2009年11月09日

ブルックナーはお好き

 そういえば、昨日、最後の部分でロマンチシストと書きましたが、ロマンチストという表現もあり、どちらだったけと。ネットはやはりこういうどうでもよいことには本当に役立つのを実感します。グーグルで検索したら、「ロマンチスト度チェック」なるサイトがありましたので、両者の区別などどうでもよく試してみたら、まあ想定通りの結果になりました。明らかに女性向けの設問でしたので、適当な部分もありましたが、まあ妥当な結果であろうと。「設問15」に関しては、「B. 行為が愛情に先立つ」とあったらためらいがないのですが、まあ、このあたりだろうと。どちらが先かという設問自体が意味をなさないという選択肢があればさらによい感じでしょうか。

あなたの生活はロマンに満ち足りた生活ではないようですね。それがどういった事情によるものかはわかりません。
仕事に追われているのか、今いる環境に恋愛感情をいだくことができる人がいないとか、もしくは過去に悲惨な恋愛経験があって、恋愛恐怖症に陥っている等の事情があり、それはあなた自身がが一番ご存知だと思います。
このタイプの人はなかなか自分自身から恋に陥ることは少ないようです。また、相手の方もあなた自身にある種の「近寄り難さ」を感じているようです。そのため、周囲の人が恋愛に喜んだり、悲しんだりしていることを羨ましいと思っています。心の底では自分自身もそうありたいと思いながら、そうなれない自分自身が寂しく感じられるようです。
そんなあなたに必要なことは「自分自身の心を開いていくこと」。周囲の人は別にあなたのことを嫌いなわけではないのです。ただ、あまりにもあなたが周囲に対して自分自身を見せていかないために、周囲もあなたに対してどう接していけばよいかわからないのです。一度に心を開いていくのは無理でしょうが、少しずつ、心を開いていきましょう。


 うーむ、お遊び気分だったところに、まじめに「解説」されてしまうと気恥ずかしいですな。あまりに場違いな雰囲気にちょっと申し訳ない気分に。まあ、一緒にいて楽な人というのが理想でして、なかなか現実と理想のギャップが激しいことがつらいのですが。「楽しい」ではなくて「楽だ」という点がポイントですね。基本的に自己中心的だという自覚だけはあるので、それを相手がどう受け止めるかは別ですが、救いようのない性格に介入しようという方は苦手です。この呼吸は難しく、絵を見にいって、私が感想を呟いたときにわざわざあわせてくださる方がいましたが、それが理由で自然解消に持ち込みました。リアルで寝言を言っているようなものなので、適当に流してくれる方が楽なのよ。

 漸く本題ですが、ブルックナー。最近はまったく聴いていません。バッハ、モーツァルト以外のCDは売り払ってしまい、ブルックナーを聴いていたころは実家のステレオでLPの時代でしたから、困ったことにない。そんな話をしていたら、クラシック好きの人にしみじみ「君は変な人だなあ」と言われてしまいました。この一言が怖くてブルックナーについては基本的に触れないのですが。

 そもそも、私の幼少の砌にはクラシックの話題を持ち出すこと自体、育ちの悪さを反映しているのでしょうが、知的スノビズムの臭いを感じる人が多く、いくら空気を壊すのが大好きな私でもちょっと無理。他方、愛好家になると「お前は変だ」と何度も言われるので、さすがに落ち込みます。まあ、ブログで書いて欲求不満を解消するのがオチですが、年を食ったせいか、クラシックの話題を持ち出しても大丈夫かなと(隠れキリシタンでもあるまいし)。最近は、リアルでも身近なところで話をするのですが、やはり変だと言われて、ショックではないのですが、やっぱりそうなのかなあと。

 私がベートーヴェン以降の音楽に距離感があるということはご存知の方でしたので、ブルックナーを聴きたいというのが意外だったのかもしれません。ただ、この方の「変な奴だなあ」は陰影があって、なるほど。いわゆる後期ロマン派でも、ブルックナーはちょっと難しいのだそうです。あんまり考えたことがなかったので、へえという感じ。オブジェが突然、現れて、脈絡なく次のオブジェがでてきて、現代音楽に近い感覚なんだけれど、現代音楽よりもつかよりがたい部分があるとのこと。中学生のときにベートヴェン以降の作曲家の作品をFMで聴いて、これはと思ったらLPで買っておりましたので、一通り聴いたら、だんだん疲れてきてなんだか自己主張が疎ましいなあと思っていたら、ブルックナーの音楽がすっと耳に入ってすっかりはまったのでした。

 そんなことをとりとめもなく話していると、「マーラーはどう?」と尋ねられたので、子どもの頃にはあそこまで赤裸々な自己告白を聴かされて恥ずかしいのですが、最近は許せるようになりましたよと話しました。要は、昔はマーラーを聴いていると、高度な中年オヤジの愚痴を聴いているようで、途中で心が折れたのですが、最近はまあ許せるかなと。ガキのときにマーラーがだめでブルックナーがいいなんて可愛げがないと言われて、ハッとしました。この方の場合、私とは正反対でお年を召されてからブルックナーが耳に入るようになったようです。

 ブルックナーのことを調べたわけでもなく、また20年近く聴いていないので、シンフォニーの何番かは忘れたのですが、なんとも枯れた感じが心地よく、この世のことに苦悩した挙句の悟りというよりも、いかに美しい音色を奏でるのかという点に徹していて、自己主張にうんざりしていた若い頃の私にはぴったりでした。最近になって、中世音楽を聴いているうちに、これってブルックナーみたいとほとんど出鱈目な感覚ですが、そう思って聴きたくなったんですね。ブルックナーが敬虔なキリスト教徒であったかどうかは知らないのですが、中世音楽、というよりもバッハ以前の音楽を聴いていて、ああ、なんか近代だったらブルックナーが近いし、心地よかったなあなんていう適当なノリです。

 ブルックナーをドレスデンが演奏しているのはないかなあと。ヨッフムの演奏がよさげなのですが、品切れが多く、中古を漁る方が速いのがちょっと残念です。私みたいな中途半端かつなんちゃってクラシック好きの話にもお付き合い頂いている方からもとりあえずはヨッフムかなとことでしたが、入手が国内では難しくなっているのが残念です。なんとなく、ブルックナーはウィーンフィルではなく、ドレスデンの演奏を聴きたいのです。ウィーンフィルとドレスデンの音色の違いなど私の手に負えるはずもなく、言葉で表現するのは無理なのですが。どちらも人気が高く、高嶺の花であり、サービス精神がありながらも、職人気質でまず外さない。ただ、ウィーンフィルよりもドレスデンの方が音色がくすんでいるような印象があると同時に、繰り返し聴いていると、ウィーンフィルとは異なった音色の多様さが耳に残りました。これも、昔、聴いた印象ですので、「寝言」以外のなにものでもありませんが。

 まあ、そんなとりとめのない話にお付き合いを頂きながら、実は最近ヴィヴァルディにはまってるんだよと恥ずかしそうにおっしゃっるので意外でした。やはりヴィヴァルディといいますと、『四季』のイメージが強く、軽いと見られるのでしょうか。しかし、17世紀後半から18世紀前半ならば、やはり西洋音楽の中心はイタリアですから、この時代なら当然じゃないのかなと素人感覚で申し上げましたら、ホッとされた様子。クラシックに関する造詣や愛着ならば、私よりはるかに深い方なので、ちょっと意外でした。どうもバロック期のイタリアの音楽が軽視されていたので、かなり聴きこんでいるとのことでした。

 ふと思ったのが、ブルックナーは時代が異なりますが、ほぼ同時代(調べずに書いているので怪しいのですが)のワーグナーやリヒャルト・ストラウスと比べると、バッハ・モーツァルトあたりで終わる宮廷音楽家の感覚と似ているのではという、これまた素人らしい暴論を話すと、筋が悪いせいか、おもしろいとなりました。私に言わせると、モーツァルトぐらいまでは聴き手が相当、限定されているので(後半は微妙ですが)、オーダーメイドで相手の好みにあわせるところがある。バッハあたりですと、全部、確かめたわけではないのですが、田舎くさいところでは妙に荘厳さが前面に出るのですが、都会的な地域では自由さがはっきりと出てくる。だから、いい仕事をして聴き手を喜ばせようという基本がはっきりとしている。ベートーヴェンあたりになると、この関係がやや崩れてきて、私の音楽を世に問うという姿勢が強くなってくる。モーツァルトにもそのような欲求がなかったわけではないのでしょうが、どちらかといえば、技巧的な側面が強いのに対し、ベートーヴェン以降となると、啓蒙という側面と時代に私の音楽を聴いて考えてほしいという感じでしょうか。ワーグナーあたりまでくると、この関係がちょっと変わってきて、まあ、ドイツの興隆にあわせて楽しんでいるようなところがある。ブルックナーは不思議で、環境がまったく異なるのに同時代の作曲家から浮いている印象があって、なおかつそれがいい味なんですね。みんなメロディで聴かせようとしているのに、またブルックナー自身もそういう意識があるようにも思えるのですが、極彩色のワーグナーとは対照的に、まるで水墨画のように淡々と流れて、なおかつやたらとピアニッシモが多く、もう細かいぐらい音の強弱だけでかろうじて旋律が成り立っているといってよいぐらい。あれが中学生から高校生のときに耳に自然に入ってきてよかったんですね。こんな話をしていたら、やっぱり君はかなり変だと言われて苦笑しました。

 そんなわけでやっぱり変な奴なんだと実感しました。ただ、ルネサンスも大きいのですが、政治システムが分権的で都市国家や公国が乱立していたイタリアでは他の芸術も成熟していたことも大きいのでしょうが、音楽という面でも優れたものが多いというのは同感でした。私に言わせると、「蝸牛考」みたいなもので、ヴェネツィアやフィレンチェあたりから同心円状に音楽が田舎くさくなるだろうと。ワーグナーはその典型で19世紀後半まで田舎臭さがとれないんでしょうと。信長公に使える身で味の薄い料理をお出しする料理人は論外でして、田舎では濃い料理が好まれる。ブルックナーも田舎料理を出すべく精進したんだけれども、なんかずれちゃって私みたいなど素人さんに味が薄いから馴染みやすいなんて言われちゃう。

 週明け早々、「寝言」全開で恐縮です。


 モーツアルト好きの私でもしみじみ難しいと感じるのはシンフォニーの41番です。ジュピターなんて別称がついたので、余計に先入観がついてしまって扱いづらいです。音楽自体は、評論家がCDの解説で判で押したように「壮麗」、「優雅」、「端正」という形容がありますが、それを否定するつもりはないのです。難しいのは、バッハが無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番のシャコンヌで自由への憧憬をにじませながら高い音楽性を表現しているのに対し、41番、とりわけ最終楽章は異常なまでに自由を謳歌しているように響く。そして、完成しているとはいえ、いろんな可能性を秘めいているようにも感じます。これが後の作曲家へ感銘を与えても影響を与えることができなかったのは、フランス革命のバカげたドンチャン騒ぎがあったからじゃないかなあと。18世紀末から19世紀はフランスがガンですからね。後半からドイツがガン。ちょっと残念な話です。

 ちらっと41番の話をしたら、そういえば、モーツァルトは声楽中心なのか器楽中心なのかと尋ねられて、しばし沈黙。やはり声楽でしょうねと答えたら、僕もそう思っていたんだけど、ひょっとしたら器楽で書いた曲が過激に与えた影響の方が逆よりも多いんじゃないかと最近は感じると言われて、これは難しいなあと。そうかもしれませんねとそのときはお答えしましたが、どうも難しい。『フィガロの結婚』では確かに、当時のオペラとしては伴奏が声楽と同じぐらいの比重で当時としてはちょっと異常な感じです。ただ、音楽はやはり声楽が基本であって、西洋の古典音楽とともに声楽と器楽が分離してゆきましたが、素人的には楽器も人間の声が原点であって、声では限界があるので、それを補完する形で発展してきたのではないかと。モーツァルトの場合にも、鼻歌で主たる部分を音にしていたのかもしれず、声楽と器楽をあまりにも截然とわけるのはちょっと微妙な感じです。

 41番の最終楽章もソナタ形式がどうだとか対位法がふんだらだという理屈はあるのでしょうが、なんとなく自由を謳歌している美しい合唱のように響きます。ちなみに、クラシック愛好家を激昂させることを書きますと、20代に41番を聴いていて、ここでホルンがと言ったら、自称愛好家が違うと主張するのでびっくり。この曲の構成にはホルンがあるわけないでしょと固執するので面倒でした。だって、この響きはホルンじゃないと言うと、スコアにはないはずだとうるさいこと極まりない。愛好家の大半は知識で音楽を聴いている。素人の私は耳でしかわからない。それだけです。

 お付き合いしている愛好家はこだわりが少なくて話しやすいので、ちょっときどって小林秀雄が書いていたかもしれませんが、二流の識者とオケでもモーツァルトの短調のシンフォニーならなんとかなるけれども、長調は無理でしょうなあなんてかましてみました。珍しく、向こうが考え込んでしまったので、調子に乗りすぎたかなと思いましたが、次の一言が意外でした。「25番と40番しか短調がなかったっけ?」 実は私も記憶が浅いのですが、全集を買う財力がなかったので、シンフォニーだけ揃えたことがありましたが、確か、その二つだったはず。そういえば、そうかあとなりました。だって短調のシンフォニーなら中年の悲しさもあり表現がやりやすいけれど、今一つな識者や楽団では売れないのだから、長調をのびやかに表現するのは難しいのではと暴投しましたところ、ちょっとそれは言いすぎと微苦笑されたので、このネタは封印かな。
posted by Hache at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言
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