2010年04月28日

レーガン政権の「核なき世界」

 タイトルと無関係ですが、元の切上げに関する議論で不思議だなあと思っていたのは、中国国内の制約をあまりに軽視しているのでしょうが、元の価値が上がれば、中国企業による外国企業の買収は容易になるだろうなと。私自身は、乱暴かも知れませんが、フロート制に移行してしまえば、中国は相場を維持するためのドル買いを行う必要もなくなりますし、現行レートが適正だという主張も、市場に委ねてしまえば、中国が立証する義務を免れることができます。日本では「強い円」のメリットはほとんど認識されることはありませんが(言いにくいですが、日本の通貨政策をめぐる外野の議論は重商主義的な印象すらありますが)、中国はもう少し怜悧かなと思っていましたが、過大評価ですかね。ただ、中国が「強い元」を目指したときには、貿易の分野ばかりが問題になりますが、海外での投資では有利に働く側面もあります。まあ、中国の経済的台頭をおそれるのは感情のレベルではわからなくもないのですが、ある特定の政策を採用して中国が不利益ばかり被る政策というのはあまりないのではと思うのですが。クルーグマンの個人攻撃にいったと思ったら、今度はやはり元の切上げが必要だとなったり、経済に関して中国を不利な立場に置こうとすると、立論が極端にブレて、わけがわからなくなる印象があります。

 それはさておき、核セキュリティサミットではわずか10分の日米の非公式会談ばかりをとりあげるのも、物悲しい印象もあります。他方、オバマの「核なき世界」という理念は、特別、新しいものではなく、レーガン政権のときにも同様の理念が打ち出されました。冷戦期と冷戦後という戦略環境の相違があまりに大きく、両者を同列に扱うことは私自身が乱暴だと思います。他方で、核不拡散とテロリストによる核使用の防止という現実的な政策目標と「核なき世界」という理念は一見、ストレートに対応しているようですが、冷戦後に核武装を実現しつつある国に対する、どのような"implementation"があるのかが私には率直なところ、まったくわかりません。対照的に、レーガン政権では冷戦期において、一方で核戦力の増強を図りながら、レーガン大統領(当時)が核廃絶を打ち出したときには、私自身は大学生でしたが、悪い冗談なのかと思いました。まだ若かったとはいえ、そのような感想があまりに皮相的であったことをキッシンジャーは次のように描いています。

 どんな平和運動家でもロナルド・レーガン以上に雄弁に核兵器の使用を非難することは出来なかったであろう。一九八三年五月一六日、彼はMX大陸間ミサイルを配備しつつあるという宣言をするとともに、どこかの時点で現在の流れが逆向きになり、すべての核兵器が根絶されるという熱烈な願望の表明も併せて行った。

 私はこの種の兵器が双方に存在し続ける限りは、いつの日か愚か者や変質者や、何らかの事故により我々すべての終わりとなる戦争が起こることなく、この世界が我々の世代を超えて、次の世代へと継がれていくとは信じられない。


 レーガンはSDIを推進するに当たっては、あらゆる大統領が受ける官僚の「加筆訂正」を通過してはいたが、情熱的かつ非伝統的なレトリックを用いた。軍備管理交渉があまりに長く続く場合には、アメリカはSDI建設により核の危険を一方的に終了させるだろう。アメリカの科学は核兵器を時代遅れにするとレーガンは信じていた。
 ソ連邦の指導者達は、レーガンの道義上の呼びかけには感銘を受けなかったが、アメリカの技術力と、たとえSDIが不完全な防衛であるにせよ、その戦略的影響を真剣に考えざるをえなかった。一四年前のニクソンのABM提案の時と同様、ソ連邦の反応は軍備管理の支持者が予想したものとは反対だった。SDIは軍備管理の扉の鍵を開けた。ソ連邦は、中距離ミサイルの問題をめぐる、かつて自ら決裂させた軍備管理交渉に復帰した。
 批判者達は、すべての核兵器の廃絶というレーガンの壮大なビジョンは本心からのものでなく、軍拡競争に拍車をかける努力を隠すものだと考えた。しかしそれは、必要なものはすべて達成可能であるというアメリカ人特有の楽観的な信念を表明したものであり、レーガンは本気だった。実際、核兵器廃絶に関する彼の雄弁な発言はすべて、準備なしに行われたのである。

キッシンジャー『外交』下、日本経済新聞社、1996年、468頁。


 レイキャビクの叙述の直前ですが、冷戦の末期であるがゆえに、「アルマゲドン」の回避という当時の特有の感覚を反映しています。他方、SDI(Strategic Defense Initiative)は当時「スターウォーズ計画」と半ば揶揄されましたが、レーガンが核廃絶という理念に心底からコミットしていたがゆえに、ソ連を動かす"implementation"として機能したという描写です。ソ連を動かすことが核廃絶につながるという冷戦期の環境は現代では異なっていますから、今回の「寝言」は昔話でしかないのでしょうが、率直なところ、NPR2010からこのような明確なコミットメントと"implementation"を読みとることは難しいというのが率直な実感です。核不拡散と核テロの防止という、一見、現実的な目標の設定は、おそらく、よくできた作文の域をでないのでしょう。

 レーガンのSDI構想は、より戦略的な意義をもっていました。ニクソン政権下のABM(Anti-ballistic missile)構想に深く関わったキッシンジャーは、この構想がもつ意義を次のように述べています。

 レーガンのSDI提案はアメリカの防衛の基礎に関する議論の痛いところを突いた。核時代以前には、敵の攻撃に対する自国民の脆弱性を防衛の基礎に置くことは非常識とは考えられただろうが、その後、戦略論争は新しい性格を帯びた。その理由の一部は、論争の大部分が全く新しく参加した集団によって行われたことにある。核時代よりも前には、軍事戦略は参謀本部内あるいは軍の幹部学校において練られ、それ以外は、B・H・リデル・ハートのような戦史家を中心とする二、三の外部の評論家の手によってのみ、作り上げられていた。しかし、核兵器の大量破壊性により、軍事専門家の専門性は以前ほど有効ではなくなり、新技術を理解する者は誰でもゲームに参加出来るようになった。参加者の大部分は科学者で、他の分野の若手の学者も参加した。

(中略)

 相互確証破壊の理論は、防御の基礎を自殺の脅威におくことで、戦略理論上の合理性から意図的に逃避した。現実にはそれは、相手が全面核戦争で対抗せざるをえないような挑戦を投げかける能力のある側に広範な利益、少なくとも心理的な利益をもたらした。一九六〇年代と一九七〇年代には、この利益を得たのは明らかにソ連邦の側だった。ソ連邦の通常戦力は一般的に、西側のそれをはるかに上回ると考えられていた。同時に、相互確証破壊戦略は、核戦争が文明そのものを破壊することを確実にしていた。それゆえSDIは、降伏か終末戦争かというどちらも受け入れられない選択を回避しようとする者の間にとくに支持者を見いだした(前掲書、464−465頁)。


 ABMに対する反対の欺瞞性、すなわち、自国民を危険にさらすことが自国を安全にするという、ある種の自家撞着をレーガンのSDI構想は白日の下にさらしたのでした。今日でも、ミサイル防衛に関する批判には、技術的な問題と絡んで、少数ではありますが、同工異曲の意見があることは興味深く感じます。

 当時、いかなる防衛手段もそれを上回る攻撃によって対抗されるという主張が流行したが、それを上回るということは直線的に可能ではないという事実は無視されていた。ある段階までは、SDIはほとんどレーガンが描写した通りに作用するであろう。その後、有効性は段々と減少するだろう。しかし、核攻撃を行うことはもともと高い経費を要することを考えれば、特に攻撃する側はどの目標に向かったどの弾頭が目標に到達出来るかを知ることは出来ないので、抑止力は増大するだろう。そして最後に、ソ連ミサイルの相当数を迎撃することの出来る防衛力は、新しい核保有国による、より小規模な攻撃に対してはさらに効果的である(466頁)。


 あまり私が補足することがないのですが、ミサイル防衛の戦略的な効果の基本が示されていると思います。今日のミサイル防衛に対する疑義というのは、大半は冷戦期と変わらないことを実感します。戦略環境からすれば、中国が第2撃能力をどの程度、確保しているのかという点が問題でしょう。この点で、核不拡散と核テロの防止にあまりに高いプライオリティを置くことは危険な面もあります。核兵器が冷戦以降に「使えない兵器」になったわけではなく、日米戦争における例外を除けば、やはり実質的には「使えない兵器」であり続けました(現状からすれば、使えないがもたないわけにはいかない兵器でしょう)。ミサイル防衛は、第2撃能力をもつ国に対する核使用の費用を高めるというのが第1でしょう。核抑止の問題は、やはり現代でも軽視するのは危険だと思います。第2に、核不拡散に有効な"implementation"を模索する状態が続くのなら、ミサイル防衛の効果は高まります。北朝鮮の核に対してはミサイル防衛がさらに効果的でしょう。イランの核武装に対しても、断念させることができなかった場合、ミサイル防衛がもつ効果はやはり高いのでしょう。

 あらためて感じるのは、「アメリカの戦略核兵器近代化のためにそれほどの貢献をした大統領が、同時にその非合法化に大いに寄与したというパラドックス」(469頁)です。オバマ政権の「核なき世界」を実現するための大方針であるNPR2010、その後の核セキュリティサミットは、理念そのものはレーガン政権と大きく異ならないと思いますが、その手法は実直と言えば実直であり、他方で、レーガン政権のようなダイナミクスに欠けるという点では成否についてはあまり期待できないというのが率直な印象です。



 いわゆる「サイバー空間」における安全保障の問題で、中国が攻勢を強めており、もっと関心を高めるべきだという主張はそうだろうなと。ただ、中国が官民一体というよりも、官民の区別が曖昧であることが強みになっているという点は、同時に弱みでもあるというように思います。今では古い用語なのでしょうが、C3I(指揮・統制・通信・情報)の先進性が米軍の優位の有力な要因であり、この点を覆すために資源を集中できる中国が脅威であるのは間違いないと思います。端的に言えば、弱者の方が強者の痛点を明確に把握しやすく、資源を集中するのは、それほど珍しいことではないと思います。他方、狭い意味での軍事的な合理性からは優れているのでしょうが、統制色が強い軍事が主導の場合、民間の、軍事とは直接、関係のない自発的な創造性は極限まで抑制されるでしょう。また、軍事に資源を集中することは、中国の経済成長が著しいとはいえ、長期的に社会全体の資源を効率的に活用する上で、大きな制約となるリスクもあります。

 軍事の視点からすれば、確かに自由諸国が不利な点も少なくはないのでしょう。他方で、軍事技術の民生化や逆のことなどは自発的な軍と民間の協力関係では活発になる側面もあります。サイバー空間におけるアメリカの軍民の協力自体に反対するというわけではなく、自由諸国には弱みと映る点が強みとなることもあるということを忘れない方がよいと思います。
posted by Hache at 08:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言
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