2007年06月06日

「政治とカネ」 勘定と感情

 いろいろな出来事が重なって、書けずにいたことがありました。躊躇う最大の事件は、松岡利勝氏の自殺でした。政治家の「スキャンダル」が世間で問題になる場合、倫理的な問題が大半を占めます。このことから私自身が自由ではないでしょう。「政治とカネ」の問題は、程度にもよりますが、政権交代を招くほどの事態にいたることも少なくありません。私自身は、昔ならば、贈収賄などの汚職、最近では「官製談合」など自体は、形式的かもしれませんが、法に則って適切に処理されることが望ましいと思います。他方で、この種のスキャンダルには「政治責任」の問題が避けられない場合がほとんどでしょう。「政治責任」が問題となる場合、ほとんどは倫理的な問題です。先ほども述べたように、私も倫理的な問題から自由ではありません。率直に言えば、嫌悪感を覚えます。他方で、「政治とカネ」の問題が過度に政治の中で重視されることには違和感を覚えます。政治家特有の職権を利用すること自体は、非難に値するでしょうが、ゆきすぎれば、職権の濫用の結果に比して、「罰」があまりに大きくなることも少なくないと感じるからです。

 テレビを見ないので活字メディアだけで、それも最近は十分に目を通しておりませんが、松岡利勝氏の自殺はさすがに周囲でも話題になりました。私も含めてこの事件で同情的な意見は皆無でした。他方で、農政に詳しい方の中には松岡氏の農政の「構造改革」を高く評価し、惜しむ意見も目にしました。そのなかでとりわけ明快に松岡氏の農政の「構造改革」を評価した上で、雪斎先生はこの記事で、次のように書かれています。「『有能で黒い政治家』と『無能で白い政治家』どちらかを選べといわれれば、雪斎は、躊躇なく前者を選ぶべきであろうと思うのだが…」。私自身も、「有能で黒い政治家」を選ぶ方がはるかによいと思うのですが、この選択は、倫理という点を抜きにしても、非常に難しい問題をはらんでいるように見えます。以下、松岡氏の問題を離れて、この問題について考えてみます。

 「有能で黒い政治家」というのは、カネ以外の要素も含んでいるのでしょうが、「有能」というのは政策立案能力と政策遂行能力を指し、「黒い」という形容詞が指す内容は、カネにまつわる問題が大半を占めるのでしょう。政治から遠い位置にいる者としては、「有能で白い政治家」が望ましいわけですが、残念ながら、麻生太郎外相のように有数の資産家ではない限り、現実には難しいのでしょう。他方で、「無能で白い政治家」というのは、事実上、政策立案はともかく、政策遂行という、素人目には最もお金がかかる分野(分野によっておおいに濃淡があるのでしょうが)でも「無能」なわけですから、どんなに優れた政策立案能力があっても、実際の政治では結果を残すことは難しいでしょう。「無能で白い政治家」よりも「有能で黒い政治家」が望ましいということは、倫理上の問題を捨象すれば、ある程度、納得がゆく話ではあります。

 問題は、「有能」であるということと「黒い」ということが両立するのか否かという点です。政策遂行にあたっては、基本は説得と国務大臣であれば大臣の権限によって利害関係者を政策を実現する方向に誘導するのが基本なのでしょう。しかし、説得にも限界があり、時間を要することもあって、現実には利益誘導によって政策を実現することもやむをえないのかもしれません。具体的な事実にもとづいてこの記事を書いているので、想像に過ぎませんが、「利益誘導」という言葉は、どうしてもネガティブに捉えられがちですが、「利益誘導」を受ける側の利害と政策遂行にあたって必要な措置が一致すれば、言葉による説得以上に効果的な側面があるのではないかと考えております。これも、事例にもとづいた検討ではありませんので、空理空論なのかもしれません。

 この他にも、「利益誘導」が有効な説得の手段となるための条件がありそうですが、私があまりに知識不足なまま書いておりますので、割愛いたします。問題は、「利益誘導」を受ける側の利害によって「利益誘導」を行うことによって実現する政策が本来の趣旨から外れてしまうことです。この場合、「有能」なはずの「黒い」政治家は、政策を実現できないばかりか、政治的資源をムダにしてしまうことになります。多くの場合、「利益誘導」から政治家が私利をえることに非難が集まりますが、それ以上に政治的資源が有効に活用されないことは「無能」となんら変わらない、場合によってはそれよりも悪い事態を招く可能性すらあります。

 私自身は、「政治とカネ」の問題で国会での議論が空費されたり、世論が感情論に流されてしまうことに危惧を覚えます。私自身も、この種の問題では情緒的になることが少なくありません。ただ、「『有能で黒い政治家』と『無能で白い政治家』」という表現を用いるには、「黒い政治家」による政策遂行が、政治的資源のムダを上回る効果を生むことが最低限の前提だと考えます。このような判断に必要な情報が、私自身もそうですが、政策遂行の実務に携わっていない大多数の国民に伝達されない以上、世論が「政治とカネ」の問題で過度に反応すること自体は、ある種の自然現象のようなものではないかと思います。このような世論はしばしばゆきすぎますが、政治的資源の浪費を抑制する側面もあるのでしょう。感情論は感情論であるがゆえに、かえって政策遂行をより効率的に行う圧力となる側面があると思います。もし、これが冷徹な利害計算にもとづかなければならないとすると、大多数の国民に膨大な情報が伝達されなければなりません。仮にこれが実現することが望ましいとしても、膨大な費用と国民の側のやはり膨大な労力が必要になります。もちろん、感情論はゆきすぎるのが常で、必要以上に政治家の行動を制約してしまう危険があります。

 しかしながら、国民の代表として統治にあたる方たちには、「政治資金規正法」改正以上に、世論の感情論をいかに統治の効率を高める「圧力」として活用することを期待したいのです。失礼な話ですが、感情論を宥めるために倫理を厳しくすればするほど、以前に比べれば些細なことがバカバカしいほど騒ぎになる印象がありますので。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/4269064
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック

政治家に求められる清廉さとは
Excerpt: Seasaa系のブログではフリーのテンプレートがかなり出回っているようだ。デザインは前からどうにかしようと思って手がついてなかったが、色々探してこれは比較的気に入ったのでしばらく続けようと思う。面倒..
Weblog: カワセミの世界情勢ブログ
Tracked: 2007-06-09 03:42