2007年10月28日

「生きること」と価値

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:それにしても、いつ来ても、ここまでかわらぬとは…。
ハッシュ:ふわあ。なんじゃ、また、おぬしか。
ボッシュ:ワシもとしかのお。おぬしの言葉を聞くとホッとするようになってしまった。なんだか、ここに来ると、すべてが夢のようじゃな。
ハッシュ:まあ、生きていること自体が夢のようなものじゃ。たいていは、終わる頃になっても夢を見たままじゃな。ワシもおぬしもな。
ボッシュ:ワシの一生も、夢か寝言のようなものというわけか。
ハッシュ:そう達観することもあるまい?一瞬、一瞬を真剣に紡いでおるだけで、それ自体が価値じゃ。
ボッシュ:そうすると、生きておること自体が価値ということか?
ハッシュ:…。言いにくいが、おぬしらしくないぞ。生きておること自体が価値だということにしなければ、無価値でも実は同じじゃが、いちいち生きておることの意味を考えねばならぬ。生きる前に意味を問うなど無意味じゃ。生きながら問うたところで、生きているということ以外になにも残らぬ。なにかあったのかね?
ボッシュ:ジパングの老人や若者と話をしていると、ワシにもわからなくなることがある。老いた者も若い者もよその国と比べれば、たいそうよい生活じゃ。にもかかわらず、不平不満が絶えぬ。もちろん、うまくいっていないところを手直しするのはいつの時代であれ、どこであれ必要なことだろう。しかるに、何を不満に思っているかさえ、ワシには皆目見当が付かぬ。ワシはよそ者ゆえ、年金などには縁がない。幸いじゃが、店長がへまさえしなければ、食うに困ることがないゆえ、薄情なだけかも知れぬ。老いた者はもらえる額が少ないとこぼし、若い者はもらえるかどうか不安だらけじゃ。そして不平不満の解決策なるものを聞いていると、あれこれ理屈はこねるが、「ワシは困っている。お前にはカネがある。だから、よこせ」といっているようにしか聞こえぬ。老いた者がもらえるカネが少なければ困るのはまだわかる。働く機会も少ないし、カネをえるのが難しいからのお。若い者は論外じゃな。いずれにせよ、人様からお金をいただくのに、とても説得できる相談ではない。
ハッシュ:おぬしも、店で苦労しておるようじゃのお。
ボッシュ:店でこんな話をされたら、お断りじゃな。こういう御仁はどんな料理を出しても、どんな酒を出しても楽しむということを知らぬ。食事を楽しむというのは、生きる上で最も大切な話の一つじゃ。
ハッシュ:武器から料理へ作るものは変わっても、相変わらず命の賢者様らしいのお。
ボッシュ:ところで、おぬしは食事をするようには見えぬ。いつも、ここで居眠りをしているだけじゃ。楽しみがあるようには思えぬのじゃが?
ハッシュ:ここにいると、「とき」と対話をすることができる。もちろん、意地悪な神様がワシにそのような夢を見させているのかも知れぬ。夢であれなんであれ、楽しみが尽きることはない。
ボッシュ:ふと、思うのじゃが、ガルディアではジパングの人たちは勤勉さで有名でもあり、悪名も高かった。働くこと自体が苦しくとも楽しいと感じるのは、外から見れば奇妙ではあるが、どこかで尊敬に値する感覚があったのだ。ただ、町の集まりに出てみると、そのような人たちは思ったほど多いわけではないようじゃ。他方で、店に来る客人の話を聞いていると、ワシにはとうていできそうもないが実に忙しい様子なのに、そんな雰囲気もない。不思議な話じゃ。
ハッシュ:おぬしの観察が正しいのかは別として、あのデブに話してもらおうかのお。
ボッシュ:あのデブは極楽トンボゆえ、まともな話は期待できそうにないが、ちょっとはまじめなことを考えるのにはちょうどよい話じゃな。まあ、好きにしたらよい。ワシは、海外に用があるから、しばらくお休みじゃ。そろそろ、お暇じゃな。
ハッシュ:それは、それは。また、おいで。

 ……。上海馬券王先生をからかっていた祟りでしょうか、私の苦手な話を振られてしまいました。賢者様たちには申し訳ありませんが、身近な話でまいりましょうか。

 この数ヶ月、慌しいあまり、床屋にも行かない状態でしたが、あまりの不精さにただでさえひどい顔がいっそうひどいので、閉店間際にギリギリセーフ。床屋のお兄ちゃんが「最近は、(理髪関係の)専門学校に大学生が来るんですよ」と言うので、さもありなんという感じ。私の知り合いの営業マンなどは逆FA宣言をして「君の仕事は10億単位だからもっと若い人もつけようか?」と上司に「援軍」を送るありがたいお達しに、「役立たずを送られても、能率が落ちるだけですから、真っ平御免です」と答えたとのこと。格差がどうたらこうたらという話が絶えませんが、高等教育への進学率が52.3%と高い水準で(文部科学省「教育指標の国際比較」)、理科系のように専門性が高い分野は別として余計なことばかりできる期間が長くなり、あまり生産的ではない印象もあります。生きる前に価値を問うような人が増えれば、国もおしまい。もっとも、韓国のように90%を超えるとなると、余計なお世話でしょうが、人を育てる私的・社会的な費用が非常に重くなり、大変だろうなと思いますね。

 年金の話はわかりませんが、高齢者の方々が「第二の人生」にどのような意義を見出されてゆくのかは、私の想像のおよぶところではありませんが、生きていることそのものが価値であるという発想が難しくなっている時代なのかもしれません。両親を見ていると、とても自明のこととは言えそうにありません。そういうことにしておくというのが日本人の知恵ではあるのですが、なかなか難しい時代です。

 仕事柄、「事実」から「価値」を峻別することに注意を払わざるをえませんが、言われてみれば、実際の人間では渾然一体となっているのが自然で、両者をいちいち区別していては、生きること自体が苦痛になるのでしょう。話が飛躍しますが、分権的社会というのは人の数だけ「価値」を認めるようなもので、私自身はこのような社会のありように満足しておりますが、「思い通りにならない現実」そのものを否定したい衝動に駆られる方が無視できない程度にもいるようです。分権化が進めば進むほど、個人が全体に及ぼす力は小さくなり、「理想」でもって社会を改造しようとすることは困難になるのでしょう。もっと言えば、理想そのものが卑小になってゆく。「思い通りならない現実」というのは他者性から生まれると考えがちですが、実は、相互作用の中でしか生きてゆくことができない現代人のありようそのものだというのが、「時の最果て」のスタンスです。
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