2007年12月24日

無限に広がる合理性 そして反発

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:久しぶりだが、相変わらずだなあ。それにしても、よく寝ておる。
ハッシュ:ふわあ。なんじゃ、また、おぬしか。
ボッシュ:いつ来ても、変わらぬ景色、変わらぬセリフ。感動するぞ。
ハッシュ:……なぜ感動するんじゃ?
ボッシュ:……皮肉の通じない御仁じゃ。何度、来てもだな、おぬしが寝ていて、ワシがしゃべると、目を覚まして、「なんじゃ。また、おぬしか」で始まる。これだけ同じ状態を見てしまうと、おぬしがふだんと違うことをしゃべる方が怖いぐらいじゃ。久しぶりだがな。
ハッシュ:久しぶり?
ボッシュ:10月だったかな。それ以来のはずじゃ。
ハッシュ:よくわからぬが、間が空いていたということかね?
ボッシュ:あのデブは間が抜けておるが、こちらは間が空いたというわけじゃ。
ハッシュ:そういえば、この前は海外に行くとか言っておったではないか?
ボッシュ:もう店はワシがいなくても回るし、ワシができることといえば、ガルディアのワインの確保ぐらいじゃな。ココにとばされる前には見ておらなかったところも見てきたし、満足じゃな。今日は、クリスマス・イブとやらで店も貸切なんだが、ワシも飲まされるので、逃げてきたというところじゃ。それにしても、年をとると、酒がこたえる。ところで、あのデブはどうじゃ?
ハッシュ:まあ、相変わらずというところかな。ない頭をひねってはああでもない、こうでもないとまるで進歩がない。考えても、あのデブの頭で考えることなど「寝言」にすぎんのだから、やめてしまえばよいのにとも思うが、執念だけはあるようじゃ。
ボッシュ:たいてい無意味なだけだと思うが。それにしても、なにをそう思いつめておるんじゃ?なぜ痩せないのかとかなぜもてないとか考えてもムダだな。それはそれ、運命と思うに限る。
ハッシュ:それが言いにくいんじゃが、そういう自分のためのことを考えればよいのに、どうもそうではないから変なデブじゃ。この前も、少しだけ記憶をたどったら、経済がどうたらこうたらで頭が一杯だったな。
ボッシュ:……。あのデブはじゃな。人様のお金の心配をする前に、自分の預金通帳の残高の寂しさを心配するのが先というものじゃ。あるいは、あのデブが息をするたびに二酸化炭素を吐き出す。環境破壊そのものじゃ。それに見合うぐらいの仕事をしておれば、まあ、生き続けてもよい。
ハッシュ:これは笑ってはかわいそうだが、自分の考えが正しいということを保証するのはなんだろうと考えが進まないらしい。だいたい、あのデブが生きているということ自体、なにかの間違いだということまで考えが至らないようじゃな。
ボッシュ:……。ワシもひどいことを言っておるが、そこまでは言っておらぬぞ。
ハッシュ:今年の始まりにもあのデブに考えさせようとしたんだが、どうもダメだな。あのデブが生きておること自体が悪い冗談じゃ。あのデブがくしゃくしゃとピザを平らげている間にも、飢えで死んでゆく者がおる。時の最果てにおるワシですら、簡単に気づくことにまるで鈍感じゃ。
ボッシュ:今日は、ワシの役をおぬしがしておるような気がするな。それにしても、自分の考えが正しいかどうかを考えること自体が事実であることを保証するものなど何もあるまいに。あのデブの脳内で起きていることが事実であることを保証するものなど誰もおらぬ。
ハッシュ:……。言いにくいんじゃが、ワシは追体験とはいえ、あのデブの考えを見ることができる。もっといえば、あのデブだけではなく、おぬしの考えも含めて、ココに来たことのある客人全てのな。
ボッシュ:ということは、おぬしはワシたちの神ということか?この手の話を神抜きで進めようとすると、気が狂うか、話をごまかすか、逃げるか、居直るか、どれでもよいが、なかなかに難しい。
ハッシュ:いや、ワシが客人の考えを追体験できると思い込んでいるだけで、疑い出せばキリがない。こういう問いの答えなど人の数だけ合ってよいのだが、そうもゆかぬというところが悩ましい。
ボッシュ:ワシには訳がわからんのじゃが。人の数だけあるというのではダメかね?
ハッシュ:人の数だけあるということを保証するのは何じゃという問題があって、あまり問い詰めない方がよいのじゃが。特にあのデブはな。あのデブは「個人主義」と呼んでおるだが、実に底の浅いことしか考えておらぬ。まあ、ないなりに頭を使うこと自体は金もかからぬし、趣味としては安上がりじゃ。
ボッシュ:ワシにはようわからんのじゃが、あのデブに考えてもらうとするか。はあ、そろそろ戻って、残り物を少しだけ頂くことにしようかのお。それでは、お暇じゃ。
ハッシュ:また、おいで。

 珍しく静かな話ですな。書記係としてはもう少し短くしていただけると、助かるのですが。クリスマスというのは、一人暮らしをするようになってから特別な日ではなくなりました。年齢を考えると、プレゼントに悩んでいなくてはならないのですが。

 そんなわけで、今日はデカルトの『方法序説』とハイエクの『隷属への道』をボーっと読んでおりました。ハイエクの方は、西山千明氏による訳(春秋社 1992年)ですが、悩ましい文章があります。

 誰も、すべてを包括する価値尺度を持つことができない、つまり、入手可能な資源を競って求めようとしている、人々の無限なまでに多様なニーズを、完全に把握し、それぞれに価値づけを与えることは、どんな人間にもできない、と指摘するだけでは不十分であろう。また、今問題にしていることに関するかぎり、その個人が実現しようとしている目的が満たすのは、自分だけのニーズなのか、身近な人々のニーズなのか、あるいはもっと一般的な人々のニーズなのか、ということ――も、さして重要なことではない。
 きわめて重要なことは、どんな人間であろうが、限られた分野以上のことを調査することや、ある一定の数以上のニーズがどれだけの緊急性を持っているかを考慮することは、不可能であるという、基本的な事実である。自分の物質的な必要にしか関心のない人であれ、すべての人間の福祉に熱い関心をもっている人であれ、考慮できる目的の数は、全人類のニーズ全体に比べれば、きわめて微小な一部にすぎないのである。
 まさにこのことこそ、個人主義の全哲学がよって立つところの、基本的な事実である。個人主義哲学は、通常言われているように、「人間は利己的でありまたそうあらねばならぬ」ということを前提としているのではなく、一つの議論の余地のない事実から出発するのである。それは、人間の想像力には限界があり、自身の価値尺度に収めうるのは社会の多様なニーズ全体の一部分にすぎないということである。また、厳密に言えば、価値尺度は各個人の心の中にしか存在しないから、常に部分的なものであり、それぞれの尺度は、決して同じではありえず、しばしば衝突しあうものとなる、ということである。だからこそ個人主義者は、ある範囲内で個人は、他者のではなく自分自身の価値観や好みに従うことが許されるべきであり、その範囲内では、自身の目的体系が至高であって、いかなる他者の指図の対象ともされるべきでない、と結論するのである。個人主義者の立場の本質を形成しているものは、このように各個人こそが自分の目的に対する究極的審判者であるとする認識であり、各個人はできるかぎり自身の考えによって自身の行動を左右していくべきだという信念である(前掲書 73−74頁)。


 おごり高ぶっているように響くかもしれませんが、最初に読んだときにあまり目新しく感じませんでした。あまり深い意味はないのですが、デカルトを読みながら、あらためて自分がちゃらんぽらんな人間であることを深く自覚します。「私は考える、それ故に私は有る」(落合太郎訳、岩波文庫、46頁)という背後に広がっている世界のなんと広いこと。そして、無限を志向する合理主義と合理主義の「傲慢」への反発としてのハイエク流の個人主義が私の中で雑然と存在していることを感じます。

 この「雑居」が好ましいとは思えないのですが、少しだけ自分の時間をとることができるようになりましたので、ちょっとだけ寄り道をしてとても一生かかっても、どれほどの「世界」を見ることができるのか。私にとってはデカルトが「旧友」であり、ハイエクは、あくまで『隷属への道』程度ですが、大人になってからの「お友だち」ですが、両者の折り合いは、私にはあまりに難しく感じます。本当は私なりの「流儀」を確立したいものですが、「雑居」のまま終わるのかもしれないと「世界」の広さに呆然とした一日でした。
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