2010年11月15日

過剰適応

 土曜日の晩が楽しかったので、その話でも書こうかとも思ったのですが、「寝言」とはいえ、私にはまとめる自信がなく、自堕落な生活をしながら、ボーっと考えておりました。1年前にも伺った話ではありますが、今回の金融危機というのは「過剰適応」の典型だなあとおっしゃる方がいて、なるほどと。ネットで検索すると、どちらかというと病的な意味で使われているようですが、そのようなニュアンスはありません。どちらかというと、秀才タイプ(この表現はネガティブなニュアンスも含みますが、どちらかといえば合理性重視というところでしょうか)が、短期的に状況に適応していくうちに、その適応の積み重ねの結果、身の破滅を招くという感じでしょうか。私みたいに能がない人間の表現ですと、短期での最適化行動が長期での最適化を保証しないというところです。まあ、それでもよいよとのことでしたので。金融危機の際には、「金融派生商品=悪」、「金融工学=悪」という風潮が広がったので(大きな問題では実はマスメディアとネットはだいたい同じ方向へ傾くようです)、そういう風潮がまったく間違っているわけではないけれど、少なくとも2006年ぐらいまでは儲かっていたわけですから、後知恵でやりすぎたというのは簡単。ただ、個々の状況に適応していくうちに、前提条件が崩れてしまうと、脆いものだという感じでしょうか。かなりアバウトな感覚的な表現ですので、なんとなくわかった気がするという話に終わる可能性もありますが、学術的な概念ほどぎちぎちではないので、妙な生々しさがあります。

 昔、『サンデープロジェクト』で諸井虔さんが「東大卒をとらない会社は潰れる。東大卒をとる会社は潰れる」と発言していて、妙に印象に残っていましたが、そんな感覚ですかと尋ねると、それもおもしろいねえとのこと。金融商品も最初は意外と原始的だったのが、優秀な理数系の人が入ってくると、経済学程度の数学ではできないような計算が可能になり、商品も高度になってくる。扱える業者も限られていたのが、競争していくうちに(あるいは状況に適応していくうちに)、多くの業者が扱うようになり、ある時点を超えると、計算不可能な世界が現れてしまう。そういえば、噂話でクルーグマン先生は、MITにいた頃、大学院の授業で2×2の行列のデターミナントの計算がパッと出てこずに、日本人留学生にどうやって計算するんだったけと尋ねたそうですから、経済学とかMBA程度だったら、これほど金融商品も複雑にはならなかったでしょうなあとからかうと、「それ、本当?」と突っ込まれました。また聞きなのであてにならないのですが、確かそんな話を聴いたような気がしますねえと。経済学者をからかおうとして、意外と防御が堅い人たちなのねとちょっとだけ悔しい。

 日本のバブルも似たようなもので、手法が単純なだけで、地価が上がると、どんどん融資をして、気がついたら手遅れ。別に金融だけではなく、事業会社でもありそうな話です。その先生によれば、本当にバカだと困るけれど、ちょっと鈍いぐらいがよいそうで、よそはこうやっているけれど、まあ、いいかという無神経さがある方がしぶといようです。ひょっとして、私を励ましてくれていたのかしらん(まあ、バカなので自分に都合のよいようにとっているのでしょう)。なお、店を出たら、結構な時間でしたが名残惜しく、握手をしながら、耳元で「痛風も過剰適応ですがな」(2度、痛風で辛い目にあったそうです)と囁くと、「こやつ!」という反応をしながら目は笑っていたので、また声をかけて頂けるかな。

 それでは過剰適応を避けることができるのだろうかと。これは難しい。人間が賢明ならば、自制するのでしょうが、こればかりは「言うは易く、行うは難し」。「過剰適応」に「気分」とか「はずみ」を加えたくなります。「過剰適応」について日曜日にボーっと考えながら、人間というのは、自分も含めてやりすぎると思った方が、利巧にはならないが、少なくとも、失敗に優しくなれる。ちゃらんぽらんな私も、理性崇拝という病に冒されているのかもしれないなあと思いました。


 この手の話で、「大局観」をもちだす人はあまり信用しないですなあ。第21期竜王戦七番勝負第1局の梅田望夫さんの解説では「大局観の勝利」とあって、まあ、この範囲ならやむをえないかなと。羽生名人と渡辺竜王というトッププロをもってしても、すべての手を読むことはできず、全体を見て、このあたりかなという見通しをもっている以上、まだ可能性は残っているかもしれませんから。ただ、安易に大局観という言葉を使うと、単なる結果論に終わります。大局観も欠点のみならず、限界を抱えている人間がいくら経験を積み重ねても、だいたいのことしかわからず、わからないことをすべて計算しようとするとなにもできないので、こんなもんでしょという感じでしょう。その「こんなものでしょ」が通用しなくなることが最近は増えています。大局観、あるいは自然像、人間像は無意識に変わっていきますし、いくら高齢化社会とはいえ、人間の一生程度ではたかがしれている。人間だから、ポカも多く、経験も限られている。そして、多くの場合には、分析が面倒な人が大局観をもちだす。

 個人レベルでみれば、一生の間でもつ大局観などたいしたことがないということを自覚しておれば、十分なのでしょう。もちろん、個人によって濃淡はあるのでしょうが、大局観など不完全で一生を終えることが大半でしょう。むしろ、不思議なのは、全体を見渡すことができる人物を欠いているのに、社会が長期的に存続することでしょう。過剰適応は、どちらかといえば、やりすぎて失敗するというタイプの知恵ですが、そういう不完全な人間が滅びずに、存続してきて、今でもあるということの方が神秘的ですらあるように感じます。月曜日なので、軽い「寝言」で済ませますが、わかっていないのに世界があり、その世界に私があるということが神秘なのだと思います。
posted by Hache at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言
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