2009年07月14日

ジャパン・シンキング?

 2、3年前、大した見識もないのに予想ばかり好きな評論家連中がジャパン・パッシングだと騒いでいたときには、とっくにジャパン・ナッシングですよと内心、冷笑していた。ジャパン・ナッシングが定着して無力感が広がったところでどう騒ぐのかなと思っていたら、古森義久さんが「ジャパン・シンキング」という描写をブログで示されていた(参照)。詳しくはリンク先にあるコラムの描写が冴えているので、そちらを参照していただきたい。以下は、単なる感想文に過ぎない。なお、米下院外交委員会のアジア太平洋・地球環境小委員会の公聴会原文を確認していないので、あくまで単なる感想だ。個人的には核武装論よりもこちらの認識の方が日本人が知っておいた方がよい話だと感じたが。

(1)古森さんが指摘されているように、引用されている識者の対日認識は概ね妥当であろう。ただ、2050年のように50年前後の超長期の場合、デモグラフィックな要因が決定的であれば、アメリカ自体が超大国ではなく、大国(power)の一つになっている可能性が高い。もし、デモグラフィックな要因が決定的であり、なおかつ中国の高齢化の速度が日本よりも鈍いならば、超長期ではアメリカ側の選択肢は日米ではなく、米中以外になく、さらに西太平洋における覇権を失っているだろう。公聴会全体の議論がわからないので、どこまで踏み込んでいるのか不明だが、デモグラフィックな要因が決定的であるという前提が正しいのなら、2050年頃には中国が朝鮮半島と台湾海峡を制して西太平洋を支配し、日本もその頃には中国の影響下に入っているだろう。デモグラフィックな要因を重視すること自体には違和感がないが、デモグラフィック上の要因を決定論的に扱うことが適切かどうかは留保が必要だ。日本の分析に関してはやや決定論的な視点が強く、同様のことをアメリカ自身にあてはめると、現実的なアプローチかどうかは疑問が残る。

(2)当該公聴会におけるジョゼフ・ナイの発言に関して古森氏は次のように指摘している。「ナイ氏はまた中国の経済や安保面でのパワーの膨張が日本の存在を相対的に小さくしていることをも遠まわしな表現で何回か繰り返した」。「ジャパン・シンキング」という場合、日本の国力が以前の水準よりも低下するという問題と同時に、中国との対比で相対的に日本の地位が低下するという問題があまり区別されずに議論されている印象をもつ。デモグラフィックな傾向を決定論的に解釈するのはミスリーディングだと感じるが、長期的な予測では当然、重視すべき要因だろう。不思議なことに中国はいわゆる「一人っ子政策」による人口構成の歪みや統計の不備、独特の戸籍制度など脆弱さや不透明さに事欠かないが、中国の対等と日本の相対的な地位低下と日本の国力(曖昧な表現ではあるが)を過去と比較して低下傾向にある問題がやや混乱気味に表現されている印象をもつ。

(3)この公聴会のように、日中の比較が背景にありながら、日本の人口問題のみを強調するのはバランス感覚を欠いている。ただし、指摘されている推計自体は日本の衰退を象徴している。国立社会保障・人口問題研究所の推計(参照)では、死亡中位・出生中位の前提で2050年の総人口が約9,515万2千人、65歳人口の割合が39.6%となっている。本題からそれるが、2050年まで私が生存したとすると、81歳の盤寿を迎える。その時点でも、65歳人口の割合が4割程度というのは意外と低い印象すらある。総人口だけからすれば、2050年でもロシアを除くヨーロッパ諸国よりも多いので、衰退傾向にあるとはいえ、「中流国家」への転落という表現はあまり適切ではない印象もある。

(4)裏を返せば、この公聴会に参加した識者の多くは過去の日本を大国だと評価しているともとれる。日本は高度経済成長を遂げ、経済規模こそ大きくなったが、日米安全保障体制なしでは自国の安全すら確保できない状態が戦後、一貫して続いた。冷戦期の終盤にあたる1980年代半ば前後に防衛力の増強が行われたが、ソ連への脅威への対抗が基本であったとはいえ、ナショナリズムの発露とはほど遠いものであった。アメリカとの安全保障条約という大枠でアメリカのハードパワーを補完する形で日本はハードパワーを強化した。この時期にも、その後も、集団的自衛権の行使に関する内閣法制局の解釈によって、ハードパワーの強化とソフトパワーの強化が噛み合わないまま、現在に至っている。政治的リーダーシップの欠如の積み重ねこそがこれまで日本をアメリカの補完勢力とはいえ、「大国」として振舞うことを妨げてきた。日本にとって日米安全保障条約がなければ自力で安全を確保することはできず、他方、政治システムの脆弱性が顕著とはいえ、地理的に中国の西太平洋を扼し、朝鮮半島の後背地と台湾海峡を睨むというアメリカ側からの補完的な役割は両国に常に互恵的な関係が潜在的にあるといってよい。それを顕在化させる努力を日本側が怠ってきたことが、将来の人口推計や経済動向などが示す衰退傾向とあいまって、アメリカの政治的指導層で日本軽視が進んでいるのが実情だろう。安全保障問題では意図と能力のうち、能力を重視するのが常識的なアプローチであるが、この国の場合、今後も問われるのは潜在的な能力の低下よりもむしろアジアで長く民主主義国として歴史を重ねてきたという履歴の下に、単に平和を愛好するだけではなく、平和を積極的に構築する意図であろう。



 古森さんのコラムで紹介されていた識者の意見に批判的なスタンスで書いてみましたが、海外から見たら、このあたりでしょというのが率直な実感です。私がひそかに恐れているのは、今回の金融危機と実体経済の悪化から、日本からもアメリカ軽視の潮流が強まることです。いわゆる「デカップリング」論は、アカデミズムのうちであろうが外であろうが、経済活動が本質的には相互依存の関係にあるという常識をまったく考慮しない筋の悪い議論だと思いますが、そのような議論を無神経に主張している人たちは主張の意図とは無関係に日米離反の種を蒔いている側面を自覚していただきたいものです。

 今回の金融危機が示したのは、アメリカなしでは経済が周らないという点で、アメリカが"power"であるということでしょう。対照的に、アジア通貨危機後の日本経済の低迷は国際経済ではほぼネグリジブルだったという点で、いささか自虐的ではありますが、日本は経済の面でも"power"ではなかったということなのでしょう。今回の事態で、中央銀行のオペなど技術的な問題は別として、日本の経験など役に立つとは思えないです。

 以前は金融危機と実体経済の悪化の「負の連鎖」を断ち切るには、金融市場の調整が優先すると考えておりましたが、想定以上に難しいと最近は感じます。表現が悪いのですが、粉飾(stress test)、飛ばし(PPIP)など"muddle through"を重ねながら、実体経済の回復を待つ以外に画期的な対応策というのはないのかもしれません。一、二年単位ならば、景気の上がり下がりでよくなったように見える時期もくるかもしれません。しかし、資産市場におけるバブルが将来の先食いであるならば、ポストバブルはトレンドとしては縮みの状態が続くでしょう。いわゆるフィスカルポリシーは、実体経済における将来の先食いですから、匙加減を誤ると、市場の機能回復を妨げる効果をもつ可能性もあります。悪いなりにやりくりするという状態に10年程度、我慢できるのかどうか。証券化商品の「トレーサビリティ」が困難な以上、悪い状態から脱したいという、それ自体はごく自然な感覚ですが、それに追われて清算主義の傾向が先進国で強まることが要警戒でしょうか。

 あれこれ地味ですが、責任の伴う仕事が増えてきているので、もっと落ち着いて考えたいのですが、せめて思考が途切れないようにメモを残すのがやっとという状態が続きそうです。若いときにお世話になった関係が多いので、完済は無理ですが、少しは返済をしなくては。
posted by Hache at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言
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