2010年01月12日

成人の日によせて(旬のすぎた「寝言」)

 ふと帰りの電車で和服姿の若い女性が目について成人の日なんだなあと実感しました。荒れる成人式とかその手の話がいつだったか盛んでしたが、若いんだからバカの一つも今のうちに済ませておけというところでしょうか。最近はその手の話も減って、おとなしくなったのか、メディアがどうでもよくなったのか、年金を支える「生贄」が減ることが心配なのかはわかりませんが、報道がめっきり減りました。唯一、違和感を感じたのは、私自身は静岡市で成人式を迎えましたが、つまらない話に耐えられる人は会場内へ、そうじゃない人は式典の途中から参加していました。偉い人の話はつまらないというのは相場が決まっていますから、その程度のことも当時の成人の一部はわからないんだなあというのが率直な実感です。

 もっとも、私が学生の時代にもイライラすることは多くて、講義の最後の時間は試験の説明を行う先生が多かったのですが、とにかく、うるさい。大学の講義に出ていて呆れたのは、講義中に私語をするバカが多いことでした。まあ、学力が足りなくて碌でもない大学に進学したので、こんなもんだろうなとは思いましたが。その意味では、今の20代が特別、劣化したというわけでもなかろうと。ただ、後で述べますが、世代内格差は広がる一方になるのかもしれないという懸念はもっておりますが。

 成人式をとっくに終えた20代前半の人と話していてちょっとひいてしまうのは、新聞に今年の秋ぐらいには失業率が10%を超えるかもしれないという数字が出ていましたと話しかけられたときでした。ちょっと虫の居所が悪いので、マスメディアでも民主党バッシングが広がっているが、現状で失業率が5%台なのに、そんなに急速に悪化するわけないだろうと一蹴してしまいました。総務省の「労働力調査」(2009年11月)では労働力人口が6,591万人ですから、現状から5%も失業率が上昇するとなると、330万人程度の失業者が生じる勘定になります。大雑把に言えば、建設業の4分の3程度の雇用が失われる計算です。若いということは、物事を抽象的に考える傾向が強いという側面があります。これは私自身も若いときには同じでしたし、現在でも抽象的な思考と具体的な問題への対処が分離する傾向があります。話がそれますが、元々、観念的な傾向が強いドイツの学が戦前にあまりに表層的に輸入されたために、今でも英米の学を吸収できずにいるのが実態ではと感じることもあります。レインズの『イギリス保険史』をいまだに読みこなせないので、このことに関してはあまり強いことは言えないのですが。

 新卒者の就職内定率が急速に悪化しているために、高等学校・大学などでキャリア教育を重視せよという意見もあるようです。それはそれで傾聴に値するのですが、現在、提案されている内容を見る限りは、一見、長期的に若年層の未来を確保する意図にもとづいているようですが、短期的にはそのような教育を受けていない層への配慮がない上に、長期的にも効果が見込めないというのが素朴な実感です。端的に言えば、学生から人気の高い大企業ですら、業績の浮き沈みが激しいために若手を育てる余裕がなくなってきているのが1990年代以降の状況でしょう。単に、就職するだけならば、就職先を選ばなければ、口がないわけではない。他方、企業は社内で人を育てる余地が狭くなっているため、いわゆる「厳選採用」になってしまい、雇用のミスマッチが生じてしまいます。さらに、就職しても、新人がスキルを育てるのには余裕がない。キャリア教育の必要性を否定するものではありませんが、教育機関に社内教育の代替ができるとは思えないのです。教育や労働市場、教育政策、労働政策に疎いので、まさに「寝言」ですが、現状は労働サービスの担い手は人間であるという基本を忘れた雇用流動化ばかりを追いかける風潮と、市場経済で生きる以上、労働市場においても競争がなければ市場が機能しないということを忘れた人たちがタコツボで自己満足に陥っているのが現状だと思います。


 「時の最果て」ですから、細かいことは理屈屋にお任せして、素朴にいまの若年層を眺めて「寝言」をつぶやきましょう。「あるべき政策」にはあまり興味がないので、思うがままに現状はこうかなという程度です。

(1)少子化と競争

 私自身は、第2次ベビーブームの世代のちょっと上ですので、微妙ですが、やはり小学生のときから世代内の競争が激しかったと思います。幸い、バブル崩壊後とはいえ、就職氷河期に直面しませんでしたが。大学入学までが激烈な競争で就職する段階ではあくまで現在と比較しての話ですが、はるかに競争が緩やかでした。今日では、高校卒業、あるいは大学入学までは競争が緩やかで卒業が近づくと、激烈な競争に直面します。この傾向は今後、強まる一方でしょうから、「優勝劣敗」や「勝ち組」と「負け組」のような一面的な競争の捉え方ばかりが蔓延することを懸念します(このような表面的な競争の捉え方ばかりを強調するエコノミストや専門家は消えてほしいのですが)。競争の役割は、かならずしも市場だけではなく組織内部でも生じるはずですが、個人に創意工夫と努力を行うインセンティブを与えることでしょう。世論の批判の的になっている官僚機構でも同様です。ただし、役所の場合には今後はよけいな仕事を増やさないようにインセンティブを与えることが不可欠でしょうが。

(2)大人になるということは自分の運命を自ら決めること

 新卒採用の段階だけではなく、その後のキャリアを考えると、各年齢にあった将来像をもつことが必要なのでしょう。他方、学校教育の場では個人的な話で恐縮ですが、将来の夢として漠然と考える場はあったものの、その先は個人に任されていました。キャリア教育の要は、勤労を通して社会参加の最低ラインを超えることを目標に据えること、さらにそこから家庭からコミュニティとのかかわりを一歩一歩、深めてゆくことなのでしょう。問題は、それが教育で行うことには限界があるという自覚だと思います。気づきの機会は、学力の養成が主となっている現行の教育の方が多いかもしれません。

(3)個人主義の衰退

 私が大学時代には、経済学では労働は"bads"(負の財)とされているが、あれは欧米が特殊で日本は異なると主張する先生が多かったと思います。この点では、勉強も明確な目的意識や好奇心がなければ、"bads"以外のなにものでもないでしょう。私自身は、変わり者でしたから、勉強自体は楽しみました。いまの若年世代は、このように世代を一括りにするのは例外が3−4割程度はいるでしょうから、心苦しいのですが、労働は"bads"と感じる人が多いと思います。とくに、就職して5年程度は苦痛が大きいでしょう。また、私の見聞きしている範囲では、職場によって、新人を育てる手順を変えているところと昔ながらの方法でやっているところと崩壊しているところに大別できます。私自身が個人主義的なバイアスがかかっているので的外れかもしれませんが、ご高齢の方から見れば若い世代のエゴイズムへ嫌悪感を感じていることが多いと思いますが、むしろ、個がバラバラの状態では個人主義は育たないと思います。社会から隔絶した個(とびぬけた才能の持ち主は別ですが)、組織に埋没したり対立したりする個は、ひ弱な個人主義にすぎません。ある大学の先生に伺いましたが、最近は、信じられないことにトイレで食事を済ませる学生がいるそうです。友だちがいないが故に、弁当を一緒に突いたり、学生食堂などで一緒にご飯を食べることができない学生が増えているとか。複数の先生に伺いましたが、みんな懸念しておりました。私みたいに40年も独身で、ちょっとお昼にステーキでもというときでさえ一人でも平気というのはいかがなものかと思いますが、そんな私でも社会や組織に抑圧されて潰される個など贋物でしかなく、個が確立できずに避けている風潮が無視できないとすれば、キャリア教育やその他の改革を行っても無駄だと思います。
posted by Hache at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言
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