2007年02月24日

K.551

【注意】

 以下の記事は、性的な描写や反社会的な表現を含んでおります。お読みになってご不快になられても、当方は一切の責任を負いませんので続きをお読みになりたい方のみ、お読みください。


 朝からクライバーとかフルトヴェングラーのベートーヴェンを聴いたら、ステーキをいきなり食わされる気分になってしまいます。もっとお下劣な表現をすると、濃くて気もちよいけれど終わったらぐったりするような○をしたような気分で二度寝してしまいそう。これができる方は絶倫精力的だと思います。クラシック関連の話題は「鬼門」でして、ある現代思想に詳しい大学の先生を尊敬している人が「その方は医者の家に生まれて子供のときからマーラーを聴いてなんとか生きていたそうです」などと涙ながら語るのを聞きながら、「ああ、マーラーなんてヘロインみたいな曲を幼いときから聴くとはよほどでしょうね」などとつい口走ったら、二度と口をきいてもらえなくなりました。そういえば、高校時代にその方の著書(哲学関連書としては記録的に売れたらしい)を読めとしつこく級友に言われて現物まで渡されたので仕方なく読みました。言いにくいけど、1時間もあれば読めてしまう。感想を聞かれて「頭がよいことと使い方を知っているということは別だということを教えてもらった」と言ったら、なんじゃこいつという顔をされました。興味がないことには、わざとじゃないですが、とことん無関心で、そうじゃない人からすると「鼻持ちならない奴」と見えるようです。この年になると、そんなことすらどうでもよくなってしまう。

 話がぶっとんでいますが、念のため、このブログを御覧になっている方はご理解頂いているものと存じますが、私はクラシックが好きですが、いわゆる「愛好家」ではないので、いい加減な話ですよ。要は、上手に「いかせて」くれる演奏がいい演奏で、「あ〜あ、もう一息だったのに」となるのが今一つという、すちゃらかな横好きであります。ふと自分の「業」について考えていたら、ないわけでもないなあと。祖母が亡くなってから、ほとんど抑鬱状態で、たぶんですけど、実際うつ病だったんじゃないかなと思います。今となってみると、なんでチャイコフスキーの6番なんて聴けたんだろうと思います。あれを聴いて死んだ気分になってうつ病の発作を凌いでおりました。ぶくぶく横ばかりが大きくなり、年を食ってしまうと、「なにこの暗い曲?」という感じで、耳が受け付けてくれません。ベートーヴェンでも辛いなあ。体力が…。指揮者がぬるくても、聴く気になれないです。モーツァルトでゆくと25番と40番あたりも厳しい。

 ごくごく稀に聴くのがベーム指揮のモーツァルトの41番。「ジュピター」なんてとんでもない名がついていますが、聴いていて安心できる曲です。子供の頃に聴いて、美しいけれど、今は聴く曲ではないと感じて封印していました。あさーく聴いていると、定番なんだけどなぜかマンネリにならない気もちのいい、疲れが残らない○をしたような、えもいわれぬ快感がありますね。第4楽章の総休止なんて、愛撫を突然やめて同じタッチのように見えて微妙に動きが変わって、「えっ!どうしてそこをそうするの?」と余計なことを考えている隙に新しい快感が来る感じで、いわゆる「超絶技巧」ではないけれど、ハッとさせられます。展開はわかっているはずなのに…、みたいな感じでしょうか。

 し、失礼しました。真面目なモーツァルトファンの方におかれましては、「時の最果て」の「寝言」ですので、お許しのほどを。

 この曲を聴くことは滅多になくて、自分でも納得がゆく形で仕事が終わったときに限定されるので、本当に聴く機会が少ないのですが、不思議な曲です。曇りがまるでなく、澄み切った青空のように人間というのは無限の可能性を秘めた存在だという錯覚を覚える、本当に不思議な曲です。曲自体は、とてつもなく複雑なのに、「歌心」は純粋な男の子のよう。この曲が作曲された翌年にはバスチーユのバカ騒ぎが来る。進歩を掲げた暗黒の時代にはモーツァルトは名前すら忘れられてしまいました。しかし、いつの間にかモーツァルトは「復権」し、現代では「浪花のモーツァルト」とかモーツァルト掲げたブログが彼の故郷からすると、「東の最果て」に出現しています。「ジャジャジャジャーン」の方はちと微妙ですが、モーツァルトだったら、笑いながらソナタの一つぐらい、即興でつくってくれそうな気がしたりします。

 能力はあっても使い方を知らない人はすぐに忘れられ、使い方を意識的には知らなくても愛嬌で才能を使うと不滅に近いのかもしれません。週末のティータイムはやっぱりモーツァルトのピアノコンチェルト。これだけは譲れない。何が書きたかったのか、自分でも忘れてしまったので、以上。
posted by Hache at 17:42| Comment(8) | TrackBack(0) | 幸せな?寝言
この記事へのコメント
カール・ベームの「K551」ですか。
 それは、ウィーンpoのものですか。それともベルリンpoのものですか。ウィーンpoのものは、拙者が初めて買った「交響曲テープ」でした。もう三十年前です。今でも、モーツァルトの交響曲は、ベーム指揮のものが定番なのですな。
Posted by 雪斎 at 2007年02月25日 05:38
>雪斎先生

ウィーン.フィルですね。録音は1976年(ウィーン)になっています。グラモフォンの定番で、高校時代に買ったCDも同じだったと思います。「二代目」ですけど、安定感がありますね。ライブ演奏の録音も聴きたいのですが、なかなか見つからないです。ベルリンフィルも違った味があるのですが、個人的にはあっさりしている分、ウィーンpoの方が感情を安心して委ねられる感覚があります。
Posted by Hache at 2007年02月25日 06:31
私はワルターが好きだったので、アンチというほどではなくそれなりに好きなベームも口先ではけなす事が多く(野暮ったいとか色々)へそ曲がりなところを示していました。ただ万人が褒めるほどでもなく、モーツァルトでも曲により得意不得意は案外大きかったかも、と今でも思っています。

モーツァルト演奏に関しては、今はホグウッド/エンシェント室内管に信頼を置いています。古楽にやや偏見を持っていた私でしたが(マリナーがあまり好きではなかったのも影響している)近代的で鮮烈、かつ見事に音楽が流れているのに舌を巻いたものです。感謝の念を覚えた数少ない演奏家です。むしろ伝統的オケでの演奏が古色蒼然としているようにすら思うことがしばしばです。他にはガーディナーなども聴くべき演奏でしょうか。
Posted by カワセミ at 2007年02月27日 01:16
>カワセミ様

ベームが「野暮ったい」というのは、ご指摘の通りでありまして、そのあたりがむしろ日本人受けした理由の一つかなと思ったりします。ただ、41番は曲が曲のせいか、ベームのよさがよくでていると思います。晩年の25番は異様なまでの緩さで、本当に異様なんですが、案外、当時のウィーンのときの流れはこんなものかもと思ったり、悩ましいです。レクイエムは消去法でベームでしょうか。

それにしても、カワセミ様も古楽を楽しまれているとは…。レクイエムだとホワイト・トーンはちょっときついなあと思ったりしますが(アーノンクール指揮)、シンフォニーの方は聴いていないので、ご紹介頂いたホグウッド/エンシェント室内管を試してみます

ぐだぐだ書きましたが、楽しいコメントを賜り、ありがとうございます。
Posted by Hache at 2007年02月27日 02:04
私も「レクイエム」は別扱いですね。近代の伝統的オケのほうが名盤も多いです。全然モーツァルトが駄目なカラヤンもこの曲だけはなぜかいいです。ベームも世評高いです。が、とある音楽評論家の言で、「このベームの演奏は素晴らしいが、優れた美術などに見られるある種の官能性が必要な面もあり、それは欠けている」というようなものがありました。私もそれに賛成です。謹厳なたたずまいを崩さないベルリン・フィルとの交響曲演奏などのほうが気に入っていました。

古楽を楽しむとか、わざわざ構えて言うような事でもないと思います。近代の指揮者でもベームとカラヤンとバーンスタインは全然違うわけで、同じ文脈で古楽演奏家も違うというだけでしょう。ちなみにアーノンクールもあまり好きではありません。ホグウッドはすっかりファンになってしまいましたが。また古楽とは言い難いですが、一般受けするように近代的な側面とうまく折衷したオルフェウス室内管も当たった時には素晴らしい演奏ですね。
Posted by カワセミ at 2007年02月28日 00:11
>カワセミ様

教えていただいたり、考えさせるところの多いコメントを賜り、恐縮です。リプライになるかどうか、自信はありませんが、思いつくままに。

ベームに官能性が欠けているというご指摘は、ベーム好きの私もある程度までは同感です。この点、ワルターのもっている重要な資質がベームには控え目に言っても、非常に少なかったと思います。あえて単純化をすれば、クラシックに限らず、音楽のもつ晴朗さと音としてしか表現のできないケイオティックな部分が一体となっているのが演奏ですが、ベームのケイオティックな部分は非常に抑制されています。ワルターの演奏を聞き込んではいないのですが、ケイオティックな部分を半ば意識的にのびのびと表現する才能は素晴らしいと思います。

私がベームの演奏を信頼するのは、楽譜から作曲家の「歌心」を正確に引き出そうとする姿勢です。これだけならば、おそらく、指揮者に限らず、また古楽であるかそうであるかにかかわらず、ほとんどの演奏家が心を砕いているところだと思います。ベームは、ここに全てを捧げていたがゆえに、音になる以前のケイオティックな部分をあえて明示的に提示するのではなく、形式の中で暗黙にすることで聴き手に考える余地を残した印象があります。私自身は、ベームに限らず、指揮者や演奏家の自伝や評伝をほとんど読んでいないので、ベームに関しても彼の演奏からえた印象からまったく勝手な解釈をしておりますが、そんな印象をもっています。

古楽に関しては、まだヴァイオリン限定ですが、楽器の音色が新しい表情を生み出す可能性を感じております。ただ、これまでのモダン・ヴァイオリンによる演奏が古くなるのではなく、クラシック音楽のもつ様々な可能性を引き出してゆく、ほとんどの演奏者がチャレンジしている課題へのアプローチの一つとして楽しんでいる、そんな感覚です。

Posted by Hache at 2007年02月28日 02:11
たまにはこういう音楽談義もいいですね。

私はフルトヴェングラーが好きなのですが、当時対照的であるように語られたトスカニーニも今となれば伝統的なアプローチをとっているように思えます。そしてイタリア人の歌心とリズミックで厳しい堅固な構成をベームと比較するのはやや興味深いかもしれません。モーツァルトなのでワルターのほうが頭に浮かびますが、むしろトスカニーニのような強い旋律を響かせなかったというあたりにベームの特徴があると言えば同様に分かりやすいような気もします。聴衆との間の一種の腹芸を要求しているような節があります。そう考えると不足しているのは傲慢さかもしれません(笑)

ところで推薦したホグウッドのアルバム、バラでいくつか持っていたのですが、少し調べると驚いた事にモーツァルト交響曲全集が廉価版で再発されていることに気が付きました。(19枚組\19,000)思わず買い求めてしまいましたが、付属のライナーノーツは良くある簡単な楽曲解説の域をはるかに超越していました。ここでは日本の現状にも配慮して交響曲という表現を避けシンフォニーという用語を積極的に用い、当時判然としていなかった「シンフォニー」の定義をやや広義に取り、演奏会用セレナードなどと今日分類されているものも含めています。これは当時決して地位が低い楽曲ではなかった事を反映しています。また年代順に作曲の経緯と各時期別のオーケストラの規模を推察し、徹底して学問的なアプローチによる正確な再現を目指しており、その首尾一貫した態度には舌を巻きます。ピッチも430Hzを使用しています。これは演奏としても素晴らしいのですが、ある種の資料として第一級のものです。
Posted by カワセミ at 2007年03月03日 02:37
>カワセミ様

このあたりにくると、ベームやトスカニーニ、フルトヴェングラーの評伝や正当な西洋音楽史の知識が不十分な私にはちときついのですが、ベームはじじ臭いところがあって無理をしない感覚があります。トスカニーニは、「屈託がない」という印象でしょうか。もちろん、解釈やテンポ、ニュアンスなどは非常に緻密なのですが、自己主張に衒いのない部分があって、おもしろいなと思ったりします。たぶんですけど、ベームは指揮者としてはウィーン土着(ドレスデンや海外での演奏活動はありますが)で、あまり「歌心」を強調する必要がなかったのかもしれません。このあたりは、かなりいい加減な話で恐縮なのですが。

それにしても、モーツァルトの交響曲全集の廉価版が19,000円というのは驚きです。アマゾンで概略を見ましたが、CD19枚組でこのお値段というのは……。PCの周辺機器で金がかかりそうなので、ちと厳しいのですが、やりくりしてみたいです。
Posted by Hache at 2007年03月04日 03:45
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