2008年05月23日

「消極的外交」のすすめ?

 「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」を台湾海峡問題という点から評価する「寝言」を書きましたが、どうも視点がずれているのかもしれません。胡錦濤訪日自体の評価が低いようですし、評価する人でも台湾海峡問題にふれる人は皆無でして、やはり「時の最果て」というところの感覚は思い切り世の中とはずれているようです。あまり気にせずに、日台関係でこんな記事(『産経』のHP記事では「日台関係思わぬ『つまづき』」となっていますが)を読むと、つい、ため息がでます。

 まず、外務省HPで基本中の基本を確認すると、「日台関係は1972年の日中共同声明に従い、非政府間の実務関係として維持されている」とあります。日台関係全般を論じることが目的ではなく、またそのような力量もないので、省きます。ちなみに国交がない日朝関係では「外交関係なし」と簡潔かつ正確にふれた後、この数年の関係を叙述しています。日台関係は地味ではありますが、そもそも国交がない日朝関係と比較すれば、はるかに民間レベルの交流も盛んであって、議員による外交は「非政府間の実務関係」の主要な要素なのでしょう。

 冒頭の記事ですが、馬英九総統の「反日」姿勢に日華議員懇談会会長が就任演説に日本について言及されていないことに注文をつけられたそうで。失礼ながら、会長にはお似合いの、尻の穴の小さい話で、なんとも萎えます。露骨に言えば、「非政府間の実務関係」では「民間外交」までもが政治色が濃厚な場面では必要以上に国民党と民進党の党派争いに積極的に加担してきた「末路」でしょう。国民党政権の下では中台統一の確率が高まるということと必然であるというのはずいぶん濃淡の差があるはずですが、普通なら考えるであろうことすら、なぜか中国がからむと忘れられてしまうようです。もっとも、このような愚行さえ、実力以上に日本の役割へ期待していた台湾の人たちの期待値を下げるという点では、プラスに考えた方がよいのかも。

 それにしても、「外交の基礎はすぐれた商売の基礎と同じである」(ニコルソン)という発想は、極東の島国でも一般受けしないようです。ぶっちゃけた話、この国がアジアに限定してもpowerたりえないのは、庶民レベルというより、「選良」レベルで外交感覚が乏しいからであろうと。もちろん、帝国が帝国たりえなかった結果にすぎないとも見ることができますが。表現が悪いのですが、他国とつきあうというのはお互いに面倒なのであって、面倒ななりに上手にやってゆくほかなく、「寝言」をあれこれと書き連ねてゆくうちに、外交なんてトラブルシューティングみたいなものだという消極的なことを抑えたほうが間違えないんじゃないかなんて、ひどい「寝言」が浮かびます。
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2008年05月16日

泥臭い将棋 軽い政治

 うーん、あたふたしておりますと「寝言」も浮かばず、それはそれで健康なのかもしれません。名人戦の棋譜を見ても、さっぱりわからず、まあわからないけれど逆転したんだなという感じ。それにしても、終局後の羽生二冠が負けたような雰囲気でへぼでもすごいことをしていたんだなあと思いました。私には縁のない世界ですが、2007年度の成績を見ると、羽生二冠がタイトルホルダーでは唯一、勝率7割をキープしていて、他のタイトルホルダーが軒並み5割台。深浦王位がぎりぎり6割。数字ではっきりと優劣がでてしまう世界というのは恐ろしいものだと思いました。

 四川省の大地震はスルー状態です。露骨に言えば、中国共産党の統制下にある状態でまともな報道など期待する方が無理だろうと。ただ、四川省から来た中国人はなぜか日本人となじみやすい印象があって、不思議な感覚があります。

 堀内光雄氏の「『後期高齢者は死ね』というのか」という挑発的なタイトルが目に付いて『文藝春秋』を「立ち読み」して(最近は日本語の雑誌で購入はもちろん、コピーの必要を感じる文章をまるでみかけないですね)、実は老人医療費が1999年以降11兆円前後で変化していないと書かれているので「へぇ」てな感じ。家に帰ってからネットでこちらを見ると、なるほど総額は変化していないのですね。1999年度の老人医療費が11兆8,040億円で2003年度が11兆6,523億円ですから、この数字自体には嘘がない。同期間で1999年度の受給対象者数が1418万5,625人から1548万275人に増加していますから、むしろ抑制的に推移しているようにも見えます。で、起点となっている1999年度の一人当たり老人医療費は83万2,108円でこのデータでは最高を記録した年だとわかりました。頭のよい方は数字を上手に使うものだと感心しました。

 ただ、『報道ステーション』で道路財源を医療に回せと国会でデモをしている高齢者の方を見るとドン引きしてしまいます。言いにくいのですが、仕事で車を利用する人が医療費をなんで負担しなきゃいけないのという感じ。おまけに、新潟から抗議に来たという方までいらっしゃって、抗議のために新幹線代が払えるなら、以下略という感じですね。まあ、ぶっちゃけた話、後期高齢者医療制度を導入するタイミングが合意形成が困難になるであろう時期を予測して急いだために、問題点も多い制度になってしまった印象はありますが。年金制度改革は現役世代にしわ寄せする形でしか無理でしょと見ておりますので、今回、制度を撤回すれば、10年近く「先送り」になるでしょうから、社会保障費の抑制など無理だろうなと。そうなると待っているのは消費税率の引上げぐらいですから、個人的には望まないのですが、福祉は、受益者が常に不満を持つのでしょうが、手厚いものの、重税国家になるんだろうなと。

 『文藝春秋』には麻生太郎氏と与謝野馨氏の対談も掲載されていました。ひどいもので結局、「立ち読み」なんですが。こちらでは例によって「福祉目的税化」というお題目がついているものの、消費税率の引上げを逃げずに議論していて、議論が妥当なのかは立ち読みでは判断ができませんが、まじめな話なんだろうと。でも、このお二人が消費税率の引上げを行う立場に立つことはないのかもしれないなあとふと思いました。「自由と繁栄の弧」が外交青書の表紙から消えたとかいう尻の穴が小さい嫌味を読んでしまうと、麻生応援団には入りたくないな、一緒にされたくないなという「潔癖症」のおかげで目が曇っているのかもしれませんが。もっとも、どの道、縁がないでしょうから、どうでもいいかなと。嫌味ではなく、総理が交代することに期待をもち続けることができる方の「鈍感力」「楽観力」はすごいなあと。子供の頃から、「行財政改革」やら「政治改革」だのをずっと聞かされて、いまだになにがよくなったのか、まるで実感がありませんので。

 最近、どこへ行っても、「福田さんの次、誰?」みたいな話題がでるのですが、「福田が辞めても代わりはいるもの。でも、誰がやっても同じでしょ、フフン♪」みたいなことを言って「空気」を凍らせて上でぶち壊してストレスを解消しております。政治への「期待値」がどこまでマイナスになるのかなと楽しんでおります。


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2008年05月04日

世の中はままならぬ

 サーバの運営も大変なようです。あんまり書きたいこともないですし、ブログなんて2、3日止まったところで私自身は困らないので、お疲れさまというところでしょうか。過疎化をさらに進めることを書いてしまえば、こちらを毎日、ご覧頂いている方が、片手で数えられる程度には、いらっしゃるとすると、かなり奇特な方でして、感謝あるのみです。私自身は、書いた後でブログ本体で読む癖がつきました。われながら誤変換に誤字・脱字の多いこと。訳も微妙に間違っていたりしますし。疲れているときに、これだけはと気合を入れると、碌なことがないことを実感します。

 自分の記事を書かずに、ボーっとしていましたが、この先の人生、何年残っているのかはわかりませんが、間違っても人様の上に立つタイプではないなあと。政治家が典型ですが、リーダーを輩出するというのはよほど難しいことだと実感します。アメリカ大統領選挙、というより予備選挙の段階で千万ドル単位の支出というのは壮大なムダという気もしますが、しみじみ政治というのはカネを浪費することだと思います。ウォッチャーではないので適当ですが、民意なるものもわからないもので、現段階ではオバマ対マケインではマケインが若干有利、クリントン対マケインではクリントンが優勢という世論調査を集めた結果を見ていると、民主党内はどうするんだろうと。世論調査の結果も日々変わりますし、投票行動を事前に予測することは日米問わず難しくなっている気もいたしますが、「野党」として民主党がなにをしてきたのかが問われている選挙という感覚があります。

 それ以上に、アメリカ発の情報の多さに圧倒されます。率直なところ、私の語学力が貧困なせいでしょうが、とてもではありませんが、全部目を通したところで、情勢がわかるとは思えないです。日本語で「ダイジェスト」を提供しているサイトを見ていると、現存する世界最古のデモクラシーというのは、意識的な設計者が図面どおりにつくったものではなく、偶然と巧妙な「偽善」によって出来上がっているものだと思います。予備選挙の段階では個々の州ごとに選出方法がバラバラな上に、日本人がイメージする選挙とは異なって、民意の「暴走」を緩和する制度を導入していたりして、それが全体として整合的であるのかはわかりませんが、興味深いものだと思います。ただ、全体としては制度上、間接民主制であっても、その利点が徐々に薄れている印象もありますが。

 対象ががらりと変わりますが、お金の世界では日銀総裁でゴタゴタしたせいで、現場はこんなに優秀なのに上はなにをやってるんだ、あるいは民主党はなんだという話が多いです。いちいちごもっともと思うのですが、そんなに優秀な現場の人たちから人の上に立つ方がなぜでないのでしょうかという疑問が浮かびます。最後は政治が悪いということになるのでしょうが、現場が優秀なのに上に立つ方がダメというのは、結局、リーダーを上手に輩出できない程度の現場という評価ということで、「それを言っちゃあおしまいよ」という感じがしますね。「ねじれ国会」を選んだのは民意で、それが醜悪だとすれば、有権者がダメというのと論理的にはあまり変わらないような。このあたりは政治学者というのは実に巧妙に描写するものだと感心することがあります。1980年代あたりまで言われた「経済一流、政治二流」というのは民間部門の努力の結果ではありますが、政治の演出というのも見逃せない要素なのかもしれません。経済畑はそのような感覚が乏しいのかもしれません。個々の指摘が正しくても、部外者からすると独善にしか見えないというのは、なんの影響力ももたないでしょう。ひどいことを書いてしまえば、仮に政権交代があって、不幸にして民主党の統治がどんなに醜悪であったとしても、それとつきあってゆかざるをえないという覚悟をしておいた方がよいというところです。

 それにしても、胡錦濤総書記が来日するそうで。洞爺湖サミットに向けて地球温暖化などがメインになるようですが、はあという感じ。温暖化も重要ですが、中国国内の環境汚染はもはや他人事ではないのではと思います。最近のネットでは、こちらの記事がよく読まれているようですが、地球温暖化という地球全体の問題の中で水資源という問題に焦点をあてて全体像を示していると思います。大気汚染や黄砂など、中国の環境問題は既に中国国内のみの問題とはいえなくなりつつあると思います。

 他方で、中国国内の問題ですから、中国政府がちゃんとした対応策を講じた上で、他国へ協力を求めるのが筋だというのは、以前、こちらで書きました。温暖化の問題がどうでもいいというわけではありませんが、地球環境問題で中国の環境問題が既に国際的な課題になりつつある現実が覆い隠されてしまうことをおそれます。地球温暖化について日中間で話し合いが進むこと自体は望ましいことですが、環境問題に限定しても、日中で単なる「友好」では済まない問題があまりに多いことは素人目にも自明なように思います。チベット問題や台湾海峡問題、尖閣諸島などをあえて議論しなくても、日中関係は政治レベルでよほどの努力をしなければ、互恵的な関係など築けないということが肝要だと思います。今回の胡錦濤総書記来日では福田総理が話し合うイッシューを設定する裁量が大きいだけに日本側の言い分をすべて通す必要はありませんが、互恵的な関係というのはムード的な友好とは異なるという素朴すぎるかもしれませんが、そのような印象を日中両国の国民に与えられるのかを注視しております。残念ながら期待値はほぼゼロではありますが。

 例によってとりとめがなくなりましたが、私自身は社会的エリートとして人の上に立つような人間ではありませんが、仕事の範囲内では管理する立場に立つこともあります。露骨に言えば、下から見れば思い通りに動いてくれない人物でしょうし、私から見て逆のこともあります。そんな思い通りにならない現実ととるにたらない人間は一生つきあってゆくわけで、そこからえるもの、なにがしか、あくまで結果的にでしかありませんが、他人のためになることもあるのでしょう。ただ、社会的エリート、とりわけ政治的エリートというのは「世の中はままならぬ」という感覚をもちながら、「思い通りにならない現実」へ積極的にはたらきかける持続する意思をもつことが不可欠の資質だと思います。残念ながら、ひょっとしてくたばるまで、そのような人物は寥々として少ないという遠い現実と気長につきあってゆくしかないだろうという「寝言」が浮かびます。
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2008年04月26日

母上の憂鬱

 「最近、とっても憂鬱なの」。

 まさか、とうとう恐れていたときがやってきたのだろうかと受話器をもちながら、身震いをする。人間、出会いがあれば別れがあるのがならいとはいえ、ついに、あのときがきたのだろうか。


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2008年02月25日

沖縄での暴行、「あたご」と漁船の衝突に寄せて

 上海馬券王先生の文章が拝読でき、日曜日は御機嫌でした。やはり中国餃子を食べても平気な馬券王先生の見事な予想は脱帽です。こちらは勝馬投票券に「投資」することよりも、項羽をぶっ倒して落馬させることに熱中してしまいました(土曜日の「寝言」に「成果」を追記いたしました。

 さて、幸せな気分から一転して、「時の最果て」の苦手な「オピニオン」風のことを書いてみましょう。このところ嫌な事件・事故が続発しております。沖縄での事件、あたごと漁船との衝突などなど。被害にあった女子中学生には同情を禁じえません。沖縄での事件に関してはアラメイン伯さんの記事に最も共感しました。もうこの事件と基地問題をリンクさせるイデオロギーから自由に議論が進んでほしいと願います。

 「あたご」と漁船の衝突に関しては、あまりないですね。finalventさんが『産経』の社説をとりあげた記事で違和感を感じました。この問題で「勝ち負け」というのはないのではと思います。うまくいえませんが、外交よりも安全保障の問題ではどうもイデオロギーの枠を超えることが現状では難しいことを感じます。まず、メディアの論調は、それぞれの思惑があったと思いますが、『朝日』(自衛隊の発言権を弱めたい)も『産経』(事故によるダメージを最小限にしたい)も海自に責任ありという意図が事実解明の前にありきでどうも受け付けませんでした。事故で行方不明の方もでておりますが、事故を利用して政治的思惑で動く与野党、下世話な「イデオロギー」で騒ぐメディアにはうんざりしております。

 このような風潮に感じるのは、この国の抑止力を高めることが、それに賛成する人であろうが、反対する人であろうが、等しく恩恵をもたらすという安全保障政策の独特の性格がまるで理解されていないことです。このような主張も、「イデオロギー」の世界では「タカ派」のレッテルを貼られるのでしょうが、そんなことは私にとってどうでもいいです。そんなことよりも、この国が安全になるための方策を考える方が私の性にあいます。私には不思議に感じますが、「あたご」の横須賀までの航路は公開されているのかどうか、軍事機密であるため非公開であるならば、民間の船舶が多数通る海域でどのような対応がより事故を引き起こす確率が低くするのかなどについてまるで判断材料を提供してくれるような事実の分析が少なく、寒い感覚を覚えます。「あたご」の見張り体制なども大切ですが、イージス艦のそばによること自体が事故発生の確率を上げますし、さらにいえば、万が一、テロを目的とした船舶の接近があれば、今の体制では見張りがどうのこうのでは対応できないでしょう。海自の対応の不備や責任はもちろん議論が必要ですが、今後の事故や非常時への対応につながる事実の報道が少なく、単に騒いでいるようにしか見えないです。ひどいことを書いてしまえば、私から見ると、右も左もこの国が日米同盟で安全だという暗黙の了解があって、いまだにのんきに内ゲバをやっているようにすら見えます。

 秋田浩之『暗流』(日本経済新聞社 2008年)にあまり高い評価をしませんでしたが、そうだろうなあと思っていたことを裏付ける事実の描写はおもしろいとは思います。ただ、米中関係が協調と衝突の双方の可能性を秘めながら、長期では衝突するだろうという見通しが微妙で、台湾海峡の情勢しだいでいきなり衝突するリスクも無視できません。こちらでは、かんべえさんの楽観的な見通しを書きましたが、「古典的な」台湾海峡における米中衝突の可能性がなくなったわけではありません。岡崎研究所を訪れたのは、古典的なリスクが台湾総統選でどうなるのかという点をあらためて確認したかったこともあります。私の印象ではリスクそのものは非常に低いのですが、想定されているシナリオ以外にも衝突の可能性は否定できず、今の法体系ではまるで対応できないでしょう。米軍再編で戦略的に日本がアメリカに組み込まれるとかで議論になっているようではお寒いです。自国の安全にとってどのような選択肢がベストなのか(あるいはほとんどないことを認識するといったほうが正確かもしれません)を明確にする情勢の把握が欠如しているから、こんな程度の議論になってしまうのでしょう。情勢分析の客観性の限界がある以上、濃淡がある程度、生じます。また、情勢分析は基本は事実の把握であって、事実からただちに政策が導かれるわけでもないのでしょう。しかしながら、とりうる選択肢がどれほどあるのかを絞り込むことは可能だと思います。そこにイデオロギーが紛れ込むから、話がおかしくなります。

 例によってとりとめがなくなりましたが、雪斎先生の「イデオロギーフリー」には共感するものの、一連の出来事に関する国会での議論や報道を見聞きいたしますと、残念ながらそのような状況にいたるには、少なくとも、もう一世代はかかる感じがいたします。私が勝手に悲観的になっていて、日米同盟の抑止力を実感することが生ずれば、一気に解決をしてしまうのかもしれませんが、皮肉にも日米同盟がやはり強力で、バカげた空理空論が世にはびこるほどまだ安全なのだと呟くしかないのかなと思ったりします。安全保障をめぐる議論で自分の主張が通れば勝ち、相手の主張が通れば負け、という発想ほどバカバカしいものはないというのが今日の「寝言」です。

 かっこをつけるわけでもなく、「美学」というわけでもなく、私自身は、集団的自衛権の行使を中核とする日米同盟の双務性を高める様々な枠組みを丁寧に「小骨」や「地雷」を取り除きながらつくりあげることがこの国の安全に寄与すると考えておりますが、それが実現したとしても安心が高まるだけであって、「勝利」という実感をもつことはないでしょう。この国の安全を、確率でしかありませんが、少しでも高めることが第一であって、もっと確実な方法があるのなら、考えを変えるでしょう。区々たる議論の勝ち負けに拘泥する人たちの心情がまるで理解できません。

(追記)下線部を訂正いたしました(2008年2月25日)。
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2008年02月07日

会議の生産性

 ふう。書類は片付けましたが、ここからが「本番」。漸く自分の時間がとれるので、これからが「真剣勝負」です。ただ、「リハビリ期間」が必要でして、「おかゆ」といってはなんですが、思考力を回復させるために、志賀浩二先生の本をゆっくりと読んでおります。超越関数のところはさすがだなあと。文系の数学ダメ人間にも直感に訴えてこられるので、本の内容そのものは高校時代の復習ですが、できの悪い私にも自然対数の底がどのような意味で重要かということが少しだけわかりました。そんなものは定義にすぎないといえばそうなのかもしれませんが、代数関数ではなく超越関数が微分法の演算の基礎となるというのは(バカ丸出しですが)驚きでした。計算方法はわかっても、意味がわからないことが多かったのですが、「わかる」ところまでゆかなくても、演算の背後に広がっている世界を感じるだけで楽しくなってしまいます。

 それにしても、かんべえさんは「大繁盛」ですね。「エコノミスト」ではなくて「ポリティカル・エコノミー・アナリスト」に肩書きを変えてはいかがという感じ。久々にWBSを見てしまいました。『ニュースの深層』の方が濃そうなので、こちらは録画。ひどい話ですが、かんべえさんの話でこの間、お留守になっていたアメリカ大統領選挙の勘を取り戻そうとしております。

 そろそろ争点の整理がほしいところですが、まだ見えないのでしょうか。素人的にはイラクが安定化の方向に進んでいることが共有の認識になってくると、やはり経済が「主戦場」になるのではと思います。ちなみに、私が「時の最果て」で「エンドース」した候補者はことごとく落選いたしますので、「負け犬」とならぬよう、一切、ブログでは書きません。

「寝言」の方は手抜きでして、苦情をお断りすべく、つまらないので、暇を潰したい方は、自己責任で「続き」をクリックしてくらはい。


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2007年12月28日

カビの生えるパン カビの生えないパン

 安達正興さんからコメントを頂いて、緊張しました。いつもコラムを拝読しているのですが、刺激がとてもあって、はっと目からうろこが落ちたり、ずばっと核心の部分を衝かれてさすがと思うことが多いです。そんな憧れの方にコメントを頂くと、嬉しい反面、緊張したりします(かんべえさんとメールを頻繁にやりとりしていたときにはもっと初々しい気分だったのですが、今では……)。かんべえさんとのお付き合いは古いご様子で、あらためてかんべえさんの人と人とのつながりの広さに感服いたしました(ちなみに、昨日の不規則発言中の「○○」は頭髪だったでしょうが、あえて上品なかんべえさんを貶めるべく深読みをしております。まあ、「ま○」あるいは「○ら」というのが世間相場ですが、かんべえ師匠はもっと上品だという確信の下にやや上品な表現にしておきました)。少しだけ含羞がありますが、師匠と仰いだのはよかったなあと実感いたします。おそらく、私は「借金」ばかりで申し訳ないのですが。

 さて、昨年の今頃はどうしていたのだろうと「寝言」を読み返すと、イラク問題が喉元にひっかかっていたのだなあと思います。あとはピラティスでしょうか。思うと、昨年はブログを書き始めた最初の年一年目ということもあってずいぶん力んでいたなあと。もっとも、実生活でも強烈な負荷を強制されたり、自分に課していたこともあって、テンションが高かったように思います。今年は、安逸に流れましたので、来年は等身大に戻っていろんなことをこまめに整理してゆく年になりそうだなと思っております。

 徐々に「充電」してゆく予定ですので、今日は身辺雑記です。今、両親は名古屋市内ではなく、そのやや東に隣接している市に住んでおりますが、今年も帰省はしない予定です。縁が薄いと響きそうですが、両親も「公式の理由」は寒いので、将来のある私に風邪をひかせないという親心で「帰省しなくても大丈夫」と言ってくれます。「本当の理由」は、夫婦二人で3LDKの分譲マンションに住んでおりますが、実は、私が帰ってくると部屋が足りません。この準備が実に面倒でして、とくに母上に負担をかけてしまいます。実家ではベッドを使わないこともあって、ベッドに慣れている私にはやや眠りが浅くなります。このあたりは双方の思惑が一致しております。

 実は、さらに深い理由があって、私の家族では朝はパン食が定着していて、一人暮らしになってからも、この習慣は変わっておりません。一人で食べるパンは、オーソドックスな食パンでして、近所のパン屋さんでその日に入荷した一斤のパンを4枚や5枚、6枚などにスライスして販売しています。私がよく食べるのは4枚入り(220円)と6枚入り(270円)です。管理が大変なのは夏場でして、翌朝食べるパンを買ってくるのですが、翌朝、一枚を食べてから残りをただちに冷凍しないと、その日のうちにカビが生えてしまいます。冬場は、室内温度を抑えているのと乾燥していることなどから、まずカビが生えることはありません。このパンに出会ってから、風味もなんともいえないナチュラルな香りがよいのですが、カビもつかないパンを食べる気がなくなりました。しかるに、実家では、メーカーの名前を出すのは控えますが、腐りにくいパンを食べております。これが非常に抵抗が強く、両親には内緒ですが、朝食を際に食欲がないからと逃げております。カビも生えないパンというのは、なんとなく食べる気がしなかったりします。

 最近は、堕落のきわみですが、自炊が減って近くのお惣菜屋さんでたいていのものをそろえてしまいます。このお店を信用していなかったわけではありませんが、買い始めた頃はわざと食べ残して、翌日にどの程度、食べることができるかを試しておりました。さすがに、お惣菜屋さんで保存料や防腐剤を多用しているところは少ないのでしょうが、私が自炊したときと同じように痛んでゆくものを選んで買っております。だいたい、晩御飯で700円から1000円程度を使いますので、けっこうな出費ではありますが、一人暮らしですと、翌日も同じ副食でも意外と高くつくことが多いですし、バラエティが多いので、利用頻度が上がりました。このお惣菜屋さんは、街の商店街にあるのですが、品物によってはやや濃い味付けだったりすることを除くと、なかなか品揃えがあります。

 今年は食品偽装問題が話題になりましたが、私が口にしないものばかりであったせいか、あまり関心がありませんでした。消費者の側からすれば、品質や原材料に関する情報を完全に入手することができない以上、不安になるのはやむをえないのでしょう。供給側が情報を的確に提供するのが望ましいのですが、売り手が営利がなくてはやってゆけない以上、難しい部分も残ります。あまり利巧な「自主防衛」ではありませんが、「カビの生えないパン」、「日持ちのよすぎる惣菜」は買わないというアバウトな基準で選択しております。あまりお勧めできる「自主防衛」ではありませんが、手軽に判別できるという点では、ちゃらんぽらんな私には妥当かなと。

 食べ物とは関係がありませんが、意中の異性に「虫」もつかないなんてちょっと寂しいじゃありませんか。私の判断基準は、まず同性受けがよくて、次に「虫」が適度によってくること。でも、私自体が「蚊」程度のことが多く、相手を追いかけても追いつけないという「残酷な現実」があります。最低の基準すら、女性が相手となると非常に冷酷な現実を思い出して気が沈みましたので、今日はこの辺で失礼いたします。
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2007年12月27日

冬休みの「宿題」

 思わず昨日の記事を自分で読んでいたら、タイトルの脱字も痛いのですが、気が重くなってしまいました。この状態が、善悪是非はともかく、解散総選挙で政権が維持されると、短くても2010年まで、その時点で変化がなければ、いつまで続くかわからない状態。読売新聞(YOMIURI ONLINE)の記事によると、福田総理が「来年は大いに期待してますよ。変わるんじゃないかな。そう期待して一生懸命やります」との記者団に話したそうで、茨の道がしばらくは続くのでしょう。「短気は損気」とか気の利かない「寝言」ばかりが浮かんでしまいます。周囲も沈黙してしまう話題はよしにして(こういう無責任さがわが「真骨頂」)、別のお題を考えたいところですが、どれも中途半端な状態です。ざっと考えていることだけ、並べてみましょう。

(1)スウィフト『奴婢訓』(深町弘三訳、岩波書店、1997年(復刻版))

 谷島宣之さんの『さよなら技術馬鹿』というシリーズの中で、「究極の正義漢が書いた究極の提案書」(2006年7月10日)というエッセイがありました。その中で、『奴婢訓』に収められている「アイルランドにおける貧民の子女が、その両親ならびに国家にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」というパンフレットが収録されているとのことです。谷島さんのエッセイでは、岩波文庫の解説に「スウィフトは常に冷然としている。そして、恐ろしく生眞面目で、本氣である。(中略)極めて論理的である。そして、そこに感情が少しも伴わない。heartless logicである。スウィフトの風刺の本質は、理知と合理性にある。だが、合理性も論理の極端にまで行くと狂氣になることは、フランス革命などの證明する所である。rational madnessがスウィフトの晩年の作に見られる所以である」という記述があるそうです。ごく一部、引用でしか読んでいないのですが、こういう判然とはしないけれども、私の考えていることの中心に関連しそうだなと思いました。まだ、品切れになっている原著を入手していないので、この訳書の成立時期など詳細は不明なのですが、谷島さんの解釈とは異なった印象を受けたので、"heartless logic"と"rational madness"の関係について解説を読んでみたいと思いつつ、そのままになっております。入手したら、粗いながらも考えてみたいところです。「ある敗戦国の幸福な衰退史」に直結する話ではありませんが、時代の雰囲気を反映した近代合理主義なるものをいろいろな側面から捉えてゆきたいというのがねらいでしょうか。

(2)デカルト『方法序説』(落合太郎訳、岩波書店、1953年)

 『省察』とあわせて読みたいのですが、『省察』が行方不明になっていたので、なんとか単独で読みきりたいものです。いきなり西洋哲学史を勉強するのはつらいのですが、日本人の哲学書はなんとなく図式的すぎますし、哲学史自体を勉強したいわけではありませんので、無謀ですが、14年ぶりぐらいに原典を読んでみようかと。深い意味はないのですが、子供のときに読んで、まるでわかっていなかったと思いますが、デカルト的な発想は原典を離れて、私の価値観のコアな部分とかさねって来るところがあります(ちょっと大風呂敷がすぎる気もしますが)。「近代合理主義」の原点として『方法序説』は、近年では批判の対象にもなっているそうですが、そういう面倒なことを忘れて「私の計画は人人がその理性を正しく導くために従わなければならぬ方法を教えようとするものではない。ただ単にどんなふうに私の理性を私は導こうと努めたかを示したいだけである」(14頁)というデカルトの言をありのままに受けてとめて、「革命と硝煙の時代」であった19世紀に至る道筋を無視して、楽しんでみたいというところでしょうか。

(3)高橋留美子『めぞん一刻』(小学館)

 ここまでスクロールしていただいた方は、ただ脱力するだけかもしれません(脱力する方がまともなのであって、展開が読めてたよんなどと思った方は既に「寝言脳」になっている可能性があります。残念ながら現時点で「治療法」はありませんのお気の毒です。まあ、私みたいな脳みそというのは同病相憐れむというところでしょうか)。麻生閣下の趣味を真似るわけではありませんが、漫画は当時の世相を現す部分があるわけでして、1980年代の描写として最近になって意外な面白さがあるなあと。『らんま1/2』が途中で挫折したので、コーナーを作るつもりはありませんが。最近、小説を読めなくなったせいか、このような、ありがちといっては失礼ですが、ラブコメで描かれている背景の方に目がいってしまいます。ちなみに、私が学生時代に最初に下宿したところは、めぞん一刻とは場所もまるで違いますが、共用トイレに電話は呼び出しと似たような状態で懐かしさもあります。

 気がついたら、年賀状はまったく手付かず。年末は「寝言」も手抜きモードでしょうか。それにしても、「宿題」を「採点」するこわーい先生もおりませんので、とりあえず、食べては寝るという正月を過ごしそうなダメ人間への「抑止力」になれば……。たいていは挫折しちゃうんですよね(弱気)。


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2007年12月18日

優先順位を明確にする

 志賀浩二先生のおかげで、小学生から高校生までの数学を一気に復習した気分になりました。私の出身高校は、教師陣が妙に方に力が入っていて、一回の授業が90分近くあったり、数学は文理問わず、理科系のフルバージョンを2年生までに教えておりました。たいていの場合、数学に限らないのですが、学校で教わったことは、ほとんど活用せずに忘れてしまいます。こうして昔勉強したことを直感的な説明を形式に乗っけて説明していただくと、何をやっていたのかがわかります。若いうちに筋肉を鍛えても、使わずにいれば、あっという間に衰えてしまいます。「詰め込み教育」の「弊害」は、そのときどきではわかったつもりになっているものの、その後、応用してゆく意欲を与えないことにあるのかもしれません。

 しかし、微分と積分という分野はもっと奥が深いと感じておりましたが、数と量からミクロの視点とマクロの視点で結びつくという志賀先生の説明のおかげでなるほどと思いました。微分積分学の基本定理なんて高校時代は当たり前だと思いましたが、まるでわかっていない。私が理解してなんになるという根源的な問題はありますが、そこはとぼけて、楽しければそれでよいというちゃらんぽらんな人間です。物の見方は相補的であることがほとんどだと思いますが、日常生活では一つの見方に拘泥してなにかを主張した気分になりがちです。他人がやっていると白けた目で見ることもできるのですが、自分が同じ愚をしていることが少なくなく、気がつくと、「なんだ、そんなことか」と思うことも少なくありません。

 ただ、思考のレベルでは相補的であっても、現実の問題となると、動かすべき変数に対して手段は限られています。人間の欲には限りがありませんが、使える資源は限られている。「トレードオフ」の問題は、経済用語と思い込んでおりましたが、少なくとも工学では当たり前のようです。あまり論壇やネットの議論に興味がありませんが、なんとなく不毛だなと感じるのは、トレードオフのような基本的な問題すらなにがしらかの政策を主張する際にすぐに忘れてしまっている方が少なくないという感覚があるからでしょうか。人間が生きてゆく上でなにかをなそうとすれば、なにかを犠牲にせざるをえない。日常生活で意識的に、あるいは無意識にやっていることをなぜか大きな問題になると忘れてしまう。大きな問題ほど日常から離れて見えることが必要ですが、そこで起きていることは、日常生活ではあまり意識しないことを強く意識する必要がでてきます。なぜか、そういう当たり前のことが抜けてしまって、特定の政策を主張すること自体はよいのですが、すべてを実現することができないという基本すら忘れている主張を読むと、議論すること自体、空しく感じます。

 優先順位をつけるというのは、代替的な関係と補完的な関係が混在する選択肢のうち、代替する側面が強く出たときに、なにを残し、なにを捨てるのかを明確にすることなのでしょう。ひどい「寝言」ですが、戦前の批判を、私の目から見ると安直に行っている方の主張は、戦前の指導者以上に優先順位をつけるということが苦手なんだろうなと映ってしまいます。そうでなくても、優先順位を明確にすることがこの国では反発を招きやすいのでしょう。他国とてそれほど異なるとは思わないのですが、最近の政治や経済を横目で見ながら、優先順位を明確にすることが本当にこの国では難しいのだなあと思います。もっと難しいのは、臨機応変に優先順位を変えることで、このあたりになると、他国でもうまくゆかないことが多いからなあと諦めることで仕事に専念する状態が続きます。
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2007年12月05日

おねだりリスト

 若い人まで、「守屋、守屋」で間がもちません。最近は、「○間さんの逮○はいつ?」とか、そんな感じ(手術まで「計画的」と言われてしまうのは同情してしまいますが)。ちと、ついてゆけない感じです。「寝言」が浮かびにくいネタが多く、面倒だなと。守屋嫁の「おねだりリスト」も、聞けば聞くほど、「庶民的」すぎてなんだか「事務次官」のご夫人というより、ちょっとませた女子高校生でもほしがりそうなものが多く、実際はそれなりのものなのでしょうが、欲がないなあと。大御所が『昭和枯れすすき』を守屋夫妻に使うのは、ぴったりのような、しかし、若い人でもなんとなく知っている曲をここで使うのはちともったいないという感覚がありましたが、なんとなく、やはり、なるほどというところでしょうか。てなわけで、昭和世代の「時の最果て」ではなく、「なれの果て」を見るような感じで、なんとなく人間の欲というのはこんなものかなと思ったりします。

 そんなわけで、「時の最果て」ではもっとひどい「おねだりリスト」を考えてみましょう。単に私がほしいものですが。『ドラえもん』ででてきそうなものは外して考えたいところです。ちなみに「とんでけリスト」の第1位は文句なく、余計な体脂肪ですが。

【番外編】ヒラリー・ハーンによるバッハの『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ』全6曲演奏会一週間貸切

 解説は不要でしょう。山田洋行さんに米国でのコネをフル活用していただきたいものです。このあたりが、「買収」の最低ラインでしょうか。

【第3位 フォン・ノイマンの数学的思考力】

 "Dr. Strange Love"のモデルの本命とも目されている「人格」を移植されるのは迷惑ですが、この人物の数学的思考力は憧れでしょうか。もちろん、数学の世界で優れた方が他にもいらっしゃるのはわかるのですが(ただ眺めているだけで本当のすごさはわからないのが悲しいのですが)、やはり物理学への応用に代表されるように、波動方程式と行列力学を形式から把握する能力というのは、おそろしいまでに鋭く、「形式知」のもつ驚くべき力を見せ付けられる気分になります。『量子力学の数学的基礎』を読んだわけではなく、私のようにできの悪い頭でもわかった気にさせてくれる方から聞いた話に過ぎませんが。しかも、彼が与えた堅固な形式の「抜け穴」から広がる世界の広さに驚いてしまいます。与太話ですが、日本人受けするのは「暗黙知」のようですが、私は実際に不足しているのは実は「形式知」だと考えております。普遍を普遍性たらしめるのは、実在の側であり、同時に認識する主体の形式だという古臭い考えから逃れられないものですから。

【第2位 カエサルの行動力 アウグストゥスの実現力】

 最近は、仕事に疲れると、塩野さんの『ローマ人の物語』を読むと、明日への希望がわいてくる、そんな典型的な中年オヤジになってしまいました。それにしても、カエサルの行動力は、創造そのものという塩野さんの解釈にすっかり染まってしまって、段々、自分ができないことだらけであることに気がつく「不惑」に近づいているのかなと。他方で、『パクス・ロマーナ』で描かれているアウグストゥスの実現力も驚くほど創造的でして、カエサルは無理だからアウグストゥスを目指すなどという知人もおりましたが、そういう話ではないことに気がつかされます。すっかり忘れていたようで、お手玉をいくつも投げ、人々が忘れたころに何気なくやりとげてしまう実行力は中年の憧れ。政治的野心と公への献身という最も基礎的な資質を欠いているので、政治という営みに参加したいというわけではなく、私のささやかな「お仕事」でも、行動力と実現力が不可欠なわけでして、私的な営みが公への貢献になるというほどの気概もなく、不似合いではあるのですが。

【第1位 最も深いレベルの睡眠を毎日2時間】

 輝ける1位が、われながら切実とはいえ、なんとも地べたから離れられない悲しさを感じさせます。睡眠脳波検査を受けたのが、10年程度前でしたが、最も深いレベルの睡眠がまったくないという結果に唖然としました。その1、2年前から老化を感じてはおりましたが、眠りが浅いがゆえに日中が不活発になり、日中の活動が不活発であるがゆえに眠りが浅いという悪循環に。深いレベルの睡眠は、長時間は不要な様子で、2時間あれば十分とのこと。まだ、自分で「これだ!」という実感のもてる仕事をしたことがなく、このまま老いだけが進んでゆくのは悲しいことです。無駄な抵抗でしょうが、深いレベルの睡眠をえることが、最優先課題でしょうか。思えば、25歳ぐらいまでは4、5時間寝ると、熟睡しているので、低血圧とはいえ、集中力を発揮できました。今では、時間でカバーするのも限界だなと感じます。浅い長時間の睡眠よりも深い短時間の睡眠がなによりも創造の源泉だと痛感します。

 てなわけで、私を「買収」するのは意外と簡単なのかもしれません。ただ、「買収」する側のインセンティブが問題でして、山田洋行さんに唾さえかけてもらえそうにない現実は、ただ、ただ、悲しいのです。
posted by Hache at 01:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 不幸せな寝言