2010年11月28日

魂を絞る勝負

 体調がすぐれないのですが、伊藤之雄『伊藤博文』(講談社 2009年)を読むのが楽しみです。最近は、明治維新に関しては保守的な見方をするようになって、近代化の始まりというよりは、幕藩体制の終わり、あるいは破壊であろうと。司馬遼太郎さんあたりですと、『翔ぶが如く』あたりでは「維新三傑」の死後は、二流の人物が近代国家を建設したように捉えているようです。どうも違和感があって、西南の役で疲弊した国内を建て直して本格的な近代化への国家をつくりあげた人物が二流なのだろうかと。二流の人たちがつくった国家が日清・日露の両戦役を幸運にも恵まれて勝ったものの、欠陥が露呈して日華事変、日米開戦に至ったという単純化はわかりやすいのですが、憲法が変わったとはいえ、憲政という点では戦前と戦後は、軍部の容喙による中断があったとはいえ、戦後にも連続する部分があります。明治期の政治家と比較すれば、戦後の政治家が二流ではあったのかもしれませんが、それでも今日に至るまで機能する枠組みをつくったというのは、驚くべきことだと思います。一般向けとはいえ、検証可能なように、出典が細かく記されているので、いろいろと考えるヒントになる本だなと思います。現在は国民の平均にも満たない人たちがなぜか多数の代表として破壊をしていますが。私は前回の総選挙では少数派を支持しましたので、次の多難な再建の10年となるであろう時期には、多数派の人たちに自制と熟慮を求めたいものだと思います。

 それにしても、すさまじきは第23期竜王戦第4局。最近は、風邪とともに去りぬという爽やかな状態ではなく、回復期にお腹を下してもう大変という感じで消耗していますが、やはりこちらの熱闘も素人ですら夢中にさせるものがあります。中盤も興味深いのですが、プロ棋士の研究など素人がわかるはずもなく、一手一手の必然性、あるいはもっと緩やかな理由などはよくわかりません。木村定跡が存在する古典的な角変わり腰掛け銀が、これほど多彩な変化に満ちているのに驚くばかりです。渡辺竜王と羽生名人でこのシリーズは激しくやりましょうという暗黙の合意があるのか、一日目から駒がどんどんぶつかる展開になって、意味の1割も理解できているのか、まったく自信がもてませんが、素人には楽しい手順でした。

 基本的にプロ棋士の将棋、まして二日制のタイトル戦の終盤など、素人が見てもムダという感覚があります。私程度の棋力ですと、一手違いの大熱戦になること自体が稀で、攻められてばかりでつまらないなあと思っていたら、相手が間違えてうひょひょとなるとか、ガンガン攻めていたら、がっちり受けられて攻めを切らされてやる気をなくすとか、棋譜など残すと恥ばかりというレベルです。しかし、この将棋の終盤はすさまじく、竜王戦中継サイト(参考)の棋譜中継の68手目の解説で畠山成幸七段が「私は2日制の経験がないので、わかりませんが、今までの脳みそと体を絞っての時間帯を通り越して、これから魂を絞る時間帯に入るのだと思います」とチャット解説で述べられていたのが引用されていたのが印象的でした。リアルで1億3000万人弱の命にかかわる、肩書だけはご立派な方々にはなさそうな感覚。将棋という遊びで魂を絞るというのは、見ようによってはそこまでするのかとも思いますが、真剣に遊ぶというのはいみじくも魂を絞るのだなあと強い印象をもちました。

 そんなわけで棋譜の感想をためらうほどの勝負ですが、やはり88手目、後手渡辺竜王の△3四玉が力強いです。国会中継で朝の中継はなかったようですが、予約しておいた11月26日6時からのNHKのBS中継で久保利明王将・棋王が、次に△2五歩とすると先手から寄せる手順が消えますねという趣旨の解説をされていて、渡辺竜王が羽生名人に対して寄せてみせてくださいという手なんだなあと。このあたりは妄想でしかありませんから、感想ですらないのですが、実質的には▲4四金とするより他なく、渡辺竜王がどの局面まで見えていたのかはまったく不明ですが、おそらく互いに最善を尽くして後手の一手勝ちだと見えていたのでしょう。私の棋力では到底わからないのですが、この局面ではたぶん正しいのだろうと思います。しかし、恐ろしい手です。怖くて指せないですね。力強い、印象に残る一手でした。

 ずいぶん手が飛びますが、問題の局面は113手目、羽生名人が▲4五歩としたところ。相手が羽生名人だ知らないとしたら、私のレベルですと、この手を見たら何も考えずに△4五同銀と指すところです。羽生名人だと知っていたら……。10分ぐらい考えて、すみません意味がわかりませんので、負けましたという感じです。ここでの△6九銀が敗着とは……。後手の持ち駒が多く、詰めろをほどくのは容易ではなく、先手玉が危ないと思うのですが、まさかとしか表現のしようがないです。BS中継でみるとこの前から手がバタバタと手が進んで、▲4五歩としたところで羽生名人が席を立っているんですね。深い意味があるとも思えず、難解な終盤戦で一分将棋になる準備というところなのでしょうか。中継を見ていると、羽生名人が戻ってきても、渡辺名人が考えているので、詰みまで読まれていたのでしょう。結果から見れば、▲4四角が詰めろ逃れの詰めろに効いてくるのですが、終盤でそこまで見えるというのは神に近い領域のようにすら感じます(追記:これは筆が走りすぎたかもしれません。BS中継で久保二冠が112手目まで進んだところで次に4五歩もありますかと指摘していた記憶があります。プロならパッと浮かぶ手なのでしょう)。

 正直なところ、第2局までで失礼ながら、番勝負としては興味が薄れるのかなと思っておりました。いやあ、この将棋を見てしまうと、やはり第7局までもつれてほしいなあという邪な考えが頭をよぎりますねえ。両対局者は「魂を絞る」時間を刻んでいるのに、こちらはいくら将棋に集中しても、その領域には届くはずもなく、気楽なものですが、お二人のやりとりは、勝敗を度外視して、美しくすら感じます。もちろん、将棋ですから、相手を詰ますべく、冷静にみるとえげつないことをしているわけですが。現実の「雲の上の人」たちに真剣さをまったく感じない状態では、将棋で真剣に遊ぶ二人の棋譜を眺めながら、一生、縁がない世界だとは思いつつも、将棋以外のことで私も魂を絞る時間を刻む機会に一度は恵まれたいものだと思います。


 さすがに本文では書きにくいのですが、第4局の勝敗はかなりの部分、運、あるいは偶然が左右している気がします。うまく書けませんが、114手目の△6九銀が敗着というのは、その後の展開が示しているわけですから、渡辺竜王が間違えたことが原因だというのは明白なのでしょう。他方、どれほどプロ棋士の研究が進んでも、あるいはコンピュータ将棋の計算能力が向上しても、答えがない世界というのもあるのかもしれません。タイトル戦を見ながらいつも感じるのは、すべての条件を把握していないまま、生きているという現実を将棋という遊びを通して実感させられることです。まったく訳がわからなければランダムに選択するしかないでしょうし、完全に世界を理解していれば生きるということは単に計算するだけになります。その中途半端な私たちがあり、生きるということを描写する手段を私たちは永遠に届かない、「神」の領域なのかもしれません。

 「時の最果て」らしく、とりとめもなく、話を変えます。伊藤之雄『伊藤博文』を読むと、このようなリーダーを意識的な、あるいは制度的な教育で輩出することができるのだろうかと考え込んでしまいます。もちろん、伊藤博文が議会開設、憲法制定で最善を尽くしたかどうかは、本当のところはわからないと思うのですが、驚くほど現実的な判断力、地に着いた実行力、なによりも明確かつ時代の要請にかなった理念をもったリーダーというのは、意識的に育てることは難しいのではないかと感じます。

 「寝言」そのものですが、どうもリーダーの育成というのは偶然に左右されるところが多く、妙に制度化しようとすると、おかしくなるような気もいたします。他方で、リーダーが育つ余地を残すためには意識的な努力も不可欠なのでしょう。私自身は、根本的に歴史に学ぶことはできないのではないかという感覚と「日の下に新しいものなどなにもない」という感覚が平気で矛盾とも感じず混在した状態です。現代というのは、「今」がなにか特別だと感じる、実はいつの時代にもあったかもしれない感覚程度が自意識過剰の時代にすぎないのかもしれませんが、そのような意識から自由になるには歴史というのは非常に有用だと感じるしだいです。
posted by Hache at 16:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言
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