2009年06月14日

話せばわかる 話すより書く方がよい

 ふう。なんとか、苦しいところを越えたというところでしょうか。人を斬るというのは苦痛ですが、話してみたら、まったくもって信頼できる人であったというのは珍しいものです。おかげで、やむをえず、刀を抜かなくてはならない状況に追い込まれた場合の準備をしておいたことが意図せざる結果として、話をしてみてダメだったら、実際は急所をすべて突いて血も流れずに終わる準備を3カ月がかりでつくっていましたが、前日に抑鬱状態になって、相手が善意の場合の力加減も想定していたら、想定していた以上に話がよくて、思わぬ喜びをかみしめましたね。まあ、それなりにうまくいったのでしょう。ひそかに「立会人」が覗いていたようで、さらりとパーティで、的をえた話をしてくれてありがとう、と簡潔ですが、言われて、あまりほめられても喜ばないひねくれ者ですが、私を使った方なので、ホッとしながらも、やはり嬉しいものです。役に立ったかどうかは別として、互恵的な関係を築くためには相応の努力が必要なことを感じました。

 最初に届いたものを見たときにはこれはさすがにまずいなと思って、改善策、代替案、ダメだったら、完全破壊といろいろ選択肢を練っていましたが、この2週間ぐらいは完全破壊に至る可能性が高く、苦吟の日々でした。陰険ですが、俺が悪いわけじゃないよと自分のための逃げ道も準備。ただ、やはり完全破壊に至るのは精神的には苦痛でして(露悪的に表現すれば、インチキなものを徹底的にぶち壊すのは快感ですが)、他の人と話をしていて、ちょっと感性がずれているのかもしれないなあと。ある人は、常識が最後にものをいうと言い、なるほど。他の人は、他人のことだからと突き放すのもやさしさと言い、これまたなるほど。私自身は誠実であるか否かであることに偏重しているのかもしれません。この場合の誠実というのは私の能力では表現するのが難しいのですが、単に嘘をつかないというのでは不十分です。私自身もそうですが、「思い込み」という形をとって人は自分に嘘をつく。形式的に言えば、自らが神ならぬ不完全な存在であるという限界を自覚して、不完全な存在にどれだけ迫るべく、自分を追い込めるのか。

 さらにいえば、真実は目の前にあるものの、脳みそなるものがあるがゆえに、人には真実を見ようとするが、見ることができない。目の前にある真実を見ようと思えば、バカバカしいほどの迂回をせざるをえず、そのプロセスにたえられるかどうか。そして、しばしばそのプロセスでは真実そのものではなく、自らが見たいと欲する真実こそが真実であるという誘惑に勝てるかどうか。あえてドライな見方をすれば、見たいと欲する真実と不完全な存在には見ることができない真実が、ひどい表現ですが、なにかの拍子で一致することが少なくないという自覚すら必要だという感覚です。だから、真実をつかんだと思った瞬間に真実は確実にその人の手から離れてしまう。頭のいかれた「外道」の感覚なんてそんなものです。

 しかし、若いというのは実に羨ましい。やっていることは無謀に近いのですが、これができなくなりつつある自分に気がつきます。ただし、無理筋ではない。発想は面白いのですが、このままではダメなので、必死に頭を使いました。久々に、本業で見知らぬ道を歩いてみたのですが、ちょっとは脳が若返ったのかしら。こういう作業の後の酒はおいしく、楽しい時間を過ごしました。もっと早く、コミュニケーションをすればよかったと思う反面、相手が誠実であるか否かが事前にわかっていたら、ここまで掘り下げなかったのかもしれないとも。ただし、困難はここから始まりますね。道のりは長いし、モチベーションをいかに保つかが肝心なので、ありとあらゆる打算と感情で鼓舞して終わりました。若い人に教えてもらうのはなかなか愉快です。

 しかし、話せばわかるというのはあるものだなあと。真の苦痛は、話せばわかることを書くことによって死んだ形式にせざるをえないことあるのでしょう。これに耐えられるのかは、本人しだい。形式というのは空疎に見えますが、思考そのものの再現性を担保するには、現状では、他に代替する手段がないのでしょう。


  それにしても、たかが大学4年間で似たようなカルチャーを背負うことになるものかな。話に口を挟んできた別の若い人の話を聞きながら、苦笑が浮かんでしまいました。お若いの、不完全な存在である私自身が、なぜ存在自体が不完全であることを自覚することができるのと尋ねたら、バカにされたような顔をして不服そうだったので、苦笑するしかないです。ことの本質にストレートに迫ろうという気概はなかなかですが、それではドン詰まりになるので、迂回しているわけですが、たぶんわからないだろうなあ。観測者自身が実は不完全であるという限界の認識から、あえて限りなく神の視点を虚構としてもちだすのも苦しいとはいえ、やむをえない方便です。しかるに一気にことの本質に迫ろうとすると、不完全性への自覚がないまま、突如として神の視点になってしまうので、話があらぬ方向へ行ってしまう。似たような時期が私自身もあったので、内心で苦笑してしまいました。

 ダイレクトに不完全性に迫るわけにはゆかないので、うまく表現はできませんが、あれもダメ、これもダメと徐々に概念を包み込んでゆくという作業が不可欠になる。人間を相手にする学では、こむずかしい専門などよりも、哲学と歴史を死んだ書物を元にオーラルで鍛える以外にないのかもしれないと感じたりします。
posted by Hache at 02:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 幸せな?寝言
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