2008年08月27日

キッシンジャー「新世界秩序再考」を読む(3)

 グルジア情勢がロシア軍の駐留からロシアによる南オセチア・アブハジアの独立承認の動きにまで進展しました。今回の「キッシンジャー『新世界秩序再考』を読む」はグルジア情勢をきっかけとして、冷戦後のソ連解体後の情勢の複雑さを理解することが目的なので、時事に密着した話はでてきません。(2)ではロシアの「近い外国」に関するキッシンジャーの分析を紹介しておりますが、キッシンジャーが今回のロシアの対応を予測していたなどとは思いません。

 あくまで抽象的なレベルですが、時代の制約があるとはいえ、キッシンジャーの描写から私が受けた印象にすぎませんが、「ロシアは『地政学上の心臓地帯』にまたがっているが故に、イデオロギーや政体にかかわりなく帝国として振舞うのであって、ロシアへの経済援助はその好戦性を和らげるものであって、好戦性そのものをなくすことは困難であろう。ウィルソン主義は各国の利益が調和している世界を想定しているので、対ロシア政策を立案する上であまりにナイーブすぎる。もちろん、ロシアの地政学的な性格が変化する可能性を全く無視するものではないのだが」と考えておけば、ロシアの対応にうろたえる(もちろん、あまりに強権的であるという印象をもってはおりますが)必要はないと思います。当たり前かもしれませんが、「問題は、ロシアと新共和国との関係を、一般的な外交政策のルールがあてはまる国際問題と見なすか、ロシアの一方的な意思決定に任されているものの延長と見なすかである」というキッシンジャーの指摘の後者、すなわち、「ロシアと新共和国との関係を(中略)ロシアの一方的な意思決定に任されているものの延長と見なす」という立場はロシアの行動の基本だという点も抑えておけば、ロシアの意図をあれこれ詮索するのも野暮な話だと思います。

 ここで私事で恐縮ですが、7月末に受けた健康診断では心電図診断の結果、左心室肥大の疑いがあるという結果でした。直接の相関はないのでしょうが、日曜日から以前、血栓性静脈炎を患った左下肢のむくみと痛みが本日になってかなり苦痛になっております。膝下5cmのところではかりますと、左足が直径で約1cmほど上回っています(平常時は両足とも39cm程度ですが、今朝の段階で右足が40cmであるのに対し左足が44cm)。また、左下肢が右と比較して若干ですが、体温が低下しております。診察の予約やRI検査の予約などが必要になるかもしれませんので、この「寝言」をもって、しばらくお休みするかもしれません。たいしたことがなければ、1週間程度で再開するでしょう。

 再び左下肢静脈に血栓ができているとなると、肺シンチなどで血栓が拡散していないかどうか確かめなくてはならないので、ちと面倒ではあるのですが。そんなわけでお越しいただいているご奇特な方には、更新がない場合には他のことで手一杯なのだとご理解頂ければ、幸いです。ちょっと大袈裟ですが、万が一のときに、キッシンジャーの知的であるだけでなく、誠実な文章をダメな人間なりに理解しようとあくせくしていたのは幸せなことだとも思います。グルジア情勢がどうなるのかということにご関心をお持ちの方には、まるで物足らない、まさに「寝言」でしょうから、無視して頂ければと存じます。例によって長くなりますので、お暇な方は「続き」をクリックして頂ければ、幸いです。


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2008年08月26日

キッシンジャー「新世界秩序再考」を読む(2)

 冒頭から細かい話ですが、手元にある原著の出版年が1994年、出版社がSimon & Schusterです。訳書にある著作権者の項目では1994年となっているので、1994年が初版が出版された年で大丈夫でしょう。今回は、キッシンジャーによる冷戦後のロシアの描写を見てゆきたいのですが、その前に、十年以上も前の文献ですので、キッシンジャーが描写している現状は今日では古くなっています。最初に監訳者による注釈を紹介して、以下では個々の問題には深入りしないことといたします。もっとも、ソ連崩壊後、生じた事象を時系列で追ってゆくのも、今日の事態を理解する上で欠かせないと思いますが、手に余りますので、岡崎先生の簡潔な指摘で省略いたします。

【監訳者による解説の抜粋】

 当時、アメリカはロシアの民主改革に酔い、ゴルバチョフ、そしてエリツィンの指導するロシアの民主化に世界の命運がかかっているかのごとくロシア支援に力を入れていた。北方領土問題を一時的に抑えてまで日本がロシア援助に加わらされたのもこの時期である。他面、天安門事件以後、アメリカの対中態度は冷え切って、人権問題ばかりが大きく取り上げられていた。キッシンジャーはこうした傾向に警告を発しているのである(498頁)。


 いきなり脱線ですが、1992年でしたか、皇室までもちだして対中関係の改善を行ったときには唖然としました。「時の最果て」はチベット問題に冷淡なように見えるかもしれませんが、この国の政治的指導者の「人権感覚」なんてこの程度ですから、元々期待していないということが大きいのです。もちろん、個人の「抗議」としてチベット問題をとりあげることも考えましたが、外交政策に期待できない状態では寒いだけですし。外交政策が人権一辺倒に偏ることに、キッシンジャーが警告を発する国とはずいぶんな差でして、この国の政治的指導者にチベット問題などで真っ当な感覚を要求すること自体が、選手村に入らず、ふだんドームという快適な環境でプレーし、「本番」でもいつものように高級ホテルに泊まって野外でばてちゃうどこかのチームにメダルを期待するようなものだと感じてしまいます。お約束のように「本題」がとりとめがない上に、やたらと長いので、五輪がなくなって暇をもてあましている方(失礼しちゃう話ですが、こんな鄙びたところに来てくださる方は、よほど慈悲深い方か、はたまたよほどの物好きか(「読者撲滅キャンペーン」の開始です。ご理解を賜りすよう、お願い申し上げます)、(職場で)お暇な方のいずれかではないかと勝手に思い込んでおります)は「続き」をどうぞ。


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2008年08月25日

キッシンジャー「新世界秩序再考」を読む(1)

 こちらでは、「この問題、日本は関心が低過ぎますよ」(「かんべえのマスメディア日誌)2008年8月24日)とのことですが、正確には主語が「日本のマスメディア」でしょうね。もっとも、北京五輪がなくても、アフガニスタン侵攻のような時代も背景もあまりに異なるので、多少、扱いが大きくなったという程度かもしれませんが。いつものごとく、『世界の論調批評』安達正興さんカワセミさんから良質の情報を後追いしている状態です。

 それにしても、ソ連崩壊後、あまりに旧ソ連、東欧の変化が激しく、地図を慌てて確かめないとピンと来ないのは情けないのですが。グルジアに関しては、こちらでGUAMについて表面的ですが触れておりますが、この問題を論じるのなら、GUAMが果たして自由と民主主義のための国家連合なのかを調べておく必要があります。ただ、「なまもの」は「時の最果て」の苦手中の苦手ですので、もっとどうでもよいことを考えたくなります。

 「時の最果て」で国際情勢にしぼった話をするときには、中東、それもイラクに偏っている感があります。イラクが安定化すると、パキスタンが流動化すると、なかなか大変なのですが、今回は大雑把に冷戦以降の「世界秩序」について考えます。というと、大上段に構えたようですが、グルジアの問題が生じたときに、キッシンジャー『外交』(日本経済新聞社 1996年)の第31章「新世界秩序再考」(下巻収録)を読み返しているうちに、興味深い指摘が多かったです。現状については日本語で読める記事(マスメディアではなく個人のウォチャー)が少なくないので、いかれた「外道」はどうでもいいことをやりましょう。

【引用1】

 今世紀になって三度、アメリカは自国の価値観を広く世界に適用することによって新しい世界秩序を建設する意思を表明した。そしてやはり三度にわたって、アメリカはいっそうぬきんでた大国として国際社会に現れた。一九一八年のパリ講和会議の際は、同盟国はアメリカに依存し過ぎていたのでアメリカに懸念を表明出来ず、結局ウィルソンの一人舞台だった。第二次世界大戦の終わりには、フランクリン・デラノ・ルーズベルトとトルーマンは、まるで世界全体をアメリカ型に再鋳造する役割を担うかのように見えた。
 冷戦の終結により、国際環境をアメリカのイメージ通りにつくりかえようという誘惑はますます大きくなった。ウィルソンは自国の孤立主義に縛られ、トルーマンはスターリンの拡張主義に直面したが、冷戦後の世界では、アメリカは世界のあらゆる地域に介入する力を持った唯一の超大国として残った。しかし、力は多極化し、軍事力を行使するような問題も減った。冷戦で勝利を収めたことにより、かえってアメリカは、一八−一九世紀のヨーロッパの国際システムや、アメリカの政治家や思想家が疑念を呈し続けたやり方と共通点の多い世界へと突入してしまった。各国家は、イデオロギー上、戦略上の最大の脅威の存在から解放されて、ますます自国の直接的な利益に基づいた外交政策を追求するようになった。おそらく主要な大国が五、六ヶ国存在し、より小さな国々がたくさん存在するような国際システムにおいては、国際秩序はかつてのように、対立する利益の間の均衡と妥協によって生まれるものなのだろう(下巻、500−501頁)。

 この引用の前に1990年のブッシュ大統領(現大統領の父)と1993年のクリントン大統領の演説が引用されています。キッシンジャーはとりわけブッシュ演説を「新しい世界秩序への希望を、古典的なウィルソン主義の言葉」で述べたと描写しています。

 ふと思ったのですが、いわゆる「ネオコン」はウィルソン主義の理念を国家間のパートナーシップや協力ではなく、アメリカの卓越した軍事力で実現しようとした思想潮流なのでしょう。『外交』の原著が出版されたのが1994年ですから、以下で引用する叙述も、当時の時代背景を反映しておりますが、あとで引用する叙述にあるように、冷戦後のアメリカの外交政策は、勢力均衡を十分に考慮せずに、よりもウィルソン主義を様々な手段で実現しようとする試行錯誤のプロセスなのかもしれません。また、そのような政策には救いがたい部分があっても、今後も大きな変化がないのではと思います。

【引用2】

 国際秩序は不安定なものである。「世界秩序」という場合、いつもその永続性への期待が表明されている。その言葉自体が永遠を思わせる響きを持っている。ところが、世界秩序を構成している要素は常に変転している。実際、一つの国際秩序の存続期間は時代を経るごとに短くなってきている。ウエストファリア条約によって生まれた秩序は一五〇年間続いた。ウィーン会議によって出来た秩序は一〇〇年間続いた。冷戦を特徴とする国際秩序は四〇年で崩壊した(ベルサイユ体制は大国が支持したシステムとしては作用せず、二回の世界大戦の休戦にすぎなかった)。そして、世界秩序の構成要素、その相互作用の範囲、その目的が現代ほど速く、深く、全世界的に変化したことはこれまでなかった(501頁)。

  
 やや長くなるので省略しましたが、キッシンジャーは【引用2】で挙げている世界秩序のなかで構成要素を重視しているようです。三〇年戦争を「伝統と普遍主義に基づく封建社会から、国家理性に基づく近代国家システムへの移行をめぐる戦争」として、フランス革命に関しては「共通の言語と文化に規定される国民国家への移行」として位置づけています。また、国際秩序の過渡期には「当然だったことが突然時代遅れになった」と指摘して、具体的には19世紀の多民族国家、20世紀の植民地主義を挙げています。冷戦は三十年戦争やフランス革命、二度にわたる世界大戦に匹敵する世界秩序の主要な構成要素の間で大規模な戦争が生じて次の秩序への移行とはなりませんでした。他方で、共産主義が時代遅れというよりも、現代の民主主義体制にとってかわる社会体制ではないことが明白なったという点である種の不可避の傾向があるのでしょう。ただし、そのことがただちに民主主義の拡大と結びつくのかは留保すべき点もあり、【引用1】にあるように国際秩序の基礎となるのはウィルソン主義的な発想ではなく、古典的な「対立する利益の間と妥協」なのでしょう。

【引用3】

 新しい世界秩序の出現によって動乱が生じているのは、一つには、国民国家としての歴史的背景がほとんどないのに、「国家」と称している国が少なくとも三タイプはあり、それらが相互に作用しているからだ。その一つは、解体した帝国から分離した民族的分派であり、ユーゴスラビアやソ連邦から分離した国々がこれにあたる。歴史的な怨恨の虜となり、長年アイデンティティを求めてきた彼らは、古来からの民族対立の中で優位を得ようとする。したがって、国際秩序という目標は彼らの関心外であり、多くの場合全く頭の中にない。彼らは、三十年戦争にまき込まれた国々がそうであったように、まず自国の独立を維持しようとし、国際政治秩序というコスモポリタン的な視野を持たないまま自国の勢力を伸ばそうとする(502頁)。


 本題の前に三つの類型以外に、(1)旧植民地で国境が帝国主義時代の負の遺産であるがゆえに内戦が絶えない国家群、(2)大陸タイプの国家があり、キッシンジャーは大陸タイプの国家が新世界秩序を構成する基本単位となる見通しを示しています。このような抽象度の高い理論をグルジア問題を直接、結びつけることは危険ですが、グルジアは【引用3】で示した最初のタイプに属するのでしょう。GUAM諸国が自由や民主主義などを旧西側諸国と共有し国内体制の改革を図ってきたこと自体を否定するものではありませんが、グルジアに限定すれば、海外の報道を見る限り、キッシンジャーが述べているように国内における民族対立、そしてそれと結びついたロシアへの対抗という点は見逃すべきではないのでしょう。「国民国家としての歴史的背景」を欠いたまま、世界秩序を構成する意思からではなく、自国の利益を最大化する意図から秩序を利用する側面があることは抑えておきたいです。これは、次回以降で述べてゆきますが、ロシアの行動を正当化するためではなく、旧ソ連圏から離脱した国家をどのように扱うのかという問題を考える際には「弱者への同情」を排除するための「補助線」のようなものです。

 この種の抽象化は、過度であればあまりに図式的な描写に陥ってしまいますが、「現実」なるものを突き放して見る程度の効用があるだろうと。抽象化からただちに「なにをなすべきか」はでてこないのでしょうが、「なにが起きているのか」ということを整理する程度の意味はあると思います。もっとも、私のような素人がやっても、単なる好事家のお遊びで政策的インプリケーションがでてくるわけもなく、本人もそのような高い志ではなく、単に理解したいというだけですが。


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2008年08月19日

「しくみ」がわからない!

 富山でおいしいものを頂きながら、やはり五輪三昧の方がいらっしゃるようで。当方は、自作機をいじりながら「お皿洗い」に追われて、お盆休みという実感がないまま、日常に戻った感じです。ポリシーとして五輪を見ないわけではありませんが、今回は開会式は「ボイコット」しました。日本が非力とはいえ、チベットでの弾圧は腹に据えかねるので、素人目にも政治ショーとなるであろう開会式は見ないでおきました。アテネオリンピックの際には恥ずかしながら開会式の日時を知らずに適当にテレビをつけていたら、たまたま映っていてなかなかだなと思いました。自作機をいろいろいじっていたら、デジタル放送がモニターで見ることができるようになりまして、録画は小さい画面でしかできませんが、画質はそこそこです。

 これも偶然ですが、日曜の朝にかんべえさんがサボっているんだろうなと思いながら、『サンプロ』を見ようと思ったら、女子マラソンの中継があるとのことで、即効で予定変更。競技もさることながら、屋内の競技とは異なって、北京の風景を見てみたいという、われながら実にいい加減な理由でした。見た印象では妙に整然としていて、沿道での声援が少なく、微妙に違和感がありました。天壇公園の風景は悪くなかったのですが、道が狭い感じでした。解説が日本人選手とヌデレバ、ラドクリフに集中していて、やむをえないのでしょうが、コースの感覚がつかめない感じ。見た感じでは思ったほど道が悪くないようですねというあたりは、中継は北京で走ったことのない人がやっているのでしょうか。マラソン経験者なら見ただけでわかるのかもしれませんが、素人的には本当かいなという感じ。それにしても日本選手がでる競技ではそちらの話題ばかりで解説が鬱陶しいので、途中でよしました。どうも、愛国心というより島国根性を感じてしまうひねくれ者ですので。私が見落としていただけかもしれませんが、コースの勾配等のデータや気温、湿度、風速・風向など基本データがまるでなくて、単に走っているだけという感じで退屈なだけでした。

 お盆に自宅から離れられないという悲惨な生活をしておりましたが、浜松の同窓生にお断りの電話を入れると、残念がっていて、少しだけホッとしました。ついでにといっては申し訳ない部分もありますが、実家にお墓参りにゆけない旨を連絡しました。あんまり期待されていないのか、暑い上に朝食をとりたがらなかったり、風呂に入りたがらない(実は苦手なにおいがするのが理由です)ので、嫌がっていると思われているのか、あっさりと「そう」。そういえば父上が今年で65歳を迎えるのでまだ働くつもりなのかしらと思って尋ねると、「80歳までは働くぞ。ガハハハ」というありさまでして、すばらしいざますというところでしょうか。

 気になったのは母上との会話で、どうも年金の問題はくすぶっていて、賞与の支給があるために年金の減額に関する通知が6月頃にあったそうですが、実際に8月に支給された金額が以前よりも多かったそうで、「わけがわからないわ」とこぼしていました。まあ、増えているんだからいいような気もするのですが、働くと年金が減額されるというのは年金受給年齢に達した人たちの勤労意欲をそぐのではないかという指摘はごもっともで、しかも金額の変動の根拠がわかりやすく通知されないようです。勤労収入があるから年金を減額するというのは出発点は「善意」なのでしょうが、働くインセンティブを殺ぐという点だけでなく、建前とはいえ、国民皆年金と社会保険方式という趣旨から離れてしまうような。世代間扶養は問題があまりに多いという気がしますが。出発点の制度を精査したわけではないので、まさに「寝言」ですが、あれこれ「善意」で「改革」を積み重ねきた結果が、受給側から見てしくみのわからない制度という気もします。年金制度改革もけっこうですが、よけいなインセンティブを与える「善意」を捨てて簡素化した方がよいだろうにと思ったりします。

 しかし、年金以外の収入があるせいか、むしろ、だからこそまだ穏やかなのかもしれませんが物価の上昇の方で愚痴が多かったです。プリウスなのでまだマシなようですが、それでも40リットルも給油すると7,000円を超えるようで、以前よりも乗用車を利用する機会が増えているために1ヶ月で9,000円程度かかるようです。光熱費の上昇にも敏感で、「物価が上昇すれば景気がよくなるとおっしゃる方が今でもいらっしゃいますけどね」とつい漏らすと、経済の専門家などこの世から消えてしまえという勢いになってしまったので、慌てて「鎮火」しました。

 「埋蔵金」がからんで日本経済がデフレとなると、門外漢にはついてゆけないです。以前も、特別会計や地方財政も含めて公的部門の支出が250兆円を越えるという試算をだした官僚出身の方がいて、その方の本を読んだ別の人が「GDPの5割以上が公的部門ということは実質社会主義ではないか!」と大騒ぎしていたので、付加価値ベースではなく、粗生産と比較しないと意味がありませんよと指摘したら、これまた「鎮火」しました。「埋蔵金」を吐き出したところで、市中銀行が企業や家計への融資ではなく、再び安全資産である国債を保有し続ければ、物価が上昇するとも思えず、摩訶不思議な議論もあるようです。無責任ですが、どうせ主張するような効果はないでしょうが、財政再建のためにやりくりをする原資にする方がまっとうな感じです。その場合にも、「埋蔵金」をすべて吐き出すよりも、長期金利の動向を見ながら、手元に資金を残すという方が普通の感覚ではと思いますが。消費者物価指数が総合で前年同月比2.0%、日本の定義によるコアCPIが同1.9%と高いものの、アメリカのコアCPIの定義である食料・エネルギーを除いた値では0.1%ではインフレ環境とは程遠く、外人が心配しなくても利上げの余地は低いでしょう。また、以前ほど金融政策が物価の安定にどの程度資するのかは疑問な点も多いですし。やや「寝言」がすぎましたが、CPIの動向とGDPデフレータの動向はかならずしも一致しておりませんし、GDPデフレータが四半期ベースでみた成長率鈍化とともに拡大していることなど、まずは「しくみ」を手探りでもよいですから、地道に明らかにすることが先で、やれデフレだやれインフレだと騒いで政策パッケージだけもってくると、失礼ながら実行可能性はゼロでしょうが、無様なことになるでしょう。

 そんなマクロの話を離れると、今でも自分で組み立てたパソコンが動いているのが不思議です。カワセミさんのおかげで想定よりもスムーズに作業が進みましたが、しくみがわからなくても動くというのは冷静に考えると不思議でもあり、どこか居心地の悪い気分もあります。様々なデバイスやアプリケーションの相性問題などは私よりもはるかに知識のある人でも「勘」の要素が大きいようです。これだけ分権化が進み、他方で相互依存も進化してくると、社会の「しくみ」はわからないことが多く、わかる以前にアクションを起こさざるをえないことも多いのでしょう。

ひどい「寝言」ですが、「しくみ」がわからないことが多い社会では知識以上に、個人の「世界像」が実際とどれだけ合致しているのかが問われてくると思います。「世界像」というのはある程度までは書籍などで鍛えることもできますが、なかなか個人の枠を超えることは難しい。「暗黙知」とも異なって個人の運命が自分自身ではコントロール可能な範囲が限定されている中で、知識という静的な範囲を超えて行動という動的な範囲で競争という点では軋轢もますます増えてゆくのでしょう。他方で、個人の「世界像」が「集合知」として体系化されず、常に流転する状況がこれからも続いてゆくのでしょう。現代に限らないのでしょうが、分権的社会が広がってく現代では個人の知識は限られてしまいます。「しくみ」がわからないなりに「なんとかする」というのはなかなか大変でもあり、可能性にも満ちた世界だとも感じます。


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2008年07月01日

波乱と安定した「8年間」

 昨日の「寝言」を書きながら、妙な疑問が頭をよぎりました。そういえば、この国では「反米」や「嫌米」という風潮があまり強くないけれども、理由がよくわからないなあという漠然としたものです。もっとも、私が鈍感なだけで、世間ではそういう風潮があるのかもしれませんが。テロ支援国指定解除をめぐって、全国紙でもアメリカの対北朝鮮外交を批判する社説がありましたが、「反米」や「嫌米」といった雰囲気はあまり感じませんでした。核の無能力化に関する交渉は懸念を覚える部分はありますが。私自身がそのような言論がなんとなく軽薄だと感じるから鈍いだけかもしれませんが、先進国の中でもアメリカへの反発が抑制されている印象があります。ただし、以前、閣僚からこんな発言があって、うんざりしたことはありましたが。

 冷たい表現をすれば、アフガニスタンにおける掃討作戦でもイラク戦争においても、やはり自衛隊が戦闘部隊として派遣され、戦死者がでていないことが大きいという感覚があります。高坂正堯先生のあまりに赤裸々な表現を拝借しますと、「通商国家は戦争をしないか、あるいは避けようとする。しかし、平和を作るための崇高な努力もしない。それはただ、より強力な国々が作り出す国際関係を利用する」。このような「平和的な政策」がこのまま維持できるのか、またそれが戦略的発想から導かれた政策なのかは疑問の余地がありますが、極東に限定しても、「パワー」たりえない国としては、限られた選択肢の中でやりくりをしてゆくほかないのでしょう。仮に、極東でもアメリカの外交的影響力が一時的に低下しても、打算からすれば選択肢はそれほど多くないと素人目には映ります。

 話が変わりますが、以前、「日米浪花節論」という私みたいな義理人情に疎い人間にはピンとこない話もありましたが、ブッシュ大統領の北朝鮮に関するスピーチを読むと、ブッシュ政権特有のことなのかもしれませんが、日米関係というのはこの8年間、特殊な関係にあったのだなあと感じました。大統領のスピーチ後の記者会見としては率直すぎるぐらいブッシュ大統領個人の感情が表現されていると感じました。 

 I remember meeting a mother of a child who was abducted by the North Koreans right here in the Oval Office. It was a heart-wrenching moment to listen to the mother talk about what it was like to lose her daughter. And it is important for the Japanese people to know that the United States will not abandon our strong ally and friend when it comes to helping resolve that issue.


 例によってとりとめがなくなってきましたが、他国はわかりませんが、ブッシュ政権の時代というのは日本人からすると、波乱に満ちていたし、難しい決断を迫られる局面も多々あったものの、意外とこの国を取り巻く環境が安定していた時期として懐かしむ時代がくるのかもしれません。中東に限定しても、アメリカの外交的影響力の低下が事実ならば、この国の安全に直接、脅威を高めるものではないにしても、不確実性が増すのだろうと。そのことはこの国の選択肢が多いかのような印象を与えるのかもしれません。そんな時期がきたとしても、この国が実現可能な選択肢はそれほど多くないということをわきまえておくだけでも、十分に「戦略的」なのではないかという「寝言」が浮かびます。
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2008年06月12日

人間は性悪か?

 先週、聞いた話なのですが、日曜日に惨劇があったおかげで書きにくくなってしまいました。思ったより早く帰宅できたので、NHKのニュースでも見ましょうかと思ったら、犯人像がどうたらこうたらで疲れているときに聞きたくないなという感じ。それにしても、この種の事件は事件が発生してから2、3日程度はマスメディアがどんちゃん騒ぎをしてあまり掘り下げられないまま、次の事件に移行するというパターンが定着しているようで、この種のどんちゃん騒ぎにお付き合いするには年を食ってしまったのでしょうか。討論番組はもちろん、政治ヴァラエティ(?)番組は15分で精神衛生に悪いのがわかったおかげで、十数年ぶりにドラマを見るという経験をしたという点では貴重でした。今回の事件で感じるのは、メディアが速報性を重視するほど情報が断片的に入ってくるので、私の感度の悪い脳では受け付けなくなってしまうことを確認したという程度の感覚です。

 今回の事件から離れて、先週は私にとっておもしろい話を伺う機会があったので、記憶の範囲でメモを残すだけです。講演で治安について話のはとってもデリケートなことのようで、CBDから同心円を描いてどのあたりで犯罪が起きる確率が高いのかということを、あくまでアメリカのデータですが、説明すると、「ここが治安が悪いということですか?」というあまりに鋭い質問がでて肯定するわけにもゆかず、かといって否定できなかったりするので大変だなあと。エコノミストなどというのはお気楽なもので、安直に需要曲線や供給曲線が描けると思っていて、その安直さが羨ましかったりします。「独自の視点」だからいいのか。Wikipedeiaの独自研究みたいなものだし。嫌味はこれぐらいにしておいて、うっかり善意でピッキングの手法を紹介してしまうと、防犯というより手口を教えて犯罪を誘発する可能性もあるそうで、善意や親切心というのが碌でもないことを実感させられます。

 凶悪事件が生じると、犯人のパーソナリティなどから、いわゆる「アニオタ」「ゲーマー」が受難の日々を送るわけですが、映画などでも過激な暴力シーンを含む作品が槍玉にあがったりします。やはりアメリカというのは怖い国だと思うのですが、寮生活を送っている高校生を二つのグループにわけて実験を行っているそうです。「寝言」にするのが遅くなってしまったので実験の詳細は忘れてしまいましたが、暴力シーンを含む映画を見ることと問題行動を起こすということの間に相関があるという結果もあれば、ないという結果もあるそうで、なるほどという感じです。

 素人目には性格上、反社会的な攻撃性(これも適切な表現ではないと思いますが)をもつ人物が好んでバイオレンス映画や性犯罪ならば過度の性的表現を含む映画などを見る可能性はありそうですが、逆は微妙な感じです。こちらでは「三菱猟銃強盗殺人事件」の犯人が大藪春彦氏の著作に描かれている人物に犯人が自画像を重ねていったという記述があります。この記述を信頼するならば、映像メディアやゲームなどに関する規制などは限界があるのかもしれません。率直に言えば、凶悪犯罪の犯人が好んでいた多様な媒体をすべて規制するというのはあまりにムダが多いように思います。もっとも、「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」の強化にはあまり違和感はなく、むしろ積極的に強化すべきだと考えております。児童の保護という崇高な理念に共感するのではなく、単に黒木瞳さんや深津絵里さんのような方に萌えずに、「ロ○、氏○」という個人的な嗜好によるところが大なのですが。

 さらに興味深い実験を紹介していただきました。グループAとグループBで話の筋書きが似ているのですが、結末だけを変えたビデオを見せて比較対照するという実験です。基本的な筋は、ある人物が暴力で相手の所有物を奪いとるということです。グループAには、プロセスは忘れてしまいましたが、そのまま加害した人物が反撃を抑えて所有物をせしめてしまうというストーリーのビデオを見せたそうです。グループBに見せたビデオは、被害者が暴力で報復し、所有物を奪い返すというストーリーです。

 どちらのグループがより攻撃的になりますかねと尋ねられて、これは難しいなと思いました。素人的にはまず攻撃によって利得がえられるという価値観をもってしまうと、やはり他人への攻撃的な傾向を強めるのかなという気がします。他方で、攻撃された側が反撃するというのは物質的な欲求以外の部分でより本来的な傾向という気もいたします。結論からすれば、どちらの傾向がより攻撃的なのかについては有意な結果はえられていないそうです。暗黙に凶悪犯罪の犯人のパーソナリティを安直に論じるのは居酒屋で管を巻くのと変わりませんよと教えていただいたように思います。

 ちなみにかなり曖昧な記憶にもとづいているので実験の設定やコントロールすべき変数などについては勘違いをしているのかもしれません。ちょっと気になったのは、アメリカでの実験とはいえ、被験者の人権への配慮を欠いているのではということでした。最近は倫理基準をつくっているとのことで「昔は無茶苦茶してましたからね」と苦笑いをされていました。私はとても乱暴な人間なので、凶悪犯罪を犯す人の心理をあれこれと忖度する(?)よりも、ある確率で起きるという前提で見ていた方がよいのかもしれないと感じました。

 実際、研究はそのような方向で進んでいるようで、ディズニーランドなどは入園者が逸脱行為を起こすことを前提に、そのような行為が起きる確率を下げるように設計段階から設計上の不備には障害物などを配置して工夫しているそうです。ちょっとしたことですが、家族連れで騒ぎの元になりやすいのが子どもたちで、子どもが並んでいる間に騒ぎ出さないようにわざと一直線に並ばせるのではなく、障害物をおいて蛇行させた上で入り口がどの角度からも見えるようにしているそうです。入り口で嬉しそうに入ってゆく人たちを見て自分の番になったときの期待を上昇させると同時に、その他の光景も気分が荒れないように工夫がされているようです。このあたりは余計なインセンティブを与えないという点でなるほどと思いました。

 人間が善なる存在なのか、そうではないのかは哲学者にお任せするとして、現実に悪いことばかりするわけではないけれども、時としてとんでもない悪いことをしてしまうのが人間なのかもしれません。哲学者が問題を解くのを待つわけにはゆかないわけでして、現実には人間は時として悪事をはたらく。不特定多数を相手にする場合、個別の人を善か悪かと判断するのはバカらしいほどコストがかかりますから、現実には余計なインセンティブを与えないことが大切なのかもしれないという「寝言」が浮かびます。
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2008年05月31日

無限への飛翔

 さて、中東情勢を論じるはずが、高坂正尭著作集刊行会『高坂正尭著作集 第五巻 文明が衰亡するとき』(都市出版 1999年)の塩野七生さんの解説を読みながら、相変わらずの「反抗者」ぶりに苦笑しつつ、どこかで甘えているような感覚で、失礼ながら、かわいい女性だなと思いました。年上の方に「かわいい」という表現が不適切なのは承知しておりますが。

 ちゃらんぽらんの極みのようなものですが、そんなこんなでよい気分になって金曜日の晩から志賀浩二『無限への飛翔 集合論の誕生』(「大人のための数学シリーズ第3巻 紀伊国屋書店 2008年)に夢中になってしまいました。夢中になったとはいっても、私にとって集合論は数学で「バカの壁」を意識した最初の難関でありまして、とても理解したなどとはいえない状態です。「バカの壁」の初期の「正しい利用法」は「集合論は私の『バカの壁』につきあたって敗れたのであった」なのであります。


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2008年05月29日

40年前の洞察

 5月は連休が終わってから、「まさか」の連続という感じです。ふだんの生活が自分でも「これでいいんですか?」と苦笑せざるをえないほどいい加減なので、「パンダ外交」→「日中共同声明」→「四川大地震」→「空自の派遣要請」と対中国関係で振り回されています。あまりに恥ずかしいので起きたタイミングではさすがに書けませんでしたが、「中国で大地震って起きるの?」という素朴な疑問で頭が一杯になってしまいました。次は空自を含む空輸要請とくると、不謹慎ですが、中国が反日姿勢でいてくれた方が楽かもしれないなどと考えてしまいます。上海馬券王先生の軽妙な四川大地震の観察にある「まぁ、これを契機に対日感情が好転するのも悪い話ではないんですが、ネットを見るとこの前まで反日で盛り上がってた連中まで好意的なコメントをアップしてるのを見るとなんだかなあ」というのはまったく同感です。

 さて、空自を含む輸送の要請に関しては、素人ですのでついつい政治的意味を深読みしてしまいそうですが、なんとなく、ここは空自でなければできない任務なのかを検討した上で、派遣するにせよ、そうでないにせよ、対内的にも対外的にもけれんみのない説明を発していただければと思います。失礼ながら、なにをやっても批判されてしまう状態ですから、淡々と実務的にこなしていただくことを期待しております。

 しかし、性能の低い「CPU」というのは辛いものです。アメリカのことを考えているところへ中国の話が飛び込んでくると、頭の中が「ブルースクリーン」になってしまいます。さっさとFriedmanの論文について「寝言」を書けばよいのですが、仕事の関係で読みはじめた高坂正堯『世界地図の中で考える』(新潮社 1968年)でいろいろと考え込んでしまいます。あらためて気がついたのですが、この本が書かれたのは私が生まれる前でありながら、まるで現代のことを論じているように響くのが不思議です。もちろん、ベトナム戦争という現代アメリカの苦悩の時期を身をもって経験していないだけかもしれないのですが。

 しかし、私の見るところ「帝国の悩み」に対処するアメリカ人の基本的態度は「判断力、技術、洗練、節度」(アラステア・バカン英国戦略研究所所長(当時):引用者)ではなくて、「生命力」でありつづけるように思われる。なんと言ってもイギリスとアメリカはちがう。そして、ひとつの文明はその成功においても失敗においても、自己の方法による以外にしかたがないのである。イギリス人の「判断力、技術、洗練、節度」は、文明を伝えるものと伝えられるもの、統治者と被統治者の間の距離の前提と、同化しえないという諦念の上に立っていた。すなわち、彼らは問題が本質的に解決しえないものであることを認めていたが故に、技術において優れることができたのであった。これに対してアメリカ人はすべてのものをその文明へと同化しうるという前提の上に立って行動している。少なくともアメリカ合衆国という国家は、その原則の上に立ったが故に作られることができたのであった(前掲書、175頁)。


 この場合、どちらがよいのかという問いを発しても、余り意味がない。アメリカはイギリスのまねをするわけにはいかないからである。イギリスは文明を伝えることの困難さを認識し、同化を不可能と考えていた。そこに知恵が生まれた。それに対し、アメリカ人は世界を作り変えることに関して、より楽観的である。彼らは知恵よりも、生命力によって特徴づけられているのである。だから、彼らはより多くの成功をおさめると共に、より多くの失敗を犯すことになるであろう。それはアメリカの宿命と言えるかも知れない(176頁)。

 あらためてアメリカのことを勉強しなおさなくてはと思うのですが、プロが素人でも読めるように書いた文章に高校時代は反発を覚えたことを思い出します。アメリカという国はなんと傲慢なんだろうと。今、年をくってから読み返すと、「アメリカ的価値」という日本人には(単にわたしだけかもしれませんが)わかりにくいの一面を抉った文章だなあと感じ入ってしまいました。高坂先生の描写もアメリカの一面を浮かび上がらせているのにすぎないのかもしれませんが、専門家らしく、同時に専門家らしくなく焦点を一面に絞ることによって、アメリカが「帝国」でなくなるとしたら、この「生命力」が衰えるところから始まるのだろうと思いました。

 この後に続く、「そう考えてくると、巨大な帝国をかかえることになったアメリカに対するもうひとつの忠告が、私の頭には浮かんでくる」という一文に続いてポール・ミュスのカルカッタの郊外におけるアメリカ兵士の行動の「ナイーブ」さと人間らしさを見事に描いた文章を引用した上で、次のような文章が印象的です。

 恐らくポール・ミュスは、アメリカ人がアジア人の心を理解することができないことは知っていたであろう。しかし、それは忠告しても直る欠陥ではないのである。その代わり、アメリカ人を楽観主義と、楽観主義に支えられた粘り強さがある。だから失敗をくり返しながら、アメリカ人はその文明を広めようとするだろう。そしてそれは完全に成功するものではなく、結局は失敗に終わるかも知れない。しかし、楽観主義に支えられた粘り強さによって文明を広めようとすることはアメリカの宿命だし、それは世界にとってやはり悪いことではないのだと、ポール・ミュスは考えていたように思われるのである。彼の忠告は、ベトナム戦争中に私が聞いた忠告のなかで、もっとも洞察力に富み、そしてもっともあたたかいものであった(178頁)。

 素人としては、「ベトナム」を「イラク」や「アフガニスタン」に置き換えたくなるところですが、野暮というものでしょう。今、進んでいる中東情勢を論じるときに「アメリカとは?」という問いを発するのは素人の浅知恵ですが、このようなアメリカ観は中東情勢を考える際にも、「答え」ではなく、ある種の気づきを与えてくれるように思いました。


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posted by Hache at 00:30| Comment(4) | TrackBack(0) | まじめな?寝言

2008年05月21日

「日米防衛協力のための指針」に関する「寝言」

 恥ずかしながら、JSFさんのブログで、田岡元帥がゲストの「ビデオニュース・ドットコム」に関する記事を知りました。いわゆる「思いやり予算」、あるいは"host nation Support"に関する討論の内容ですが、これまた恥ずかしいことに、この記事のおかげで4月25日に参議院で「在日米軍駐留経費負担に係る特別協定」を3年間延長することが否決されたことを知りました。いやはや、あまりに出来事が多すぎて、ついてゆけないことが多いことを実感いたします。JSFさんのところでは"primary responsibility"の内容について検討されていました。1997年の「日米防衛協力のための指針」(日本語正文はこちら、英語正文はこちら)における「日本に対する武力攻撃に際しての対処行動等」に関する第2項の「日本に対する武力攻撃がなされた場合」で英語正文では"primary responsibility"という表現が日本語では「日本は、日本に対する武力攻撃に即応して主体的に行動し、極力早期にこれを排除する」となっていることに関して田岡元帥が"primary responsibility"を「一義的責任」と訳して外務省を攻撃して、挙句の果てに日本有事の際に「米軍は日本を守らないというのが97年の防衛協力の指針だ」となって正文を読むと、どうしてそう読めるのかが不思議ではあります。

 まずは細かいところからゆきますと、"primary responsibility"をどう訳すのかという点ですが、通常ならば「責務」というところでしょうか。外務省の日本語正文がそこを逃げているわけではなく、「日本は、日本に対する武力攻撃に即応して主体的に行動し、極力早期にこれを排除する」(Japan will have primary responsibility immediately to take action and to repel an armed attack against Japan as soon as possible.) というのはほぼ同等の意味ではないかと思います。日本有事の際に"primary responsibility"が日本にないというのは、有事の際にアメリカ頼みというよりも、日本に国家主権がないことを意味しますので、日本に"primary responsibility"があるというのは当然でしょう。なお、1978年の「日米防衛協力のための指針」(日本語正文はこちら、英語正文はこちら)では「日本は、原則として、限定的かつ小規模な侵略を独力で排除する。侵略の規模、態様等により独力で排除することが困難な場合には、米国の協力をまつて、これを排除する」(In principle, Japan by itself will repel limited, small-scale aggression. When it is difficult to repel aggression alone due to the scale, type and other factors of aggression, Japan will repel it with the cooperation of the United States. )とあり、"primary responsibility"という表現は出てきませんが、新旧ガイドラインのニュアンスの差を乱暴ですが無視すれば、日本有事にはまず日本が侵略の排除に努め、それを米軍が支援するという当たり前のことが書かれています。日本有事の際の自衛隊と米軍の役割が逆だったら、訳がわかりません。自衛隊だけで対処できればそれでよし。そうでない場合には米軍が支援するわけで、「米軍は日本を守らないというのが97年の防衛協力の指針だ」という解釈は、脳みそが単純にできている私には難しすぎる印象です。

 こんな与太話だけであれば「寝言」も浮かばなかったのでしょうが、あらためて1997年の「日米防衛協力のための指針」を読んでいると、日本独自の防衛力整備と日米同盟が補完的であるということは1978年のいわゆる「旧ガイドライン」から自明なのであって、「時の最果て」で力む必要がないんだなあと思いました。いわゆる「新ガイドライン」に至るプロセスでは、日米同盟と他の集団的取り決めと代替的な関係であるのではなく、日米同盟と補完的な関係にあるということがキモなんだろうと思いますが、日本の防衛力と米軍のプレゼンスが補完関係にあるということが明確になっていて、要はガイドラインを具体的に落とし込んでゆくのが1990年代後半から今日に至るまでの核心部分なんだなと思いました。1997年の「日米防衛協力のための指針」では周辺事態における後方支援などその後の「周辺事態法」の問題に直結するイッシューなどがありますが、今回は割愛いたします。

 それにしても「宇宙基本法」のスピード審議を見ていると、与党と民主党の協議が非常に有効であることを実感します。「在日米軍駐留経費負担に係る特別協定」に関しては民主党の指摘がすべておかしいというわけではなく、いわゆる「思いやり予算」を日米同盟を円滑にマネージするために有効に活用する協議が行われていればなあと思います。宇宙開発がどうでもいいとは思いませんが、同盟戦略を与党と民主党で共有してゆくことが、政権交代も含む政治的リスクを大きく軽減するでしょう。外交・安全保障政策に関して、自民党中心の政権であろうが、民主党中心の政権であろうが、コンセンサスの上で進むとなれば、その時々の政策課題によって自民党がダメなら民主党に入れるという選択肢が広がることは個人的には歓迎です。言いにくいのですが、「ポスト福田」でお名前が挙がる方が、女性問題でどうもなあという方や現役の総理大臣が総選挙で落選しかねない状況では民主党が受け皿になりうる政党へと成長することは、私自身にとっては精神衛生にはたいそうよい話です。現実には厳しい感じもいたしますが、外交・安全保障に関して主要政党間でコンセンサスが築かれることを願っております。

 なお、下記はスパムまみれのかんべえさんのところにメールを送るのが気の毒ですので、私信です。暇な方はどうぞ、ご覧頂いても結構ですが、たぶん、送った相手が読んでもつまらないと思いますので、スルーしてやってください。


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posted by Hache at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな?寝言

2008年05月05日

こどもの日によせて(2008年版?)

 なんとかブログが復旧しましたが、いくつか不具合があります。1件ほどトラックバックを頂いておりますが、管理画面で内容を把握できるのですが、ブログには反映しない状態になっておりました。通常は、ブログの再構築を実行すると、ただちに本体に反映するのですが、復旧後はトラックバック一覧に反映しない状態になっておりました。コメント欄についても、記事本体には反映しておりますが、コメント一覧にはただちに反映しない状態になっておりました。コメント、トラックバックのいずれも受け付けておりますが、反映するまでに時間がかかるかもしれません。現在では、正常に動作しておりますが、復旧後も不具合が生じるかもしれないということでご理解を賜りますよう、お願い申し上げます。

 なお記事を投稿した後で修正して保存をしても、ブログ本体に反映しない状態でしたが、こちらも解決しております。ただし、しばらく不安定な状態が続くのかもしれません。サーバが若干、重たいことがありますが、復旧したようです。復旧後も、記事の修正だけではなく、コメントやトラックバックの反映が以前よりも遅くなっております。管理画面では把握しております。受付をしていないわけではありませんので、ご理解を賜りますよう、お願い申し上げます。なお、詳細について興味のある方は、下記のURLをご覧下さい。

http://info.sblo.jp/article/14626877.html

 最近、ログをとるのが面倒でサボっていたので、慌ててログをエクスポートしました。アクセス数が多いブログの方からすれば、ネット上など、糞ブログばかりに映るようです。他のブログはわかりませんが、私のようなところですと、糞という表現が糞に対して申し訳ないほどひどいものですが、「寝言」やコメントなどはやはり残しておきたいものでして、慌ててログとり。やたら記事数だけが増えておりましたので、一括してエクスポートできない状態でしたので、月ごとにログを落とすという暇なことをしておりました。最もムダな連休の使い方をしているというわけです。おまけに某所にて不謹慎なコメントをしたところ、「囲い込むとか先を越すとか、人聞きの悪いことで、とんでもございません(笑)」と軽く諭されながらスルーされて、自分の性格の悪さに恥じ入るばかりです。

 ふと上海馬券王先生のページ(2008年5月4日)で「本体」の前に中国の経済成長と経済政策について上手に解説されているのを拝読して、なるほどと唸らされました。実は、上海馬券王先生が中国について語っている部分を裏返しにすると、日本経済の「長期低迷」の一端が示されているように感じました。業種・業界、あるいは同業種でも会社によって濃淡があって「平均」概念で物事を語ると、平均から乖離している方たちも無視はできないのですが、「ワーカホリック」と日本人が呼ばれた時代はとうに去っているのかもしれません。ただ、今の20代後半から30代の人たちは、私はさっぱりですが、自分への投資へ熱心な方も多く、次の10年も同じ状態なのかはわかりませんが。それにしても、土曜日は「不規則発言」がお休みという状態ですので、できれば上海馬券王先生の「不規則発言」コーナーでも作っていただけると幸いかと。ぶっちゃけ、テレビの「硬派」な番組ですら見ようという気もせず、舞台裏など興味がまるでわかないものですから。

 さて、今日の「寝言」ですが、他の休日はほとんど無視をしておりますが、なぜか「こどもの日」にはそれにふさわしい(本当か?)「寝言」を2006年2007年に書いておりまして、読み返すと、よくもまあ、恥知らずなことを書けるものだと、他人事のように感動してしまいました。とはいえ、ああいうしょうもない「寝言」ほど頭をひねって書いておりまして、つくづく人生そのものが「寝言」だと実感するしだいです。今年は少しは手堅い「寝言」をばと考えておりますが、所詮は「時の最果て」。連休中にこんな過疎ブログにお越しいただくぐらい暇な方だけご覧下さい。

 それにしても、私が小中学生の頃には5月といえば鯉のぼりが目立ちましたが、段々と端午の節句から単なる休日になっているのでしょうか。わが子がいないためによくわからないのですが、「こどもの日」にはちまきを食べて元気に大人になるようにと、子供のままでいたいというより周囲が健やかに大人に育つことを願う日であったように思いますが、段々と「こどものための日」へと変わっているのかもしれません。昔はさっさとガキと口をきかないで済むことを願っていましたが、40が近くなっても、所詮は昔と同じかと嘆息したりします。もちろん、とてつもなく幼稚なのは私自身であることぐらいは自覚がありますので、「実物」を知っている方のみ、「お前は自分で思っているよりはるかに幼稚だ」とか、ツッコミをご自由に。それ以外の方でも、「つまらん」とか「くだらん」とか暇つぶしにお役に立てれば、幸いです?

(追記)別途、お知らせした「寝言」と重複しており、トラブルは現在では解決しておりますので、お知らせを削除してこちらに統合しております(2008年5月6日)。


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posted by Hache at 01:20| Comment(0) | TrackBack(0) | まじめな?寝言