2014年07月09日

『ぷよm@s』part34

 『ぷよm@s』の感想を書くようになって、初めて感想を書くべきか、真剣に悩みました。迷ったことならあるのですが。内容に不満があるとかですと、スルーして終わりなのですが、そうではなかったので。この動画を見始めてから、長い常連ではないものの、新参でもなくなってきていたのに、鱈Pの制作の動機とか、最初は意識していたと思うのですが、いつの間にか、忘れてしまっていたなあと。鱈Pによる動画説明文を読んでしまうと、解説とか無粋に思えてしまうのですよ。

※ぷよm@sを見て初代ぷよを始めた、興味をもったと言われることほどうれしいことはありません。タラはそういう人たちと遊んでみたくてぷよm@sを作っているのです。
というわけで「タラPとぷよろう生放送inBぷよ」を7月11日22時からぷよm@sコミュでやることにしました。初心者でも遊べるようなルールを用意して待ってますので、ぜひ下記のBぷよをダウンロードしてお越しください。




 思えば、まだ生き残っていたSFCで初代ぷよぷよに熱中して、どうにかこうにかサタン様を倒せたのも、『ぷよm@s』があってのことでした。連鎖がこんなに楽しいということを感じるきっかけになったのも、『ぷよm@s』があってのことでした。もちろん、動画を見て楽しむのはありなのですが、SFCが故障してから初代から離れてしまい、いつの間にか、Bぷよもやらなくなったまま、『ぷよm@s』を見て、批評もどきのことを書いているだけになりました。

 自己批判みたいな幼稚なことはしないのですが、自分でも一番の楽しみを忘れていたなあと。私レベルの初心者・初級者レベルでは上級者のプレイを見ることは勉強になるものの、まず自分が手を動かしていないと、すごさの一端もわからなくなってしまいます。将棋も似たような感じでもやもやしていました。やはり、自分自身が動かしてこそのぷよぷよの楽しみなんだと思いました。早速、Bぷよでプレーしましたが、残念ながら、4連鎖シングルが限界で、苦笑いです。それにしても、part34ほど初代のゲーム性の特徴を実感させられる動画は数が少ないと思います。凝視能力が欲しいとか、勘違いをしていたことを実感させられる動画です。なお、続きは多少ですが、ネタバレを含みますので、クリックする際にはご了承下さい。


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2013年07月30日

入院のお知らせ

 8月19日から副鼻腔炎の内視鏡手術のため、1週間程度、入院いたします。先週、副鼻腔を中心としたCTの結果が出まして、鼻ポリープで鼻汁が溜りやすくなっているとともに、副鼻腔の大部分に膿がたまっている状態なので、一度、きれいにしましょうとのこと。手術の説明を受けていると、眼窩のすぐ近くまで副鼻腔が広がっているので、病気そのもので死ぬことはまずなさそうですが、失敗すると、生きる気力がなくなりそうな話でびっくりしました。全身麻酔をかけるので、喘息の既往歴があるため、念のため、今週に免疫リュウマチ科で診察を受ける予定が入るなど、やや疲れております。実は風邪も症状が改善したと思いきや、のどの痛みとせきがしつこくて、ほとんど集中力がありません。

 しばらくは静養したいのですが、それもかなわず、厳しい日々が続きます。
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2011年11月07日

訂正とお詫び

 ・・・みたいな。さんのご指摘で、英語表記ではPapandreouなのに「パパレンドウ」と表記していたことに気がつきました。11月6日と7日の「寝言」で「パパレンドウ」と表記していた部分は「パパンドレウ」に書き換えました。誤りが残っていた場合も、とくにお断りなく訂正させていただきます。「なんだかややこしいユーロ圏」(2010年2月12日)という「寝言」と「ドービル協定の破壊力 ユーロ圏の憂鬱」(2011年1月8日)の「寝言」ではパパンドレウ首相と書いているので(こちらは手を加えておりません)、昨日と今日の「寝言」では勘違いをしていたのですが、最近になって、なぜ「パパレンドウ」と書いたのかは自分でも謎です。

 人名表記の誤りは問題を理解していないとみなされてもやむをえないミスです。訂正を行い、お詫び申し上げます。


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2011年03月03日

デザインの変更ほか

 うーん、どこぞの新聞が都内の高校生が入試問題を掲示板に投稿したと昨日の午後の段階ではあって、意外と速いのねと思っておりました。帰ってきたら、東北の方とのことで、どうも最初の方の記事から某巨大掲示板群がソースじゃないかなと思っておりましたので、あまり信用がおいていなかったのですが、はあという感じ。たぶん、ネットで受けるのを狙うと、見事にこけるという典型例ではないかと思います。この件は、手口などがおいおい明らかになるでしょうから、こちらでは報道が入ったら取り上げるかもというぐらいでしょうか。あとは、それなりに有益な情報が入る方ではありますが、最近はNHKと『朝日』の悪口ぐらいがやたらと目についたのでフォローを外しました。10年ぐらい前には定番ネタでしたが、飽きてきましたし、将棋を見るのにNHKは欠かせないし、名人戦を『毎日』一社では無理だしなあというとんでもない理由。なんとなく思うのですが、40を過ぎたら、同業他社の悪口というのは控えようと。元々、悪口を言うのは苦手なのですが、どうも年をとると、自分を伸ばそうとするよりも、他人を低く見ようとする傾向が強くなるようなので、的確な指摘ならば、批判に値すると思うのですが、そうでなければ悪口でしかなく、私自身は興味がないというところでしょうか。

 本題は別にあるのですが、ブログのデザインを大幅に変えました。前のデザインもお気に入りではあったのですが、いかんせん、右サイドバーですと、写真や表を挿入すると、バーがかぶってしまいます。仕様でピクセル単位で文字のサイズを指定しておりますので、表はなんとかなる場合が多いのですが。「悩ましい地方政治」という「寝言」では、極めて原始的な方法で表を挿入しておりますが、さほど支障はありません。ただ、サイドバーが左の方がやはり見やすいなあと。あとは、読者軽視の「時の最果て」とはいえ、携帯からのアクセスがユニークアクセスの20%を占めるという、自分でも信じがたい状況です(過疎地でさらに過疎化させるべく、本音を書きますると、「寝言@時の最果て」なんてサイトを自分でモバイル端末から読もうなどという気が起きませんのですが)。

 前のデザインもシンプルでしたが、仕事をしながら、白地に黒の文字というのは読みやすいようで意外と疲れるので、背景を前から変えたいと思っておりましたが、うまくいかず、こっそりアクセス数が少ない時間帯(過疎地とはいえ、ピークとオフピークが一応ありますので)に少し試しておりましたが、一気に変えてみました。本文の文字のサイズをもっと大きくしたりとか、見出しのフォントサイズを大きくしたりとか、試行錯誤をして、とりあえず、今のデザインに落ち着きました。ブックマークのツールバーも管理画面で表示可能で、試験的にツイッターとライブドア、はてな、Facebookを表示してみましたが、一週間で利用された形跡もないので非表示にしました。まあ、情報発信には程遠いので、クリップする奇特な方もいないでしょうし。過疎地ですので、ご意見がございましたら、お気軽にどうぞ。


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2010年12月28日

長かった2010年

 年末の雑談モードです。35歳を過ぎたあたりから、もう一年の終わりか、速いなあという年ばかりでしたが、今年はとてつもなく長く感じました。歯の治療をしていたことも大きいのでしょうが、時間がたたないと解決しない問題が多く、基本的には私の力量不足が原因ですが、これまで以上に時間がことを解決するという類の問題が多かったように思います。「なまもの」を書くことが増えたことも大きく、11月ぐらいから時事ネタは書くのが難しくなりました。たいした中身はなく、多くはワシントン・ポストの記事を訳しているだけなのですが、私の力量不足が大きく、「寝言」とはいえ、自分自身が納得するためには睡眠時間をかなり削らざるをえませんでした。同時に、晩秋以降、組織内部の機微にかかわる仕事の比率が上がったために、必要以上に神経質になってやや病的な精神状態が続いていたようにも思います。タフさがないのにもかかわらず、人生裏街道を歩いている中年男というのが自己評価になりますでしょうか。

 他方で、海外の報道を見る時間が増えたことが大きいのでしょうが、金融危機後の世界を見て回りたいという欲求もあります。小学生時代に「石橋を叩いて壊す」と担任の教師に評さた性格はやはりどこかで今でも残っていて、金融危機が収束したかという問いには慎重になります。ショートステイでは物見遊山と変わらない一方、一年間を海外で過ごすにはまだ健康に不安が残る状態なので、来年は本格的に海外へ出る準備にあてられればなあと思います。やはり北米が望ましいのですが、厳しいかもしれません。他方、職場のアメリカ人と会話をしていると、語学力は絶望的なのですが、彼らの楽天さや開放性に接すると、私はやはり島国の人間なのだなあと感じます。要するに、細かいんですね。私でさえも。これを直そうという気概はないのですし、他方で、それを自己主張しようという気概もないので、傷ついたアメリカがどのように復元力を回復していくのか、断片的な話に留まるとは思うのですが、なにか見守りたい気分にもなります。あまりブログのようにインターネットで公開されている場で書くことではないのですが、クラシックの趣味からすると、やはりヨーロッパを20年ぶりぐらいに訪ねたいという気分もあるのですが。

 まだ、年内に「寝言」を呟く(ツイッターは短すぎるので私には無理でタイムラインを眺めているだけですが)かもしれませんが、思った以上に仕事で必要な計算が厳しいので、これが年内最後の「寝言」になるかもしれません。老眼様とカワセミ様からコメントを賜り、このような対話が成り立つことはやはり嬉しいものだと思います。年末ですので、ご覧になる方も少ないでしょうが、鄙びた「時の最果て」にお越し頂いた方々に捧げます。

ここは「時の最果て」。すべては「寝言」。

よいお年を!


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2010年01月01日

K.550

謹んで新年のお慶びを申し上げます

旧年中は御厚情を賜り厚く御礼申し上げます

本年もご指導のほどよろしくお願い致します

 まあ、年が替わってなにが嬉しいのか、実感がないので、真心がこもっていないのはご容赦のほどを。いよいよ、40代に突入して「不惑」となるはずですが、なにもかもが新しく見えて、困惑する毎日です。

 年末年始がありがたいのは、うまい酒が飲める(これを続けたら、破産しますな)こととよい音楽に耽溺できることでしょうか。いつもはのんべえと過ごすのですが、さすがに体力がついてこないので、適当にやりすごして帰ってきました。体力がついてこないというのもありますが、大晦日から元旦にかけて聴いていたモーツァルトで腰を抜かしたからです。完全に酔っぱらうと、最近はアルコールの消化が遅いので困るのですが、あの感覚を忘れてしまいそうなので、早めに切り上げて、K.550モーツァルト「交響曲第40番」)を再度、聴いてみました。やはり驚きです。

 K.551(モーツァルト「交響曲第41番」)から聴き始めたのですが、不覚にもあまりに美しく落涙してしまいました。第2楽章でふと涙腺が緩みましたが、聴きなおすと、秘密が一杯ありそうです。ちょっとK.551は手に負えないので、今回はK.550に話を絞ります。

 この曲は小林秀雄の「モオツァルト」で「かなしみが疾走する」などと書かれてしまったせいか、海外でもさほど変わらないのかもしれませんが、ト短調ということもあって悲劇的な音調として解釈されることが多いようです。最初に40番を聴いたときには、チャイコフスキーやブラームス(どちらも竜頭蛇尾構成が多い)よりも悲しい曲だと感じましたし、小林の評論を読んでそう思いました。あれ以来、悲しい曲というイメージで、ひとまず落ち込んで立ち直りの機会を待つときに聴くといういかにもすちゃらかな扱いをしておりましたが、2010年に聴いた40番はまるで異なりました。41番の第2楽章がほとんど途切れても不思議ではないぐらい繊細に音がつながってゆくのを耳で追いかけていると、不思議なぐらい、安定しているのを聴きながら、あまりの美しさに涙が枯れてしまったからかもしれませんが。第2楽章でこれをやった後で、第3楽章、第4楽章はほとんどモーツァルトがやりたい放題という感じでしょうか。

 それはさておき、K.550です。第1楽章の冒頭部分を、日産かどこかが1990年代だったと思いますが、CMで使っていたので、クルマのCMにはどうかなあと感じたのを思い出します。もちろん、悪い曲というわけではありませんが。ここも奥が深くて、珍しくスコアを見て確認しましたが、かすかにフライング気味でヴィオラが鳴り、ヴァイオリンが主題を提示するのですが、最初の総休止までヴィオラがむしろ主役にさえ、響きます。総休止の後、ヴァイオリンがはっきりと主役になりますが、ひたすらヴィオラが支えているという不思議な構図。スコアを見て、この曲全体がひょっとしてと思ったのですが、いきなり第4楽章にとんでみましょう。

 有名なアレグロ・アッサイですが、現代では前衛的という表現は手垢がついてしまって好まないのですが、あえて言葉に直すと、アバンギャルドとしかいいようのない過激さです。「優雅と激情」とかありきたりの表現で逃げておいた方が精神衛生によいだろうなというぐらい、複雑です。逃げ場がなくなるぐらい技巧的で、あらためて驚きました。今年、初めて聴いたときには途中でどう終わらせるのだろうかと不安になるぐらい。再度、聴き直して、まるで剣舞の達人が王なり公なり高貴な方の前で即興で踊ってみせよと言われて、刀をぎらつかせずに(短調という粉飾)、同じ動作を逆送してみせたり、途中でポンポンと調子を変えたりと、どこかで破綻しそうなのに基本の動作にとことん忠実なので、思わずみとれてしまうような妖しさがあります。

 どこかでベートヴェンと「対決」する必要がありますが、間違いなくロマン派のブラームスやチャイコフスキーが真似をしたら、破綻しそう。そうでなくても、途中からだれているとしか聴こえない曲が多く、たぶん終わりを考えずに作曲をしているからではないかと思いますが、恐ろしいことに、第4楽章は最初から最後まで響いた後で書いているとしか思えない出来栄えです。シューマンのシンフォニーもあやふやですが、作為なのか不作為なのかわからないのですが、似たような試みをしていたと思いますが、やはり無理。これは終わりを響かせるのが難しい。ロマン派の人たちが収拾がつかなくなって強制終了してしまって、「あれっ?」となるところを無理なく「剣」を置くあたりに凄みを感じます。

 再度、スコアを見ながら第1楽章と第2楽章を聴いてみると、やはりカギはヴィオラですか。音楽の「正しい」聴き方というのはないので、K.550に悲しみや苦闘を見出すのが間違っているとは言いませんが、やや異なるような。第2楽章は、つい緩徐楽章として聞き流してしまうところですが、これまた技巧的だなあと。ヴィオラが支えているうちに、ヴァイオリンと木管が絡んで、実に自由で美しい。しかも、K.551と比較すると、はるかにくすんだ音色を目指しているようで、展開部があまりに繊細ですので、ロマン派以降が目指した官能性よりもはるかに官能的ですらあります。聴いているのが、ベーム指揮のウィーン・フィルで1976年ですから、実に抑制的な演奏ですが、やはり完成度が高いなあと。

 第3楽章は形式的にはメヌエットだけれども、もはやメヌエットではないという評価が一般的なようです。確かにそうなのでしょう。この曲で踊るというのはちょっときつい。というのはトリオの部分で、木管があまりに軽くなんでもないかのように、第2楽章とは異なりますが、優しく囁くあたりはロココの繊細さと同時に自由すぎて、ホルンがさらに絡むと、あまりの美しさにイってしまいそうです。「かなし」を感じるのが難しい。ほとんど官能的といってよい音楽なのですが、まったく退廃の色がないのが素晴らしい。K.551を「ジュピター」と呼んで男性的と解釈してしまうと、K.550をどうしても色眼鏡をつけた状態で聴くことになってしまうのでしょう。メヌエットの切れ切れのようにさえ響く官能の底にあるのは健全で逞しい魂ですね。これは参った。徐々に聴き手の耳を慣らしながら、アレグロ・アッサイを披露するモーツァルトは偉大な創造者であると同時に、教育者であったと思います。


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2009年01月01日

寛容と忍耐と

 謹んで新年のお慶びを申し上げます。本年も、昨年に引き続き、「時の最果て」のさらなる過疎化に努めてまいる所存です。


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2008年09月29日

事務連絡(コメント・トラックバックに関して)

 書き落としておりましたが、2008年9月26日以降の「寝言」に関しては、コメント・トラックバックを受付後承認という形式にしております。問題のあるコメント・TBがあったことが理由ではなく、管理不能の状態になる可能性があるので、念のために承認制にしております。呼吸は座っていると少し息が上がる程度ですが、足萎えがひどくなっており、前回とは異なる症状を呈しているので、警戒モードです。なお、それ以前の「寝言」に関しては、さくらインターネット社のサービス仕様で個別の記事ごとに設定を変えなくてはならないので、中途半端ですが、放置しております。まあ、PCの前にまったく座れなくなる確率自体は低いとは思いますが、無視はできないので念のための措置です。
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2008年04月24日

「寝言」は「寝言」

 昨年、愛読していたブログが2箇所、停止になりました。このときはいろんな人が事情を含めて語っておりましたが、私は沈黙しておりました。自分でも、こういうときに気の利かないことを書いてしまうことがあるという自覚がありましたので。今回も同様です。

 ふと思うのは岡崎久彦さんが20年前後前の著作で日本人には情報にカネを払うという感覚が希薄だと嘆かれていたことです。20年たった今、情報は氾濫するぐらいありますが、志の高い方はいらっしゃるものの、ネットで「市場」が成立するには参加者の厚みが足りないような気がいたします。私は論外ですけれども。

 さて、なんでブログなるものを続けているのかと問われれば、とくに理由もなく、あることがらについて掘り下げて情報を発信しようとか、政治に限らず、なにか主張したいこともなく、どちらかといえば、私怨・私憤の類を本業で巻き散らかさないよう、私怨・私憤の類を「寝言」、あるいは悪い冗談としてネットで吐き出しているという感じでしょうか。失礼な話ですが、この方とちょっとだけ共通する部分があるのかもしれません(「きょうの人間力」の履歴を残していただけるとありがたいのですが。とくに、塩野七生さんの話しあたり)。まあ、20代にそれなりに辛酸をなめて30代になってちょっとは安定してきたかなという感じで、最近は堕落する一方です。

 というわけで、書き続ける理由はなく、明日、やめてもいいなと思っております。他方、やめるべき理由も見当たらず、なんか書きたいなと思ったら、適当に書き散らしている、そんな感じです。気がつくと、なんと7日間も連続で更新していますが、これも目標があってそうなったのではなくて、なんとなく書きたいからというのが正直なところ。次の週あたりに更新がなかったら、「寝言」が浮かばないか、単に体調が悪いか、普通の人からすれば簡単なことでしょうが私にとっては「激務」に追われているか、もっと簡単に面倒なだけでしょう。出発点がもともと低いと、そんなものだ。

 ただ、そんな私でも自分の「心が折れる瞬間」を想像することはできます。ブログのアクセス解析でPVが10,000万の大台を超えるとか、忍者ツールのアクセス解析で訪問者数が1,000の大台を超えるというのが目安です。たとえば、この「寝言」などは、読んだ途端に読者の方の心が折れてアクセス数が減るだろうという下心があったりします。遺憾ながらバカ丸出しの「寝言」を書いたら、こいつは次はどんなバカなことを書くんだろうという、心温かい読者の方が多数だという簡単なことを見落としておりましたが。

 finalventさんのところなどは私とは感性がまるで異なるがゆえに刺激がありますが、コメント欄を見ると、アクセス数が大きいところは大変だなと(後進組にははてなのシステム自体が「?」なのでよけいにわけがわからないのですが)。私だったら、コミュニケーションがとれない方のお相手をすること自体が苦痛になります。たぶん、そうなれば、ブログ自体面倒になるでしょう。先ほど、「感性がまるで異なるがゆえに刺激があります」などと偉そうなことを書きましたが、一回読んで、まるで受け付けないところの方が大多数ですね。基本的に私は心が狭く、意図していない形で引用されると(そうならないように本人は配慮していると思い込んでいるわけですが)、他者から見れば嫌になるぐらいしつこく「そんなことを書いた覚えはねえんだよ」ということを遠まわしに書いたりします。

 「寝言」は「寝言」。「時の最果て」は「時の最果て」。私は私。そんな地点からまるで進歩がない私というのは相変わらずだなあという「寝言」が浮かびました。


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2007年08月10日

「寝言」ならぬ単なる「与太話」

 なんというのか、ボロボロです。『三國志11』も相性が今ひとつでしたが、『大航海時代IV』の廉価版(販売元SOURCENEXT)を入れた途端に、サウンド機能がすべて麻痺してアンインストールしても、元に戻らず、疲れ果てました。『毒を食らわば皿まで』とばかり、音が出ない状態でプレイしたところ、予想以上におもしろい。2chの関連スレでは『大航海時代IV』自体の評判があまり芳しくないようですが、以前のバージョンをやったことがないので、コーエーにしては珍しく、SLGというよりRPGみたいな感覚。ドラクエやFFならば戦闘でお金を入手するところを、このゲームでは交易で儲けるという感覚でしょうか。おもしろいのはよいのですが、困ったことに、16ビット機にあわせてつくっているせいなのか、サウンドがすべて止まってしまう。デルのサポートセンター(一時期を考えると、ずいぶんよくなりました)に問い合わせても、解決できず、ピックアップ修理をしましょうとなって、さあ、大変。

 今、自宅で使っている機種がいつでもVistaに移行できるよう、事実上、64bitを意識した環境でXPを使っているので、Windows9x時代のゲームは軒並み、壊滅しています。『信長の野望 武将風雲録』あたりは壊滅。『三國志11』は上海馬券王先生のお勧めで、董卓の顔が見たいというだけで(with PK版!)買いましたが、意外と楽しい。「このクソゲー!!」と叫びながら、画面サイズを最大にしてWindowで起動すると、フルに楽しめます。個人的には、本体のプレイよりも、「決戦制覇モード」が楽しく、「才媛抜擢シナリオ」あたりは三国時代の男女共同参画社会かと思いつつ、内心、「クソ中のクソ」とつぶやきながら、熱中してしまう。採用対象者となる女性武将は、そのほとんどが男性武将の嫁ではあるのですが。「二僑」イベなんていうものが生じて、ドキッとしましたが、幸い、エロや「萌え」とはほど遠く、胸をなでおろしました。孔明嫁が無理にメガネ美人からメガネをとったような顔で、CG作画を担当した人も苦労したんだろうなあと。説明も苦しいですし。間違っても、ブ○というわけにはゆかず、苦しいところでしょう。ちなみに、この嫁、無茶苦茶、有能です。内政・外政・戦争とフル活用。劉禅のパラメータが「魅力」を除くと、軒並み一ケタ台なのに、この嫁(黄月英)は、都市攻略には欠かせないですし、知力がかなり高いので(馬謖87に対し、黄月英89と準軍師並み)兵器製造など生産期間が複数ターンにまたがる場合には助かります。諸葛亮自身は、「五丈原の戦い」でプレイヤーが担当する司馬懿に「舌戦」(要は、『提督の決断II』のカードゲームみたいなものか)で敗れ蜀の大義を否定され、火計でボロボロにされてしまうのですが。いまだに『出師の表』から始まる蜀の攻勢が理解できないので(私だったら、ゲリラ戦ですな)、諸葛亮の評価はあまり高くなく、「奸悪」とされる武将が好みだったりします。だいたい、物語で「善玉」とされる人物がことをなしたことは少なく、「悪玉」とされている人物に肩入れする傾向が強いのですが。

 「時の最果て」らしくとりとめがなくなってきましたが、PCはXPの「システムの復元」でなんとか元通りになり、修理にはださないことに。もう一台、ノートPCはもってはいるのですが、キーボードを打つのが苦痛でして、やはり90年代半ばのIBM製のキーボードは最高です。ストロークがちょうどいいですし、なにより10年以上、酷使して(使わない日がほとんどないのにもかかわらず)、全く故障しない。かんべえさんや大御所の「攻撃」で私が何度コーヒーをぶっかけても、カバーを洗うだけ。日常的に使うPC関連機器で生き残っているのは、キーボードとは皮肉なものです。不思議なことに私は壊したことはないのですが、キーボードは8bit機の時代から消耗品扱いでした。私が中高生の頃にはカバーをつけることもなく、飲食物は一切PCの近くには置かなかった記憶があります。ハードディスクを内蔵するようになってから、PCは壊れる前に更新する癖がつき、今使っているのが、事実上の三代目。ゲームごときに日常が振り回されてはかなわないので、PCでゲームをやるのは『三國志』が最後かなあと思います。

 というわけで帰宅しては『大航海時代』に振り回される日々が続きました。あんまり進んでいないのですが、どうもおっとりゲームを進めすぎて、序盤で既に新大陸の権益をとられていたりと自分でものろまだなあと思いますね。歴史の要素が極めて少ないのはちょっと意外でしたが。サウンド機能が停止するのは結構つらいです。マウスでの操作もちょっときついかな。プレステでやるにはちょうどよい感じでしょうか。

 ゲームのことばかり書いていると遊んでいると思われそうなので、「拉致敗戦」を立ち読みましたが(立ち読みする自分も自分ですごいと思いますが)、うーんという感じ。安倍政権の対北朝鮮政策におけるプライオリティに関する批判は違和感はないのですが、交渉で北朝鮮が核を放棄するのかどうか、見通しが見えないです。プライオリティの問題自体は、漠然とですが懸念を持っていましたが、良くも悪くも、純粋な方(政治家の形容としてはあまりよくない表現ですが)とのことで、今年の3月あたりにあきらめムードになりました。立ち読みしながら、核開発に限定しても、あまり期待はできないなあと思いました。全体の印象では、交渉に北朝鮮が核を放棄するインセンティブをどのように与えるのかが不明確でした。他方で、北朝鮮が核武装を事実上したままの状態の場合、周囲が日本・韓国を除くと、核保有国かつ核戦力は重厚ですから、どの程度、北朝鮮の核を「脅威」として認識しているのかは疑わしい。核武装の見返りは罰だと思いがちですが、北朝鮮の地理的な位置もあって、パワーポリティクスの側面が強く出ると、北朝鮮にとっての「資源」そのものになってしまう側面もあります。松尾文夫さんの質問は厳しいところもあって、シーガル氏の説明も苦しい印象がありますが、この種のインタビューとしてはかなり踏み込んでいて、立ち読みの割りにえらそうですが、本屋で読み込んでしまいました。内容自体は雪斎先生やかんべえさんが書いていますから、あまり付け加えることはありません。パッと読んだ印章は、(1)北朝鮮の核の放棄でアメリカのスタンスはそれほどぶれていないこと、(2)核よりも拉致にプライオリティを置くかのような印象を与えることは交渉を硬直化させるだけでなく意思決定者の合理性に疑念を抱かせること、(3)現状では北朝鮮の核放棄は交渉のロジックで進む方向に着ており交渉の成果に過大な期待は抱けないこと、などでしょうか。公式には無理でしょうが、北朝鮮が核の放棄に応じない場合、あるいは不徹底に終わった場合などを見据えて「非核三原則」の「持ち込ませず」は既にあまり意味のない話になっていますが、このあたりを原則は原則として維持しながら、自国の安全確保との折り合いを上手につけてゆく準備も考えておいたほうがよいという程度のことぐらいしか思い浮かびません。

 核抑止・核管理の議論に明るいわけではないので的外れかもしれませんが、北朝鮮の核自体は戦力としてどの程度、機能するのかという以前に開発の段階などあまりにも不透明な要素が大きいです。北朝鮮の核を検証可能にするだけでも、途方もない労力を必要とするでしょう。くどいようですが、この段階でも交渉が十分な成果が挙がらない可能性があると思います。

 さらに、核に限らず、軍備というのは意図と能力の掛け算で決まるのでしょうが、北朝鮮の「意図」に深入りするよりも、能力から入る方が明快だと思います。先述のように、私には北朝鮮の核の能力は非常に不透明ですが、六ヶ国協議の主要参加メンバーのうち、米・露・中は核大国であり、北朝鮮が核をある程度、戦力化したとしても、抑止が可能でしょう。日・韓はアメリカの同盟国であり、韓国の方向性は危ういものがありますが、他国の心配をする以上に日本はアメリカとの同盟を強化するほかないでしょう。「拉致敗戦」は、北朝鮮に核放棄をさせることがアメリカの基本戦略であり、日本にも積極的な役割を求めるというよりも、せめて足を引っ張るのはやめてくれというメッセージでしょう。何回も繰り返して恐縮ですが、この交渉に過度の期待はできないでしょう。しかし、この交渉でアメリカとの関係をさらに強化しておくことは北朝鮮との交渉が不満足に終わった場合の備えになりますし、核戦力という点からすれば、ロシア・中国の方がはるかに強力なわけですから、こちらへの対応を考えると、この交渉は単なる北朝鮮の核放棄にとどまらない意義があると思います。

 この時期に殺伐とした話ですが、広島・長崎の教訓は、敵対関係にある一方が相手の反撃を無視できる程度の力関係であれば、道義ではなく、力学的に核兵器が用いられるということです。他勢力を損耗させ自らの意思を強制する、極論すれば、地上から物理的に抹殺しようと思えば、核兵器ほど安価な手段はありません。私自身の理解力不足が大きいのでしょうが、日本の現状を見ると、核管理や核軍縮のような核保有を前提とした問題においては自ら核をもたないことを国是としている国では道義的な旗振り役以上の役割は困難でしょう。せめて核抑止という自国の安全に関わる問題で冷徹な議論を行うことをためらわない雰囲気が必要でしょう。この場合にも、自国の核保有という極論がすぐにでるあたりでまだ成熟しているとはいえないように思います。北朝鮮の核は「虫歯」のようなものだと思いますが、「虫歯」へ冷静に対処しながら、核抑止、もっといえば通常の抑止を含めた的確な議論が行われ、コンセンサスが形成されないと、次の10年を凌ぐことは非常に難しいと思います。

 いずれにせよ、外交交渉で自らの言い分が100%とおることなどはまずないということを抑えておく必要があります。私自身が脅威と感じているのは、北朝鮮の核武装よりも中国の核戦力の増強です。中国の核に関しても、実際は冷戦末期の米ソ関係に比べれば、あまりに不透明な部分が多すぎます。しかも、アメリカとの核のパリティを達成したソ連は、内政面での理由も大きいのでしょうが、様々な核軍縮・信頼醸成措置に応じる態度に転換しました。当面の中国は、そのような状況ではないでしょう。冷戦後、核戦略論はやや下火になったそうですが、当面の課題の核抑止を確実にするためにも、核軍縮や核管理に関する専門家が必要になってくると思います。核問題の現時点での現実的な課題は、核廃絶そのものでもなければ(私自身はこれを追及すべきではあると思いますが)、核戦力の増強を図る国々を押さえつけることでもない。問題は、これらの国々と核に関する「信念」を形成することであり、核を持たない国には核保有の費用対効果の計算を透明化して核保有に至らない枠組みを形成することだと考えます。

 今週末から来週にかけて浜松でのんびりしてからお墓参りです。既に不定期更新になっておりますが、生きておりますので、ご安心を(心配してくれる人がいないのよね(しくしく))。
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