2009年07月27日

デマにデマを重ねて……二度手間?

 デマ記事にデマを重ねて、ロンダリングするというここまで露骨な記事は『産経』ぐらいですかね。なんとなく、「格差社会」と「国家の品格」を好む人たちは根っこが同じではと感じておりました。それにしても、ここまでとは。欧州の1930年代は右と左の全体主義の対立の時代でしたが、結局、根は同じ。形を変えてバカげたことを何度でも繰り返すのが人間だというペシミスティックな人間観をもっておりますが、わざわざ意識してバカかことをしなくてもとは思います。悲しいかな、喜ぶべきかな、よく言えば論理的思考力、悪く言えば屁理屈をこねる能力がこの国のインテリたちには欠けているため、「イデオロギー対立」なるものの本質が俺の給料が悪いのは政治が悪いからだ、官僚が悪いからだと安い飲み屋でもなかなか聞けないレベルよりも低い、勝手な思い込みやルサンチマンなどと書くことすら憚られる低レベルの逆恨みが根っこだという、のどかな光景ではあります。

 まず、第1弾が「【経済財政白書】格差拡大『非正規雇用の増加が主因』」という記事(参照)で、実質第3章のみを要約していますが、記事の前段はそれでもまだ平成21年度『年次経済財政報告』(参照)の要約にはなっています。凄い飛躍が後段にあって「麻生政権はこれまで『小泉構造改革』で生じた“ほころび”の修復を掲げてきたが、白書の表現ぶりは『行き過ぎた規制緩和が格差拡大を助長した側面もある』と暗に認めた形だ」と見たいと思う現実が突然出てきて、破廉恥な私でも、いきなり全裸はやめなさいなとたしなめたくなる、すさまじさ。第3章の冒頭で、マスメディアが報じている光景とは異なりますよと、くどいほど説いているのがすべてムダというのは悲しい光景です。

 第一は、非正規化の動きは、最近になって始まったものではないことである。ここでは84年からのデータを示したが、一貫して非正規比率が上昇していることが分かる。
 第二は、非正規比率の上昇テンポも、ここ数年で加速したとはいえないことである。逆に、テンポはやや鈍化している。上昇テンポが加速したのは1997〜2002年である。バブル崩壊後にしばらく非正規化が止まった時期があったが、その後、遅れを取り返すかのように正社員のリストラと非正規化が進んだといえよう。
 第三は、2000年以降の非正規雇用の増加には、契約社員・嘱託等の「その他」が最も大きく寄与してきたことである。派遣、パートがこれに続く。一方、アルバイトはやや減少傾向にある。このような非正規雇用の増加の背景には、それぞれ高齢化や労働法制の改正があると考えられる(200頁)。


 思い込みというのはすごいとしかいいようがないのですが、『年次経済財政報告』で第3の特徴としてとりあげている「労働法制の改正」というのは、「90 年から2003 年の変化では、第一指標(「常用雇用と臨時雇用に関する規制の強さを総合したもの」(211頁):引用者)は小さくなっている。これは、保護が緩んだことを示すが、その主因は臨時雇用要因にある。すなわち、96 年の労働者派遣法改正による適用業種拡大や99年改正による適用業務の原則自由化など、非正規雇用に関する制度変化が原因となって指標が低下しているようである」(212−213頁)とあり、「小泉構造改革」っていつの話ですかというところでしょうか。頼むから、日本語が不自由というのはやめてくれとお願いしたくなる気分です。

 で、この思い込みが前面にでたのが「正規と非正規で2・5倍の所得差 格差認めた経済財政白書」という記事(参照)で、小数点が「・」(ナカグロ)で表示されているのが、さらにデ○パ感を強くしているのが味わい深いです。思い込みが「数字」(笑)で裏付けられたというわけでして、データなど思い込みが激しい人物の手にかかれば、単に都合のよいところだけを切り取られて思い込みを強化する手助けの役割しかできない悲しさを感じさせますなあ。自分でもいやな性格だなと思いますが、「『派遣切り』などの形で雇用調整が行われた」とあるのは本文ではなく、206頁のコラムですね。この種のコラムは、たいてい本文の補足となるトピックスを扱うものですが、ここだけ抜き出せば、本論のように見せられますね。それにしても、『産経』の経済面は本当に素晴らしい。3年前ぐらいには格差問題の「主流」は『朝日』と『毎日』あたりだった記憶がありますが、現在では『産経』が代表的でしょう。その欺瞞的な性格を端的に示しているという点では。くどいようですが、私自身は格差そのものを否定したことはなく、どの程度から問題になるのかが難しいだろうなあと思うのですが、一番、難しいところは面倒だからでしょうが、省いて、格差そのものがあるという、陳腐としかいいようのない話に終始している現状にため息がでるばかりです。


 「行き過ぎた規制緩和」というのはよく見かける表現ですが、私自身は使いません。なにが、どこまで進んだら「行き過ぎた」という価値判断ができるのかが不明瞭だからです。ちなみに、あえて規制緩和に積極的か否かで分類すれば、私は消極的な立場ですが、理由が変でして、自由化が政府の関与を弱めるとは限らず、政治プロセスでかえって強めることが少なくなく、本来の趣旨とは反する結果に終わることがあるという、ひねくれ者の感覚です。ただし、1970年代後半以降の自由化にはそれなりの理由があったと思います。金融自由化はやや別の問題だと思いますが、その他の分野における自由化は、電力やガス、運輸・通信などを指しますが、インフラストラクチャーの全国的な整備が課題だった時期が終わりつつあり、より効率的な活用が必要になったことや料金水準・料金体系の歪みから参入の余地が拡大していたこと、また、通信の分野で顕著ですが、技術進歩によって効率的な参入の余地が拡大していたことなどが背景にあったのでしょう。

 他方、政府規制の主要な根拠とされてきた自然独占の問題は技術進歩にもかかわらず、かならずしも解消されたとはいえませんでした。英国における自由化の設計では顕著ですが、自然独占性が認められる分野のみ切り離して政府の規制下におき、その他の分野は競争にゆだねるという施策が実施されました。これは一時的には成果を挙げるのですが、年月を重ねると問題点もでてきます。British Railの投資不足、その背景にあった路線利用料設定の問題が有名な事例ですが、自由化が単純に政府規制から市場の調整に委ねるという牧歌的な問題ではないことをよく象徴しています。自由化といっても、政府の制度設計に依存する部分が多く、制度設計に政治的な恣意が入り込むと、1970年代以前の規制がはるかに強かった時代とは現象としては異なりますが、本質においては同じような問題が生じてきます。

 これでもかなり大雑把な話ですが、細かいといえば細かい話なので、マスメディアがそのような背景を無視した報道を行うのはやむをえないのかなと思いますが、最近はひどいですね。労働市場における規制と規制緩和に詳しくないので、白書の分析が適切かどうかは保留しますが、日本における労働市場における規制緩和が進んだのは、なにも小泉政権だけではなく、むしろ1996年と1999年の法改正が大きいようですが、なぜかこちらはスルー。あまり書きたくないのですが、せめて経済部の記者ぐらいなら、最初は各種『白書』の的確な要約作成から訓練した方がよろしいのでは。それにしても、「小泉改革」がすべて悪かったかのような論調にはゾッとします。「格差社会」論にも、『国家の品格』にも共通すると感じるのは、異なる意見と批判への拒絶ですが、私が思ったよりも病弊は深いように思います。この点は、軽視しすぎていたなと反省することしきりです。
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