2010年06月02日

寛容であるということ

 「寝言」を書くと、意外と睡眠時間が減ってしまいます。6月から9月末までは暑気負けが一番、怖くて、睡眠時間の確保がすべての問題に優先します。そんなわけで「寝言」を書くよりも、リアルで睡眠を優先です。メキシコ湾の海底油田の事故関連記事を読む量が圧倒的に多いのですが、4月20日の"Deepwater Horizon"という石油掘削施設の爆発から1ヶ月が経過しましたが、石油の流出を食い止めるのは非常に厳しい情勢が続いています。メキシコ湾の海底油田の戦略的な意義をおいても、この数週間のBPの原油流出に関する"containment"の試みと失敗の繰り返しは、事態が事態だけに当然なのかもしれませんが、あれがダメならこれ、これがダメならあれと、思うように成果が出ない状況で努力を尽くす姿を見ながら、昔は日本でもこのような光景があったのかもしれませんが、最近は少なくなったものだと感じたりします。 New York Timesが2010年5月28日に配信したClifford Krauss and Jackie Calmesの"BP Engineers Making Little Headway on Leaking Well"という記事ではオバマ大統領が次のように述べたとされています。

President Obama, who visited the Gulf Coast on Friday, spoke broadly about the government’s response to the environmental disaster, saying that “not every judgment we make will be right the first time out.”

  He also added, seemingly capturing the mood of engineers working to plug the well: "There are going to be a lot of judgment calls here. There are not going to be silver bullets or perfect answers."


 大統領、あるいは政治家としては上記の発言は適切ではないのかもしれない。ただ、現状を冷徹に見るというのは私自身は、為政者として当然のことだと思うので、ベストの解がわからない状態であることを為政者が認識していることを誰もがわかる形で示すことはやむをえないと思う。問題は、米国世論がどこまで寛容になれるかでしょう。原油の流出量だけでも莫大ですし、沿岸地域に与えるダメージは非常に大きい。海底油田の開発を続けるか否かという問題の前に、原油の流出は既に損害を出しているわけですから、仮に流出が抑えられたとしても、原状復帰は決して容易ではありません。オバマ大統領が窮地に追い込まれる可能性も少なくないと思います。

 最近、「寝言」を書かなくなったのは、読み返して自分でも寛容さということを失していると自分の嫌な自画像を見ている気分になることが多いこともあります。開き直るわけではありませんが、自分自身を見て、お世辞にも度量の大きい人間ではなく、そこらへんをほっつき歩いているオヤジにすぎません。「寝言@時の最果て」のサブタイトルには"Aliis licet: tibi non licet."というサブタイトルを開設した初めの頃から掲げています。ラテン語を碌に解さない者がこのようなサブタイトルを掲げること自体、気恥ずかしさはありますが、「他人がそうであっても、お前はそうであってはならない」という箴言は、常に私とは区別される「私」として置いておかねばならぬ。昨今の社会情勢や政治情勢では、しみじみ自分の凡庸さが沁み入ります。塩野七生さんがカエサルを描いたときに、最も印象に残ったのは、キケロにカエサルが送った手紙の次の一節です。カエサルと自分に共通点があるなどというのは、「寝言」そのものですが、「何ものにもましてわたしが自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである」というカエサルの言に深く共感をしました。もちろん、人物としての比較などはするだけ野暮ですからしませんが、日々、揺れ動く自分を眺めながら、なんと幼稚な人間なんだろうと。実を言えば、私自身も無名の市井の人ですが、ふだんの何気ない会話から、周囲の、失礼ながら、わたしと同じく無名の人がそのような意識をもっていないのにもかかわらず、そのように生きていることに驚きを覚えることが少なくありません。

 「わたしをよく理解してくれているあなたの言うことだから、わたしの振舞いにはあらゆる意味での残忍性が見られないというあなたの言は、信用されてしかるべきだあろう。あのように振舞ったこと自体ですでにわたしは満足しているが、あなたまでがそれに賛意を寄せてくれるとは、満足を越えて喜びを感ずる。
 わたしが自由にした人々が再びわたしに剣を向けることになるとしても、そのようなことには心をわずらわせたくない。何ものにもましてわたしが自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうであって当然と思っている。
 あなたも他の人々もローマに来て、わたしとともにわたしの目指す事業の完成に協力してくれるとしたら、どれほど喜ばしいことか。助言でもよい。忠告でもよい。あなたや他の人々がそれぞれ得意とする分野での協力でもよい。わたしは常に、それが役立つと思えば、誰の提案であろうと受け容れてきた。知識豊かなあなたからのものであれば、その有用性ははかりしれないであろう」

塩野七生『ユリウス・カエサル ルビコン以後 ローマ人の物語
V』、新潮社、1996年、336−337頁。 


 政局の話は私にはわかりません。職場ではそれどころではないということもあって、話題に上ることも少ないです。『日経』を眺めていても、無暗に情報が多く、報道各社のホームページを見ても同様です。私の周囲が変わっているのかもしれませんが、私自身も同じ見方をしていますが、鳩山氏は戦後最悪のリーダーかもしれないが、代わりがそれよりもよいという保証はなく、混迷にさらに拍車がかかるのではないかという意見が多いです。端的に言えば、自公連立政権が持続していたとしても、現在の民主党中心の連立政権であっても、政権ができること以外の安全やカネに関する不安が背景にあり、それを少しでも和らげてほしいというのが政治への要請なのですが、なかなかそうはならず、非常に厳しい状態です。

 上記で書いたのは、為政者の寛容(クレメンティア)です。民主制では統治される側の寛容というものはそれ以上に難しく、重要な意味を時代でしょう。他方、民主制は古代から統治される側が自制と寛容を失うと、機能麻痺に陥ることが多いことを示唆しています。私は以前の「寝言」で昨年の政権交代は「民主主義の失敗」と断じましたが、性急だったと感じております。今日の日本社会は、寛容と自制を保つことが難しくなっている。私自身には、この問題に解があるのかすら、見当がつきません。ただ、このまま本格的な「民主主義の失敗」へ突入するのはあまりにも不確実性が高く、社会的地位が低いなりに、「民主主義の失敗」の傍観者でいるのか、記述者でいるのか、私自身の信条を貫くこと(自己満足)でとどまるのか、私自身のあり方にも不惑でありながら、当惑することばかりです。
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