2011年04月13日

分権的な社会の危機

 「苛政は虎よりも猛し」を実感する日々ですが、この国の人はよほどおひとよしが多いのか、不思議に思った時期がありました。いつだっただろうと思って、自分で検索してみると、2010年4月17日の「寝言」でした。

 今後、20年ぐらいのこの国の事情を書き残せば、民主制というのはときとして自殺するというトゥキュディデスの仮説を補強する事例となるのかもしれません。この国の人はお人よしだから「苛政は虎よりも猛し」を実感するのにはもう少し時間がかかるのでしょうが。


 無能な人たちを権力の座につけることは、自殺するのと同じ程度に危険だと思うのですが、私の方が神経質すぎるのでしょうか。あまり自分の判断に信をおかないことにしているのですが、どうにもわからない部分が多いです。なにか自分自身が世間様からあまりにずれていて、「あれれ?」となることが多いです。本題の前に、統一地方選挙の前半戦はあまり興味がなかったのですが、意外と早く、愛知県では地域政党が失速して、大阪府では過半数を制したものの、政令指定都市では第一党とはいえ、「公約」の実現は難しいらしい。橋下氏が独裁者になるのは困るという指摘をする方がいたので、非常事態だったら、それもありではないですかと尋ねると、仮に橋下氏がうまくやったとしても、その後、権力を握る人たちが悪用するかもしれないと言うのを聞きながら、またしても首を傾げてしまいます。小泉純一郎氏は橋下氏よりも独裁に近い権力をもった時期もありましたが、その後、どうなりましたかと尋ねると、絶句してしまうので、こちらが困ってしまう。

 大阪府の話から離れてしまいますし、危険思想の持ち主と思われても仕方がない「寝言」になりますが、非常事態に際しては、意思決定をスムーズに行うために、分権的意思決定の制限というのはやむをえない場合があると私自身は考えています。問題は、集権的な意思決定メカニズムに移行したとしても、それに堪えうる担い手がこの島国では極めて稀であるということでしょう。「政治主導」の名の下に民主党は小泉改革とは別の形で集権的な意思決定を進めようとしたものの、どだい、それに堪えうる人材がおらず、これは私も見通しが甘かったと思うのですが、さしもの官僚機構も機能麻痺に陥ってしまう。「苛政」というのは、いわゆる暴君などに象徴される善悪の次元ではなく、まず、実際に分権的意思決定に代わって的確な指示を出すことができるのかどうかという能力の問題の次元で考えたいというのが、いかれた俗人の考えるところです。現状はと言えば、もちろん、私自身は、集権的な意思決定というのは実に厳しいものだということすら理解できない愚か者どもが進めた結果、現時点は集権的な意思決定が必要な事態なのかもしれないのにもかかわらず、実質的には無政府状態に近く、苛政そのものだとなりますが、同意しない意見にも、それ相応の敬意を払います。

 しかし、民主党ほどの無能集団でも、すべてを壊すほどの力はなく、それなりに公的な発信をしている状態がさらに事態を悪化させているように映ります。昨日、ネットで国際原子力事故評価尺度でレベル7に引き上げるという報道に接したときに、なんともいえない違和感を覚えました。どうも自分でもこの違和感をうまく説明ができず、ハッと思ったのが、こちらの2011年4月13日のコンテンツを読んだときでした。確かに、2009年の「デフレ宣言」とそっくりな部分があるわけでして、デフレですよと菅氏がのたもうて、あのときは日銀に対策と責任を丸投げした格好になりましたが、今回は東電かと。日銀よりは世間的には「悪の巣窟」というイメージもあるのでしょうから、あえて不謹慎な表現をすれば、責任転嫁の対象としては上手ともいえなくはないのですが。枝野氏の天下り発言などを見ると、政治的な責任の問題を回避しようという姿勢がミエミエのようにしか映らないです。ただ、こうやって政治がそれにふさわしい責任を回避する姿勢が続く限り、見えない形で日本というブランドは海外で日に日に低下しているわけでして、被災地のことを考えたいのですが、なんとも重苦しい将来しか思い浮かぶことができないです。

 時間がとれないので、リビア情勢を見ていると、内部分裂が目立つNATOで手に負えるのだろうかと。金融危機のダメージは思ったほどではないという楽観的な見方もあるようですが、ユーロ圏の債務問題としてリスクは既に顕在化していますし、オバマの国内的な政治的指導力・説得力も綱渡り状態でしょう。あまりに粗雑な見方だとは思うのですが、アメリカから見て、アメリカ自身が力の限界に達しつつある上に、東も西も分権的な社会が危機に瀕しているのが現状でしょう。他方、WSJは、2011年4月9日の記事で、中国が元のオフショア市場をシンガポールに拡大して元流通のハブを重層化を図っていることを報じています(有料記事の可能性があるのでリンク等は省かせていただきます)。ただちにと言うわけではないと思いますが、現行の国際秩序に挑戦するであろう勢力にとって極めて有利な状態が、今後も続く確率が極めて高いということを忘れるのは、「寝言」のきわみにすぎないのでしょうが、私にはあまりに危険なことだと思います。


 ツイッターで自粛に関する話があったのはもう2週間前です。公共放送が、自粛せずに消費して被災地を盛り上げろと日本政策投資銀行の人が怪気炎を挙げているのを見ながら、自粛というより萎縮しているのではと思うのですが。久しぶりに基礎データ中の基礎データである内閣府のGDP速報で数値を眺めていましたが(参考)、確かに、震災で経済の実体面でも影響が大きいのですが、回復途上といっても、道のりは遠いことを実感します。2007年(暦年)では名目GDPが515兆5,204億円だったのが、2009年には470兆9,367億円と、経済統計の読み方としては邪道ではあるのですが、8.6%(2年間で44兆5,837億円の減少)ほど落ち込みました。2010年は479兆1,791億円と大幅に持ち直しているとはいえ、2010年の実質成長率3.9%の大半は、デフレーターが1.9%も落ち込んだ結果でしかありません。名目GDPの実学を時系列で比較するのは、統計の原則を踏みにじることは重々、承知しておりますが、1992年の水準よりも低い状態では、「景気よくカネを使おうぜ」と言われても、そんな気にならない方がまともではないかと思います。素人的な感覚ですが、金融危機で底が見えないという状態から一息つけるところまできたものの、震災がなくても、萎縮から脱する状態ではなかったと思います。

 復興に要する財源が話題になりつつありますが、日本社会が活用できる様々な諸資源が限られているという認識を欠いていては、人間の欲望に比して限られた資源を有効に活用するという基本的なことができないでしょう。また、危機に際しては、分権的意思決定は、より強い集権的意思決定によって補完されなければ機能しないというのが「時の最果て」の発想ですが、現下の政治システムの混迷は、日本社会の衰退を招きかねない危機そのものだと思います。
posted by Hache at 23:57| Comment(1) | TrackBack(0) | 気分しだいの寝言
この記事へのコメント
何事につけても新しがり屋の日本人が、時代遅れの精神生活を送っているのはどうしたわけか。

日本人には、意思がない。だが、恣意がある。
だから、意思を恣意と間違って解釈することになる。
すると、以下のようなことが起こる。

西洋文化の輸入も、意思がなければ支障をきたす。
意思の自由は考えられるが、恣意の自由は考えられない。
恣意の自由は、<自由のはき違え> となり、自由主義の普及も難しい。
意思は自由主義・個人主義の友人であり、恣意は利己主義は不自由主義の友人である。
不自由を常と思えば不足なしか。

政治指導者の意思決定はなく、その恣意決定は受け入れない。
意思の表明は成り立つが、恣意の表明は成り立たない。
日本人の声明発表はうつろに響く。その形式的な声明には、実行の意思がないからである。
そして、きれい事というか、空理空論には現実対応策が欠落している。ああ、むなしい。

意思があれば、罪もある。
殺意があれば、殺人罪である。
殺意がなければ、たとえ人は死んでも、死刑執行人は罪に問われることはない。

日本人には意思がない。
意思は、未来時制の内容である。
日本語には、時制がない。

意思薄弱とも思える日本人の社会では、意思を確かめることは難しい。
人々は個人の意思を確かめるこなく、個人の恣意に関する察しに専念する。  
察しにたけた人物は、思いやりの深い人間として信頼されている。
だから、裁判員になることについて、日本人には多大な精神的抵抗がある。
罪の意識のない社会では、人々は罪を裁くことを望まない。<責任者を出すな> と叫ぶ。

日本人には、意思 (will) はないが、恣意 (self-will) がある。
成案はないが、腹案がある。
意思・成案を表すのには、文章が必要である。相手がその矛盾を指摘することもできる。
だが、恣意 (私意・我儘・身勝手)・腹案には、文章は必要ない。
恣意的な人間は、言語に不自由をしている子供・アニマル同然である。大和魂の持ち主のようなものか。ど根性か。

日本人が子供に見えるのはこの時である。
周囲のものが指導者の意思を察するのである。ただ意向というか、はっきりしないものを察するのである。
政治家と公設秘書のようなものか。一致団結して阿吽の呼吸でやる。
俺の目をみろ 何んにもいうな 男同志の 腹のうち。腹案がある。共謀関係の立証は難しい。
察しは他人の勝手な解釈であって、いざ罪のありかを定める議論になれば、それでは証拠不十分となる。
意思の存在を認めることのない社会で、意思の有無を確認することは難しい。

腹案の内容は、腹を割って見せなくては知られない。隠ぺい体質の産物である。
それには談合が必要である。小言、独り言の類が語られる。
内容は、決して公言・宣言としては表明されることはない。

恣意を文章にすることは、英米人はやらない。
理性を失うことは、恥ずかしいことだからである。
やれば、周りの者から嘲笑される。
彼らは、'Shame on you!' (恥を知れ) と言って、相手をしかりつける。
だが、これを日本人はやる。この種の恥は、日本人にはない。
これを '本心をさらけ出す' と言い、内々で甘えさせてもらうのである。
相手は、'真意は何か' と尋ねる。
この行為が英米人の日本人に関する不思議である。

恣意的な人間は、滅私奉公により調教された。わが国の伝統的な人間教育は、序列人間を作ることである。
意思を認めることのない社会での責任者探しは難しい。無責任な社会では、それ特有の犠牲者を出さなくてはならない。
だから、日本人は恣意の理不尽に耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで生活する必要があると教えられている。

意思があれば、その内容も明らかにすることができる。
意思の内容に賛同して、協力者も現れる。
恣意であれば、その内容も明らかにすることがでない。
恣意は誰もが嫌うので、協力者が現れることもない。
日本人は、戦争のときでさえ、絶対的な権力者を作ることはなかった。

文章が無くては、議論は始まらない。
無理が通れば、道理が引っ込む。だから、問答無用である。
上下関係で決着をつける勝負の世界である。猿山のサルと同じかな。
自分の(恣)意のままにならぬ相手を切って捨てるところが恐ろしい。

世俗的なものの上下を知らなければ、礼儀正しい日本人になることも難しい。
日本人の礼儀作法は、序列差法だからである。序列なきところに礼儀なし。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

Posted by noga at 2011年04月16日 09:42
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