2007年03月30日

「あたふた」のち「アリア」

 年度末となると、仕事だけでなく、各種契約の更新などバタバタしてしまいます。住宅の賃貸契約の更新を終えてホッとしたら、「あれ、今年は住宅保険は?」と思い出して、「お客様の手元にお保険会社から届いているはずですが…」と言われて、またもあたふた。帰宅して取り出すと、契約書がでてきました。地震保険に入っているなどとうっかり漏らしてしまうと、ゼネコンの方には笑われてしまうのですが。阪神・淡路大震災や関東大震災クラスなどがきたら、保険会社の支払能力を超えてしまうので、無知な人とよく知っている人は入らないそうで。中部地方で育っていたときに「脅し」続けられた東海地震(浜松のときには防空頭巾を座布団代わりにしていました。あの習慣は、今でも残っているのでしょうか)への恐怖感のせいか、やはりいざというときを考えてしまいます。保険会社の支払能力以前にくたばったしまえば、「これでオシマイ」なのですが。下手に生き残ってしまったときの方が困ってしまう。ある種の「安心料」みたいなものでしょうか。

 契約プランを見ていて思わず目が点になったのは、「ストーカー行為等被害費用担保特約」なるオプション。野郎には縁のない話ですが、ひとり暮らしの女性は必要な時代なんだなと思いました。新聞でも社会面をまるで見ないのですが、これはよくない習慣だと最近になって気がつきました。どんな事件が注目されているのか、まったく知らない。話がぶっ飛びますが、ライブドア事件や村上ファンド事件などはまるで興味なし。30代後半になると、80年代後半に「青年実業家」なる訳のわからない人たちが山ほどいて、堀江氏や村上氏には失礼ですが、まだ生き残っていたのかという程度の感想。この程度であいも変わらず、騙されるのか、騒がれるのかと、まあ、殺伐としながらも「平和な」時代だなあと思います。

 仕事の後まであたふたしたので、政治だの、外交だの、安保だの、鬱陶しいものはすべて放り出して、ひたすらバッハの『管弦楽組曲』を満喫。当時の宮廷音楽は、おしつけがましさがなくて、聴きながら、当時の踊りや衣装を想像してしまいます。加齢とともに、西洋音楽でもバスティーユのどんちゃん騒ぎの後の音楽(除く、シュトラウス一家など)はうるさくて聴く気がしなくなって、音楽が王侯貴族や教会に奉仕していた時代の方が、なぜかはわかりませんが、耳になじんでしまいます。『管弦楽組曲』では「アリア」が妙にとりだされますが、「序曲」やメヌエット、ガボットなどが楽しく、若い人がJ-POP、母上が演歌を聴くのと大差がないというすちゃらかな楽しみ方。食べ物や衣服のように、クラシックも消費の対象という、すちゃらかな「クラシック好き」には、音楽家が「自己主張」を始めたあたりから、「クラシック音楽」の衰退が始まったような気がします。1789年なんかにどんちゃん騒ぎを止めておいた方が、西洋史にとっても、西洋音楽にとっても、幸福だったんじゃないかななどという「寝言」が頭をよぎります。もちろん、切干大根やカボチャの煮つけを頂きながら、「アリア」にうっとりするといういい加減な、いかれた「外道」の「寝言」ですので、マジレス不要。
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2007年03月27日

「意地の悪い」バッハ

 早目に仕事を切り上げて、家でボーっとほうけたような状態ですね。土日の睡眠不足での連続「稼動」がこたえました。年度末の作業が少しだけ残っていますが、一休みして、集中力が戻ってきたところで、一気に片をつけたいところ。小魚の小骨をとるような作業ですが、こういうのをバカにしていると、いつの間にか指が傷だらけになり、大事になりかねないので(幸い、この種のミスは経験がないのですが)、「そんなの適当でいいじゃない」という周囲の声を無視して、一呼吸。まあ、サボる口実に過ぎませんが。

 部屋が例によってぐちゃぐちゃなので整理をしていると、年末に買ったJ.S.バッハ『ブランデンブルグ協奏曲』(La Petite Bande, Leitung/Direction: Sigiswald Kuijken)がでてきて、われながら、「またまたベタなモノを」と苦笑してしまいました。よく考えると、ホッとするにはちょうどいいなと思ってCDプレーヤーにかけたら、気もちいいですねえ。ところが、第1番のアダージョで「えっ」と絶句。基本的に粗忽者ですので、これまでうっかり聞き逃していただけかもしれませんが、ベートーヴェン以降の私みたいなど素人からすると「技巧的」な音楽(小林老師の表現を拝借すると「音楽に言葉が入ってきた」)ですら表現できない複雑な「表情」を垣間見て、ギョッとしてしまいました。クイケンの指揮なので、古楽、あるいはピリオド楽器による演奏ではあるのですが、そんなことすらどうでもよく、この深刻さはなんだろうと考え込んでいる間に、フーガがきて幸せな気分に。

 バッハは、歳をとるまで封印しておこうと子供時代に決めた覚えがあります。なぜかは自分でもよくわかない。気がついたら、20代後半で「封印」を解いてしまって、『ブランデンブルグ協奏曲』が好きなどというと、クラシック好きには「健康的でいいね」と半ばバカにしたような反応が帰ってくるので、まあ、そんなものかなと。それにしても、作曲家が楽譜に音符として音を固定する以前に、彼らの耳に響いているであろう音を思い浮かべる能力が欠如している私には、あのアダージョは難しすぎる。

 誤解のないように申し上げておきますが、バッハのほかの曲や他の作曲家の曲がわかりやすいわけではありませんよ。だいたい、「作曲家が楽譜に音符として音を固定する以前に、彼らの耳に響いているであろう音」なんて本人に聞いても、忘れているのかもしれない。それにしても、あのアダージョはなんなんだ。最初が恭しく始まって、ちょっと居ずまいを正したところに、あのアダージョ。当たり前すぎますが、弦楽器がかきむしるような、管楽器が咆哮するような箇所は、ここに限らず、皆無。他方で、弦楽器がむせび泣き、管楽器が海鳴りのように響くというのでもない。考えすぎなんでしょうが、あの響きは複雑すぎる。バッハの謹厳な眼がちょっと意地悪な目つきになっているような気がする。「あなた、これわかる?」と難問をぽーんと放り出されて、困惑しているような気分。要は「歌心」がピンとこないまま、突然、別世界に放り出されたような感覚でしょうか。2番以降、優雅な響きの連続で幸せなんですが。

 あなたは冷静で客観的な判断ができる、偏りのない知性を持った人です。長い人生の中で自分が経験したことや、他の人から学んだ教訓などを総合的にまとめ上げ、一つの流れとしてとらえられる、達観の持ち主でもあります。そのため、突然身の回りでハプニングが起こっても、あなたはいつも平常心で対応し、最も適切な手段で解決してしまうでしょう。当然、多くの人から相談を持ちかけられているはずです。また、自分の人生経験のエッセンスを多くの人に伝えたいという欲求があるので、自伝やマニュアル本を書きたいと思っているかもしれません。いずれにしても、毎日をスマートに生きるための要領の良さには自信があるので、気持ちもおおらかで落ち着いているでしょう。

 まあ、こんな風に誉められれば、悪い気はしませんが、相談だの他人に伝えたいことだの面倒なことはかかわりあいたくないですな。私の人生は私の歩み、あなたの人生はあなたの歩みという薄情な私には、私自身のことで頭が一杯で他人の人生などわかろうはずもない。『ブランデンブルグ協奏曲』のようにベタな曲を聴きながら、頭を悩ませてしまう程度の人間にわかろうはずがない。真剣に「自分探し」をされている方には間違っても口にはできませんが、「自分」なんて死んでからわかる。自分が「自分」でなくならない限り、すなわち死なない限り、わかるはずもない。死んでからわかるものが生きているうちにわかるわけがない。私みたいにどうでもいい人間だと、死んでからみんなが忘れるでしょうから、未来永劫わからない。死人に口無し。「自分探し」をやっているわけではないのですが、書いていると、ふと「わかる」わけではないですが、「気づく」ことはありますね。実生活では間違っても口にしませんが。

 どうやら、私は自分で思っていたよりもはるかに薄情な人間らしい。とっくに周囲は気づいているのかもしれないけれど。それを隠そうともしないというのは、どうもよろしくないという気がしますね。バッハの「意地悪」のせいか、「達観」というより、あまりに鈍感になってしまった「私」に私が驚いてしまいます。もっと実生活で口を割れないのが、こんなどうでもいい「寝言」を書いている私はとてつもなく幸せだということではありますが。やはり、不幸せそうなふりを真剣にやろう。うん。
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2007年03月21日

幸せな一日

 人生谷あれば、山あり。火曜日に、ふと、そんな「寝言」が頭をよぎりました。

 かんべえさんは、岡崎研究所の「門前の小僧」を自称され、私はかんべえさんの「弟子」を僭称しております。「門前の小僧習わぬ経を読む」とは言いますが、「門前の小僧の『弟子』(自称)習わぬ経を読む」とはいかがなものか。図々しくも、御挨拶と称して2時間近く、居座るというのも、われながら、鈍感を通り越して無神経という気もいたします。言いにくいのです、いつも参りまするたびに居心地がよいのを通り越して、幸せな気分に……。

 「ところで、今日は何を聞きたいのかな?」と所長に切り出されて、まずは例の件。佐藤空将かんべえさんが書かれている件で、所長が破顔一笑。私もくつろいだところで、「さて、1897年から1907年と1997年から2007年のそれぞれ10年間をどう読むかな?」と突如、「公案」が出され、所詮は「門前の小僧の『弟子』」でありまして、絶句してしまいました。ニヤニヤされながら、「とりあえず、これ読んで」。もう目から鱗。こんな「絵」はまず思い浮かばないです。「これならバカでもわかるでしょ?」。「いやあこれでわからなかったら、本当のバカですよ」。「やっぱり台湾海峡情勢が気になるんですが……」と申し上げると、パパッと「とりあえず、これとこれを読んで」。「イラク情勢なんですが……」と申し上げると、「とりあえず、これとこれと、ああ、これもだな。全部、読んで」。こんな調子でどんどん時間がすぎてゆきます。

 台湾海峡については最悪の事態を想定すると、恐ろしいと申し上げましたが、内心ではわが方さえ間違えなければ、真珠湾攻撃の報告を受けたときにルーズベルトが押し殺しであろう笑いが浮かぶだろうなと思ってしまいました。人様を「極悪」だの、「非道」だの申し上げてまことに申し訳ない限りであります。いかれた「外道」は、「これで『戦後』は名実ともに死語になるな」と思ってしまいます。罷り間違えれば、滅亡もありえますが、こんなわかりやすい局面で間違えるようでは致し方ないというところでしょうか。

 イラク占領統治は「入口」というのは、そう筋悪でもないのかなと思いました。それにしても、世界地図が時間軸で自由自在に動く感覚で、知的な刺激を恐ろしいぐらい受けて、快感というより、もはや幸せ。ご来客で「悪いけど、別の部屋でお菓子の残りを食べてゆきなさい」。いろいろ、お気遣いを頂き、恐縮するばかり。お菓子を食べてまったりと大機道人『禪眼に映じた南洲翁』を読んでいたら、「えっ、あの子まだいたの?」という所長の声。ここは阿吽の呼吸でお菓子を食べ終えたら、帰るのが当たり前でありまして、つくづく無神経さに恥じ入るばかりであります。あたふたとでてゆくと、「ああ、その本を読んでいたのか。なんならあげるよ」とおっしゃるので、「いえいえ、一年前に頂いておりまする」。「明日はお休みだけど、なにしてるの」。「靖国へ参ります」。「ああ、あの記述はもう変わっているから」。

 いかれた無神経なデブの「外道」は、ここでつい、「あの記事を拝見して驚きました。あれじゃあ、まるでルーズベルトの不況対策の一環にバカな日本の指導者が騙されて何十万人と犬死したと読めてしまいます。慰霊どころか、英霊が眠れません」。(中略)「遊就館の展示室を入って右手の方だったかな。あそこも見ておいで」。「かならず見てまいります。本当にありがとうございました」。深々と頭を下げて研究所を後にしました。

 「寝言」モード全開でなにを言っているのかわからないという印象をもたれると思います。簡潔に申し上げますと、岡崎先生の「オピニオン」というのは、氷山の、海面に出ている部分、もっと即物的に言えば、いちごショートケーキの、いわばいちごのおいしい部分みたいなものです。その見えない部分の第1層は、膨大な二次資料、とくにアメリカ発の情報の検討と分析だということです。第2層、あるいは根底にはこれまた膨大な歴史に関する文献からえた岡崎先生の知見でしょう。だから、10年以上前に書かれたことが古くならない。いまだに、中国の対台湾政策の「上策」は、台湾の独立を認めた上で、台湾の国連加盟を中国が音頭をとってやることだということになります。そして、現実は「中策」と「下策」をさまよう。ついつい、国際関係の世界のように社会で最も大きな規模になると「力学」が存在するのではないかという「寝言」が浮かんでしまいます。歴史に学ばないのが人間。ただ、愚かというより、やはり、ある種の「力学」があって、人智を超えたなにかに動かされるように見えてしまいます。

【蛇足】

 岡崎先生に「イラク戦争はベトナム戦争とは異なります」と申し上げたら、「当たり前だ」。私が訳のわからないことを説明しようとしたら、「いい、ベトナム戦争は、民族解放の戦争だったんだ。だから、アメリカの世論はもたなかった」とおっしゃっていました。『朝日』のように、「攻撃自体の『誤り』」という表現がなぜ無意味なのかを教えていただきました。現在の私の力量では、戦争の善悪是非を論じるというのは全くのムダだとは申しません。しかし、戦争を論じる際に是非善悪を出発点に据えることに問題の本質を混乱させる現代人の賢しらさを感じてしまいます。
 

 この後、mitsuさんやじゅんさんと「合コン」。野郎だけで「合コン」というのもなんですが、なんだか胸がときめく反面、つまらない人と思われないかななんてドキドキ。なにしろ人見知りが激しくて、仕事柄、出さないようにはしているのですが、やはりプライベートだともろにでてしまいます。最初は、なんだかぎこちない。だんだん、アルコールが回ってきて、私が無理な話をすると、すかさずmitsuさんが突っ込み、やじゅんさんが論点を整理して常識的な結論にもってゆくという展開に。ふと、失礼ながら、やじゅんさんのお顔をしげしげと見ると、どう見ても若々しい。しかるに、おっしゃることが、複雑な計算をされながらも、いつもバランスがとれていて、よい意味で常識的な結論に落ち着くので、なんだか騙されているような気分になります。外見は、どう見ても20代から30代前半で、若々しく凛々しいのですが、おっしゃることを伺っていると、「年齢詐称疑惑」が頭をもたげてしまいました。しれっと、「理論家がああだこうだと議論しても、選択肢なんてほとんどないですよ」などとこともなげに、まるでジジ臭い年季の入った実務家のようなことをおっしゃる。さすがに、最初にお会いした場では面と向かっては申し上げられませんでしたが。もっとも、「新卒者が自分探しをやってね、もうバカかアホかと。『逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ!』でも見せてやろうかと。何者かになるにはなにものかになる可能性を捨てなきゃダメなのにイライラするんですよ」と愚痴をこぼすと、「新卒者が迷う気もちはわかりますよ。私だって、これでいいのかなと思うことがありますから」とおっしゃるので、やはりお若い(これは文字通りより深い意味があります)と少しだけ安堵(?)しました。

 mitsuさんは、クールで熱い。変な表現ですが、和算の関孝和が研究成果(でよかったかな?)神社に奉納していたという話から始まって、日本ではなんでも「道」になるんですよというあたりが、クールに熱い。この静かな情熱で製造業からアニメまで製作の現場が支えられているわけで、伺っていると、その成果にみあう報酬がない。やはり、これだけ国境というハードルが低くなると、大丈夫かなと思いました。政治ポジションでリベラルとでるときには外国人労働者の受け入れに積極的なのが効いてくるのですが、これが「リベラル」というのがわからなかったりします。要は、日本という場が魅力的でそこで活躍するのが「多国籍」になっても、「ウィンブルドン」とバカにされようが、日本の「道」が熱ければ、この国は安泰だと思うんですね。アルコールが回りすぎて、バカなことばかり申し上げておりましたが、日本人の家に生まれて、この島国で育ち、子を産み、育ててゆく人だけが日本人だという時代は、遅かれ早かれ終わるという感覚があります。要は、日本が生んだ「道」を継承してくれる人がこの国で育つ、あるいは他国からやってくるどちらでもよいだろうとふと思ったしだいです。

 ただ、mitsuさんがふと岡崎大使の「どうして外務省で君だけは何をしてもいいんだ」という言葉に共感しますよんともらされたときには、私は(やじゅんさんもそうだという気がしますが)しらふにかえりましよん。あの話は……。凄いとは思いますが……。まあ、「人間万事塞翁が馬」といえば、そうなんですが……。うーむ、私よりはるかに器が大きい。

 とまあ、「におう話」で苦しんだ次の週は、幸せすぎて怖すぎです。次回は、靖国参拝を取り上げる予定です。

(追記)【蛇足】を加筆いたしました(3月22日)。


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2007年02月24日

K.551

【注意】

 以下の記事は、性的な描写や反社会的な表現を含んでおります。お読みになってご不快になられても、当方は一切の責任を負いませんので続きをお読みになりたい方のみ、お読みください。


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2007年01月21日

読者に恵まれる幸せ

 1月18日の記事は、私がトラックバックを削除するつもりで記事そのものを削除してしまいました。現在、掲載されている記事は、テキストエディタに残っていた部分を元に書き継いだものです。

 読者の方が、RSSリーダーで配信された最初の記事をメールで送って下さいました。恐縮するとともに、幸せな気分になりました。記事が拙いなりにも、読者の方々に恵まれていることをあらためて実感いたしました。感謝の念を申し上げます。

 このブログは、ココログで立ち上げた際には、事実上、非公開(公開はしていましたが、ごく一部の方だけにお知らせしていて広く公開するつもりはありませんでした)でしたが、途中であまりのコメントの少なさに(かんべえさんとか「薄情」な方にしか連絡しなかったことも大きいのですが)トラックバックなどで公開しました。「隠遁」に憧れる傾向が強いので、公開するかどうかは、相当迷いがありましたが、コメントを賜るうちに、勉強になることが多く、現在では公開して本当によかったと思います。さらに、あまりに情けない操作ミスで削除した記事まで「復刻」できるよう、お気遣いをいただくとなると、感激いたします。「寝言」スタンスは変わりませぬが、今後も、読者の方々に御指導・御鞭撻を賜りますよう、お願い申し上げます。

【「三顧の礼」に敗れた経済学(「初版」?)】

 梶井厚志『故事成語でわかる経済学のキーワード』(中央公論新社 2006年)を読みながら、最後にきて思わず考え込んでしまいました。考え込んでしまった話の前にちょっとだけ寄り道、もとい感想を。本自体は楽しんで読めます。「利益を追求する欲望は悪ではない。しかし、利益を追求する欲望の存在を無視することは悪である」(77頁)。このあたりの冷徹さは、ちょっとぞくっとします。実は、この本をネタに分権的社会に関して再論する予定でしたが、気分が変わりました(「気分」の問題については、こちらをどうぞ。ただし、暇をもてあましている方に限定ですよ)。年金の問題では運用のことについてばっさり無視した議論をされているのは違和感が残りますが。考え込んでしまったのは、最後の二つの章、第27章「三顧の礼」と第28章「泣いて馬謖を斬る」です。27章は、「長期的関係とインセンティブ」を論じていて、この故事を離れて成果主義と「愛社心」のような長期的な信頼関係を論じていて、これだけを考えても面白いでしょう。はたと考え込んでしまったのは前述の問題そのものではなく、冷徹な梶井先生(本の中では引越し屋の困らせ方などなかなか実用的で感心しました)をして次のような文章を書かしむる劉備と諸葛孔明の関係です。

 諸葛亮は報酬なしに流浪の武将に尽くす気になったのではない。劉備は、諸葛亮の理想と願望にこたえるだけの大きなビジョンを示し、最高の処遇をもって報いると熱心に語ったのである。そのような長期にわたる成果報酬が約束されてこそ、人は意気に感じて働くのではないだろうか(274頁)。

 諸葛孔明に関しては、こんなひどいことを書いておられる方もいらっしゃいますが(つい共感してしまうこと自体は否定しませんけれど)、彼の美学そのものを否定する方は少ない。敢えて言えば、上で引用した文章は、否定的な意味はないのですが、ごくありふれた評でしょう。梶井先生をからかおうというわけではなく、諸葛孔明という「高士」を描こうとすると、この種のリスクが避けられないのでしょう。ちなみにかんべえさんの「参謀論編」ででてくる岡崎先生の「出師の表」は、博報堂時代に拝見しました。岡崎先生は、「三顧の礼」に関しては、簡潔に触れているだけで、このあたりはさすがだと思います。下手に「加工」すると、「高士」に飲み込まれてしまうものです。私自身は、次のくだりが好きです。「任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず(受任於敗軍之際 奉命於危難之間」

 第28章は、「泣いて馬謖を斬る――疑わしきは罰すべきか」というタイトルです。最後も、ありきたりといえばそうですが、経済学の話から離れていて、考え込んでしまいました。

 孔明の死後、職はみるみる衰えた。泣いて馬謖を斬ったことで蜀軍の規律は守られたが、兵士はかえって萎縮してしまったのかもしれない(283頁)。

 かんべえさんの評価と同工異曲というところでしょうか。人材育成に関するかんべえさんの「美学」の一貫性は2007年1月17日の「不規則発言」(現在は1月のライブラリーに入っておりませんが)でも示されていて、この点に関する限り、まったく異論がないですね。ただ、諸葛孔明の評価にブレがないのがちょっと不満だったりします。引用した梶井先生の諸葛孔明の評価には迷いがある。「人物」が「高士」を評価すると、迷いが生じる。「高士」が「高士」を評すると、言葉で説明することが難しいことを「勢い」で語る。このあたりは、「人物」でも「高士」でもない、「ずれた人」には興味深く感じます。

 人間性の前に惑う経済学者というのも、悪くないと思ったりします。経済学だろうが、政治学だろうが、煎じ詰めれば、人間に奉仕するものでしょう。人間性に惑い、跪くことは、「役には立たない」かもしれませんが、少しだけ人間というものを見る目に深みが増す。これが今日の「寝言」。
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2007年01月02日

ニューイヤーコンサートその他

 ニューイヤーコンサートの準備で、「飛露喜」という日本酒(無濾過生原酒)を飲みながら、すき焼き(年に一回ぐらいしかつくりませんが)をつくっていたら、すっかり出来上がってしまいました。気がつくと、卵を買い忘れておりましたので、慌てて砂糖とお醤油を控え目に。菊菜を入れて、少しだけ煮立ったら、出来上がり。私がつくる料理で最も楽な料理です。しかるに酔っ払ってつくったせいか、隠し味のニンニクが牛肉に浸透しすぎて新年早々、なんとも辛い料理に。おまけに菊菜を入れるまでに煮すぎたのか、これまた隠し味の「飛露喜」がとんでいました。とどめに肉が固まっていました。まあ、これでもかと「飛露喜」を注ぎ込んだので不幸中の幸いで柔らかさは残っておりましたが。

 どうでもいい話ですが、元旦早々にテレビの視聴時間がなんと8時間を越えてしまいました。昼の12時から夜の10時までつけたままというのは実に珍しい。「新春お好み将棋対局」を見ながら、51手目(A組対B組決勝戦)は、あんまりだろうと突っ込んでしまいました。桂成で玉砕覚悟で叩き込んでほしかったなあ(桂成だったら自信はないけれど、あそこまで紛れが少ない順にはならなかったのでは)。余計ですが、B組が優勝するようにつくられているとしか思えない(ど素人の偏見と独断ですのでお許しを)組み合わせで、ふとメンバーを見ると、見事に世代差ができているのに気がつきました。

(A組)
斎田晴子倉敷藤花   1966年12月 4日
清水一代女流王位   1969年 1月 9日
中井広恵女流六段   1969年 6月24日

(参考)
佐藤康光棋聖     1969年10月 1日
羽生善治三冠     1970年 9月27日
森内俊之名人(棋聖) 1970年10月10日

(B組)
石橋幸緒女流四段   1980年11月25日
千葉涼子女流王将   1980年 4月21日
矢内理絵子女流名人  1980年 1月10日

(参考)
山崎隆之七段     1981年 2月14日
渡辺明竜王      1984年 4月23日

(日本将棋連盟HPより作成)


 うーん、なにか思いついたのですが、「飛露喜」のおかげで忘れてしまいましたあ(個人的には「泉川」の方がさらにうまいんですけど)。なんだったかなあ。間違いないのは、上の方の中で誕生日(誕生年は違いますが)が全く同じ方がいることぐらいですね。あとは、中井女流六段に「いくらなんでも目に余る」とツッコミを入れた千葉女流王将は素晴らしい(終盤で矢内女流名人があれだったので引き分けのような。秒読み内に指し手をフリップに書けって無茶な企画をしたNHKが悪い。アイディア自体は面白いとは思いますけど)。その後、囲碁・将棋チャンネルを見ていて囲碁の時間に依田紀基九段が農心杯で世界チャンピオンを破った碁の解説を聞きながら気持ちよく寝てしまいました…。囲碁は難しいんであります。目が覚めると、『ヒカルの碁』のアニメ版をやっていて主人公が中国で叩きのめされるシーンをやっていて、思わず考えさせられましたね。中国が真の脅威となるのは、中国が政治・経済の分権化を進めたときであろうと。付随してありとあらゆる才能が花開く可能性が高いと思います。中共の独裁体制を批判しつつも、こっそりちゃっかり手を握るのが中国の「帝国化」のテンポが日本にとって脅威ではないスピードで進行するためには不可欠であろうと。台湾併合はダメよと怒りながら(こちらは本気で集団的自衛権の問題をクリアーして防衛費を増やして間違いのないメッセージを送るに限ると思いますが)、「格差是正」に手を貸して(絆創膏にもなるかどうか程度だとは思いますが)中共の支配が崩れるスピードを落としたほうがよいだろうと思いますね。

 そんなこんなでニューイヤーコンサート。これをテレビで見ることができるようになって、学生時代に一番、嬉しかったような気がします。実家に帰ると、ど演歌とバラエティしか選択肢がなくて正月は…なわけです。元旦からクラシックなどというものを聴いていると、そりゃあ、もう、江戸時代の切支丹弾圧より厳しい。テレビをNHK教育に変えようものなら、秒殺はおろか、瞬殺されるでしょう(まあ、高校時代には年代もののテレビしかなかったのでリモコンがありませんでしたから、秒殺が限界でしょうが)。一人で部屋に閉じこもって、イヤホンでFMで聴くのが限界です。これをすき焼きを頂きながら、一人で見るのが最高の贅沢でありまして、漸く新年を迎えたという実感が沸きまする。これがどれほど嬉しいことかといえば、つい10年前までニューイヤーコンサートを見た後で眠りにつくと、蛮社の獄の高野長英になぜか自分がなって幕府の目付連中に追い詰められる夢を見るぐらい、嬉しいことであります。

 それにしても、今年のニューイヤーコンサートは…。メータさんの演出ではないのでしょうが、最初のバレエの衣装が妙に安っぽくて(妙にパステル調で屋外を意識したのか渋めの色)、『美しく青きドナウ』の衣装が妙に映えていて、これはなんの風刺だろうと頭をひねりましたが、ピンときませんでした。まあ、考え過ぎかも。ラデツキー行進曲まで来て、ようやく暦が変わったのだという実感が沸きました(これで蛮社の獄の夢を見たら怖すぎますが)。赤ワインにミモレットというベタな組み合わせはさすがに一人とはいえ、濃すぎるのでやめました。それにしても、バレリーナのなんと優雅なこと。あの動作の一つ一つに、どの筋肉がどのように動いているのかを3Dで想像すると、すさまじいです。なんといっても、普通じゃない柔軟性。氷の上でイナバウアーをやってのける荒川静香さん(某HP(2006年2月22日を参照されたし)で「肉屋の娘」とかなんとか書いておられる御仁(直でも耳にしたような気が)がいらっしゃったと思いますが、泣いてわびをいれるのが当然だろうと。あんな技、凡人が語るにふさわしくありませぬ。ついでに、「キャバクラのヘルプ」の意味がわからなくて、「『ヘルプ』ってなに?『お助けマン』?」と周囲に尋ねたら、呆れられて、「よっぽど欲求不満のようだな。今度、暇なときに連れて行ってやるから、変なことをするなよ」と素晴らしいアドバイスを頂いた(しかし、いまだに誰も連れて行ってくれない)方々に感謝いたします。誰も信用してくれないのですが、本当に行ったことがないのです)もすさまじい筋肉ですが、ウィーン・フィルをバックに踊るバレリーナもすさまじいなあと思います。文字通りに読んで頂きたいのですが、あんなしなやかでやわらかく優雅な肉体(余計なところはでなくてよい)がほしいなあと思いました。

 ふわあ。年末には気合が入っていたのに、正月になったら、休みをいいことに食っちゃ寝でまずいです。ふと気がついたのですが、私は、同世代の中では、自分でも意外でしたが、体が柔らかい方に入るらしい。年末に入ったストレッチのレッスンで、バレエをやっている女性がいなければ、前屈から股関節、上体そらしのすべてで他の参加者よりも柔らかいのでちと呆れてしまいました。高校時代は、体が硬いとバカにされていたので。あと、まさかいないとは思いますが、このブログを見てピラティスを始めた方が万が一、いらっしゃったら、お気をつけ下さい。スリムながらも、筋肉逞しい若いインストラクターが、一参加者としてレッスン中に足をつらせてしまうという「悲劇」を目撃しました。慣れるまでは腹横筋以外のところにどうしても力が入るので、やばいです。「Cカーブ」なんて体育座りから骨盤をゆっくりと後方へ倒して背中を丸くするだけの動作だけに見えるのですが、「筋肉マン」がまともにやりすぎて足をつらせていましたからね。腹横筋が動かないと、一見、単純な動作でも、ふくらはぎあたりに負担がかかりすぎて、あっさりつってしまうのだ。

 まあ、こんな鄙びたブログを見ていないと思いますが、念のため、伏字にしておきますが、年末最後のレッスンで○○さんと××さんがコンビで登場。以前、××さんに「○○さんは、鬼モードに入ると本当に怖い。でも、○○さんにしゃべっちゃダメよ」と念をおしたのにもかかわらず、○○さんが、「ここから○○の鬼モードです。さあ、地獄を味わっていただきましょう」と私の方を(殺意を秘めながら)笑顔で睨みつけたので背筋が凍りつきました。と思いきや、ぬるい。ぬるすぎる。参加者のレベルを見切っていたのね。「君たちには、このレベルで十分、ハァハァひいひいするでしょ」という怖いメッセージ。ふと、週末のレッスンに入るのが怖くなってしまった私は、年始早々にして弱気の「寝言」であります。
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2006年12月21日

百姓の本懐

 まずは言い訳ですが、ブログの記事はほとんどすべてといってよいぐらい、テキストエディタで書いてからブログに反映させています。しかるに、昨日の記事では文字化けが多発していました。「原稿」を見ると、誤変換がないのに、とんでもない単語に変わっていたので、自分で見ていてゾッといたしました。ほとんど直したと思いますが、文字コードに異常が生じるというのは初めてでこの現象が続くようですと、移転先を考えざるをえないです。今は、それどころではないので、うっちゃっておくしかないのですが。

 昨日は「大一番」。にもかかわらず、気合が入らない。まあ、お給料がそんなに増えるという話でもないらしいので(私を今の勤務先に引っ張っておいてよそへ移った方がおっしゃっていたので、間違いないでしょう)、今ひとつ、インセンティブに欠けるというのが本音だったりします(母上のありがたい教え(「野球でどこが勝つなどお給料が増えないことに熱中するのはバカバカしい)が骨の髄まで浸透してしまってます)。もっとも、自分の仕事で面白い話をすればよいのでこの点ではインセンティブ自体は最高です。恥ずかしながら、しゃべりだすと、もう止まらない。かんべえ師匠を散々こき下ろしておきながら、自分が極度のオタク体質であることを自覚した一日でした。この1%を性的欲求に向ければ、とっくに結婚していたんだろうなと思います。こういう場だから書けるのですが、うっかり1割ぐらいをそちらに回すと、「ミ○ー○○」になりかねないので、これはこれである種の「均衡」かなと思ったりします。

 終わってから、ふぐづくし。好き放題しゃべって、好き放題食べて、好き放題に飲んでしまいました。書類が残っていて面倒ですが、まあ、どうでもいいか。クリスマスを過ぎれば、漸く、オタクの世界に戻れるので、我慢、我慢。S先生が、私の「一生」がかかった「大一番」で過去の私の悪行を逐一、紹介していただいたので、「ええい、俺はこんなにすちゃらかな奴だぞ!!」と開き直ることができた上に、ふぐづくしまでおごって頂く。なにせ、タイトルはお堅いのに、委員会のこの人とこの人は共和党で、あの人とあの人は民主党で、合併にいったん待ったをかけて依怙地な民主党系の人たちを宥めてるんですよとかどうでもいいといえばどうでもいい話をする一方で、数式を使わずにこの値とこの値はこんな感じでリンクしてますよ(まともにやると、右辺に項が30近くでてくるのでしょうがないんですけどね)という話を男女関係に喩えて説明をするなど、まるでワイドショーで誰と誰がくっついて、誰と誰が別れちゃったみたいなノリで、辛気臭い計算の話を済ませてしまうので、いいんでしょうか。

 い、いかん。ブログをやりすぎて本業まで「寝言」になりつつあります(これは嘘ですね。本業でも、いや本業こそ「寝言」の「聖地」なので)。

 話し終えてから、ふと気がついたのですが、手を変え、品を変えて10年以上も同じことばかりやってきた。一所懸命の由来からかけ離れているのですが、ひたすらある目標に向かって翔んでゆく。もちろん、一直線というほどきれいではありません。ただ、じぐざぐの軌跡を振り返ると、なんのことはない、歩けばそこになにがしかの道ができている。小径が大道に通じていることを祈りながら。

 もっと言ってしまえば、「大道」すらうそ臭い。まずは、自分が食べてうまいと思うものをつくること。次に他人にうまいと言わせること。両親とも元をたどれば百姓の生まれで、豪農とはほど遠いので、私も大して変わらないのだろうと。必死に田んぼを整えたり、畑を耕したりで一生が終わるのだろうと。「自己満足欲」なるものが存在するとすれば、私という人格の99.9%はそれで説明ができてしまいそうです。

 他者を語るということは、自分を語ることであることを忘れたプレゼンテーションほどくだらないものはない。百姓の作った作物には百姓の汗と血が滲んでいる。若い人に「品格」を説くのもけっこうですが、それ以上になにかと必死に泥まみれになることをお勧めします。こんな鄙びたブログでは、なんの影響力もないのですが。若いうちに、とにかく途方にくれることが肝要です。歳をとれば、なんと下らないことでああでもない、こうでもないとやっていたことに気がつく。ふと気がつくと、もっと広い沃野が広がっている。広いと思った沃野がさらに狭くなる。あと数年で40に手が届く人間でもバカをやれる時代です。良くも悪くも、社会は寛容になっている。40をすぎてもバカができれば、「器」であり、「大器晩成」の本来の意味からすれば、死ぬまでバカができれば、「器」ですらない。

 「寝言」モード「半開」ですが、今の若い人がつまらないとしたら、バカをやらないことにつきると思います。利巧すぎるのだ。「廉恥」など恥を掻かなければ身につかず、「品格」など品格をぶち壊す勢いがなければ、ついてこない。一つでもいい、なんでもいい。とにかく、自分が「うまい」と思うものを創造することにすべてを捧げること。どのみち、日本人の大半など、百姓に適性にあるのだから。ただし、私の真似などしてはダメですよ。正真正銘のバカですから。自分で言うのもなんですが、私みたいなのばかりだったら、世の中がややこしくて始末に困る。
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2006年12月16日

次の一手

 ある会合でかんべえ師匠がすごい人だということがようやく理解できました。毎週、無料で『溜池通信』を読んでいると、ありがたみがわからなくなってしまう。私も書生時代に(今でも書生なんでしょうが)アメリカウォッチャーもどきのことをしていましたが、アメリカという国はわかりにくい。三権分立の上に地域によっててんでばらばら。とても、特定の分野に限定しても、「アメリカはこうだ」と断言できない。まして予測などとなるとわからない。かんべえ師匠の読みはよくあたるというのがプロ筋の評価で、うーむと唸らされます。

 プロではないのでいい加減なことが言えるのですが、アメリカと中国がうまくやっていきそうだという見通しは、半分は当たっていると思います(ここからかんべえ師匠の話ではないので要注意)。他方で、あの国ほど自国がナンバーワンであることにこだわる国も珍しい。保護主義の台頭は要注意だけれども、短期的にはものすごい騒ぎになるかもしれないが、長期では米中がコミュニケーションをとれそうだという見通しも正しいのでしょう。ただ、安全保障で米中が補完関係になることは難しい。中国は、外交の達人だから、一時的ではあっても、台湾は中国の支配下であるという主張をアメリカに飲ませることができるかもしれない。しかし、それの意味することが明白になれば、中国を容赦しないでしょう。

 素人臭くみれば、米中は経済では補完関係、安保では代替関係となるでしょう。どちらが強いのか。この問題に原理的に解があるかさえ怪しいのですが、米中関係に限定すれば、安保の問題は経済に優越しそうだというのが私の見通しです。端的に言えば、日米関係が経済摩擦でどんなにこじれても、日本がアメリカの安全保障政策と補完関係にある限り、アメリカ側から日本を切りたくても、切れなかった。そうじゃない時代には容赦なく、国土が灰燼に帰すまでアメリカは攻撃を止めなかった。日本よりも、中国はうまくやりそうではありますが、それでも、ある種の「力学」から逃れることは難しいと思います。

 「米中衝突」を望むわけではないのですが、蓋然性からすると、こちらの方が確率がやや高いように思います。ふと思うのですが、物が見える人は、二歩や三歩も衆人よりも先の景色が見えてしまって、普通の人はついてゆけない。他人が知りたいのは、そんな先のことではなく、「次の一手」だったりする。たいていの人は、過去の延長線上に「次の一手」を考える。数十手先まで読んだ上で「次の一手」を見せる人は、単に物がよく見えているだけでなく、ある種の「商売人」としての「資質」をもっている。同時に、よき教育者としても。こんなわかりきったようで、よくわからない話は、ぶつぶつと「寝言」として書くしかないのでしょうが。断るまでもないことでしょうが、私自身は、「一寸先は闇」の世界で生きている凡庸な一人であります。
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2006年11月30日

ご、極悪!!

 『溜池通信』500万アクセスの翌日の「不規則発言」がかんべえ節全開でなかなかいいなあと思っていたら、2006年11月29日の「不規則発言」で例によって「国家機密」を漏らしてしまう。まるで安倍総理がとっても悪い人みたいじゃありませんか。雪斎先生さくらさん副会長さんがとってもいい人に思えてしまいます(実を申しますと、かんべえ師匠のおかげで、いい人までがひょっとすると底意地の悪い人ではないかと疑ってしまうようになってしまいましたが)。「時の最果て」という鄙びたところにも意地があります。「寝言」全開で「かんべえ 極悪」キャンペーンとまいりましょう。もっとも、「不規則発言」で「自白」されているわけですから、キャンペーンをする必要はないのですが。しかし、誤解をされている方はけっして皆無ではないでしょう。あの記事を読んで、安倍総理がとっても底意地の悪い人と誤解した方に、それは書き手の問題であることを示さずにいられません。

 長島昭久さんの『翔ぶが如く』からの無断引用です(支障がございましたら、削除いたしますので御連絡を頂ければ幸いです)。お詫びに、ある場でかんべえ師匠とS先生が長島先生の「ネガキャン」を私に吹き込んでいたことをそっと「通報」しておきます。まあ、同窓会の途中で帰っちゃう人の悪口をいうレベルなので、あまりお気になさらないよう(って、こんな過疎ブログを読んでいらっしゃるわけがないので、無意味なんですが)。個人的には、民主党が外交・安全保障で自民党とコンセンサスを築くなら、この方しかいないと勝手ではありますが、思い込んでおります。 

 「とくに、イラク戦争の終わり方に米国民は大きな関心を寄せている。吉崎さんのたとえ話が面白い。これまでのブッシュ政権のイラク政策は、午前0時を回ってハコテン3回も食らってるのに、『朝までやって取り返すぞ!』と息巻いてるに等しい。これに対して、民主党左派の即時撤退論は、『俺は負けたから帰る!』と終電も過ぎたのに雀荘を飛び出して行くに似る。来月発表される予定のベーカー委員会(イラク研究グループ、ISG)の報告書は、まさしく中庸の現実路線で、『そこそこで終わらせるので、あと半チャン2回我慢してね』というものだそうだ」(長島昭久『翔ぶが如く』2006年11月22日)。

 イラクの民主化のために米兵やイラクの人たちが大勢、犠牲になっているにもかかわらず、この喩えですよ。善良な市民ならば、イラクの民主化という大義に共感を示しつつも、その代償の大きさを嘆かずにはいられないわけです。しかるに、「ハコテン3回」などという不届きな喩えがでてくる。ああ、師と仰いだ方の極悪ぶり(もはや「」は不要でしょう)にやんぬるかなと嘆かずにはいられません。

【ワンポイント解説】
 最近の若い人は麻雀のルールを知らない人もいるので、念のため、簡単に解説をすると、4人(3人もあり)で持ち点2万5千点(これは1000点単位で異なることもあります)からゲームを始めます。4人のうち1人が「親」となり、残りの3人が「子」となります。「親」は最初から14枚の牌をとってきて、最初に牌を捨てる権利をもち、また、点数計算も「子」と異なってきます。「ハコテン」とは当初の持ち点をすべて失ってしまう状態を指します。
 「子」があがると「親」が反時計回りに移動して4人が親を一巡すると、一つの「場」が終了します。最初の場を「東場」とよび、「南場」、「西場」、「北場」と四つの場をすべて行うのが「一荘戦」、「東場」と「南場」のみを行うのが「半荘戦」です。「半荘戦」(半チャン)を何回か行うことが多いです。なお、一つの場で誰か一人でもハコテンになったときに場が終了することもありますし、そのまま場を続行することもあります。詳しいルールは、適当に調べてくらはい(解説終了)。

 実は、この喩えの原型を作ったのは、岡崎大使でありまして、2004年ぐらいまではイラク占領統治というのは「金持ち」が「貧乏人」を相手に勝つまで返さないよというギャンブルをやっているようなものだという喩えをされていました。これは、私も納得する喩えでした。しかるに、「貧乏人」には失うものがないということを迂闊にも私は読み落としておりました。イラク占領統治は非常に厳しい状態にあります。悩ましいのは、完全に失敗だったら、話が早い。「終電」がでていても、「タクシー」で帰ればよいわけで、形作りの問題になります。戦争に勝利してフセイン体制を打倒したという意味では、戦争そのものは半ば成功してしまっている。イラクに親米的な民主国家を作り、パレスチナへ入るという意味では、占領統治は現状では目標を達成していない。このあたりが微妙な問題で、ブッシュ政権を擁護するという意味ではなく、冷たい表現をすると、この中途半端さがイラク占領統治でアメリカ国内の過度に党派性を高めて無駄な時間を費やしてしまった一因ではないかと思います。中間選挙で民主党の「穏健派」の発言力が高まったので、だんだん、落としどころが見えてくると希望も込めて見ておりますが。

 …。かんべえ師匠が極悪であるキャンペーンを行うはずだったのですが…。いったい、この展開は…。やっぱり、かんべえ師匠が極悪だから、私の論旨までが乱れてしまうという強引なオチに。「3つのP」は省略すると、…てなわけでありまして、このあたりの、にくいまでの細心さ。まあ、悔し紛れに、ある場で「藤原紀香」と「黒木瞳」の魅力を力説しておられて、「女の魅力は30を過ぎてからわかる」としつこいまでに「お説教」していただいたことを暴露しておきましょう。視線はオタクっぽいのに、女性の好みはあまりに普通なので、ちょっとつまらなかったな(あの二人なら、小泉政権並の安定した「支持率」を誇っているに決まってますがな)。まあ、杉田かおるとかだとどんびきですけどね。あれって、暗に『まーすさいと』を運営している方の自慢だったのかも。
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2006年11月14日

やじゅんさんの「テロ」

 この記事をどのカテゴリーに入れるのか、迷った挙句、「幸せな?寝言」にしました。なんとも複雑な心境ではあるのですが。まあ、こんな程度のことであれこれ考えていること自体、幸せでしょうね。

 管理画面を見てちょっとびっくり。「さくらのブログ」管理画面には生ログがないので詳しいことはわからないのですが、リファラー(リンク元)でやじゅんさんのところからいらっしゃった方が累計で150(ページビュー数)近くありました。トップページでリンクをはっていただくと、驚くべき効果です。2006年5月25日の「テロ」のようなおっかない事態にはなりませんでしたが(翌日の訪問者数が1,054、ページビュー数は2,172を記録する大惨事になりました)、月曜日はあまりアクセス数が伸びないのですが、月曜日は一気に2,000(ページビュー数)を超え、週のピーク時なみになっておりました。おそらく、こちらにきていただいた方は、やじゅんさんのコメントを期待されていたものと思います。管理画面でも、リンクしていただいたページにアクセスが集中していることがわかります。

 申し訳ないのですが、やじゅんさんにコメントを投稿していただいたにもかかわらず、管理画面にも反映していないようなので、こちらにはコメントを確認するすべがないのです。復旧も不可能な状態です。11月8日の記事にコメントしていただいたときには正常に反映しておりますので、一時的に障害があったのかもしれません。やじゅんさんのファンの皆様、誠に申し訳ありません。

 この記事を書いた後に、やじゅんさんからコメントを投稿していただきました。心より、感謝いたします(コメントをしていると記事になりそうなので、リプライはしばしご猶予を)。やじゅんさんのファンの皆様は、こちらをご覧ください。こんな具合ですので、おわかりでしょうが、仕事をしながら、煮詰まると、ブログの記事を書いているというすちゃらかな生活をしておりまする。続きは、くだらない話ですので、飛ばして頂いて、最後だけ読んでいただければと存じます(この記事をご覧になっていたらですが、とくにかんべえ師匠は途中はどうでもいいので、最後を読んでおくんなまし)。

 「さくらのブログ」に移ってから、3ヶ月目に入っておりますが、ココログで運営していたときよりもページビュー(PV)のカウントが甘いようで、大幅にPVが増えております。ココログのときには一日あたりで1,000を超えることは少なかったのですが、「さくらのブログ」に変えてから、1,000を切
る方が少なくなって明らかにインフレ気味です。訪問者数は、200−500の間をうろうろしているので、こちらはココログと変わらないようです。移転してから、PVの約95%がブックマーク(RSSリーダー等を含む)からになりましたが、ふだんは雪斎先生のところから一日あたり15前後、やじゅんさんのところから10程度、恒常的にアクセスがあります。

 ココログのときの累計アクセス数が73,361、2006年5月18日から2006年8月23日までで訪問者数がのべ27,793でした。「さくらのブログ」では訪問者数は、1ヵ月ごとのネットの数字でしかわからないので(のべではなく、一ヶ月間に同一IPから何度アクセスがあっても、カウントしないようです)、アクセスカウンターでダブルカウントをしない設定にして訪問者数の概数をだしております(現在表示されているアクセス数は訪問者ベースでココログから移転時の27,793で初期設定しております)。











「さくらのブログ」以降後の訪問者とPVの推移
期間 訪問者PV
2006年 8月1,263 7,550
2006年 9月4,19135,859
2006年10月4,28048,805
2006年11月2,03721,732
――113,946

(2006年8月は22−31日、11月は1日から13日までの累計)


 PVは累積ででてきますが、訪問者数は同じ月でも異なる日の訪問者をダブルカウントしない設定になっているようです。10月の場合、一日あたりのPV数が900−2000程度ですので、累積数でしょう。他方で訪問者数は250−500程度ですので(平日が400前後、土日・休日が300前後です)、累積でゆくと控えめに見ても、1ヶ月でのべ10,000程度のはずですが、1ヶ月単位で集計すると、上記の数字になります。なお、ブログ開設以来のPV数は187,307です。自分でも書いていて、くだらない話は以上です。

 ふう。それにしても、やじゅんさんの意図せざる「テロ」もこわいです。かんべえ師匠は、5.25以来、「核保有」を宣言した上に「通常戦力」(まさかと思いますが、マールとルッカがかんべえ師匠(タッチー)の話をしているわけではないのでしょうが)を充実させてきているので「テロ」をしてきたら、死なばもろともでございます。かんべえ師匠に「けち」をつけているのは「テロ」の抑止が主たる目的ですが、経営学や経済学を適切に理解しないまま、中身に踏み込んだ上で「役に立たない」(「不規則発言」2006年8月23日)というのに腹の虫が収まらなかったということも大きいです。競争均衡における生産者余剰をかんべえ師匠に説明していただきたいものだと思ったりしましたね。この記事を読み返すと、精神衛生に極めて悪い。精神衛生に悪いものを読んで、腹を立てるのは読む方が悪い。というわけで、この問題で腹を立てる側の方がおとなげないと気がついたので、この記事で忘れることにいたします。ほかの記事は、拝読して勉強になることが多いので、こんなくだらないことにこだわる私が幼稚なのでしょう。

 ただし、「テロ」は別ですよ、「テロ」はね。「時の最果て」の名にふさわしくないアクセス数は、この言葉は使いたくないのですが、私の「美意識」に反します。

 とまれ、やじゅんさんのファンの方が多いことに脱帽いたします。アクセス数が増えるのはあまり嬉しくないのですが、やじゅんさんのファンの方に貢献できるのなら、やはり幸せなことでしょう。こんな鄙びたサイトに迷い込まれてしまった方に、感謝の念をこめてこのサイトの「お約束」を捧げます。

ここは「時の最果て」、すべては「寝言」。

おやすみなさい。
posted by Hache at 01:11| Comment(2) | TrackBack(1) | 幸せな?寝言