2007年11月24日

進歩する世の中 進歩しない私

 USBメモリーにデータがない。それがすべての始まりでした。これでは仕事にならないので、久々に『三国志11』でもと思ってディスクに入れてプレイを始めたのが失敗でした。1分程度で画面がブラックアウトしてどうにもならなくなってしまいます。しかたがないので電源を切って再度チャレンジするも、またも落ちてしまう。ここで寝てしまえばよかったのですが、ついつい頭にきてグラフィックボード(ATI RADEON X1300pro)のドライバ(Catalyst)をダウンロードしたら、エラーの嵐。既に夜中。頭にきて削除をしたら、今度は普通に動いていたものが動かなくなり、デルのサポートセンターへ。これが第2のミスでした。マニュアルにはない話にデルのサポートセンターが対応できるはずもなく、あれこれ動作確認をして、結局、ゴーストを使って出荷時の状態の戻すことを勧められました。

 正常なときなら、こんな馬鹿な話は蹴るのですが、ついつい疲れていると試したくなります。というわけでやっちゃいました。データのバックアップを取ったはずですが、うっかりIEのリンクを取り忘れて、気がついたときには既に時遅し。おまけに「Microsoft Update」で50以上の修正とウィルスバスターの入れ替えからオフィス製品の入れ替えと正常に動作していた部分まで大変でした。もうくたくた。このPCは計算などには強くてありがたいのですが(思ったより「Athlon64 x2 5200+」は速いです)、設定当初から音が出なかったりと不吉な状態でして、スリムなボディにありとあらゆるものを詰め込んでいるだけに無理があるのかなと。それにしても、『三国志』程度のゲームでも3Dを使っていて、これがネックになるとは思いませんでした。それ以上に、休日がまったく無駄に終わって、土曜日も後始末で手一杯。疲れました。

 気がつくと、Officeも2007ばかりになってきているようで、2003が生き残っているうちに確保せねばならず、OSもVistaばかりになると思うとゾッとします。XP搭載型のPCが生き残っているうちにと慌てて買ったのですが、どうも不具合が多く、無難にインテル系にしておけばよかったと思いますね。ノートンはあまりに重いので止めてしまいましたが、ウィルスバスターでも十分重くて頭が痛い。ノートは起動までが異常なまでに遅く、あと1、2年かなという感じです。セキュリティ重視は仕方がないのでしょうが、だんだん、世の中の進歩についてゆけない感覚ですね。見た目がきれいになればなるほど、使い勝手が悪くなってゆく感じがします。『信長の野望』シリーズや『三國志』シリーズなんて見た目が悪くてもいいじゃないのと思うのですけれど。そんなことを書きながら、「決戦制覇モード」で張飛になった気分で強敵を一騎打ちで蹴散らすのが楽しかったりします。まあ、「猛将」タイプには程遠いので、なんとなくあこがれる部分があったりして。とまあ、3Dを使わないとできない部分が楽しかったりするので、あまり大きなことが言えないあたりが、いつまでたっても変わらない、自分らしさであることに気がつきます。
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2007年11月12日

私は心が狭い

 自分でも心が狭く、幼いときから、母上に「なんて心が狭い子なの!」と叱られ続けてきました。申し訳ないようですが、「三つ子の魂百まで」というのを実感します。2007年10月18日に「フフンの逆襲」という「寝言」を書きました。元々は雪斎先生の記事で引用されている報道(『毎日』の記事)を確かめるべく、『参議院インターネット審議中継』から2007年10月16日の予算委員会における小池晃委員(共産)の発言を見たのがきっかけです。そこで当該質問における2回目の福田総理の答弁を書き起こしたのが以下の文章です。

 あのお、先ほどらいから聞いておりましてね。なんで、そのお、理解をするような努力をしてくださんないのかあと(高村外務大臣、苦笑から爆笑。鳩山法務大臣は退屈そうに耳をなでる。質問者側から野次)。見解の相違じゃないですか?これはいくら議論をしたってね。あのお、賛成とは言わないんでしょ?(質問者側も爆笑)結局。そうなんでしょ?まあ、私から申し上げればですね、米軍のね、アフガン空爆を加担しているというわけではありません。これはね。そして、テロリスト掃討に関わる国際社会の協調行動を支援しているんだということで、これはもう、あのお、外務大臣、防衛大臣が答弁していることでございます。


 この程度の長さの発言を「テープ起こし」をするのに1時間以上もかかるのは私の能力のなさですが、地味なところで手間がかかっていたりします。『寝言@時の最果て』では著作権がどうたらこうたらとかふれる気もありませんでしたが、そのままコピペしたとしか思えない、よその記事を見ると、がっかりします。見たところ内容も私の記事を知らん顔をして要約したとしか思えず(言いにくいですが、簡潔さとしては記事としての出来は向こうが上ですが)、率直なところ、不愉快です。私の記事では雪斎先生のところで引用されていた新聞で書かれている発言を読んだ後、時間をつぶしてネットライブラリーから再現しましたので、この部分を無断で写されるのは正直なところ、胸がむかむかします。もっと書きにくいですが、こちらのようにちゃらんぽらんなブログの記事の一部とはいえ、コピペする方がいることを想定していなかったというのが正直なところですが。引用に関しては、私自身は、引用元を明確にする方針でおります(書籍などで「行方不明」になってしまって、うろ覚えになっている場合は、お断りを入れた上で、記しております)。他人に関してはご自身でご判断くださいねというところでしょうか。失礼ながら、『赤福』や『吉兆』は騒ぎすぎという気もしますが、こういうことを平然とやる方は、他にもやってるんじゃないのと根拠もなく、他の記事も見る気がせず、偏見の目で見てしまう心の狭い人間です(こういうときには、ブログのサブタイトルを思い出して平常に戻らなければならないほど心が狭いのです)。騒ぐほどのことでもないので、この件は以上です。

 つまらない話が長引いたので、ちょっとだけ別のことを書きましょうか。かんべえさんが「不規則発言」(2007年11月11日)で「コンプライアンス不況?」と嘆いています。「つくづく日本人は、ルールに慣れるのは得意だけど、ルールを作るのは下手」と書かれていて、なんとなくうなずきそうになりましたが、「日本人」だけがそうかといえば、案外、欧米も似たり寄ったりではないかと。無闇にルールをつくる弊害は、日本だけではなく、欧米でも分野によって濃淡の差がありますが、意外と起きている。ルールづくりの難しさは、規制してもしなくてもよいところまでルール化しようとすると、肝心のルールが守られなくなってしまうことにあると思います。清朝時代の中国も似たようなもので、文明の「進歩」とともに、「繁文縟礼」が生じるのは、まともな検証がなく感覚的な「寝言」にすぎませんが、古今東西で変わらないような気も致します。まあ、日本人が「ルールに慣れるのは得意」なら、出来の悪い(この評価自体は留保をつけますが)ルールにも適応してゆくのだろうと。ただ、世界的な信用収縮を見ていると、どのタイミングで収まるのかは皆目見当がつきませんが、落ち着いた頃にはさらに余計なルールが増えるんだろうなあと思ってしまいます。

 明治以降、日本は近代化のプロセスで、法律をはじめ諸制度を輸入しましたが、単純に「コピペ」したわけではなく、戦前は特に受容にあたって日本の従来の慣習や制度と整合させるのに苦労したように思います。戦後も同様の時期があったと思うのですが、自信をなくすと、「コピペ」に走るものなのでしょうか。企業の内部統制とは話がかけ離れるのですが、教育制度などは、戦後の「諸改革」でとうとう江戸時代以来の蓄積を吐き出しつつあるように見えます。1990年代前半ぐらいまで日本の教育の国際的な評価が高かったのにもかかわらず、わざわざ壊しているようにも映ります。ルールづくりにあたっては、最初から万全を期することはできず、失敗がつきものだと思います。問題は、ルールの不完全さが明らかになったときの対応で、日本人が下手だとするなら、事後的によいものを残すという作業ではないかと。悪しきことをを改める以上に、良きことを残すというのは難しいのかもしれません。どちらも容易ではないのですが、惰性ではなく、意識的にうまくいっていることを変えないというのは、悪しきことばかりに関する報道が氾濫している社会では難しいという感覚があります。

 大上段に構えすぎて気恥ずかしいのでわが身に戻りますと、悪しき習慣をやめることができないという悩みが凡人のレベルですな。ブログを深夜に更新するなんて止めたほうがよい習慣なのですが。


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2007年10月21日

ご無体な民主党の「対案」

 小沢論文はスルーでいいのかなと思うのですが、民主党の対案がいつでるのだろう、「振り込め詐欺」じゃあないでしょうねと思っていたら、こんな記事を見て、びっくり仰天。これは言葉がでないというか、どう突っ込めというご指示なのか、『産経』だから意地悪く書いているのかと疑ってしまう始末。補給活動を補完する形での民生分野での協力強化はありうるのかなと考えておりましたが、この「対案」を読むと、補完的活動としてすら、非現実的に思えてしまいます。イラクでは復興支援活動のために陸自を派遣したが、アフガンではできないというのは筋が通らないというご趣旨の批判が民主党の方からあったと記憶しておりますが、イラクとアフガニスタンの治安状況の差を無視した議論であることが、「対案」のおかげでクリアーになった印象です。イラクの復興支援活動は、現地の情勢、自衛隊の能力、各国との強調などを勘案した上で、国内的制約のギリギリのところまでなんとか引っ張って実現したものだということを実感します。それにしても、アフガン人に「文民」の命を守る義理はなく、カネで命を買えるとでも思っているのでしょうか。

 なんでこんな変な議論になるかといえば、結局、補給活動を止めるべしという話がありきというところからおかしくなっている印象です。この点で妥協して民主党がなにを失うのか、私のソロバン勘定が変なのかもしれませんが、統治能力を示すことにはなっても、失点になることはないだろうと。「寄り合い所帯」なのは自民党自体がそういう政党ですし、自公連立ですから、現政権は、民主党が「寄り合い所帯」なら、いったい何なんだろうと。それでも、軍事の素人が見ても賞味期限の切れた赤福の方がマシとしか思えない(今は違うかもしれませんが、父上なら、カビが生えていても、平気で食べてしまい、腹を壊したことがなかったりします)「対案」がでてくるというのは論理的に説明すること自体、苦痛を覚えます。

 この記事にある「対案」が幻に終わるのかはわからないですが、ちょうど都合の良いタイミングで守屋氏の話が出てきて、よくできているなあと。私が悩むことではないのでしょうけれど、「テロとの戦い」から日本が離脱したときのダメージコントロールまで考えておかざるをえず、妙案がまるで浮かばないです。民主党の党内事情で外交・安全保障政策が振り回されるというのは寒気のする状態。コンセンサス形成が始まる前の混乱なのか、コンセンサス形成が不可能な状態であることを示しているのか、どちらなのかはわかりませんが、犠牲にすることがあまりに大きすぎる印象もあります。

 さらに苦痛なのは、解散・総選挙をやっても、参院は変わらず、仮に与党が勝利しても、訳のわからないことを言い出す野党の力が強すぎること。安倍政権以前どころか、小泉政権で実現した外交的成果が白紙に戻りかねず、それでもこの先10年やりくりする算段を考えざるをえず、あまりに厳しいという「不幸せな寝言」というより「悲しい寝言」が浮かんでしまいます。「善意の怖さ」という半分、ふざけたような「寝言」を書きましたが、現実無視という行動の代償ははるかに大きいでしょう。ただ、このように民主党の批判を書いても、ここまでひどいとは気がつかなかった自分の迂闊さの方が現実を知らなさすぎたという感覚です。
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2007年10月20日

気が重い5連勝

 寒いんだか、温かいんだか、はっきりしてくれと叫びそうになった頃に、風邪が治りました。あまり、まともな方にはお勧めできない方法ですが、「姉○設計」とか陰口を叩く方がでるかでないかギリギリのラインを読んで手抜きをして、ひたすら寝るという「療法」。かかりつけの医者に行けば、「風邪は寝て直しなさい」と言われるだけなので、芸のない方法ですが、幸い、なんとかなってしまう。悪いことは人様より早く来て、良いことは、よくて人様より遅れるか、こない場合が多い人間が申し上げるのもなんですが、風邪でお疲れの方はご自愛ください。

 え、あんた、妙に腰が引けてるんじゃないのって?まあ、そのお、恐れていた事態と申しましょうか、中日がストレートで日本シリーズを制して、既に気分は、札幌で打線はダルビッシュ−グリンに抑えられ、川上が血祭りに上げられ、勝ちパターンと思いきや、岩瀬が「ひいひい言わせたる」と打ち込まれる絵が浮かんでしまい、どうにも悲観ムードに勝てないのであります。順当なところで、プロ野球中継すらほとんどみない者が書くのもなんですが、王者北海道日本ハムファイターズ相手に一矢報いれば十分で、阪神・巨人相手に5連勝の反動で4連敗だけはやめてくれと弱気な元ファンの叫び。

 ただ、「元」だけに短期決戦に弱いはずの中日がなぜ、クライマックスシリーズを制したのかはわからず、こちらを拝見して、なるほどと感心したしだいです。落合監督の成長というのは、言われてみれば、納得。中日は、リーグを連覇するほどの地力はないので、そもそも監督が短期決戦を勝ち抜くノウハウを蓄積する余裕がなく、昔に比べれば、贅沢な悩みよのおと思いました。今年度は正確にはリーグ優勝をしたわけではないのですが、なるほど「2位狙い戦略」というのは、昔を考えると、2位で泣いた過去が幾度となくあるだけに、短期決戦を勝ち抜くノウハウを蓄積すれば、制度変更を上手に活用できるのかなというところでしょうか。それにしても、上海馬券王先生が2003年10月12日付で「えー、中日の監督に落合が就任しました。なんと言う無謀な人事でしょう」と書かれていて、恥ずかしながら、落合さんが監督就任ということを知ったぐらい間があいてしまっているので、ひどいものですが。周囲でも、「これで外したら、オレオレ詐欺だなあ」という期待値の低い状態だったので、今の状況はちと驚きです。

 しかしながら、ファイターズの胴上げは、ナゴヤドームではなく、是非とも札幌ドームでお願いしたいです。2004年、2006年のときは大丈夫だったのかもしれませんが、1988年の日本シリーズで一部ファンがさらした醜態を全国で放送されるのは勘弁してほしいなあと。あのときは、確か工藤がマジギレ状態で二度と名古屋には行きたくないと発言していたように思いますが、ごくごく一部とはいえ、暴走すると、怖いのが中日ファン。阪神ファンも目をむく暴走をするので、あれだけは勘弁というところでしょうか。い、いかん、既に負け犬状態になっております。

 しかも、かんべえさんはなんだかんだいって優雅な韓国旅行。10歳近く年上ですから、この程度の「ご褒美」はもちろん、十分見合っているとは思うのですが、「格差社会」を実感します。「世の中の、善と悪とをくらぶれば、恥ずかしながら悪が勝つ。神も仏もねえものか」と呟きたくもなりますが、「女仕事人」に囲まれながら、幸せそうにしておられるご様子で、幸せな「悪代官」あるいはご所属を考えますると、「悪徳商人」というのもありなのかなと(なんのことかわからない方はこちらから2002年2月6日および11日の「不規則発言」を参照ください。そんなことがわかってなんになるんじゃというご質問には同意いたしますが、ついついクリックしてしまう「あんたも好きねえ」と言いたくなる衝動もあえて否定いたしません)。ソウルに行っている間にくさしておきましょう。さすがに、この状態なら、見られないでしょうからね。

 それにしても、風邪が治ったというのに、5連勝なんてするから、かえって気が重い。

はっ!

気が重い。気が重い。気が重い。気が重い。気が重い……重い気。

  不発(無念)
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2007年09月20日

麻生「閣下」の「陰謀」

 「不規則発言」を拝読して、ああ、阪神が負けたのねとネットで確認すると、「やっぱり」。ほんと、わかりやすいなあ。2リーグしかないのに「クライマックスシリーズ」なんてやめておけばよいのにと、どうでもいい寝言。中日が短期決戦に弱いのは織り込み済みなので、今年は阪神でいいんじゃないですか、フフン。でも、うかうかしていると、「あっさり塩ラーメン」(インスタントだけど)で長期も目指しますよ、フフン。うちは、井川とかメジャーへ挑戦するほどの選手はいませんが、国内ならそれなりに人は揃ってますからね、フフン。

 気を取り直して、「麻生陰謀説」は誰でも思いつきそうですが、このタイミングでやりますかね。もっと、「深い闇」がありそうですな。「旬」も過ぎたことですし、8月12日未明のやりとりを「時の最果て」風に再現しましょう。

A生:晋三、最近、覇気がないぞ。
安B:…。いつもテンションが高いですね。
与S野:まあまあ、平Nさんは私が手を回しておきますから、総理、ご安心を。たまにはカラオケでもどうですか?
A生:いいねえ。晋三もどうよ?
安B:……はい。

(某都内「高級」カラオケボックス)

A生:よーし、新曲をお披露目だ。
与S野:ほお、幹事長が作曲もされるとは存じませんでしたが。
A生:まあ、替え歌だけどな。谷村の『昴』だぞ。これで晋三も元気になるだろう。
与S野:総理も楽しみましょうよ。
安B:…(すでに虚ろな目)。

(A生が『縋』を熱唱。「さらば縋よ」のさびをバッチリ決める)。

A生:どう?晋三も吹っ切れただろう?こんな小憎たらしい奴の天下なんて嫌だと思えば、小Zなんて…。
与S野:総理、何のために続投したんですか?ダメですよ、逃げちゃ。
A倍:……。

(沈黙の後)

A倍:逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
A生・与S野:…。
A倍:辞めます。僕が降ります。
A生・与S野:……。
A倍:僕が辞めても、代わりはいるもの。
与S野:……負けたな。
A生:……。

(次回予告)

自分の心を克服できず、タロウからも逃げるシンゾウ。だが、コイズミは、チルドレンをあっさりと見捨てる。そこにやさしい言葉はなかった。次回、「安倍、逃げ出した後」。この次も、サービス、サービスゥ!(by 四石琴乃)

(補足)初回のみ、「逃げちゃダメだ」×5ですな。

 こちらは、辞任表明直後にお蔵入りさせたメモです。つまらない「寝言」ですが、夜は涼しくなりましたし、タイミング的にはこのあたりでしょうか。ちなみに、私は「エヴァヲタ」ではありませんので、誤解のなきよう。1995年には阪神・淡路大震災に続き、地下鉄サリン事件があって世情は暗く、経済も盛り上がりを欠く状態。知り合いに「絶対、これは歴史に残る」と勧められて、『新世紀エヴァンゲリオン』をとりあえず見ろと言われました。よくはわからないですが、「不条理」がテーマとかでバブル期入社組あたりで受けているとかなんとか。が、知り合いの部屋に案内されて、ドン引きした記憶があります。綾波レイ(変○ヲ○クの愛玩人形)のポスターにグッズ。この手の趣味はないなあとご遠慮しました。

 数年後ですが、CATVでCSの配信をしていたので、『キッズ・ステーション』で『らんま1/2』を見るついでにエヴァンゲリオンも見ましたが、意外と絵がきれいだし、見れるなあと思って見始めたら、なんのことはない。「汎用人型決戦兵器人造人間エヴァンゲリオン」なるロボットは、「パイロット」(チルドレン)がプッツンして暴走しないと勝てない欠陥「兵器」。初回こそ、父、碇ゲンドウに連れてこられて無理やりロボットに載せられる碇シンジはなるほど入社直後に893がらみの「債権回収」にかりだされて、「やってらんないよ」とぼやいていた都銀に就職した先輩方の愚痴を思い出させましたが、あとになるほど、ストーリーが混乱して、ナンセンスさとギャグの「お約束」度(わかっちゃいるけれど、こちらの予想を超えるベタさに脱力する)でホッとする『らんま1/2』に軍配を上げた覚えがあります。

 肝心の(?)総裁選ですが、今回ほど自民党員でもなく、党員でもなく、まして議員でもなく、自民党で勝手にお決めくださいという感覚が前面に出るのは久々だなあと。細川政権は、「国民福祉税」のゴタゴタで訳がわからないけれど、しょうがないかなと思いました。村山政権は、自社さの枠組みをつくるための便法だというのがミエミエで、あの方の支持率が高いのが理解不能だったので、さっさとお辞めになってすっきりしたというのが実情。しかるに、今回は…。救いようがないですね。「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」はどうなるんでしょう。誰が総理になるかよりも、こちらの行方の方が気になります。

 まあ、それにしても、「政界再編」が「排除の論理」で進むとは思えず、いったいどうしてそんな夢想ができるのかが私にはわかりません。「自民党崩壊」ならありそうですが、単に混乱するだけで、仕事が進むとも思えず、摩訶不思議。「左右」の「原理主義者」の方たちがお疲れになる、あるいは「共倒れ」になるのを待つしかないのかなと無気力な「寝言」が浮かんでしまいます。


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2007年09月10日

元がとれない!

 まとまった休みがないと、ゲームはきついです。PCで悪戦苦闘(マウスで戦闘をやるのは本当につらい)して『大航海時代IV』(ソースネクストが販売している廉価版)をなんとかクリアしたものの、もう一度やろうという気力が起きず、PS2でやり始めましたが、こちらは読み込み・書き込みのスピードが遅くてイライラしました。しかも、平日は無理なので土日に集中するのですが、一週間が過ぎると、次に何をしようとしていたのか、忘れてしまいます。普通のRPGよりは自由度が高いので、かえってそのことがあだになっている感じ。他方で、SLGほど気分しだいで進めることも難しいので面倒になることもしばしばです。それにしても、『クロノ・トリガー』といい、PS向けに開発されたソフトはPS2では、とくに読み込みですが、異様なまでに遅くて疲れます。、

 それでも、日曜日にPS版をクリアーしてホッとしました。『大航海時代』シリーズの初回作が販売されたのが1990年とのことですので、当時はまだ学生でした。大学時には全くPC・家庭用ゲーム機を問わず、ゲームを一切やらなかったので、この時期に販売されたゲームにはまったく縁がなく、『大航海時代』シリーズもご縁がありませんでした。20代後半ぐらいに知り合いにゲーム狂がいて、それにあてられて『ときめきメモリアル』なるゲームをやって、あまりの下らなさについついはまってしまいました。話がそれてしまいますが、お気に入りは紐緒結奈。名前からしてある性的嗜好を示唆しているようにも思えますが、マッドサイエンティストという設定がたまらなく、たとえばデートでショッピングにでかけて、行き先が確か(1)ブティック、(2)アクセサリーショップ、(3)ジャンク屋となっていて、普通の女のことであれば、(1)と(2)がメインでしょうが、迷わずジャンク屋。主人公が科学部所属ですと、たしか「カゼナオール」だったかな、しょうもない薬で高校生でありながらノーベル賞受賞という信じがたいイベントが生じます。当時はよく風邪をひいたので、この薬ほしいと思いましたが。知り合いに拉致されて無理やり知り合いの家でクリアーさせられましたが、終盤、対決があることまで予想して体力を貯め、クリアーした後に『ときめきカルトクイズ』(?)でいきなり不正解なしの一発クリアー。ありゃま、「時の最果て」とはいえ、お約束のとりとめのない展開になりました。

 『クロノ・トリガー』やFFVIも勧められてやってみましたが、FFは今ひとつ、『クロノ・トリガー』は個人的には「大当たり」でした。この時期にSFCの『提督の決断II』をやりましたが、こちらもバカにしていた割りにやり込みました。「非国民」ですので、アメリカ海軍にすっかり惚れ込んでしまって、日本側でクリアーした後は、アメリカをもって最小の犠牲でどうやったら日本を屈服させるかだけを考えておりました。という話をうっかり漏らしたら、反米の人たち(「右」・「左」を問わず)から「やっぱりお前は英米系だと思っていた」(顔は誰が見ても東洋人(東洋人の中でもとりわけ不細工な部類ではありますが)だと思うんですけど)とか「この非国民!」(これ「左」の人が使うのはどうかと思うんですが)と言われて、インテリと呼ばれる人たちにはついてゆけぬ、まあ、インテリじゃないからいいかという程度の反応。たかがゲームに大人気ないなあと思いつつも、好みが出るんですかね。それにしても、ゲームでアメリカ海軍を好んだら、「親米」というのも解せぬ話。「右」だの「左」だのの騒ぎはその程度とこの程度のことで勝手に思い込んでいます。妄想癖が強いことぐらいは自覚がありますので。

 最近、文章で書くのが難しいことが多いです。簡単に言うと、とりとめがないのが「時の最果て」のお約束ではあるのですが、言葉として表現するのが面倒だなと。簡単に言ってしまうと、年金問題だけなら時間をかけて解決すれば済む話ですが、加えて閣僚の不祥事が連続すると、もたないなあと。集団的自衛権の問題どころではなくなって、政権への期待値がどんどん低下しました。ふだんの話を聞いていると、自民党でも民主党でどちらでもよさそうな、要は無党派な人たちに最近の話を聞いてみると、驚くことに私の知り合いが偏っているのでしょうか、ほとんどが安倍政権を支持していました。あまりに意外だったので理由を聞いてみると、安倍政権は小泉路線の継承と映っているようで、閣僚の「不祥事」や「失言」(「とどめ」の方は私にはなぜ辞めなければならないのかが納得できないのですが)の程度からしてこんなことを繰り返していたら、閣僚のなり手もいなくなるという「危機感」があるようです。都市部、30代がほとんでですが、コアな安倍政権支持層からすると、「訳のわからない人たち」というところでしょうか。要は、安倍政権に小泉路線の継承を期待した人たちで(急進的な部分の修正も含む)、なおかつ、日米同盟の強化には私ほど積極的ではないけれど(だから私とは期待値が異なる。当然、発足当初は私の方がはるかに高い)それ自体は安全の確保で代替する手段がないと考える人たちで、強いてイデオロギー的なポジションを挙げれば、自由主義、あるいは古典的なリベラリストで世界中(とはいうものの、アフリカやアラブ世界、中南米は少ない)を旅しているという意味ではコスモポリタン的な人たちというところでしょうか。戦後日本社会が安定している理由の一つとして「一億総中流」と揶揄するぐらい中流層が分厚く堆積したことが挙げられることが多いですが、同世代の知り合いは、その延長線上に来る人たちなのかなと思ったりします。このような人たちがどの程度の「厚み」で存在するのかは私にはわかりませんが、全体として「べき論」を嫌う傾向があり、彼らもブレはあるんでしょうが、ぶれても幅が小さい印象があります。ただ、残念なことに多数派ではない印象もありますが。そんな変わった安倍支持層に、「官邸が終わってますから」ととどめを刺す私は自分でもなんなのよ。『官邸崩壊』でも読めっていうところでしょうか。

 安倍総理がいよいよ進退をかけてテロ特措法の延長に乗り出して複雑な気分です。パッと思いつくのは、鳥取城に籠城するにあたって自分の首を入れる桶を準備した吉川経家の話でしょうか(安倍総理の敵が羽柴秀吉クラスではないのがもの悲しいですけれど)。この巧拙の評価は非常に難しい。正直なところ、私の能力を超えます。まず、この発言で安倍総理は自分の思い込みのために日米同盟を犠牲にするような輩とは格が違うことが明確になったというところでしょうか。自民党内にもこのような人がいらっしゃるようでゾッとしますな。しかし、そんな人たちと一線を画してもあまり意味がなく、安倍総理もそのような意識はないでしょう。次に、法案成立という点から見ると、あまり得策ではない。民主党に致される形で「本丸」のありかを示したわけで、民主党も政権をとる可能性がでてきて自制が働くのではと観測する向きもありますが、ここは勢いで廃案にするためにありとあらゆる手を使ってくるでしょうし、参院の過半数に加えて議事進行を抑えているというのはかなり険悪な感じです。戦術的には拙い印象です。

 それでは最も大切だと私が考える日米同盟、あるいは日米関係への影響はというと、悩ましい。これで延長できれば、少なくとも安倍総理がご自身の「首」をかけて同盟が機能していることを日米両国に印象付けられるかもしれません。問題は米側の識者がどれだけこの問題に関心を抱いているかどうかですが。他方で、波乱はあったものの、政治・安全保障レベルの「日米融合」が不可逆であるという話になります。問題は、延長できなかった場合ですが、ここで安倍総理が政権に居座る可能性は無視できそうなので、総辞職で新政権発足という話になって、これはさすがに日米に衝撃を与えるでしょう。テロ特措法は、正式名称の長さもさることながら、法律として出来がよいかは疑問もあります。他方で、2001年11月2日公布に至ったスピードはすさまじいものを感じます。9.11の衝撃のすさまじさをあらためて思い起こしますし、それから6年という歳月の儚さも。政権が交代しても、新法でフォローするというのはさらに難しく、小泉政権・ブッシュ政権の「日米の夏」から一気に「日米の冬」となるのは必定。「油」がイラクへ行っている(ある範囲内では常識ではないかと思いましたが。「今更、なに?」というのが正直なところ)とかけち臭いことを問題にする人が我が物顔で歩くようでは大変だなあと。法案の延長が、単なる失敗であれば、その負の効果はじわじわとでてくるのでしょうが、内閣総辞職・新政権発足(この場合、麻生政権でしょう)となった場合、否応なく日米関係が冷え込むことは避けようがなさそうです。さらに言えば、アメリカへの「発言力」を欲してテロ特措法延長に反対する方が少なくないようですが、逆でしょうね。どうも40代後半から50代前半で日米構造協議の「最前線」で活躍された方には、この種の経験の「呪縛」から逃れられない人が多い印象があります。言論の世界の「反米」は無視しても何の問題もないと思いますが、統治の中枢にこの手の方が無視できない程度にいらっしゃるということを考えると、テロ特措法の延長に失敗した場合、同盟強化、あるいは日米同盟の双務性を高めるどころか、同盟を維持するのがやっとという橋本・小渕政権以前の状態まで戻る不確実性まで生じるでしょう。冬に鍛えられた木の年輪は薄いけれどもしっかりしていますが、自ら望んでわざわざ冬の時代に戻ることもなかろうと。ただ、ペシミスティックな私は、ついつい敗戦国というのは生き延びることがやっとになってしまうという思い込みから自由になれない部分があります。テロ特措法の廃止を願う人たちが、自国の生存に楽観的であるという意味での「タカ派」に見えてしまう今日この頃です。

 大航海時代から遠く離れてしまいますが、かんべえ師匠の表現を拝借すると、「米中融合」は経済的相互依存という点に絞れば、さらに、プレイヤーの一方が中国という戦略性の高い国であることを考慮しても、ある程度までは自然現象のようなものでしょう。平たくいえば、市場経済がもたらす交易の利益の存在によって、米中に限らず、今後も経済的相互依存関係は世界中で深化してゆくでしょう。大胆なことを書いてしまえば、これから国際的な信用収縮が仮に本格化しても、国際的な協調体制が崩壊しない限り、「春の雪」でしょう。微妙な点は中国が第2次世界大戦後の国際協調体制の責任ある一員になるのか、アウトサイダーとして国際的なアナーキーを生み出す源になるのかということしょう。この点に関して私はなんの知見もないのですが、中国、あるいは中国共産党の戦略性が高いとしても、仮にアウトサイダーとして振舞う方がそうでない場合よりも利得が高い、あるいはそのようにプレイヤーが認識すれば、合理的な選択の結果としてアウトサイダーとして行動するしかありません。経済的な相互依存がただちに政治的相互依存に結びつくわけではなく、どちらが先かというのも「神学論争」だと思いますが、「米中融合」から中国が国際秩序を支える一員になること自体は、この国のプレゼンスの低下を懸念される方もいらっしゃるでしょうが、それ自体は望ましいことだと思います。政治と経済は関連もするし、しないこともある。政治と経済が関連しても、それが補完的か代替的かというのは状況に依存するのであって、決定論的な思考で説明することはできないでしょうというのが「時の最果て」のスタンスです。不確かな記憶ですが、1990年代後半に中国のGDPが日本のGDPを超えたという論文が、どの雑誌だったかすら忘れてしまいましたが、発表されて中国脅威論が周囲でも(左翼の人も含めて)盛り上がった時期がありますが、私自身は冷たい性格ですので、「アメリカが中国を市場経済に上手に包摂できるかどうかが政治的な問題でGDPの金額自体はあまり問題ではない」とふれまわって白けられたことがあります。善悪はわからないのですが、当時から10年程度経過して、あまり自分のスタンスに変化がないのが自分でもちょっと不思議です。ただし、「責任ある一員」の見返りが「台湾海峡」となりますと、アメリカの「統治能力」には疑問符がつきますが。

 まったくとりとめがなくなっていますが、「ナイ報告書」が出た頃に岡崎久彦さんの『繁栄と衰退と』を拝読して、オランダの歴史が自国の歴史に重なって見えてしまい、勝手に先生と仰いでしまいました。大航海時代、その後のイギリスの覇権が確立する時代には政治的相互依存の大半は王室の関係で現在と比較するのは乱暴ではありますが、緩やかな意味で歴史は繰り返すのかもしれないとぼんやりと考えていた頃に非常に刺激を受けた覚えがあります。歴史が繰り返すのかそうでないのかは、答えがあるのかもわからない、問うこと自体に意味があるのかもわからない、しかし、いったん、この問題を考え出すと、生と死と同じ程度に「病気」になってしまうやっかいな性癖です。お盆休みに『大航海時代IV』などやらずに、読書でもしていればよかったのですが(本や文献は読んでいたものの、犠牲にした時間が今となってはもったいない)、なんとか元をとろうとしてあれこれ考えたものの、サンクコストはあきらめた方がよいという、なんとも平凡な結論にしかならない自分が悲しいです。ブログの記事のネタぐらいにしかならないなあ。長くなったので、「大航海時代(完結編)」はまたの機会に。

 自分でもラティーナ船一隻で遠洋航海しているような気分になりました。最後までお付き合いいただいた方には感謝いたします。 
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2007年08月28日

美しい国とドタバタ組閣の落差

 閣僚名簿はこちらしか見ないのですが、安倍内閣になってから改造以前の名簿や途中で交代した閣僚が記録に残らなくなってわかりづらくなった印象があります。言いにくいですが、あまりに悲惨だったことを象徴しているような感じでしょうか。今回の名簿を見て思ったのは、最初から大筋この布陣だったらねえというところでしょうか。証文の出し遅れ。安倍カラーがどうというより、最初に仕事ができない内閣を組んだ代償は大きい。怖いのは、安倍総理が挽回に必死になりすぎることでしょうか。どれをとっても成果が出るまで時間がかかることを内閣の主要課題とされているので、記者会見の要旨を拝見しても、底を打ったという感じは全くしないです。相変わらず力みがとれない。

 外野は外野で見苦しくて、自分の予想が外れたときに、成果を出している人の話をもってきて、自分もそうだといわんばかりのことを書き、任命権者が「空気が読めない」というのは本当に見苦しい。これは、大物扱いされながら実力が伴わなかったジャーナリストにありがちな末路でして、「末路」にならないことを期待いたします。予想なんて外れる方が普通と構えておいた方が、けっきょく致命的な失敗をしないと思います。私もそうですが、世の中の大方の人たちは大過なく死を迎えるのが精一杯で、一生懸命生きても、その程度でしょう。

 結論は、日曜日にどうでもいいテレビなんて見るもんじゃないなと。平日までドタバタ劇を見させられてうんざりしました。失礼ながら、すぐにお名前を忘れてしまうのですが、入閣要請がなくて抗議までしたという方の記事を読みながら、美しい国づくりの前に、美しくはなくてもせめて人様にお出しできる自民党づくりでもしてくださいね、フフンてな感じ。期待値を発足当初からだいぶ下げてきましたが、ゼロになりました。
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2007年06月05日

残酷な現実 続・忘れるということ

 時事通信社のHPに「頭の中身も整理が必要?=大事な記憶のために物忘れ−脳科学実験で判明・米大学」と題する記事があって、読んでみて興味深く感じました。記事の元になった原著論文の要旨(Abstact)はこちらにあります。フルペーパーを読むためには30ドルが必要なので、落ち着いて読む時間ができた際に読んでみようかなという感じ。日本語の記事は、フルペーパーを元に書かれているようですが、要旨を読むと、論文のねらいとはニュアンスが異なっているように感じます。「時の最果て」の中の人のように、脳みそがざるのようなしくみの人はともかく、神経科学が「忘れること」の効能を安直に説くはずがないだろうという気がいたします。

 専門用語がわからないなりに要旨を読めば、目標となる記憶と関連する競合する複数の記憶からどの記憶を選択するのかという問題に、繰り返し選択された記憶と比較してそうではない記憶は忘れられることによって、神経処理上の効能をえていることを実験で示したという、「禁欲的」な話です。日本語の記事でゆけば、"Attic"に関連する記憶のうち、"Dust"を繰り返し選択すると、両者の記憶の関連性が強くなるだけでなく、他の記憶の体系である"Movie"とそれに関連する記憶と比較しても、"Attic"に関連する記憶のうち、"Dust"以外の単語は忘れられてしまうということです。フルペーパーを読んでいないので危険ではありますが、日本語の記事にある「意外なこと」が大切だと思います。つまり、原著論文の要旨にも書かれているように、「忘れる」ことの意外な「効能」が実験で示されたということ自体は間違いではないのでしょうが、繰り返し刺激を与えなかった記憶群との比較との解釈は、フルペーパーを読まないとわかりません。この実験で示されているのは、(1)ある記憶と関連する記憶が繰り返し関係付けられたときに、他の競合する記憶が弱くなるということが定義され実験的に確認されたということ、(2)ある記憶と関連する記憶が忘れられるということは、"cost"(厳密な定義は不明)とみなされがちだけれども"benefits"をえているという点で神経処理上の適応性があるということでしょう。ざっと見た印象では「忘却」のプロセスの一部を示してはいるものの、それ以上ではないだろうということと同時に「忘却」のプロセスの基本を示しているように思いました。

 無神経な私には神経科学など「縁なき衆生」でありまして、「忘れるということ」とか「『忘却』の効能」などといった「寝言」をなんの裏付けもなく書いております。なにかを選択するということは他の選択肢を捨てることである、あるいは、なにかを覚えるということはなにかを忘れるというちょっとしたペシミズムがあります。そんな私に30ドルもする論文は「猫に小判」でしょうが、神経科学の世界でも、"competition"という用語がでてくるのには驚きます。「競争」ではなく、「競合性」と訳しましたが、冗談、もとい「寝言」半分で「年をとると、どんどん図々しくなって、記憶も一種の『市場』で、記憶に残ったものが『勝者』なんだろうと」などと口走ってしまいましたが、素人にありがちな基本である"competition"の要素への洞察がまったくかけていることに気がつかされました。

 この実験では、日本語の記事を読む限りは、操作すべき記憶は外生的に与えられているようです。素人の目からすると、脳における情報処理のプロセスを確認するためには、操作の対象となる記憶とそうでない記憶を峻別するためには必要な前提なのだろうと映ります。利用可能な「資源」が有限であり、その「資源」を利用する選択肢が複数、存在し、すべての選択肢を実現するためには、「資源」が不足している場合には「競争」ないし「競合」が生じるのは、ある種の「自然現象」のようなものでしょう。私たちが日常生活で行っている様々でかつ総合的な意思決定と神経科学で対象としている神経伝達や処理のプロセスは、ある一面において共通しているように映ります。ふと、それはヒトの個体としての特性から生じるのか、社会的な営みから生じるのか、それとも、認識の形式に由来するのだろうかという「寝言」が生じます。乱暴な表現をすれば、「個」に似せて「全体」が形成されるのか、「全体」に似せて「個」が形成されるのか、そもそもそのような共通性は対象によるのではなく主観の認識の形式によるのかということです。私自身は、上記の立場は背反するものではなく、補完的なものだろうと思いますが、確信はありません。いずれにせよ、利用可能な「資源」が増せば、選択肢は広がるでしょう。しかし、再び、「有限性」の問題が表れるのだろうと思います。

 古い知識なので最新のneuroscienceでは別の解釈がされているのかもしれませんが、アインシュタインですら脳のごく一部を使っていたにすぎないということを子供時代に読んだ記憶があります。もし、人類が進化して脳の「使える」範囲がさらに増せば、どんな世界が見えてくるのだろうと思いを馳せた時期もあります。「使える」範囲が増せば、それに対応する強靭な肉体が必要になるのかもしれないとも。

 しかるに、夢多き少年は、歳月とともに、クロック数の高いCPUが発する熱に手をかざしながら、少年時代に考えたことから、脳の「使える」範囲が増えたならば、もっと痩せているだろうにと「寝言」をつぶやいてしまうのであります。いや、「時の最果て」でよけいな抑制など不必要でしょう。使える範囲ですら、ベストをつくしていれば、こんなにぶくぶく太るはずがないのであります(有機フッ素のせいにしたいところではありますが、そのような「逃げの一手」すら打てないのが悲しい)。嗚呼、これぞ、「血も涙も、そして夢もない」現実そのものであります。この現実はあまりに残酷で、Abstractとしか読んでいないとはいえ、この論文はデブであるということは「効率的に」脳をしようしているのだと慰めるしかない「残酷な現実」を思い知らしてくれたのでした。
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2007年05月28日

奇妙な「弔辞」

 あたふたと一日が終わって帰ってくると、ふだん見出ししか見ない夕刊に松岡利勝農林水産大臣の自殺が報じられていて珍しく読んでしまいました。よほど気が動転したのか、3週間ぶりぐらいにテレビの電源を入れました。自殺の背景(スキャンダルと党内の圧力)や参院選、そして政権へのダメージをコメンテーターなる方たちが解説するのをボーっと見ていました。メディアが報じない、あるいは誰にもわからない部分もあるのでしょうが、こんなものでしょうなという感じ。ついでに年金の問題も見ましたが、いまだによくわからない。生活に直接かかわるだけに、「被害」にあった方々にとっては切実な問題でしょうが、記録が完全になくなってしまっている場合はともかく、そうではない方も少なくないようなので、社会保険庁の過去の「悪行」も含めて実態を把握してほしいというところでしょうか。ことがことだけに、短期的に話を済ませたくなるところですが、あまりにずさんな話なので、ここで膿をだしつつ、BSE騒動のときのように騒ぎを収拾することだけに追われて、別の「傷」をつくるのはまずいだろうなと思ってしまいます。

 話がそれましたが、松岡大臣の自殺。首相官邸HPを見たら、若林正俊環境大臣が既に「臨時代理」となっていて、不測の事態とはいえ、政権は機能しているんだなあと素人的に思いました。ちょっと気になったのが、副大臣が臨時代理というのはないのかなということです。ちゃんと根拠となる法律を読んでいないので、たぶん無理なんだろうなあとは思うのですが、内閣法10条の規定を読むと、国務大臣の(臨時の)代理は総理または他の国務大臣に限定されるのでしょうか。今回の事件とは性格がおおいに異なりますが、リクルート事件がらみで宮澤喜一大蔵大臣(当時)が辞職した後、竹下登総理大臣(当時)が兼職したことを思い出しました。自分でも本題から逃げていますね。

 正直な感想を書いてしまうと、今回の事件で大臣というのはずいぶん値打ちが下がってしまったなあということです。スキャンダルやその他の事由(今回はスキャンダルのみが焦点のようですが)で閣僚というよりも、総理大臣が交代すること自体は、散々見てきたので、スキャンダル自体に、一時期はうんざりしましたが、なんとなく鈍感になってしまう。ただ、国務大臣が自殺するというのは、ひどい話だと思います。ここまで国務大臣の値打ちが下がったのは初めてでしょう。死者に鞭を打つつもりはないのですが、「責任」のとり方として最悪の方法を選ばれてしまったようにしか見えないです。こんなことで国務大臣が「首」ではなく(それですらどうかと思うのですが)、「命」を捨てるようでは国務大臣の値打ちがゾッとするほど下がってしまったという印象をもちます。私自身が、キリスト教その他の宗教の価値観の影響を受けているわけではなく、自殺を美化しかねない風潮には子供のときから違和感があったので、まして公人が自殺するとなると、もう「評価」する気にもならないぐらい、やるせない気分になってしまいます。例外は、戦時ぐらいで、戦時ですら、自死による「解決」というのは美化できない部分があります。先の大戦のような場合は、選択の余地が少なかったのでしょうが、公人たるもの、死ではなく、生きて責任を全うしていただきたいと思うのです。

 困ったことに安部総理が「任命権者」としての「責任」をあっさりと認めてしまった。おそらくは、松岡大臣をかばいすぎて、結果的に「退路」がなくなってしまったことへの率直な感情の発露ということなのでしょう。世評は私よりもはるかに複雑に安部総理を批判したり評価しているようですが、私自身は、安部総理は「善意」の方だと考えておりました。それとなく懸念をもっていましたが、このような形ででるとは思いませんでした。今回の事件そのものは、安部総理と松岡大臣という個性の組み合わせによるところが大だと思うのですが、「統治」の中枢でこのような事態が生じることは、非常にまずい。メディアでは政権へのダメージばかりが取り上げられるようですが、今回の事件が突発的な、一過性のことで終わるのを心から願っております。職に一命を捧げること自体は美しいのですが、今回の事件は、「善意」をもつ側と受ける側のきわどい部分がもろにでてしまったように感じます。この事件そのものは、安部政権のもつ独特のあやうさがわかりにくい形(というより報道を見聞きしてあらためて解説部分がいらないことを感じます。高いところからものを申すようで気がひけるのですが、深読みばかりしていると、当たり前のことが見えなくなる印象があります)で表出しただけの話だと思いますが、国務大臣の「値打ち」の低下となると、一政権の問題にとどまらないでしょう。深刻に考えすぎているのかもしれませんが、この種の悪しき「前例」は、二度と起こさないことによってしか、根絶することが難しい。今回の事件が、安部政権特有の問題で終わることを願わずにはいられません。神経質すぎるのかもしれませんが、悪しき前例というのは、ことが起きたときにはわからないことが多いような気がいたしますので。
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2007年05月06日

やっぱり「衰退史」?

 平間洋一『第二次世界大戦と日独伊三国同盟』(錦正社 2007年)を手にとりましたが、第1章から、おそらく著者の意図とは逆に絶望的な気分にさせてくれる、叙述が連続して、なんともいえない気分になりました。満州事変、それも、日満、日独、独満の貿易が両国を接近させたというあたりで嫌気がさしますが、1941年のヒトラーやリッベントロップと松岡洋右の会談でシンガポール攻撃が議論されていたあたりは常識なのでしょうが、本当に絶望的な気分にさせてくれます。幸い、この際には海軍が消極的だったので、ヒトラーの「戦略」に乗って「自爆」したわけではなく、救いがないわけではないのですが、結果としてみれば、同じことをやってしまうわけで、どうにもならんなあと。さらに絶望的な気分にさせていただいたのが、第12章「海軍・外務省の戦争責任と東京裁判史観」で、戦時に戦争への政治的リーダーシップがまったくといってよいほど欠如していたことを、著者の意図と反してここまで抉った著作も珍しいのではないかと思いました。外務省だけが戦後、いい子ぶってというのはわからないでもないのですが、ここまでセクショナリズムが引っ張られていたということを示されると、つくづく、帝国は滅亡するべくして滅亡したという気分になってしまいます。

 まだ、全部を読んだわけではないのですが、コミンテルンの暗躍がゾルゲ事件で劇的に示されたように、政治的リーダーシップを妨げた側面はあるのでしょうが、防諜という観点から、このような暗躍を許した脇の甘さが理解できない。「防共協定」を結んでいながら、「防諜」はできなかったようで。政党からも軍からも官僚からも政治的リーダーシップが発揮されなかった悲劇が、通説とは異なった観点から示されていて、非礼ではありますが、通説以上に、絶望的な気分になります。ヒトラーの「戦略」でも、ルーズベルトの「罠」でも、コミンテルンの暗躍でもなんでもよいのですが、要は、通説から離れると、さらにこの国の運命がこの国自身から離れていたことを感じてしまいます。戦前の政治的指導者が絶望的に無能に見えてしまう。

 「反共」にしても、ゆきすぎれば、右の全体主義となるだけで、「敵」とたいして変わらなくなってしまう。さらにいえば、ヒトラーは単に右の全体主義というだけでなく、事実上、大英帝国を解体しようとし、英米の覇権へ挑戦していた事態の評価が抜けてしまっている。戦時中の米兵の意識が「人種差別的」と言われても、直接、アメリカ本土へ攻撃した国とそうでない国とで差があるのは当然だと見えてしまう。結果的に真珠湾攻撃が戦略的に日本の選択肢を消してしまったということがまるで見えなくなってしまう。「東京裁判史観」の見直しは、やりたい方はどうぞというのが正直な気分ですが、こうも政治的リーダーシップの欠如が浮き彫りなるというのは、想像を絶します。ナチスを裁く流儀を日本に持ち込んだのはどうかねえとは思いますが、それを「見直す」話になると、よけいに絶望的な気分に。

 戦前の失敗というのは、ナチスが英米の覇権に挑戦し、それに加担することがどのような意味をもつのかということに関して、当時の政治的指導者がどのように認識していたのかという点に尽きてくると私は思います。しかも、真珠湾攻撃はアメリカ本土への攻撃であり、ルーズベルトの仕事を容易にしてしまった。このあたりは、平間先生は百も承知で、通説では描かない部分を描くことで異なった「絵」を描かれようとされたのでしょう。ただ、あまりに赤裸々に戦前の意思決定に整合性がなかったことが通説以上に目立ってしまい、ナチスと異なって、沖縄を犠牲にし、原爆が投下され、ソ連の参戦後という、「最後の最後」とはいえ、「損切り」ができたあたりがわからなくなってしまう印象があります。このあたりの機微は、私にはいまだによくわからない。

 ただ、あの戦争を善悪是非の観点から離れないと、どうにも見えてこない部分があることを感じます。また、それが限りなく「神の視点」に近いことも。時代がたてば、個人の毀誉褒貶から離れて、もう少し違った視点から見ることができるかもしれないと考えておりましたが、容易ではないことを感じます。「時の最果て」では、フランス革命以降、フランス、ドイツ、ロシアの興隆と衰退に似たようなプロセスがあるのではないかという強引な前提に立って、この国の戦前史を見たらどうなるのでしょうという、非常にちゃらんぽらんなアプローチですが、まだ、あの戦争について語ることが難しいことを平間先生の著作を拝読しながら、しみじみ実感いたします。もっと憂鬱なのは、経済的な繁栄とは区別される、この国の「衰退」に私たちの世代が中心となったときに歯止めがかかる自信がもてないことではありますが。集団的自衛権の問題にせよ、憲法改正にせよ、ある範囲内で党派性をもつのはやむをえない気がいたしますが、過度に党派的な文脈で論じられているのを見ると、私どもの世代でこのような「壁」を乗り越えてゆけるのだろうかと不安になってしまいます。
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