2007年01月21日

読者に恵まれる幸せ

 1月18日の記事は、私がトラックバックを削除するつもりで記事そのものを削除してしまいました。現在、掲載されている記事は、テキストエディタに残っていた部分を元に書き継いだものです。

 読者の方が、RSSリーダーで配信された最初の記事をメールで送って下さいました。恐縮するとともに、幸せな気分になりました。記事が拙いなりにも、読者の方々に恵まれていることをあらためて実感いたしました。感謝の念を申し上げます。

 このブログは、ココログで立ち上げた際には、事実上、非公開(公開はしていましたが、ごく一部の方だけにお知らせしていて広く公開するつもりはありませんでした)でしたが、途中であまりのコメントの少なさに(かんべえさんとか「薄情」な方にしか連絡しなかったことも大きいのですが)トラックバックなどで公開しました。「隠遁」に憧れる傾向が強いので、公開するかどうかは、相当迷いがありましたが、コメントを賜るうちに、勉強になることが多く、現在では公開して本当によかったと思います。さらに、あまりに情けない操作ミスで削除した記事まで「復刻」できるよう、お気遣いをいただくとなると、感激いたします。「寝言」スタンスは変わりませぬが、今後も、読者の方々に御指導・御鞭撻を賜りますよう、お願い申し上げます。

【「三顧の礼」に敗れた経済学(「初版」?)】

 梶井厚志『故事成語でわかる経済学のキーワード』(中央公論新社 2006年)を読みながら、最後にきて思わず考え込んでしまいました。考え込んでしまった話の前にちょっとだけ寄り道、もとい感想を。本自体は楽しんで読めます。「利益を追求する欲望は悪ではない。しかし、利益を追求する欲望の存在を無視することは悪である」(77頁)。このあたりの冷徹さは、ちょっとぞくっとします。実は、この本をネタに分権的社会に関して再論する予定でしたが、気分が変わりました(「気分」の問題については、こちらをどうぞ。ただし、暇をもてあましている方に限定ですよ)。年金の問題では運用のことについてばっさり無視した議論をされているのは違和感が残りますが。考え込んでしまったのは、最後の二つの章、第27章「三顧の礼」と第28章「泣いて馬謖を斬る」です。27章は、「長期的関係とインセンティブ」を論じていて、この故事を離れて成果主義と「愛社心」のような長期的な信頼関係を論じていて、これだけを考えても面白いでしょう。はたと考え込んでしまったのは前述の問題そのものではなく、冷徹な梶井先生(本の中では引越し屋の困らせ方などなかなか実用的で感心しました)をして次のような文章を書かしむる劉備と諸葛孔明の関係です。

 諸葛亮は報酬なしに流浪の武将に尽くす気になったのではない。劉備は、諸葛亮の理想と願望にこたえるだけの大きなビジョンを示し、最高の処遇をもって報いると熱心に語ったのである。そのような長期にわたる成果報酬が約束されてこそ、人は意気に感じて働くのではないだろうか(274頁)。

 諸葛孔明に関しては、こんなひどいことを書いておられる方もいらっしゃいますが(つい共感してしまうこと自体は否定しませんけれど)、彼の美学そのものを否定する方は少ない。敢えて言えば、上で引用した文章は、否定的な意味はないのですが、ごくありふれた評でしょう。梶井先生をからかおうというわけではなく、諸葛孔明という「高士」を描こうとすると、この種のリスクが避けられないのでしょう。ちなみにかんべえさんの「参謀論編」ででてくる岡崎先生の「出師の表」は、博報堂時代に拝見しました。岡崎先生は、「三顧の礼」に関しては、簡潔に触れているだけで、このあたりはさすがだと思います。下手に「加工」すると、「高士」に飲み込まれてしまうものです。私自身は、次のくだりが好きです。「任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず(受任於敗軍之際 奉命於危難之間」

 第28章は、「泣いて馬謖を斬る――疑わしきは罰すべきか」というタイトルです。最後も、ありきたりといえばそうですが、経済学の話から離れていて、考え込んでしまいました。

 孔明の死後、職はみるみる衰えた。泣いて馬謖を斬ったことで蜀軍の規律は守られたが、兵士はかえって萎縮してしまったのかもしれない(283頁)。

 かんべえさんの評価と同工異曲というところでしょうか。人材育成に関するかんべえさんの「美学」の一貫性は2007年1月17日の「不規則発言」(現在は1月のライブラリーに入っておりませんが)でも示されていて、この点に関する限り、まったく異論がないですね。ただ、諸葛孔明の評価にブレがないのがちょっと不満だったりします。引用した梶井先生の諸葛孔明の評価には迷いがある。「人物」が「高士」を評価すると、迷いが生じる。「高士」が「高士」を評すると、言葉で説明することが難しいことを「勢い」で語る。このあたりは、「人物」でも「高士」でもない、「ずれた人」には興味深く感じます。

 人間性の前に惑う経済学者というのも、悪くないと思ったりします。経済学だろうが、政治学だろうが、煎じ詰めれば、人間に奉仕するものでしょう。人間性に惑い、跪くことは、「役には立たない」かもしれませんが、少しだけ人間というものを見る目に深みが増す。これが今日の「寝言」。
posted by Hache at 02:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 幸せな?寝言
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