も書いてしまえば、死骸になってしまう。死骸でさえも、解剖しようが、分析しようが、わけがわからない。理由も意味もわからないまま、ただ生きている。そんな事態に茫然としながら、つべこべ言わずに生きているというのが、ダメなブログの作り方の「秘訣」でしょうか。


 RDFファイルだけでお読みの方には配信されないことをこちらで書いております。リーダーだけ読んでブログ本体にアクセスしない方にそこまで配信する必要もないですし。

 ぶっちゃけた話、自分も他人もわからない。わからないなりにつべこべ言わずに生きている。英雄でさえも失敗だらけなわけですから、まして凡人はそうするしかない。いや、凡人こそつべこべ言っているゆとりなどないわけですから、めそめそしない。

 そうはいっても、私自身もついつい後ろを見て、あれこれ懊悩することがあります。たいていは時間のムダですが、そういうムダも必要なのかは別として、人間の性としてやむをえないのでしょう。そういうときに、自分の死骸を文章という形で残しておくのは、ムダであることには変わらないとはいえ、そんな自分は既に死骸なのだと気がつくのに役立ちます。

 もちろん、ブログの捉え方はひとそれぞれでしょうから、過去に書いたものでも、自分の血をこめていらっしゃる方もおられるのでしょう。私の場合、文章にしなくても、考えた時点で考えた内容は死骸だと思っております。どちらが望ましいのかということを考えたいわけではなく、自分の考えなど死骸にすぎないと自分で自分を突き放す方が性にあっているというだけなのでしょう。
posted by Hache at 01:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言
この記事へのコメント
 ブログ運営から撤退しますけれども、今後とも「遊び」に参上します。よしなに。
Posted by 雪斎 at 2008年04月28日 00:12
>雪斎先生

ありがとうございます。撤退は残念ですが、御活躍を期待いたしております。こちらは訳のわからないことばかり書いておりまして、先生からすると頭の痛いことが多いかと存じますので、遊びに来ていただいても、「馬は馬、鹿は鹿」とおっしゃっていただいても、私としては感謝あるのみです。
Posted by Hache at 2008年04月30日 11:34
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