2006年10月25日

人生は「寝言」?

 ふと思うのですが、10年前に今の自分が想像できたのだろうかと。元々、30半ばまでに一仕事をしたら、あとはさっさと店じまいして、くたばって、「はい、それまでよ」、というのが夢でしたが、くたばりそうで、なかなかくたばらない。まあ、碌な仕事をしていないので、まだくたばるには早すぎると自分に言い訳をするしかないのですが。

 それにしても、メディアにしても、ネットにしても、なんと「『なんとか』論」の多いことよと思います。仕事柄、屁理屈をこねることが多いのですが、理屈が好きな人が多いなあと感心します。経験上、理屈など後からついてくることが多いと思うのですが。どうも、現代人には「考えること」=「理屈をこねること」となっているようで、残念ながら、理屈で世界ができているわけではないので説明ができないことだらけになります。株でも国内政治でも国際情勢でも、理屈をこねては当たっただの、外れただの、対象からすればどうでもいいことばかりで一喜一憂して、日々がすぎてゆく。もっとも、昔からこの種の人はいたのでしょうが、「考えること」と「行うこと」がこれほど乖離している時代というのは、珍しいように思います。

 これほど、考える材料が豊富にあり、自由に情報を発信できる時代というのは10年前には想像もつきませんでした。私みたいなどうでもいい人がブログなるもので「寝言」を書くというのは、さすがに、私のない頭では想像もつかなかったです。他方で、ふと、まるで自分が変わっていないことに驚かされます。考えることが趣味であるというのは、今でも10年前でも同じ。考える内容の変化に、人は目が向いてしまうようですが、考えるということ自体に思いを致す人が少ないということも変わらないことに、驚くとともに、世の中というのは、変わらないものだと思ったりします。このあたりが「唯脳論」の限界でしょうか。

 昔、全体主義が「自由」からの逃走であるという主張の本を読んだ記憶があります。「からの自由」ではなく、「への自由」が肝心だとか。この種の言説を読むと、腹の底から笑いが止まらなかった記憶が蘇ります。いまだに「考えること」と「行うこと」が別であるという発想から自由になれない人が多いことに、失礼ながら、笑いが止まらない。このあたりは年季の入った東洋思想でもダメですね。「知行合一」と言った瞬間に「考えること」と「行うこと」が別であるという発想に囚われてしまうことをつい忘れてしまう。「行い」を「行い」とする「私」とはなんであるのか。そこらにある哲学書や思想書を捨てて、手ぶらで考えることができない間は、同じことの繰り返しなんだろうなあと思ったりします。

 あんたはどうなのって?

 まあ、人生自体が「寝言」、あるいは悪い冗談みたいなものですから。「思い通りにならない現実」というものに触れるたびに、すなわち、生きること自体が考えることですから、なにも不自由なことはないですね。それにしても、自由とは不自由のことであるという簡単なことがわからない現代人が多すぎる気がしますが。 
posted by Hache at 03:26| Comment(2) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言
この記事へのコメント
眠っていた哲学心に久しぶりに響くエントリーを拝読しました。ありがとうございます。
論より行動、なのでしょうけれど、なかなか論から脱することができないのですよね。でも、脱することができないのをもどかしく思っているのであれば、まだ少しは健全なのかもしれませんね。
Posted by ・・・みたいな。 at 2006年10月25日 21:59
>大御所

訳のわからない「寝言」にお付き合い頂き、恐縮です。考えることだって、「肉体労働」じゃないかというテーマと「死」というテーマがごちゃごちゃになっていて、あまり整理ができていないのですが。

私の場合、精神と肉体のことを考え始めたのが、祖母の死でした。祖母は私が何をしても、すべてを肯定してくれて、いつも笑顔でした。その祖母が亡くなると、「死体」となって目の前に横たわっていて、どうにも事態がのみこめませんでした。養老先生の『唯脳論』でこのような事態にどう付き合ってゆくのかということに関して少しは、少しは頭が整理できたのですが、いまだに答えが出ていません。たぶん、まともな方からしたら、変な人にしか見えないと思うのですが、「死体」となった祖母が、いつも笑顔で話しかけてくれた祖母とは別であるということが整理できなくて、そのまま大人になってしまいました。

私は、「頭脳労働」に分類される職についておりますが、この程度のことも、いまだにわからない。そして、ふだんの仕事も、いわゆる「肉体労働」に従事されている方よりも、消費カロリーが少ないこともわかるのです。でも、使う「筋肉」が異なるだけで、最後は体力勝負になります。使う部位が脳やその他の神経、腕や手先、姿勢を保つための筋肉というだけで、肉体のない「頭脳労働」などありえないという実感があります。逆に、「肉体労働」でも、熟練の域に至るまでは、頭脳を駆使して自分を律するよりほかはないだろうと。どちらが「高級か」ということを問題にしているのではなくて、「考えること」即ち「行うこと」であり、「行うこと」即ち「考えること」というようにしか見えないのです。

上記のことは、日常生活を送る上で考えたとてややこしくなるだけで、なんの益もないことは承知しております。祖母の死を目の前にして以来、精神と肉体の問題が、どこかで頭の中にあって、ふとした瞬間に「寝言」を呟いてしまう。そんな感覚です。
Posted by Hache at 2006年10月25日 22:55
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