2010年03月27日

あるということ 生きるということ

 誠に遺憾ながら、木曜日にて禁煙作戦は一時断念です。第2次作戦開始というところです。単に、意志が弱いだけですが、ふと驚きました。ああ、私はあるということに満足することができずに生きようとしていると。病的かもしれませんが、こうも生への執着というものが根強いことに驚きます。正確には生に執着があること自体、ネガティブなことだとは思っておりません。また、普通は「ある」ということと「生きる」ということは切り離すことができないでしょう。禁煙を中断して、吸い終わって、タバコを含めてなにか生きるということがあるということと別のことであり、まるで虹を追っているようなものだと感じました。厭世感というよりも、生きている自分が他人のように思えて不思議なことをしているものだと驚いたしだいです。

 思えば、子どものときから、何事かをなして何事もなかったようにくたばろうと、おそらくは祖母の死後から生への執着が強くなったのでしょう。あるいは、やや鼻につくのはご容赦して頂きたいのですが、自然と同じく人間や社会にも法則(あるいは主観から独立して成立する規則性)があるのだろうかという問いを高校生あたりで疑問に感じてから、これは普通の意味で生きるということは異なることだとは感じておりましたが、やはり生への執着なのであっただろうと。言葉の通じない人にいくら言葉で説明しても無駄だということがわかりましたが、時々、私は死体になるという表現を用いることがあります。無私というと胡散臭いのですが、死体になって世の中を見ていると、ほーと思うことがあります。ところが、その中身を表現しようと思うと、言葉や数式を用いなければならず、死体でいるわけにはゆかない。もっとも、死んだ形式に直すわけですから、ごく普通の感覚では死んでいるのかもしれませんが。

 しかるに、驚いたことに、米中関係を追っているうちに、ふと、生きようとしている自分の執着に気がついて驚きました。予見を排するといっても生きようとしており、事態をありのままに見ようと欲すること自体、生きようとしているのだと。そこになにか、価値を見出そうとしていること自体が生きていることのなのだと。「寝言」そのものですが、ふと、「生きる」こととは別の「ある」ということがあってびっくりしました。極論ですが、自殺すら、「生きる」ということではないかと。なぜなら、死にたいという衝動に駆られたわけではなく、「生きる」ということから「ある」ということがわかれてしまうと、生きようが死のうがあるということにはなんの影響もなく、いわゆる普通の言葉の意味で「生きた肉体」と「死体」の区別など、どちらも「ある」という点では無差別なのですから。自分でも、あらぬことを書いている自覚はあるのですが、驚いたことに「ある」ということの「ない」というのは区別がないようです。あるいはその区別に到達するまでいっていないだけかもしれませんが。

 私自身が整理できないのですが、「生きる」あるいは「死ぬ」ということが「ある」ということの仮の姿というわけでもなく、どっちにしても、「ある」ということにはなんの影響ももたらさないということに驚いています。そのような「ある」を見ている私はなんなのだろうかと。単に頭がおかしいと言われれば、あっさり肯定します。ただただ、「ある」ということに驚いています。

 ふと思うのは、こんな性癖など病気そのもので、生きる上ではやっかいでしかないということですね。妙な感覚を覚えてしまったものでして、世間一般では重要とされる感覚を欠いてしまう。人非人と言われれば、そんな感じ。まあ、何事もなく朝を迎えたわけですが、世間で価値があるものがわからなくなってしまう。面倒なことに、国際関係がどうなろうが、日本政治がどうなろうがそこに善悪是非などの価値などなにもないのですが、あるように振舞うというのは非常に困難であり、今後、一生、そういうふりを続けるのかと思うと、まったくもって「寝言」、あるいは悪い冗談みたいなものだなと。 
posted by Hache at 06:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言
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