2010年02月14日

経済的自由主義の終焉?

 あれこれ「寝言」なりにまとめようとしましたが、自分の力量を超えることに気がつくばかりです。結論は、向こう10年間ぐらい経済的自由主義は後退するかもしれないが、それに代わる秩序というのはないだろうということにつきます。この見通しが外れた場合、あくまで外交や軍事を捨象した話ですが、先進国・新興国・途上国を問わず、アナーキーが広がってゆく危険があると思います。そうはならないことを願っておりますが。

 国内の時事的な問題とは切り離したかったので、漸く本題ですね。実を申せば、このブログ、「『寝言』じゃないまじめな方たち」と称するリンク集がありますが、許可を頂かずに、勝手にリンクしております。『寝言@時の最果て』などという変なところでリンクされては迷惑ではないかと恐る恐る下の方にしております(リンクを外した方がよいという場合はメールもしくはコメント欄にてお知らせ下さい)。さらに、畏れ多いことに、最近はグーグルのリーダーで読めてしまうので、ごく一部のサイトを除いて、リーダーで読んでアクセスという形がほとんどで、私自身が利用していないという問題が。

 ギリシャの問題をとりあげた直接のきっかけは、ニューヨーク・タイムズがしつこいぐらいこの問題で速報を送ってきたからでした。読んでいくうちに隔靴掻痒の感もあり、調べてメモしたという程度です。もっとも、書いてから思い出しましたし、リーダーで新しい記事を拝読して、厭債害債さんの説明でなるほどと。「ギリシャ問題」(参照)を読み返すと、あんなに木曜の晩に慌てることもなかったなと(休日はなんとギリシャ問題を英語で追っていたら、一日が終わってしまいました)。下手に素人が四苦八苦して英語を追っかけるよりも、簡潔に事実関係が整理され、分析が加えられているので脱帽です。

 ドキッとしたのは(ちょっとだけ胸がときめいたのを正直に告白しておきます)、「ギリシャ問題再説」(参照)でして、やはりプロの説明というのはさすがだなあと拝読しながらうなりましたが、最後の部分で、考え込んでしまいました。率直なところ、厭債害債さんがこちらを読んでいる確率はほぼ無視してよいので、この問題を考えながら、「寝言」にしてゆくうちに力量不足でうまく表現できない部分が書かれていたので、ドキッとしました。

 システム的安定という観点からはギリシャの人々が(70%は受け入れているようですが)おとなしく厳しい制約に服してもらう必要があるわけですが、そこはそれ、にんげんだもの’byみつお、ですから、理解も納得もできない人が国民を扇動してしまって混迷を深めるというリスクは残っています。これでギリシャに甘い顔でもしたら今度はアイルランドの人が黙っていないでしょうしね。この問題に限らず、最近のすべてのテーマに共通するのは「政治、規制、行動」にかかわるリスクです。合理的経済人というのは、もともと怪しい概念であったとはいえ、これまでは多少は前提にしてもよかったのですが、今ではもはやどこにもいないというベースで考えないといけない時代なのかもしれません。結果としてワタクシの結論はボラティリティーの上昇。人のことはわからんし、ましてやそいつが何をするかまったくわからん、ってことがみんなわかり始めるってことではないかと思います。


 軽いタッチで書かれていますが、けっこう重たい問題だなと思いました。「時の最果て」らしく、ギリシャ問題を離れて「寝言」にしてしまうと、「『政治、規制、行動』にかかわるリスク」というのは、ギリシャ問題だけではなく、オバマ政権の金融規制でも直面している問題です。金融規制に関する実際的な問題としては、naked capitalismの"Volcker Rule Gives Goldman Easy Choice"という記事が興味深いです。ただ、ここで話を戻しますが、「合理的経済人というのは、もともと怪しい概念であったとはいえ、これまでは多少は前提にしてもよかったのですが、今ではもはやどこにもいないというベースで考えないといけない時代なのかもしれません」という問いは、18世紀以降の経済的自由主義の根源に関わる問題だと思いました。この経済的自由主義の後継者たちは不確実性下の合理的意思決定の問題に取り組んでいて、けっして少なくない成果を挙げていると思います。わたくし自身の感覚では、「合理的経済人」という虚構を捨ててしまうのは惜しいなあと。他方で、説明が難しい問題に直面していることも否定できません。

 ここで当初の問いから、かけ離れてしまうのですが、塩野七生さんの『ローマ人の物語XV ローマ世界の終焉』の次の件がつい思い浮かびます。最初に読んだときから、古代ローマのみならず、現代的な問題だという感覚を拭うことができないのですが。塩野さんの信頼すべき点は、女性に頑固というのは失礼かもしれませんが、ローマの衰退期でさえも、頑固なまでに原因の分析よりも「症状」の観察に徹している点でしょうか。案外、こちらの方が歴史に学ぶということに通じるのではと感じることもありますね。

 「共同体」(res publica)と「個人」(privatus)の利害が一致しなくなることも、末期症状の一つであろうかと思ったりしている。そして、公共心も、個人が、自分の利害と自分が属す共同体の利害は連動する、と思えた場合に発揮されるものではないか、と(72頁)。


 厭債害債さんの「合理的経済人」からかけ離れた問題のようですが、やはりどこかで私にはつながっている問題であろうと。やや、迂遠できどった表現を用いれば誘因両立性でしょう。もっと素朴に表現すれば、近代の市場経済に関する学は、基本的に個人の利益の追求が社会全体の福祉を増進するという立場が大前提になっているでしょう。学があって市場が存在するわけではなく、市場の観察からそのような立場が生まれてきたわけですが、学による正当化が、経済的自由主義の立場を強くしたことも無視はできないのでしょう。19世紀末から、さらにその前提が深められ、個人が目的をもち、その目的に合致した適切な手段を選択する(基本は需要でも供給でも同じ)ということになります。あくまで結果にすぎませんが、私利私益の追求が社会全体の幸福につながるということが個人合理性と密接に絡んでいます。

 もちろん、ことはそれほど単純ではなく、市場が欠落しているがゆえに市場機構では解決できない問題がむしろ経済的自由主義の立場から分析されてきました。古典的には不完全競争の問題ですが、今日ではゲーム理論によって経済主体間の相互作用として描写することが可能になっています。やや、話がそれるので端折りますが、今日、経済が直面している問題は、果たして合理的な意思決定を前提にして描写可能な問題なのか(解決可能かという問題以前にこちらができなければ話にならないので)ということが難しい問題です。この問題は、個人の幸福の追求が社会の福祉につながるという近代以降の経済的自由主義に、より本質的な懐疑を投げかける可能性をもっていると思います。

 個人合理性に限定すれば、人間というのはまったく非合理的でわけがわからない存在だとすれば、考えるだけムダですから、さすがの「寝言」お手上げで、以上。悩ましい点は、限定合理性という表現は微妙なので避けますが、中途半端に人間が合理的だとすると、非常に厄介です。今回は本質的な問題としては取り上げませんが、"altruism"が入ってくるだけで非常に問題が複雑になります。私自身は、欲と打算で動く人間の方がはるかに信頼できるといういびつな人間観をもっていますが、完全に利己的な個人というのも実は疑わしいとも感じております。

 それはさておき、どのような理由にせよ、中途半端に合理的で利己的な個人がより現実的な人間像だとすると、かなり悩ましい問題です。端的にいえば、ことが起きてからでなければ何もわからないという計算不可能、あるいは予測不可能な事態をもたらすからです。金融危機で経験しているのがそのような世界ではないかと言われると、否定はできないのですが、ちょっと微妙な部分も感じます。ヘッジファンドが欲得づくで行動しているとみなしてもよいと思いますが、金融危機後、利益を上げているところは少なくありません。一方で計算不可能な世界があり、他方で計算可能な世界が同時にあるというのは、単なる個人的な感覚ですが、非常に気もち悪いです。まあ、それもプラトン主義だからさと言われれば、あえて反論はしませんが、パラレルワールドを行き来しているような感覚におそわれます。

 どんどんと話を「寝言」らしく散漫にしましょう。塩野さんが、「そして、公共心も、個人が、自分の利害と自分が属す共同体の利害は連動する、と思えた場合に発揮されるものではないか」という表現は非常に根本的な問題をおそらく直観的につかんでいるのではと感じさせます。ある社会、ちょっと無神経ですが、あるいは共同体のステイトメントとして、「個人が、自分の利害と自分が属す共同体の利害は連動する」と描写するのではなく、公共心が発揮される条件として、「個人が、自分の利害と自分が属す共同体の利害は連動する、と思えた場合」となっていることです。ただし、先の引用の本質的な問題は公共心であり、これ自体があまりに大きい問題ですので、今回は端折ります。

 何気ない表現のように見えますが、この両者は大いに異なってきます。基本的に合理的意思決定に関する学は、主としてステイトメントの問題として扱うのですが、実はその前提になるのは、個人がステイトメントを合理的に把握しているということになります。「思える」という表現は曖昧ですが、より深い部分に関わってきます。このあたりをコモンナレッジの問題として扱う方が形式的ではありますが、まだわかりやすくはなります。しかし、現実にはヒストリカルな時間の下で「思える」という前提を考えると、あえて曖昧な表現を用いますが、ある特定の意図のもとに設計された制度ではなく、まず過去、それでうまく世の中がまわったという実感とともに一見、ある意思決定に関係のない制度がからんできそうです。これらを分析的に叙述することは不可能ではないのでしょうが、おそらく全体を描くことは非常に難しいだろうと考えます。

 ちょっと話が広がりすぎますが、1月15日に「クルーグマンは保護主義を正当化しているのか?」という「寝言」を書きました。クルーグマンの"Chinese New Year"そのものは保護主義的な主張としてとられてもやむを得ない叙述だと思いますが、自由貿易を否定しているというわけでもない微妙な論考です。また、自由貿易といっても、自然とそうなるわけではなく、リカードの比較生産費説自体が現実の通商政策と相互作用しながら発展してきたことを考えると、単に政府介入が少ないという意味での素朴な自由主義では説明がつかないでしょう。クルーグマンの論考は政治色が強いので深読みでしょうが、上記のことに加えて、今日では私益の追求が公共の利益と結び付くことへの根本的な懐疑が生じていることが背景にあるのではと感じます。貿易はリスクや不確実性以上に公的なアクターの振る舞いに影響されるので、やや特殊な側面が強いのですが。やや表面的な観察にすぎませんが、リスクや不確実性などを考慮しなくても、時代が時代だということもあるのでしょうが、私益と公共の利益の関係は、私が以前、考えていたほど自明ではないのでしょう。

 うまく、ギリシャ問題と古代ローマを結び付けることができないのですが、どうも今回の金融危機後の経済の不安定さと停滞、政治的対応は、ひょっとすると、経済的自由主義へのより長期的な懐疑に結びつくのではないかと感じました。今日では18世紀から19世紀の素朴な自由主義はかなりの修正を受けていますが、根本の部分への懐疑は、1929年の世界恐慌でさえも、その後の冷戦をへて克服されました。これは主として、旧西側諸国、あるいは先進諸国になるのでしょうが、現段階はどこぞの島国では政権交代で忘れていると思うのですが、政権交代は現実には政治的混迷の延長戦にすぎないであろうと。「そして、公共心も、個人が、自分の利害と自分が属す共同体の利害は連動する、と思えた場合に発揮されるものではないか」という塩野さんの観察の対象は、古代ローマがパクスを保障することができなくなった政治的混迷の産物でした。政治的な営みですら、人々に個人の利害と共同体の利害が連動するという確信を与える役割という点では、実際には限界があるのでしょう。この「寝言」に限りませんが、「時の最果て」ではなにか結論めいたことを出すことが目的ではありません。ただ、私たちは、個人の利益と公共の利益の関係に関してまだわずかなことしか理解していないのかもしれないという感覚をもちます。


 まあ、われながら厭債害債さんの話からああでもない、こうでもないと引っ張るものだと苦笑せざるをえません。職業柄、口走ってはまずいのですが、確かに「合理的経済人」というのは大いに疑わしい(笑)。少なくとも、実務的にはあまり役に立たないでしょう。こちらをご覧になっていないでしょうから書けますが、「人のことはわからんし、ましてやそいつが何をするかまったくわからん、ってことがみんなわかり始めるってことではないかと思います」というのは実に清々しく、漢らしくて萌えました。観察したり評論したりする立場のなんと弱々しいことよ。この立場になれば「時の最果て」は不要で、「寝言」も終わりです。ただ、異議や違和感とは異なる、中途半端に合理的だから困るのですよという感覚がありました。書きだしたら長くなるのは目に見えているので、先に腹に抱えているとイライラすることを吐きだしてから、考えてみましたが、やはり難しいです。

 実は、リーダーで読みながらパッと頭に浮かんだのが塩野さんの『ローマ人の物語』だったというのも相当、変なのかもしれません。すみません、逃げました。変です(キリッ)。ギリシャがどうでもよくなったわけではなく、実は、このような光景を繰り返し私たちは見てきたであろうし、これからも見るのだろうと。政治的なイデオロギーの意味ではなく、日本語の意味で私自身は保守的です。人間なんてたいして進歩などしないし、大抵の人は生活を送るのがやっとで、何事もなかったように消えてゆく。私もそんな無名の一人です。全く関係ないのですが、今はジャンプのノーマルヒルを見ながら、スケールの大きいプレーを見ると、思わず歓声を挙げています。それはともかく、ユーロ・円のインプライド・ボラティリティのチャートを見ながら、これだけ取引が可視化されているのに、難しいものだと驚きました。リスクへの感応度がこれほど手にとるようになっていること自体、素人には驚きです。「寝言」の域を超えますが、逆にこれだけ取引が数値化され、合理的になってくると、かえってリスクに敏感になりすぎるのかもしれません。最初の話と矛盾しますが、知らないというのは、時と場合によっては、最強の「戦略」となるのかもしれません。

 結局、単なる「寝言」の続きですが、法学の先生にロースクールに関する話のついでに「法ってなんですか? 定義してみて下さい」とにこやかに言われてドキッ。法律は学生時代にかじった程度ですので、元々、知識がありませんので考えても仕方がないなと思いました。「なんらかの、ええと、強制力をもって、うーんと、社会の成員の行動を律する規範ですかね。でも、規範そのものよりは狭いですしね。うーん」と答えましたが、ニヤニヤされて「それじゃあね」となりました。うーむ、難しいです。たぶん落第生でしょう。

 今回の「寝言」の最大の欠点は法という観点が抜けていることでしょうか。現実の仕事では法一般を考えるという無謀なことはせずに、規制を前提に経済主体に規制がどのようなインセンティブを与えるのかを考えることが多いのですが、規制と私的主体の協調の相違は、やはり強制力の有無でしょうか。ナイーブな意味での経済的自由主義は今日では魅力を失っていますが、公的主体は強制力をもっているがゆえに、私的主体では解決できない問題に解を与えることもできるのですが、同時に、強制力をもっているがゆえに、解を与えるどころかかえって混乱させてしまうことも少なくありません。当たり前と言われれば苦笑するしかないのですが、理詰め動いているわけではない経済を理屈どおりに設計しようとすると、やはりおかしなことが生じてしまいます。これは非常に部分的でミクロの観察ですので一般化することは無理だと思いますが、経済的自由主義は一時的に後退するだろうがそれに代わるものがないという冒頭の結論は、深遠な思想や哲学から導いたものではなく、私自身の観察からなんとなくそうではないかという程度の話です。

 その意味では私自身にとっての経済的自由主義というのは、雄々しい思想というよりも、より消極的な物事への態度という感覚です。間違っても、経済、あるいは社会に積極的にかくあるべしという方針を与えることはありません。物事はなるようにしかならない以上、そういうものだと覚悟して、常によくいえば自由、悪くいえば曖昧さを残しておくということでしょうか。私自身を振り返っても理詰めで行動しているとは思えず、すべて理詰めで行動を決定したら息が詰まるでしょう。そんなちゃらんぽらんなわたくしの延長線上で物事に接するのはわれながらいかがなものかとは思うのですが、やはり人というものに接する際に合理性を否定すること自体は難しい一方で、合理性からはみ出る部分をあえて意識的に残しておくという感覚です。

 まさに「寝言」の極みともいうべき話にお付き合いいただき、「経済的自由主義まで読んだ」という方も少なくないでしょうが、こんな下までスクロールして下さった方には感謝の気もちです。なにかを伝えたいという熱意がないのが恐縮ですが、たまにはお約束でも捧げましょう。

ここは「時の最果て」。すべては「寝言」。

明るく、楽しい日々をみなさまが過ごせますように!
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