2009年12月31日

不思議な世の中への素朴な疑問

 クリスマスは縁がないまま、仕事をしていたら終わっていました。いよいよ年末ですので、年賀状を書いて、CPUを取り替えたら、年末にしては気合が入って、ふだん整理しない書類を整理したら、大変でした。ほとんどがシュレッダーにかけざるをえないのですが、これがない。そんなわけで、平気で2007年のドコモの請求書が残っていたりします。しょうがないので、アマゾンでコクヨのKPS-X80LS(アシュラテ)が安かったので、注文をかけました。大晦日にシュレッダーを使うのは無粋ですが、それどころじゃないというところでしょうか。

 書類の整理をしながら(なくなると困る書類が多いので迂闊に触れないのですが)、『日経CNBC』を見ていたら、経済討論番組でしたが、みなさん世代間扶助には怒り心頭で、メンバーを見ながら、意外な感じがしましたが(伊藤元重先生が入っていて過激な議論というのは、ふだんはバランス感覚がよすぎて退屈なぐらい(失礼!)なのに)、もう年寄りだけ別枠にして勝手に世代内で所得再分配しろというあたりで落ち着くのが麗しい光景でした。まあ、高齢者が見ていそうな地上波では本音に近い議論は無理だろうなと。私がこの問題に辛くなったのは、『文語の苑』からしきりに会員になる勧誘が来ていたのに、金壱萬円を今年の正月に入金したら、音沙汰なしでして、ああ、高齢者というのは現役世代からボッタくるのがデフォなんだなと実感したという私怨でしかないのですが。この手の話をしだすと、「寝言@時の最果て」がネット上から消えてしまいそうですが、個人的には日本の平均寿命が上昇するたびに、嫌な世の中になったものだなあと。なぜか年金は物価上昇にはスライドしますが、デフレのときには下がらない。「年金の下方硬直性」という表現はないのでしょうが、現役世代の賃金は伸縮的なのに、働かない世代の収入が硬直的だというのは不思議なものです。

 まあ、そんな話程度なら不思議というほどでもありませんが、経済から政治までわからないことが多いなあと。以下、思いつくままです。

(1)長期債務残高の累増、金融緩和にもかかわらず、デフレが生じる。

 白川方明日本銀行総裁が出演されていたWBCを見ましたが、全体として当たり障りのないやりとりでやや不満が残りました。ただ、番組の最初の方で白川総裁が説明されていたフリップは、基本的ですが、欧米諸国と比較して1980年代から日本の物価上昇率が低いことが一目瞭然で、なるほど。民主党の経済政策への批判として成長戦略がないというタイプが多いのですが、現実問題として、1980年代から欧米と比較して物価上昇率が低い状態が持続して、なおかつ1980年代には先進諸国の中でも相対的に高い成長率を記録したわけですから、やはり外需依存の経済ということにつきるのだろうと。気どった表現をすれば、GDPギャップを埋めてきたのは内需ではなくて外需であろうと。海外の所得に依存しているわけですから、成長戦略であろうが、内需拡大であろうが、あまり効果が見込めないと思います。

 しっかし、無利子国債とか政府紙幣の話が大真面目にでてくると、本当に長期金利が上昇するのは意外と近いのかもしれません。近いといっても2−3年後、すなわち民主党政権が財政を滅茶苦茶にした後だろうと考えておりますが、それよりも速いのかも。公的信用が機能しなくなるとお手上げでして、あまり考えない方が精神衛生にはよさそうです。

(2)アフガニスタン増派とテロ未遂

 年末に飛び込んできた嫌なニュースです。オバマ米大統領ののアフガニスタン増派は延び延びになってこれはまずいなあと思っていたら、出口を求める演説をしちゃったものだから、これは厄介だなあと。筋としては出口を考えるのが当然ではあるのですが。そこへテロ未遂。出口を残す余地を求めようとするほど、出口が狭くなる。対テロ戦争で「勝利」を口にしては政治的には拙劣なのですが、オバマは8月の演説で口にしてしまった。そのあたりから混乱が始まったと思いますが、個々の出来事は偶然であっても、不思議なことにアフガニスタンから米軍が離れにくくなってゆきます。あるいは、嫌気がして孤立主義が強まるのか。後者ですと、日本人は畳の上では死ねなくなるのかも。

(3)成長の限界

 「成長の限界」といえばローマクラブが公表した報告が有名ですが、再生不可能資源の枯渇以前に、先進国は成長の限界に直面するのかもしれません。漠然とした感覚ですが、経済に限定しても、規模に関する収穫逓増が未来永劫、続くはずがないというところでしょうか。要素投入を増やすだけではダメだから、生産性を上げるということになるのでしょうが、産業や職種によってバラツキはあるものの、 人間の能力開発にも限界があるのでしょう。技術進歩は無視できないのでしょうが、既に生産性が高い状態では追加的な技術進歩の効果も薄れてくるのかもしれません。このことは社会全体が割けるリソースが限定されてくることを意味するのでしょう。

(4)バターか大砲か

 冷戦期と比較して各国、とりわけアメリカの軍事費のGDPに占める割合がはるかに小さいという指摘があります。ただ、これは、成長率が鈍化してくれば、追加的に軍事に割ける資源が限られてくることを意味するのでしょう。これは非常に悩ましい事態です。最近は鳩山首相まで抑止力とか言いだしているようですが、大国間戦争が生じない大きな要因はやはり核抑止がベースにあり、冷戦後も大きな枠組みでは変化がないのでしょう。他方、通常戦力を用いた武力行使に限定しても、アメリカが自制しているから、まだイラク戦争でも一般市民の犠牲がまだしも少なくて済みました(映像で見ると、正視に堪えない悲惨さですが)。本気でアメリカを怒らせて世論の歯止めがかからなくなれば、通常兵器でも瓦礫の山だらけになるのでしょう。だから、十年ぐらいは大国間の戦争という事態は生じないと考えても差支えなかろうと。

 問題は、中国の経済よりも軍事的な台頭によって勢力均衡が破られる可能性がでてくることなのでしょう。インド包囲網はかなり危険な話でして、ディエゴ・ガルシアが文字通り、孤島になるリスクも生じてくるのでしょう。さらにアフリカへの浸透は単なる資源ナショナリズムでは説明がつかない部分もあります。インドを包囲した上でアフリカへ中国が軍事的に影響力をおよぼすようになれば、西太平洋・インド洋・大西洋が中国の影響を受けるようになるでしょう。あまりにナイーブですが、日本人は中国の海洋権力に関する戦略に鈍感な印象があります。

 最後の項目は私らしく非常に内向きなので、「追記」に回します。まあ、最近、ページビューが減って過疎化が著しいので、ちょっと寂しいということもありますが(訪問者数が1日あたり400を超えるぐらいでこちらは激減というほどでもないのですが、ページビューが少なくて1300−1400で推移)。あとは、長いと揶揄されるのには慣れましたが、たまにリーダーではなく他の方のブログを覗くと、「時の最果て」のトップページの長さが異様に感じて、恥ずかしいということもあります。


(5)世論のあやうさと確かさ

 プチ忘年会でひどい目にあったために、嫌気がしていますが、日本の世論というのは危うい部分があります。なにかといえば、政治に対する期待値がやはり高いことにつきます。今年、生じた政権交代は不可避とまでは言いませんが、やむをえないと感じておりました。問題は、政権交代後、役者が代わるだけであって、制約が厳しいのですから、民主党政権になってもそれほど政策が代わらないことに耐えられるかどうかという点でした。役者が代わればよくなるというのはあまりに安直な印象でしたが、日米関係や経済政策に関しては、意外なほど世論の反応は、私に絡んでくるような例外的な人もいますが、私が思っていたよりも冷静だったと思います。

 世論といっても、個人が単位ですし、地域やその他の社会的属性から考えると、方向性というものは、欧米へのキャッチアップという漠然としているようで後発の利が生きる段階では明確だったと思いますが、現在ではそのような明確な方向性をもつことが困難です。したがって、戦後の復興期から高度成長をへて1980年代の安定成長期に至る時期とは異なる、より高い政治的リーダーシップが要求されているのでしょう。そう考えると、政治への期待値が高いというのは、直接には生活水準が低下しかねない状況をなんとかしてほしいという素朴な欲求の発露にすぎないとは思いますが、かならずしも、非現実的な欲求からくる現象とはいえない側面もあります。

 他方で、民主主義社会に限らず、世論は熱しやすく冷めやすい。とりあえず、小泉政権後、政治的リーダーシップを発揮できないと多数には映った自民党から権力を剥ぎとった。現状では民主党にもそのうち失望するでしょう。他方で、現代の民主主義社会では政治的リーダーを育てるのは容易ではありません。私自身、これという思案はありません。この面における教育制度改革はあまり効果をもたないだろうというのが素朴な感覚です。新しい活力を導入するという点では世襲批判はそれなりに意味があるのかもしれませんが、世襲そのものを禁止してしまうことは、エリートの育成にはマイナスも大きいでしょう。また、小選挙区制の導入によって、意外なことに、世襲議員がかならずしも選挙に強くない状況も生まれてきています。政治に限らないと思いますが、指導者を育てるためには、過度に階層が固定化すると活力が失われ、過度に流動化すると競争で疲れ果ててしまうというトレードオフに直面します。民主政というのは、その本質において、古参にも新参者にも寛容であることが不可欠だと思いますが、個々の有権者に寛容であることを強制すること自体、民主主義の否定につながる以上(あるいは手段がないから不可能)、世論という実体が曖昧な、なんらかの傾向は常に極端に傾くことを覚悟しなければ、付き合うことができない政治システムだと思います。

 鳩山首相や小沢民主党幹事長の政治資金の問題は、ある面では自業自得とすらいえます。直接にはリクルート事件に端を発した政治改革は、一面において政治資金の出入りを透明化する効果があったとはいえ、有権者から献金を募るインセンティブを考慮しないものでした。結局、国民自身は支持政党がバラバラであったり流動的であるのにもかかわらず、政党交付金を導入した結果、政党が個人から寄付を募ったり、有権者が自発的に献金を行うインセンティブを阻害してしまう効果が大きいと思います。

 結果として、鳩山首相の場合、親族を含めた個人資産に頼るしかなくなってしまいました。カネの話ばかりしていると、卑しいという人がでてくるのが日本の政治改革を妨げていると思いますが、民主政に限らず、政治活動は、基本的に民間の財貨やサービスの供給という通常の事業活動とは異なって、カネを使うのが基本です。政治活動そのものから、議員になって歳費をえる以外には、金銭をえることはできません。その意味で、1990年代以降の政治改革は、国民に政治参加の前提として納税だけではなく、政党を育てるためには身銭を切るというコンセンサスを形成するのに失敗したと評価できるのでしょう。

 政治的リーダーシップの問題を論じるときには、私の偏見かもしれませんが、個人の資質であったり、気概であったりと精神論的な話が多いと思います。まだマシな部類としては大衆社会批判ですが、現実的な手段がないという点では精神論に近づいてしまう傾向もあります。民間企業でも組織への忠誠心が低下している現状では、政党が組織として存続すること自体、困難になりかねません。事業体ならば、努力をすれば、不確実性がありますからストレートに成果には結びつかないとはいえ、報酬などを通してまだ個人と組織の誘因両立性を保つ手段があるのでしょう。営利組織ですら現実には私的誘因と組織全体の効率を両立させるのは難しく、政治と同じくリーダーシップの欠如に苦しんでいる場合が多いとは思いますが。政党の場合、現状では活動するほど、資金の出が多く、入りは税金頼みではリーダーシップを育てることは困難だと思います。極論ですが、政党、もしくは候補者への献金を所得から控除するのではなく、所得税から差し引くぐらいの荒療治が必要かもしれません。税か政治献金かという選択肢を設けることで、政党の側には献金を要請し、納税者が税よりも特定の政党や個人に献金するインセンティブを与えることも考慮した方がよいと思います。

 いずれにしても、現在の日本では公職選挙法や政治資金規正法でかえって政党の活動を弱体化させている印象があります。カネがすべてではありませんが、有権者に政治参加を求めるには、まずカネを出すということが不可欠の前提だということをコンセンサスにするのが今後の政治改革の焦点ではと思います。もちろん、カネの問題は出発点にすぎません。ただ、現状のまま、政権交代を繰り返しても、不満だから役者をとりかえるというだけで、政治システムは政権交代を繰り返すたびに不安定になるリスクもあります。古代の共和政や民主政のように、兵役などによる直接的な市民の負担がない現代では、政治的リーダーシップの初歩は担い手が市民に対して政治への対価を税以外に求めることを定着させることが最低限の前提だと思います。

 世論調査では内閣支持率や政党支持率ばかりが注目されますが、現状では民主党の政策を検討し、評価する有権者の意欲は決して低くはないと思います。私らしくない希望的観測を述べるならば、決して政治的リーダーが育ちにくい風土とはいえない側面もあるのでしょう。世論というのは、私自身が気分しだいの生活を送っているからかもしれませんが、気ままなものだと思います。他方で、私が危惧したような普天間基地問題がこじれて1990年代半ばのような反米的な機運が盛り上がるという情勢にはありません。もちろん、これも長引けば不確実な部分はありますが、日本の世論は気ままだけれども、戦後民主主義は成熟期に入り、戦前のような自滅への道をたどる確率が低下しているとも感じます。しかし、その世論を国益に反映させる政治的リーダーシップがなければ、動乱の時代を乗り切ることは困難でしょう。

 70年安保の熱から冷めた世代は「シラケ世代」と呼ばれましたが、組織不信や政治不信が強いともいえます。このような世代を直接、政治活動に組織化するのは困難であり、政治的リーダーシップを育てるにはハードルがあまりに高くなってしまいます。経済成長が実感できない期間が20年近く続くと、カネを集めるのも困難ですが、政治的リーダーシップは、活動に必要な資金を集めるという基本から始めるのがよいのではと考えます。

 いつものごとく、一年が終わったという実感がないまま、大晦日を迎えました。新年を迎えるという実感がないという意味で、真心がこもっていないので恐縮ですが、こんな下までスクロールして下さった方に、お約束を捧げましょう。

ここは「時の最果て」。すべては「寝言」。

よいお年を!

 
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