2006年11月04日

「文化の日」の光景

 金曜日は午後6時早々に仕事を切り上げて、ジムへ「潜り込みました」。9月の終わりごろから、ピラティス以外のことはさぼりぎみだったので、アップからストレッチ、筋トレ、クロストレーナーなどを軽めにこなしました。一通り終わると、最初は眠気があったのが、困ったことに目が覚めてしまいます。それにしても、ピラティスのレッスンで汗だくにならなくなったのは、スタジオ内の室温が低かったせいなのか、余計なところに力が入らなくなったおかげなのか。体調を崩したこともあって、おそるおそるやっていますが、幸い、普通に疲れるだけで、まあ、ほぼ復調といってよい状態でしょうか。

 ちょっと気になったのは、祝日なのに、割と空いていたことでした。おかげでマシーンも快適に使えるので、贅沢な話ではありますが。気がつけば、世の中は事実上の三連休中でもっと楽しいことをしている人が多いのかなあと思ったり。紅葉でも見にゆきたいところですが、それどころではなく、体を動かして頭を空っぽにするのが、一番、手軽でカネもあまりかからない、ささやかな楽しみです。

 ピラティスを始めて、ようやくどのあたりを鍛えているのかをなんとなく感じるようになりました。というより、今まで腹筋のトレーニングをやっていたことが、ようやくわかりました。あまり、通常の腹筋運動では使わない部分で、なんか奥のほうとしかいいようがないのですが。内臓脂肪も燃焼してくれるとありがたいのですが、うまくゆきますやら。

 そういえば、父上は、なぜかマラソンや駅伝の中継を見るのが好きで、あれだけは理解しがたい趣味でした。マラソンなんて見るより、走った方が楽しいと思うのですが(駅伝は本当に勘弁)。

 …。と書いてから、私の方が変だということに気がつきました。体調が悪いのに乗じて堕落した生活をしていたために、リバウンドこそしませんでしたが、体重が減らない。秋晴れが美しくて、そろそろ外で意味もなく、ぶらぶらしたい気分になります。…今の状況では、それどころではないのですが。

 そういえば、昨日は何で世間は休みなんだろうと思ったら、「文化の日」。いやあ、わがブログに一番、ふさわしくない名称でございます。私の生活も然り。雪斎先生が魂のこもった文章を書かれているのに、私ときたら…。「鷲鳥は群れず」とかっこよく言い切りたいですが、「寝言@時の最果て」というネーミングに志の低さが象徴されていて、時々、思い出したようにくる人がいらっしゃれば、ありがたいことというのが正直なところです。極悪師匠がおそらくバカにし、かつ嫌悪するNZ路線みたいなものかなあ…。それでも、NZはNZなりに苦労があるでしょうから、北極あたりがふさわしいのかも。

 ああ、私としたことが、想像力が地球なんてせせこましい範囲にとどまっておりました。「時の最果て」などという、宇宙の一部であるかどうかも怪しいところで、「寝言」という名の「夢」を語るというのが、このブログの本来のあり方。これで、まともな読者の方が減ると確信しておりますが、地球というちっぽけな星に「知的存在」なるものが生まれたなんて、悪い冗談みたいなもの。悪い冗談はお前の顔と文章だけにしろと言われそうですが、あえて反論はいたしませんが、「時の最果て」ではすべてが「寝言」。「知的存在」なるものがすべて消え去った状態の宇宙を考えると、たいして変わらないんじゃないかと思ったりします。

 「寝言」ブログならではの一言ですが、「知的存在」なるものの歴史たるや、暗黒の中にぽつぽつと光が存在するような、暗澹たるものです。それらがすべて抹殺されたところで、「宇宙」なるものに意識があったとして、どうでもいいってなりそうな気が。ニヒリズムとか、現代思想とか利巧な話ではありませんよ。無私の私というものを考えると、物狂いになりかねないようですが、旧態依然として、「知的存在」としての「私」から一歩も出ることができない。どうでもいいことで右顧左眄するわが身を振り返るに、「知的存在」なるものは、所詮、自然現象のように映ります。もし、「宇宙」なるものに意識なるものがあるならば、その一部としてそれ相応に愛するかもしれないけれども、他と分け隔てなく、一部として扱うだけでしょう。かくして、知性も低ければ、文化の香りにも縁が遠い私の人生は、自然現象と同じものになってしまいます。要は、同じことの繰り返し。どんな進歩思想も、どんな保守「反動」思想も、「寝言」をぶつぶつ言っている人には無縁で、ピラティスで「はぁはぁ」している快感に劣ってしまうのです。

 どうでもいいことをぐだぐだと書いていたら、本当に眠たくなってしまいました。おやすみなさい。
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2006年10月13日

尾張気質

 木曜日は、上海馬券王先生にまでお越し頂き、嬉しい反面、驚きました。ブログというのは、「時の最果て」のように過疎地ではあっても、世界中に公開されているわけでありまして、「寝言」とはいえ、書き手の人格がそのままでてしまうので、書けば書くほど、世界中に恥をさらしているようなものだなあと思ったりいたします。

 北朝鮮という爆弾を抱えながら、2008年、そして2009年のアメリカ新大統領の就任を迎えるというのは、台湾海峡問題を考えると、嫌な気分になります。これに関してまとまったことを書いてみたいのですが、ちと疲れております。昨日、祖父の思い出を書きながら、長くなるので端折ったことを書きます。

 司馬遼太郎さんは、戦国期を描くときに、尾張の商人気質と三河の農民気質を対比させて描くことが多いです。その傾向は、『功名が辻』や『新史太閤記』、『覇王の家』などに顕著にでています。あくまで小説ですから、人物を描く際にはなんらかの類型化は避けられないので、これを批判するような無粋なことは致しませんが、尾張・三河が極端に異なるのかといえば、私の感覚ではちょっと違います。もちろん、戦国期と現代で気質が同じ地域などあまりないでしょうし、地域内部でも人それぞれです。尾張と三河も一言で論じることはできませんが、私のように、名古屋にいた期間が短い出身者からすると、どちらも現実的であるという点はさほど変わらないように思います。当たり前すぎるので、書くこと自体が気恥ずかしいのですが、織田信長や徳川家康は、尾張や三河では途方もなく突出した個性の持ち主で両者でそれぞれの地域を代表させるのは無理があります。

 「現実的」と書きましたが、国際関係論における現実主義のように洗練されたものではなく、生活のスタイルという感覚です。名古屋の結婚式の派手さが昔からテレビなどでおもしろおかしく報道されますが、あれは、今はどうかわかりませんが、昔は他にお金を使う機会がなく、嫁に出すときに両親が思い切った出費ができるという感じでしょうか。母上も、嫁入りの際に箪笥3箱分の着物を持参金代わりに祖父からもらったそうですが、しまう場所に困るありさまです。他方で、昔の感覚でいえば、資産を分け与える意味があって、家によっても感覚が異なるかもしれませんが、基本的には遺産相続では男子に遺産がゆくので(母方の場合、叔父)、嫁入りに際して生前贈与するような意味があります。この辺りは、名古屋でも家によって異なるので、一般的にいえるのかどうかは自信がないのですが。

 もう少し、個人的な話にまいります。木曜日にも書いたように、祖父はほとんど余計なことを口にしない性格で、他人をほめることが少なかった人です。無作法に怒っている姿は印象によく残っているのですが。母上によると、私は祖父に怒られることが驚くほど少なかったそうです。父上によると、おとなしい性格だからではないのかと。小学生の時には担任の先生に「石橋を叩いて壊す」とからかわれたぐらい、慎重な性格だったようです。言われてみると、必ずなにか行動を起こしたときにいつも最悪の事態を考えて、そうなったときにどうするかとか考えていたように思います。祖父は、そこまでひどくはなかったようですが、気質的には祖父−母上−私とつながっているようです。母上ですら、「いい人なんだけど、一緒に長い時間いると疲れる」とこぼすほどですから。とくに物を大切にするということに関しては、祖父は大変、厳しい人でした。

 祖父が幼稚園に入ったときに幼稚園児にはちょっと大き目の傘を買ってくれました。柄は、濃紺で装飾性は全くないのですが、とても頑丈なつくりだった記憶があります。祖母が亡くなってから、毎週のように週末になると母方の実家に行っていたのですが、ある日、雨でふだん使っている傘を差してゆきました。祖父が、その傘を見て「○○ちゃん、今でもその傘を使ってくれているんだなあ」と嬉しそうに呟いたので、ちょっと驚きました。祖父が嬉しそうな顔をしていることは、木曜日に書いたことと、この一件ぐらいだからです。祖父はめったなことでは誉めないので、とても嬉しくてこの傘は中学生のときに台風で吹き飛ばされるまで、私のお気に入りでした。あの傘が亡くなったときは、祖父の形見(別に時計を残してくれましたが)が失った気分になって、数日間、気分が重くなったことを思い出します(獅子咆哮弾はでないので御安心を)。

 それにしても、わが家の物持ちのいいのは、母方の影響が大でありまして、実家に帰って本当に風景が変わらないので安心するとともに、驚きます。もっとも、物持ちのよさは、実は私の方が上なのですが。大学進学時にひとり暮らしを始めるにあたって買ってもらった電化製品の多くは10年近くもちました。炊飯器はいまだに現役ですし(これにはさすがの母上にも「負けた」と言わしめた強烈な寿命です)、トースターも電子レンジに交代しましたが、いまだに使える状態です。卓上の照明器具も現役ですね。テレビ(パソコンのディスプレイ兼用)は、さすがに10年目で壊れましたが、2代目は未だに現役です。

 なにが書きたいのかって?

 要は、貧乏性なんですね。名古屋に限らないと思いますが、上流の人は、ふだんの生活で使う物自体がよいものなので、古くても、むしろ古いほど美しく見えます。私の狭い体験の範囲では名古屋では中流の家庭でも上流のような意識が残っていて、物を粗末にするということをとても嫌います。物持ちがよいこと自体が、母上の世代までは美徳だったようです。昔、母上に「名古屋嬢」なるものを尋ねたら「?」な顔をしていて、説明すると、露骨に嫌悪感をだしていました。水と油のような両者が共存しながら、無関係でいるのが名古屋の特徴かなと思ったりします。もっとも、名古屋の地下鉄に乗っていると、相変わらず、高齢の方も若い方も、女性に「○○」が多いので、なんとなくホッとします。

 「○○」に何をいれるかであなたの性格を診断させて頂きます。5万人目の御訪問(ページビュー数ではありません)が近いことも記念いたしまして、今回に限り、無料とさせて頂きます。皆様の御相談をお待ちしております。

寝言診断士 Hache(@時の最果て)
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2006年09月19日

ピリオド楽器の彼方にあるもの

 木星人さんから御紹介頂いたクイケンの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ(J.S.バッハ)を聞いてみました。素人の感想ですので、あまり信用なさりませんように。まずは、形式的ですが、手元のCDのデータです。

シギスヴァルト・クイケン(ヴァイオリン:ジョヴァンニ・グランチーノ、1700年頃ミラノ/弓:作者不詳、18世紀初頭)
[録音]1999年12月20−23日、2000年2月28日−3月3日、シエナ、キジアーナ音楽院(イタリア)
販売元:BMGファンハウス

 最初は音色の違いに戸惑いました。素人なので間違っていると思いますが、ビブラートが非常に抑制しているのに、朗々とヴァイオリンの音が鳴っているので、「あれっ?」という感じ。よい意味で驚きでした。素人の耳にはミルシテインよりシェリングに近い感じでしたが、長調のソナタ&パルティータ(3番)を聴きながら、さらに驚きました。実に、のびやかで朗々としていて美しいです。ピリオド楽器というと、復古調のものかと誤解していましたが、誤解だと気がつきました。確かに、ビブラートが抑制されていて過度に劇的な解釈は避けられていますが、そうであるがためにヴァイオリンのもつ音色が、今までに聞いたことがない形で引き出されていると思い出されました。

 間違っている可能性がありますが、手元にあるミルシテインの演奏はストラディヴァリウス、シェリングの演奏はデルジェスだと思うのですが、両者と比較して無理がない演奏というちょっと変な感想です。ストラドとデルジェスの違いを一回、聞いただけでわかるような耳をもっていないのであてになりませんが、私のもっているミルシテインの演奏は1973年にロンドンのコンウェイ・ホール、シェリングの演奏は1967年のスイスのヴヴェイ劇場での録音と記されています。

 クイケンの演奏を聴くまでミルシテインの演奏を好んで聴いていました。シェリングの演奏も素晴らしいと思うのですが、高音部での華麗な音色が厳粛な音楽の中でなんとも心地よく、よくミルシテインの演奏を聴いていおりました。今回、クイケンの演奏を聞いてから、ミルシテインのパルティータ2番のシャコンヌを聴くと、「息切れ」をしているように聴こえる箇所がいくつかありました。これはミルシテインの演奏の「欠陥」というより、モダン・ヴァイオリンでバッハを再現しようとすると、素人には判らない部分が多いのですが、どうしても無理な部分がでてくる印象があります。ピリオド楽器による演奏は、そのような限界を当時の楽器・奏法で乗り越えてゆくことが原点だと理解しておりますが、クイケンの演奏は、単にピリオド演奏という範疇に留まらず、ヴァイオリンのもっている音色をモダン・ヴァイオリンによる演奏とは異なった形でひきだしてゆく野心的な側面があるように感じました。シャコンヌの終わりが印象的で、モダン・ヴァイオリンがビブラートを残しながら余韻を残すのとは対照的に、ビブラートをかけずに透明な音で終曲を演奏していて澄んだ音に全く異なる余韻を感じました。

 モダン・ヴァイオリンでもストラドとデルジェスのどちらを好むのかは、素人目には好みの問題としか思えません。私自身は無節操なので、曲や演奏者によってどちらも聴きますが、クイケンの演奏のおかげで私が聴いてきたクラシック音楽に新しい楽しみ方が広がりました。あくまで、ピリオド楽器・奏法にこだわるのも、クラシック音楽のジャンルとして楽しむのに問題はないと思います。他方で、私は、ピリオド楽器・奏法にはその時代の音楽をその時代にあわせて再現するという原点から、さらにヴァイオリンをはじめとする、クラシック音楽の諸楽器の音色が新しい表情を生み出す可能性を感じます。無節操な私は、このような可能性が現実になってクラシック音楽の楽しみ方がさらに増えることを期待いたします。原点は、復古主義であっても、それが新しい世界を生むというのは、ルネサンスをもちださなくても、芸術の世界では珍しいことではないと思います。

 最後になりましたが、クイケンを紹介して頂いた木星人様にあたらめて感謝いたします。ROMされている方も気軽にクラシックに限らず、いろいろな刺激を頂ければ、幸いです。過疎ブログのせいか、カワセミ様のところのようにコメントが無闇に送られてきたりすることはありませんので、御遠慮なく、お願い申し上げます。カワセミ様のところは、大丈夫でしょうか。蛇足ですが、トラックバックは私の独断と偏見で記事に関係ないものは容赦なく削除しておりますが。

 あ〜あ、それにしてもアーノンクールのウィーン・フィルを逃してしまうとは…。オーストリアがらみの仕事に「転向」しようかしらんなどと不届きな考えが、ふと頭をよぎります。
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2006年09月13日

タルティーニはいかが?

ふう。趣味でやっているのに苦手な「なまもの」ばかりやる必要もないだろうと、今日はお気楽ネタです。といっても、怖い突込みが入りそうなので、最初に言い訳しますが、楽器の一つも碌に演奏できないですし、音痴ですし、加えて音楽理論には無知です。雪斎先生がマーラーを聴かれているというのを伺うと、すごいの一言。ベートーヴェン以降の音楽は聴いていて疲れてしまいます。

 フルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルの演奏でないとイライラするという、こてこてのベートーベン・ファンに、「ベートーベンはどうよ?」と尋ねられて「音が多すぎて神経質だから無理」と答えて、二度と口を利いてもらえなくなりました。だって音痴には音が多すぎると、音の情報処理能力がついてゆけないだもの。

 さてタルティーニ。実は、この作曲家のことに詳しくはないのですが、「ヴァイオリンソナタ ト短調」にグリュミオーの演奏ですっかりはまってしまいました(私のもっているCD(国内版)は現在では入手不可のようです)。実際は、フリッツ・クライスラーの編曲が入っていて素人にはどの程度、原曲を反映しているのかはさっぱり。さらに、私のもっているCDではグリュミオーの使っているヴァイオリンは、ストラディヴァリウスだと思うのですが、自信がない。低音域がややストラディヴァリウスとは異なる印象もあるので。いい加減そのものですが、いろいろ聞き比べて、グリュミオーがお気に入りです。ミルシテインが次点。グリュミオーに比べると、はるかに抑制が効いていますが、聴いていると、なかなか穏やかではいられません。コレッリの「ラ・フォリア」もやはり抑制が効いていて、なおかつ情熱的な演奏です。グリュミオーは、叙情的すぎる感もありますが、ゆったりとした気分で聞くには曲想が素直に耳に入って心地よいです。

 タルティーニは、1692年に生まれ、1770年に没したとのことです。ヴェネツィアの没落期、といっても、フランス革命の前。彼の音楽が、宮廷音楽、宗教音楽、そして都市文明の遺産をどのように反映していたのかは私の貧しい知識ではわかりません。ただ、クライスラーやグリュミオーの現代的な解釈が入っているとはいえ、伸びやかな印象を受けます。音楽史には無知なのですが、普遍的な音楽があってそこから多様な音楽が生まれてゆくという時代以前の、多様な音楽家の試みが全体として普遍的な人間味を表わす時代の最後の輝きのように感じます。音楽というのは、元は人間の肉声であり、器楽は声楽では表現ができない部分を特化して表現したものだと思います。私は、音痴というそうでない方には理解できないハンディキャップのためにポップスに疎いのですが、クラシックといおうが、ポップスといおうが、最後は人間味を表現し、喜怒哀楽を楽しむものだと思います。

「続き」は、愚痴ですので、多忙な方はクリックなさらないで下さい。続きを読む
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2006年09月06日

号外

 おそらく生まれて初めて「号外」なるものを受け取りました。なんと、ふだん、まず読まない『毎日』でちょっとびっくり(すんません、いつも不義理をしております)。「お約束」とはいえ、ホッとしました。「空理空論」がなくなるから嬉しいなどと不謹慎なことは、頭の中によぎりもしませんでしたが。世の中には主要な論点が曖昧になって困っている「エコノミスト」なる奇特な方たちもいらっしゃるようですが。医者なんてあんまりいらない社会の方がよいに決まってますがな。お祝いすべきところでしょうが、ホッとしたというのが率直な実感です。

 この問題とは無関係ですが、先送りできる問題は、可能な限り先送りをした方がよいこともあると感慨ひとしきりです。
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2006年08月29日

季節外れのニューイヤーコンサート

 気がつくと、あと3ヶ月とちょっとで年が変わるのですね。私は人付き合いが悪くて、みんなでわいわいとお酒を飲む機会も一月に一回程度です。自宅ではいっさいお酒を飲みません。例外は、年末・新年の時期です。とくに、ニューイヤーコンサートはお祭り気分で、いそいそとオードブルから料理まで自分の気の済むまで準備して、コンサート直前に赤ワインを開けて楽しみます。高いワインは私にはネコに小判なので、3,000円程度の安いワインで十分です。今年などは、年末に忙しくてスーパーで1,000円ちょっと赤を買いましたが、意外とおいしいのでびっくりしました。

 ワインを飲みながら、オードブルをつまんでいると、出来上がってきます。一度は生でみたいものだと思いますが、テレビだと音質はどうにもなりませんが、バレエが美しくて目を楽しませてくれます。衣装や優雅さもさることながら、肉体がしなやかで健康美を感じます。私は、運動神経が鈍い上に、体が硬く、加えてデブなのでご縁がないのですが、ちょっと憧れます。

 ジムにバレエの教室があるのですが、レッスンが終わった後でスタジオから出てくる方たちを拝見していると、女性がほとんどですが、姿勢がとても美しくてつい見とれてしまいます。男性のきりっとした姿勢とは異なる柔軟さがあって、それでいて背筋がすーっとしていてつくづく美しいなあと思います。変な人と間違われないようにレッスンを見たことがあるのですが、素人目には判らない部分が多いのですが、思った以上にハードな感じで、白鳥が優雅に踊りながら、水面で必死に足を動かしている、そんな印象をもちました。やはり、美しいと感じるバレエも、ふだんのトレーニングがあってのことなんだなと、平凡ですが、感じました。

 バレエほどの効果があるのかは疑問ですが、ピラティスやヨガをやっていると、以前より姿勢がよくなってきている気がいたします。性根が曲がっているのは、どうにもなりませんが。バレエをやっている方を見ると、筋肉質というほど筋肉が目立たないのですが、バレエの参加者の方がヨガのレッスンに参加していると、とても、きれいにポーズを決めるので、とても、あのようにはなれないとは思いながら、励みになります。性根が曲がっていても、しなやかな体作りをしたいものだと思います。できれば、性根の曲がったところもまっすぐになればよいのですが。

 ニューイヤーコンサートの衛星放送で流れるバレエは、超一流の方によるものですが、私のように市井の者でも接する方たちは美しいです。クラシック、バレエと並べると、鼻持ちのならない人間のように思われるかもしれません。聴衆や観衆を相手に魅せるということを意識するということは、聴衆や観衆には見えないところで途方もない努力があることを実感します。私は、「天上天下唯我独尊」と皮肉られることが多いのですが、やはり少しは他人の目を気にした方がよいのかなと思います。美しく見られたいということではなく、ある種の高度なコミュニケーションに関する感性が自分でも鈍いなあと思います。

 それにしても、クラシック好きというだけで嫌味な人間のようにとられてしまうのは残念です。クラシックを楽しむには敷居が高いのは事実だと思いますが、コンサートに行くと、ポップスなどと変わらずに、演奏者と聴衆のコミュニケーションであるというのは変わらないように思います。プレゼンする側は、聴衆を楽しませようとし、聴衆がそのメッセージに拍手やアンコール(形式的ではありますが)などで答えるという点では、クラシックやバレエとポップスその他の現代の「クラシック」とは大差が内容に思います。発信する側も、受け手の側も場を共通して楽しむことが、原点だと思います。このブログも、そのような形に進化してゆければと存じます。
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2006年08月11日

遠州浜松への旅

 一昨日は、お盆の件で実家に連絡しました。予定があわないので、お墓参りは断念。浜松で中学時代の友人とあうので、13日から15日までお休みいたします。ついでにといってはなんですが、家康ゆかりの地を回ってこようかなあと。「三方ヶ原」??「小豆餅」??「銭取」コースか、浜松城からお決まりのコースにするのか迷っておりますが、当日の気分しだいでしょうか。



【参考資料】



表1 都道府県別訪問者数(5月18日??8月10日)上位10都道府県



訪問者数累計:24,451
集計対象アクセス数:9,806



            訪問者数    割合
1  東京     3,104       31.7%
2  神奈川    1,134       11.6%
3  大阪        786         8.0%
4  愛知         529         5.4%
5  茨城         491        5.0%
6  静岡         406        4.1%
7  福岡        332         3.4%
8  埼玉         316         3.2%
9  北海道     306        3.1%
10  三重        257         2.6%



表2 都道府県別人口(平成18年3月31日現在)上位10都道府県



                           男              女               計            世帯数
1  東京都      6,098,401     6,174,975     12,273,376     2,580,577
2  神奈川県     4,394,049    4,299,324     8,693,373       559,992
3  大阪府        4,226,519     4,437,200      8,663,719        494,553
4  愛知県      3,560,668    3,545,917      7,106,585        873,867
5  埼玉県        3,541,321     3,478,598      7,019,919        415,268
6  千葉県        3,030,365     3,005,293      6,035,658        392,726
7  北海道        2,685,621    2,944,349      5,629,970        729,712
8  兵庫県        2,689,148    2,887,636      5,576,784      1,066,417
9  福岡県        2,390,818     2,637,208     5,028,026        721,820
10  静岡県      1,863,993    1,911,910     3,775,903        737,189



 この記事は、取扱注意なのですが、「アクセス解析で」都道府県別のアクセスデータを見ると、「意外と」と申し上げるのはなんですが、静岡県からアクセスしている方が多いので、嬉しい気分になりました。都道府県がわかるデータは、総訪問者数(5月18日??8月10日)の約40%なので、かなり誤差があるのかもしれませんが、静岡からお越し頂いている方が、6番目に多く、訪問者数の4.1%を占めています。小学校高学年から中学校までの約6年強は浜松市、高校3年間は静岡市におりまして過去に済んだ経験のある地域では、気候もさることながら、土地柄がよく、静岡県は最も住みやすいです。いつかは、静岡に帰りたいというのが、夢です。



 ここから、昨日のどうでもいい記事よりも政治的配慮に苦しむところなのですが、浜松と静岡(市)は、どちらも住みやすいのですが、地域特性がはっきりでていてどちらがいいと言われると、返答に困る部分があります。浜松と静岡はお互いを意識していて、他の市町村と合併して湖西では「静岡帝国主義」対「浜松帝国主義」の対決に震えているとのこと。浜松と静岡の違いは、産業構成の相違もさることながら、浜松は首都圏・中部・関西のいずれからも独立した意識が強いのに対して静岡は首都圏への憧れが強いという印象があります。



 なんだか歯切れが悪いなあって?昨年の同窓会で私が静岡の高校卒業であることを恩師がご配慮頂いて、こちらが申し訳ない気分になりました。進学相談でも本当にお世話になり、昨年、あらためて御礼を申し上げました。ちょうど、中学3年生冬頃に父上へ転勤の内示が出て、一家を挙げて反対したのですが、静岡市に移ることになり、半年ぐらいは気鬱でした。静岡市が気に入らないというわけではなく、転勤ばかりで落ち着かないところに浜松でよい友達に恵まれて環境変化があれほどつらかった時期はありません。他方で、慣れてくると、静岡も住みやすく、遠州と駿府で気質は異なることも多いのですが、やはりよい方に恵まれて正直なところ、甲乙がつけがたいのです。両親に聞いても、やはり同じ感想でした。高校の同窓会には不義理を重ねておりまして、連絡もお互いにつかない状態なのですが、幸い、中学時代の同窓会は健在でして、浜松に参るしだいです。



 浜松なんて暑いだろうと思ったあなた。日本海側の方には申し訳ありませんが、富山よりは涼しいです。年にもよりますが。一家で出かけたときには、全員、夏バテしました。避暑に参るわけではないのですが、数日間は涼しく過ごせそうです。



 続きは都道府県別アクセス数と総務省「住民基本台帳に基づく人口・人口動態及び世帯数」(平成18年3月31日現在)から「都道府県別の人口及び世帯数」のデータを人口計が多い順にソートしたものです。数字だけですので、ご参考までに。

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2006年08月04日

忘れるということ

 昨日は、帰り際に二(ふた)駅ほど前で降りてゆったりと歩きました。途中に比較的、広い公園があって、この国の各地域を代表する(と公園の説明には書いてありますが、事実かどうか確認はしておりません)樹木が植えてあります。歩いていると、汗ばんできますが、木陰のおかげで涼しく感じながら、しばしゆったりとした気分に。8月31日に執行されるであろう斬首のことも(今日、待っている「教育的指導」(という名のお説教をも)忘れて、ぼーっとしておりました。当たり前ではありますが、天然の森林には及ばぬものの、ちょっと贅沢な気分になります。それぞれの木の香りがほのかに漂っていて、気分がよくなりました。夏休みに仕事以外に計画がない私ですが、なんとなく森林浴がしたいものだと思いました。



 たまに(一ヶ月に一日ぐらいでしょうか)このような日があるのですが、いつも帰宅すると、心地よい眠気に襲われます。こんなことで幸せな気分になってしまいます。つい自分でも、「単純な人だね」とからかいたい気分になります。私が住んでいるところも、一応、都会の外れに属するのですが、これほど幸せな気分になれる場所はありません。養老先生によると、都市というのは「脳化社会」の最たる存在で、公園も「脳化社会」の一部にすぎません。たしかに、枝が適度に切り落とされた跡があり、区画がはっきりしている点では人間の意図が入っています。田舎育ち(静岡県民の方々、お許しを)の者からすると、妙に整然としている感じもします。それでも、コンクリートやアスファルトではなく、足が少しだけ沈み込む土を踏みしめて、ほのかな香りのする木々の間を歩いていると、「打ち首」のように身近なことから国際情勢を含めて頭の中が空っぽになって余計なことを考えなくなります。もともと脳の容量が甚だ小さいために、せっかく入ってきた知識がすぐに抜けてしまうのも考えものですが。



 家でぼーっとしながら、ふとヨガのレッスンがあるのを思い出しました。フィットネス・ジム――空調が入っていて、スタジオでは多様な音楽が流れ、照明も工夫が凝らされている――などというのは、都会的な娯楽そのものです。都会的な娯楽には何の魅力も感じない私にとってはジム自体もありがたいものではありません。ただ、ヨガをやりながら、呼吸を整え、いろいろな姿勢をしているうちに、頭の中がやはり空っぽになります。ピラティスのような高揚感はありませんが、自分がいかに余計なことばかり考えているのかを実感させてくれます。おまけに、いつの間にか体脂肪率が低下していて、不思議なものです。別に、ヨガやピラティスでなくてもよいのです。体を動かしているうちに、余計なことをすべて忘れてしまいます。



 世の中が複雑になるにつれて、人はいろいろなことを心配するようになりました。これは、なにも現代に限らないのでしょう。『老子』にも「惚恍」という言葉がでてきます。都市文明の発達とともに、そこでやりとりされる情報は飛躍的に増大します。大型書店に並んでいる本のかなりの部分がマニュアルであることはこのことを象徴しているのでしょう。こんな「寝言」を「時の最果て」にのっけている私自身が、マニュアル作りでつらい思いをしております(よけいですが、前に出版されたマニュアルは約時給200円です。誰も慰めてくれないので、この場をお借りして一人で泣きます)。都市化された世界では多くの方が知識を学ぼうとし、様々な教育が発達します。



 しかし、誰も教えてくれないことがあります。「忘れる」ということが、人をヒトたらしめるということです。私は、他人から教わろうという気も、教えようという気もありません。私の場合、忘れることが多すぎて覚えることにもっと力を入れなくてはいけませんから。そんな芸のない人間からすると、優れた見識をもっている方でも、忘れるということの大切さをどこかにおいてしまった方が少なくないように感じます。世の中も、自然も、どうでもいい。「世捨て人」が理想的であるとは思いません。単に様々な情報の渦の中で自分が自分であるためには、忘れるということが不可欠であるという古人が繰り返し記していることを現代人が忘れてしまっていることにふと気がついたしだいです。古代ギリシア語を理解できるわけではありませんが、古代ギリシア人は「真理」という言葉を忘却の否定語として表わしたということをものの本で読みました。忘れてしまうことがなくなっては本当のことが見えなくなるということなのでしょうか。忘れえぬことが真実であるならば、忘れることができない人には真実は遠い存在なのでしょう。



 もっとも、私の脳が穴だらけだから、そんな「寝言」を思いつくのだという批判には沈黙いたしますが。

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2006年07月26日

客観性と生死

 美しいコメントを頂くと、こちらまで心が洗われます(自分が穢れているという自覚ぐらいはあったりします)。mitsuさんの「超人的な業績を残した巨人たちそのものよりも、巨人たちも無名の人間も飲み込んで進んでいく知の体系そのものに畏怖を感じることが多くなりました」というコメントは、知の体系が築かれてゆく現場にいる方のコメントそのもので、非常に刺激的でした。これで終わって幸せな気分で仕事をするのがベストだと思いますが、無粋を覚悟して続きを書いてみます。



 私がとり上げている物理学者というのは、多少とも物理学に興味をもった人間であれば、たいていは知っている方ばかりです。適切な喩えではないかもしれませんが、素人には山の頂上しか見えない。高校時代、毎日、富士山を見ていた私には、その頂上から視点を写すと、はるかに広大な裾野が広がっていることが脳裏に焼きついています。この分厚い裾野がなければ、少し凹んだ富士山の頂上はありえない。いってみれば、現代科学は、山が巨大になりすぎて素人目にはどこが頂上なのかすら、わからないぐらい、複雑になり、その作業にかかわる人たちも、量子力学が誕生した頃からは比較にならないほど、数が増えています。



 もちろん、現代でも優れた洞察力と地道な研究で個々の専門分野でとびぬけた方がいらっしゃるのでしょう。ただ、その方たちも、意図的にこの作業を設計しているわけではなく、やはり、自分ではこうだという作業仮説をもちながらも、暗中模索の旅をされているのだろうと思います。そこには、巨人と無名の方の差などはないのでしょう。客観性というのは、これら多くの方々の営為の総体そのものによって示されるものなのだと実感いたします。



 私が個人レベルで客観性を保とうとするときには、死にます。どうでもよい事柄を忘れ、小賢しい自分の意見を捨て、底なし沼に入ってもうこれだけは、捨てきれないものを見つける。人間、我や偏見から自由ではありえない。もちろん、死んでしまっては元も子もないのですが、個人レベルで客観性というものを考えるときに、自分を殺すということが肝要だと考えております。そして、これだけは譲れないというものが見えたときに、客観性という特定の個人の占有物ではない世界に少しでも貢献することを願っております。死ぬることによって、はじめて自分の自我がわかり、他人の自我にも理解ができます。なによりも、考えるという作業に対象だけでなく、自分にも他人にも愛が必要であることを、最近になってあらためて自覚しました。



(追記)下線部を修正いたしました(2006年7月27日)。

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2006年07月24日

岩盤浴

 土日は、ジムと岩盤浴三昧でした。岩盤浴は初体験でして、びっくりするぐらい汗がでました。それでいて、非常に心地よく、途中でうたた寝をしてしまいました。岩盤浴が、説明に書いてあるほどの効果があるのかは、ちょっとわからなかったのですが、明らかに運動をして流す汗と種類が異なっていて、終わった後でお肌もつるつる。やはり冷房を浴びていると、肩こりなどがひどいのですが、だいぶ楽になりました。



 岩盤浴を体験する前に「デトックス」という耳慣れない言葉を説明されました。体内に取り込まれた重金属やその他の有害物質は、脂肪、とくに皮下脂肪と結びつきやすく、通常のトレーニングでは内臓脂肪は比較的、燃焼しやすいそうですが、皮下脂肪はなかなか燃焼しにくいとのこと。一時期を思うと、体脂肪率が20%を切るところまできたので安心しておりましたが、これは主として内臓脂肪が燃えているんだそうです。皮下脂肪は、通常のトレーニングではなかなか燃えにくいとのこと。岩盤浴によって、内臓脂肪だけではなく、皮下脂肪も燃えて、汗とともに皮下脂肪に蓄えられている有害物質が排出されるという説明を受けました。



 うーん、正直なところ、私には高度すぎて理解できておりませんが、岩盤浴は非常に心地よいです。筋トレや有酸素運動を行うと、発汗や血行も刺激されますが、10??20分程度で体温が平常に戻ります。岩盤浴の後、1時間程度は、体の内部が発熱していて血行が非常によく、肩こりもだいぶ改善しました。ここ暫く、岩盤浴にはまってしまいそうです。



 ジムで汗を流していると、ダイエットとか以前に、頭の中が空っぽになって精神衛生に極めてよいです。天気がぐついているので、外で走れないのがちょっと辛いのですが。岩盤浴は贅沢ですが、幸せな気分になります。ちょっとした幸せですが、これから冷房の下でうんうん唸りながら仕事を進める厳しい夏を迎えるので、よいストレス解消を覚えて幸福です。



【業務連絡】



 今週から来週にかけては、私の怠惰もあって仕事が山積しております。不定期更新となりますので、御理解ください。

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