2006年06月01日

秋山真之の「特異なパーソナリティ」

 連休中に『第一次世界大戦と日本海軍』に関するメモを書きますと宣言してから、いまだに記事が二つしかありません。忙しいときは、勤務先に何日間か連即して泊り込みをするのですが、なかなか埒が明かず、苦労します。おまけに片付いたと思い込んでいた仕事に欠陥があることがわかり、こちらも期日ぎりぎりということもあって徹夜に近い状態で作業をしておりました。本当は、自分のしたいことが山ほどあるのですが、他にも大きな共同作業を抱えているので暫くは我慢というところでしょうか。



 言い訳が続いて恐縮ですが、『第一次世界大戦と日本海軍』を読んでいるうちに、あらためて日露戦争後から大正デモクラシーにいたる政治史や第一次世界大戦の戦局など知識不足が大きいことに気がつきました。『財部日記』を読むなどという無謀なことはしておりませんが、種々の書物を読みながら、あらためて政治・外交面では内閣の主導で開戦が決められたことや対華二十一か条要求、軍事面では青島攻略など陸軍に関する記述が大半で海軍の行動に関してはドイツが保有していた南洋諸島への進出などに記述の多くが割かれていることを実感いたします。そのような著作も読みながら、『第一次世界大戦と日本海軍』を読んでおりますので、息の長いシリーズになるかと存じます。このシリーズにご関心をもって読んで頂いてる方には申し訳ないのですが、マイペースで進めさせて頂きたく存じます。この点はご理解を賜りますよう、お願い申し上げます。



 今回は、シリーズの番外編として秋山真之に関する平間先生の描写を紹介いたします。秋山真之といえば、『坂の上の雲』で東郷平八郎の参謀として旅順閉塞作戦や日本海海戦での迎撃などで一挙に名声が高まりました。『第一次世界大戦と日本海軍』では主として海軍省と軍令部の意見の不一致を描くプロセスで秋山真之の別の側面が、抑制的にではありますが、描かれています。本シリーズでこの経緯に触れると、あまりに長くなるので番外編として紹介いたします。



「…このシーメンス事件により開戦四ヶ月前に山本内閣が倒れ、五月には山本首相や斎藤海相の予備役編入、軍政家として山本大将から特に目をかけられていた呉鎮守府司令長官松本中将の懲戒免職や、山本首相の娘婿である海軍時間財部中将の待命などが発せられた。そのうえ時期海相第一候補者であった加藤(友)中将が、開戦四ヶ月前の四月に八八艦隊建艦予算問題から清浦内閣への入閣を拒否し、第一艦隊司令長官として洋上に去っていた。このため、総理に指名された大隈重信は、松本中将や加藤中将など海軍兵学校七期から海相を得ることができなくなり、副総理格で入閣した加藤(加藤高明:引用者)と協議し、海軍兵学校八期の舞鶴鎮守府司令長官八代中将に特使を派遣して入閣させることとした」(23??24頁)。



 やや煩雑な記述ですが、ここでの記述の裏返しとして当時には既に海軍兵学校を何期卒という序列が海軍のなかで人事を決める重要な要素になっていたことが伺えます。また、八代中将は海相に就任すると、財部中将よりも二期先輩の栃内、黒井、野間口少将を中将に昇格させたことから、序列に加えて海軍長老との関係が序列以上に海軍の人事に重きをなしていたことも伺えます。このように書くと、既に海軍ですら、人事面で組織の「動脈硬化」が始まっていたととられるかもしれません。私が、この叙述から読み取るのは、むしろ日本海軍がこの時期に既に明治維新以降の体制の下で人材の再生産を行う段階に入っていたということです。能力本位の人事が望ましいという主張はいつの時代にも絶えませんが、現実には特異な能力をもった人物は別として多くの場合、経験と能力は正の相関にあるでしょう。年功序列にはそれなりの根拠があるのでしょう。



 さて、八代中将は海相就任を受諾すると、秋山軍務局長の次官就任を強く要望しました。しかし、これは、秋山少将自身の固辞と秋山少将の「独特のパーソナリティ」によって部内の反発を招きます。



「しかし、この人事(秋山軍務局長の次官への昇格:引用者)人事局長の鈴木貫太郎少将よりも三期も後輩の秋山少将が次官に就任することであり、人事行政上に問題があると秋山少将が鈴木人事局長の次官への昇格に固執したため実現せず、鈴木少将が人事局長から海軍次官に昇格することとなった。しかし、秋山への『部内の風当たりは相当強』く、『鈴木を取り巻く者に佐藤鉄太郎、松村龍雄、向井弥一の諸氏あるも、秋山を取り巻くものはない」状況で秋山は孤立し、突出していた。一方、秋山商法には東郷元帥の部下で名参謀と賞賛された過去の栄光や名声があり、八代海相とは海軍大学校で学生と教官、さらに八代海相が秋山の仲人であるという両者の密接な個人的な関係、秋山軍務局長を押さえるべき鈴木次官が秋山少将の固辞によって実現したという異例の人事、それに秋山少将の独特なパーソナリティなどが省部間の意志の疎通を妨げてもいた」(24頁)。



 海軍内部の人間関係を、学術論文のなかで史料を上手に用いた叙述です。なお、鈴木貫太郎の海軍次官、秋山真之の軍務局長の任期はともに1914年4月17日に始まっていますので、ここでの叙述は第一次大戦前の海軍における人事が対象です。気になるのは、平間先生が抑制して表現されている「秋山少将の独特なパーソナリティ」です。この点に関する具体的な指摘は、平間先生以外の本もあたってみましたが、残念ながらよくわかりませんでした。上記の引用では、秋山真之は海軍の主流からは浮いていたようですが、参謀としての才能や名声は周囲も認めるところではあったようです。この後の叙述では、『財部日記』を下に海軍省の早期参戦への軍令部の不満が詳細に検討されていますが、今回は、参戦の時期の秋山真之に焦点を当てます。



 1914年8月8日に閣議で参戦が決まります。山県の下に杉山茂丸が訪れ、陸海軍の少壮者が参戦を熱心に説き大隈首相もこれに動かされたとの記述が紹介されています。山県も陸海軍の少壮者が参戦を煽ったという認識をもち、これを記録に残しています(『第二次大隈内閣関係資料』75頁)。この点に関して平間先生は、秋山真之が積極的に参戦を主張した可能性は考えうるけれども、様々な史料と解釈、杉山の性格から、海軍が参戦に積極的であったという主張を退けています。ここで参戦に積極的な「少壮者」の一人として名前が挙がっている秋山真之の軍略について引用します。



「確かに、秋山少将は中国に深い関心を持ち、『海軍部内では異色の北進論者』と言われ、開戦前から参謀本部の第二部長福田雅太郎少将や満鉄理事犬塚信太郎などとともに中国問題にかかわり、日中攻守・経済同盟の必要性を説き、第三革命(1911年の辛亥革命後、1915年孫文を中心とする革命派が袁世凱の専制に抵抗した事件:引用者)では孫文派の資金獲得のために犬塚、小池外務省政務局長などとともに、終夜にわたり上原勇作中将(のち元帥)を口説くほど中国問題に深入りしていた。また、このグループの福田少将は『我が国の欧州大戦を決定するに至らしめた原動力は、大将〔福田〕の力が与かって最も大なるものがあったことは動かすべからざる事実である』と、言われたほど参戦にかかわった人物であり、親ドイツ派が多くドイツ有利を信ずる陸軍を抑え、陸軍を参戦に導いた陸軍の少壮実力者であった」(26??27頁)。



 この叙述以外に、秋山真之の政略論を確かめる信頼できる文献を見つけることができませんでした。この文章を読むと、参謀としては実戦で有能であった人物も政略面となると、疑問を感じます。当時の中国の国内情勢や産業の発達などから日中攻守同盟なるものがどれほど帝国の安全にとって意義があるのかなどをどの程度、理解していたのかは、この短い文章からは判断することはできません。また、秋山が中国問題に深入りしていたことは、他の文献でも指摘されており、彼の戦略そのものを理解することはできませんが、大陸への傾斜があたことは事実でしょう。他方で、彼は南洋諸島への進出にも積極的であったようです。



 彼がアメリカの脅威をどのように評価していたのかという点については、分析している文献を見つけることができなかったのでわかりません。ただ、南洋諸島への進出に積極的であった、控えめに表現しても、海軍内部の要求に抵抗した事実が指摘されていない以上、秋山自身は海軍の傍流とはいえ、結果的にアメリカの脅威に備えるという海軍主流の軍略と結果的に大差がないといえるでしょう。



 むしろ、大陸重視と南洋への進出という組み合わせは、アメリカを刺激するには最も効果的であり、秋山の「特異なパーソナリティ」は、海軍のアメリカを脅威と見、これと対決するという後に帝国が破滅に至る枠組みを変えるほどのものではなかったことがわかります。秋山真之を否定的に評価するのがこの記事の目的ではありません。優れた参謀といえども、すぐれた外政指導とそれに服する軍首脳部の下でのみ才能を発揮しうるのであるという平凡なことを確認しておきます。



 最後に、第一章、第一節の最後の叙述を引用して第一次大戦への参戦に関する海軍の姿勢をまとめます。



「シーメンス事件により傍系の八代海相が就任し、八代海相が山本大将などの海軍主流派や軍令部長に相談することなく、その意に反して閣議で参戦に同意してしまったというのが参戦をめぐる海軍の対応であり、シーメンス事件で政治力を失った海軍は、政府の参戦決定に大きくかかわることなく、海軍の参戦をめぐる対応は受動的・消極的であったといえよう」(28頁)。

2006年05月31日

『第一次世界大戦と日本海軍』メモ2

 今回は『第一次世界大戦と日本海軍』の第一章冒頭部分に関するメモです。平間先生の分析は非常に精緻であります。第一節「参戦と日本海軍」では第一次大戦への参戦にあたって海軍の対応が消極的であったことが描写されています。また、そのような海軍の対応がかならずしも統一的な意図に基づくものではなく、シーメンス事件における海軍の政治的発言力の低下と内閣主導による参戦の決定、その結果と生じる海軍省と軍令部の不一致の描写などリアリティに富んでいる点に特徴があると思います。



 しょっちゅう脱線して恐縮なのですが、戦前の「海軍=善玉、陸軍=悪玉」という図式にどう思いますかと尋ねられて困った覚えがあります。軍の行動は、古来、略奪や暴行など逸脱行為に関していえば、善悪是非の評価の対象になるのでしょう。しかし、軍の行動の評価は、善悪という基準にはあまりなじまないと思います。極論すれば、戦時においては上手に戦ったのか、そうでないのか。すなわち、軍事の巧拙という評価は可能だと思います。また、戦前の軍を善悪の観点から評価したがる傾向には、政治的判断が含まれている場合が少なくないでしょう。これも、私は違和感があります。戦前は、二軍は政治的発言力をもっていましたし、その意味では政治的意思決定におよぼす力があったでしょう。1939年以降は、とくに軍部の政治への影響力は特異なほど高かったかもしれません。これはさらに極論でしょうが、その際、軍部が政治へ影響をもつことが日本にとって利益であったのかどうか、そして、軍の及ぼした影響はやはり巧拙という観点から評価すべきものであって善悪の評価にはなじまないと考えます。脱線が長くなりましたが、戦後史観の偏向は問題だと思いますが、それは、つい歴史や政治的意思決定の評価に巧拙よりも善悪の判断を先においてしまうという人が犯しがちな(私も同様の偏見からけっして自由ではないでしょう)手順前後の一つに過ぎないのではないかと考えております。



 平間先生の叙述に話を戻します。第一次世界大戦は1914年6月28日のサラエヴォ事件にに端を発し、同年8月3日ドイツがフランスに宣戦布告しベルギーの中立を侵すと、8月5日にはイギリスがドイツに宣戦を布告しました。その際、8月3日にイギリスから日英同盟を適用しないという申し出があり、当時の大隈内閣は、4日に中立を宣言しました。この点について「当時の日英同盟は攻守同盟ではあったが、自動的に参戦を義務づけるものでなく、さらに軍事行動の適用範囲がインドを含むアジアに限定されており、日本に参戦の義務はなかった」(17頁)と簡潔に記されています。大戦に参戦するか否かの意思決定は、条約に直接にもとづくものではなく、日本側の自発性の部分が多分に大きいことを確認しておきます。



 また、当時の海軍は、駐日アメリカ海軍武官コッテン少佐の報告から南洋諸島への進出を強く望んでいたことが論じられています。他方で、当時の海軍の実力はトン数では世界第5位ではあったものの、総トン数56万3,000のうち、日露戦争による戦利艦21隻、23万8,000トンを含んだ数字であることが指摘されています。さらに、「…ドレッドノート(Dreadnought)型戦艦の出現により保有艦艇の大半が時代遅れもとなっていた」(19頁)と指摘されています。艦艇を新造することは急務でありました。しかし、いわゆる八八艦隊の構想は、主としてアメリカの脅威から生じたものでした。『国防の研究』では「侮リ難キ武力(特ニ海上武力)ヲ有スル必要」があるという一節が引用されています。



 これは正統かつ簡潔な叙述ですが、不吉なものを感じます。アメリカと敵対関係に入った場合、天文学的ともいえる支出を要する軍備を考えざるをえなくなるということを図らずも示していると思います。現代ならば、核武装も当然、必要になります。戦前の技術水準でも、アメリカとの敵対関係を前提としたときに、途方もない軍備が必要でした。八八艦隊構想を当時の国力から夢想的であると嘲笑うことは容易なことです。しかし、アメリカとの敵対関係の下で自国の安全を図ろうとすれば、八八艦隊が適切な水準であったかどうかは別として、やはり軍事に多くの資源を割かなければならなかったでしょう。適切な水準がどの程度であるのかは、素人の私には見当がつかないのですが、当時の軍の錯誤を嘲笑する前に、その前提となる利害関係を正確に見極める必要があります。翻ってみるに、アメリカとの同盟によって、敗戦というあまりに大きい犠牲を払ったとはいえ、自国の安全が確保されている現状にあらためて幸運を感じずにいられません。



 ついつい脱線が多くなってしまいますが、次回以降は脱線を控えて平間先生の叙述を順を追って考えてまいります。

2006年05月30日

対中「封じ込め」再論

 私の悪い癖でコメントを拝見すると、慣れていないこともあって、つい慌ててしまいます。先週は、コメントが多く、運営している者としては非常に楽しいと同時に「闇の組織」から総力戦を挑まれたために(元帥の戦闘力は怖すぎです。やむをえず、「核保有」に踏み切りました。ちなみに次帥は不参加)慌しい日々でした。コメントをお寄せ頂いた皆様に感謝いたします。なかでも、やじゅんさんのコメントは、私自身、ずっと気になっているところで長いリプライを書きましたが、論点がずれてしまい、恐縮です。また、トラックバックを送って頂いたのですが、あらためて拝読すると、私が論じていることの多くは、やじゅんさんが既により的確に分析されておられるので、あたらめて先見の明、洞察力に感服いたしました。この記事を読む前にやじゅんさんの記事「対中『封じ込め』と外交政策の考え方についての雑感」をお読みください。



 雪斎先生の「今こそ対中デタントに舵を切れ」では、あまり詳らかに論じなかったのですが、雪斎先生は、ケナンの論文を引用された後に、米中が「冷戦」とも呼ぶべき状態ではないことを指摘されています。日本の対中政策を考える上で日中関係が基本ですが、米中関係を見ないと、現実的な分析はできません。もう一つ大切な点は、仮に日中が衝突路線に進んでしまった場合、日本が「悪玉」としてアメリカの世論に移らないようにするために対中外交の基本を分析されているとも読めるということです。あるいは現状のまま「日中衝突」となる場合、日本側にも非があるかのような言い逃れの余地を中国側にできるだけ与えないための方策として読むことができます。



 先の米中首脳会談は日本人として安堵を覚えますが、日中が対立した際にアメリカが常に日本側に組してくれると考えるのは、あまりにナイーブなことだと思います。同様の認識は、やじゅんさんの最新の記事「日米同盟について」でも読み取ることができます。米中関係は、基本的に対立と協調という両方の側面があって、どちらが基調であるかということについてまだ明確なコンセンサスはないと考えたほうがよいと思います。ただし、国防総省など軍事関係者は最悪の状態を想定するのが基本ですから、米中対立に陥った場合、どうなるかという発想は強いでしょう。あるいは国務省でもイランへの対応や北朝鮮をめぐる六ヶ国協議、財務省などでは人民元の問題など両国の利害の不一致が目立つことは事実です。ただし、以上の不一致を重視するにしても、現時点では米中が「冷戦」にいたってはいないという冷静な認識を保つ必要があります(力を獲得する以上に、持てる力の使い方をわきまえることは難しいという古典的な問題に中国共産党がどのような解をだすのかはお手並み拝見という底意地の悪い観察者の立場ですが)。



 やじゅんさんの「対中『封じ込め』と外交政策の考え方についての雑感(その1)」に次のような文章があります。「対中『封じ込め』に関して言えば、大事なのは『封じ込め』という言葉が与える、あるパワーへの『対抗』という抽象的なニュアンスではなく、それが具体的に何を指すのかであって、『中国の「パワー」の増大を恐れるから日本が対抗する』と原理的に考えるのではなく、中国の何が脅威であって、それは日本に対していかなる実害があるのか、だからそのためにするべきことは具体的に何なのか、そういった微視的な思考から得られる結論なのではないかと思います」。



 あまりにも常識的すぎるのでつい読み流してしまう部分ですが、現実的かつ実務的なアプローチだと思います。やじゅんさんは、バランス・オブ・パワーなど国際政治におけるいわゆる「現実主義的アプローチ」を否定しているわけではありません。私自身は、日本人はどちらかといえば"conceptual thinking"が苦手な傾向があるので、安全保障でも勢力均衡など欧米では常識になっていることをもっと議論する必要があると考えております。ただし、その場合にも、当然の前提として各国の国内情勢や対象となる国々の複雑な利害関係を面倒なようでも正確な事実にもとづいて分析するという基礎作業が不可欠です。私の印象では、国際関係で戦略論を議論する際に、この国では基礎作業を軽視してしまう傾向があるようです。これは、「耐震偽造」よりも危険な「しゃぶコン」を使った土台の上に国策を議論するようなものでちょっとした揺れでも崩壊しかねないもろい議論になりがちです。私自身、そのような傾向があるので、要注意だと感じました。



 というわけで、自戒の念を込めて記事を終わります。えっ、もう終わり?いつもより短いじゃない。かんべえ師匠のコメントがよほどこたえたの?それとも、記事を短くしてまでアクセス数を増やしたくなったの?などと不届き千万なことを考えたあなた。



…残念!!



 こういうときもあるんです。「これでは物足りない」と感じる方は、私とご同病の可能性がありますので、くれぐれもお大事になさってください。「寝言」も休み休みに。



(蛇足)岡崎研究所ではアジアの国の小さな研究会というプロジェクトを実行されていたそうです。リンク先では個々の項目が読めない状態ですが、岡崎先生の戦略論というのは現状分析を徹底的に行うことそのものであることを蛇足ではありますが、付記しておきます。

2006年05月27日

日中軍事バランス補論 開明的な国防政策への試論

 まず、昨日の記事の補足について述べます。昨日の江畑さんのお話は私が直接、「取材」したことで、岡崎先生の見解はフォーラム全体でお話しされた内容です(内容の正確さは、私の記憶力しだいですので、私の責任です)。さくらさんが触れてられている「岡崎・江畑ゼミ」というのは、フォーラムが終わってから岡崎先生が江畑さんを呼び止められて「さっきの話(岡崎先生の情勢判断)なんだけど」ということで切り出されました。素人からみて、すごいなあと思ったのは、二言、三言でコンセンサスができてしまうことでした。別々にお話を伺っても、ほとんど事実認識が一致しているのは明らかなのですが、直接、「対決」されても、すぐに合意ができてしまう。あとは、ギャラリーが「中国にはAWACSがないでしょう」という突っ込みを入れると、「既に配備済みで、さらに性能向上に取り組んでいます」とか、「ロシアが粗悪品を輸出しているという話もありますが」という突込みには、「ライセンス生産が主で自国でも量産が可能なレベルにきています」という反応が返ってきました。私が思うに肝は、10年程度前であれば、2010年頃の台湾海峡の軍事バランスが懸念されていたのが、現時点では2010年頃の日中の航空戦力が均衡ないし中国が優勢になる可能性があるということです。


 これは、安保環境の劇的な変化をもたらす可能性があります。岡崎先生の情勢判断では、時間とともに台湾海峡の軍事バランスが中国に有利に変化する。1996年の台湾海峡危機ではアメリカは空母機動部隊を派遣して事態を収拾しましたが、中台の軍事バランスが中国に有利になる一方では空母の派遣にも限界がある。一歩一歩、アメリカが台湾海峡の軍事バランスを保つためのハードルが高くなる。日本が集団的自衛権の行使に関する保留をしている限り、日本の防衛力は極東の軍事バランスではゼロとカウントせざるをえない。法解釈上、保留をやめた場合でも、日本が権利を行使する可能性が生じるだけであり、確率がゼロであったのが、ゼロでなくなるだけで、実際には行使しないかもしれない。しかし、行使する可能性があるというだけで極東の軍事バランスを計算する際に日本の防衛力は考慮されていなかったのが、考慮されるようになる。アメリカにとっても、軍事的にはもちろん、心理的にもハードルが低くなる。日本が余計な保留をやめることが、台湾海峡の安定につながり、結果的に日本の安全を高める。


 この議論には暗黙の前提があります。それは、日中間の軍事バランスでは日本が優位にあることです。ところが、中台だけでなく日中間でも軍事バランスが中国に有利になると、話が変わってきます。集団的自衛権の行使に関する保留を続けると、問題は基本的に以前と変わらないと思います。ただし、中国が抑止を破ってしまった場合(私自身は直接の戦争にいたる可能性は低いと思いますが)、日本の安全も脅かされるリスクは以前よりも相当高まるでしょう。場合によっては、中国が圧倒的な武力の下に台湾を呑み込んでしまうと、中国の航空・海上での優勢による圧力を、米軍の支援があるとはいえ、一手に引き受けなければならない状況が生じかねません。


 それでは集団的自衛権の行使を認めるとどうなるか。これは中国側からすると、仮に日中の軍事バランスが中国に有利に働いたとしても、軍事的行動にでることを躊躇わせるでしょう。他方で、日中間で中国の優勢が明白なると、露骨に日本を牽制しようとするでしょう。靖国問題をもちだしているのは、中国内部の権力闘争などいろいろな憶測が可能でしょうが、現時点では露骨なハードパワーを前面に出さないのは、日中の軍事バランスが日本に有利であるという現実を反映していると思います。簡単に言えば、中国は日本に対して手をだすという選択肢が事実上ないということでしょう。


 これが崩れた場合、仮に集団的自衛権の行使に関する保留を止めたとしても、中国は露骨に日本の安全に圧力をかけるインセンティブを高める可能性が高くなります。これは、直接的には日本の防衛に影響をもたらすのですが、むしろ、台湾海峡の危機を高めることが中期的には危険だと思います。なぜなら、中国の軍拡の下で日米台が台湾の安全が三ヶ国の共通の利害であるという非常に強いコンセンサスを形成し、中国側に誤解のないよう、メッセージを送る必要があります。しかし、日中の軍事バランスが崩れてしまうと、日本側がこの三ヶ国のコンセンサスに参加し、それが文言上のものだけでなく、実効性のあるコミットメントを与えるハードルが高くなってしまいます。これは、アメリカが台湾海峡で抑止を確実にするためには、大きな制約となる可能性が高いでしょう。一番の問題は、台湾が中国の軍事的圧力の下に中台統一、露骨な表現をすると、中国に屈服する誘惑にかられるでしょう。台湾海峡で現状を変革しようという意図と能力をもっているのは中国です。しかし、日本側が防衛力を高める努力を怠る、あるいは不十分なレベルに留まれば、台湾海峡の安定を脅かす一因となるリスクがあることをを日本人自身が認識する必要があるでしょう。


 「日英同盟の形成にみる偶然と必然(6)」で引用したニコルソンの文章を再度、引用いたします。

「エア・クロウ卿は、もしこの海上の覇権が強引に推し進められるならば、それは全世界に憤怒と猜疑の念を惹き起こすことになるだろうと論じている。したがってそれは、できるだけ他国に恩恵を与えるように、そしてできるだけ他国を挑発しないように行使されなければならない。それは『他の大多数の諸国の基本的死活的利益と一致せしめられ』なければならない。
  では、これらの基本的利益とは何であろうか。第一には独立であり、第二は貿易であった。したがって、イギリスの政策は門戸開放を維持し、同時に、『小国の独立に直接的積極的関心』を示すものでなければならない。かくして、イギリスは、自らを、『小国の独立を脅かすすべての国にたいしてはおのずからなる敵国』とみなさなければならない」。

 イギリスと異なり、日本が極東における、覇権国やバランサーの立場を占めることは非常に困難です。まして「光栄ある孤立」などは、経済的相互依存関係だけではなく、同盟を代表とする政治的な依存関係が支配的な傾向にある現代では日本外交の基本方針とはなりえないでしょう。他方で、自国の防衛力を高めるとともに、アメリカとともに極東を安定させることは、第1に、自国の利益にかないます。そして、「他の大多数の諸国の基本的死活的利益」と一致させることは、それがあくまで利己的なものであっても、けっきょくは互恵的なものです。日本の防衛力強化は、中韓との海洋権益をめぐる諍いという無視でできない局所的な利益だけではなく、極東の平和に貢献することが、長期的には日本の利益にかなうという開明的な大局観に基盤をおくことを願ってやみません。



(追記)下線部を修正いたしました(2006年5月29日)。

2006年05月23日

『第一次世界大戦と日本海軍』メモ1

  平間洋一『第一次世界大戦と日本海軍――外交と軍事の連接』(慶應義塾大学出版会、1998年)は、博士論文です。構成、内容ともに学術的であり、一つの章に150前後の注がついた緻密なものです。これを私が一つ一つ検証をし、確認をするのは煩雑であるだけでなく、専門的なトレーニングを受けていないがためにかえって混乱することになりまねません。瑣末なことで恐縮ですが、このメモで引用した頁以外のことを記さない場合、平間[1998]からの引用であることといたします。他の著書からの引用の場合、著者名、署名、出版社、出版年、引用頁などを記すことといたします。以下では、まず、序章からこの著作の特徴と構成について簡単に整理します。



 まず、この著作の特徴の第1は、海軍の作戦行動に重点がおかれているということです。大戦期の日英関係に関する従来の研究では、軍事的関心が薄く、あっても地理的にも時期的にも限定されたものでした。また、軍事的関心に重点を置いている研究でも主として陸軍に限定されていることがほとんどでした。この著作では、第一次大戦への日本の参戦から大戦後の海軍意思決定や作戦行動に叙述の多くが割かれています。



 第2の特徴は、海軍の作戦行動と外交の関連です。海軍は、開戦直後にドイツの極東拠点である膠州湾を封鎖し、陸軍の青島攻略作戦を支援するなど、陸海共同作戦を展開しました。同時に海軍独自の作戦も実施しました。まず、大戦の前期にはシュペー(中将)艦隊(ドイツ極東艦隊と巡洋艦エムデンを捜索・撃滅させるために戦艦や巡洋艦など十数隻を南米沖のガラパゴス諸島や南太平洋のフィジー諸島からインド洋へ派遣しています。また、戦争中期から後期にはオーストラリアやニュージーランド、ケープタウンへ巡洋艦、地中海に駆逐艦隊を派遣しました。さらに、反日感情の強かったアメリカも日本にハワイに艦船を派遣するよう、要請し、日本海軍はこれに応えて巡洋艦を1隻ですが、派遣しています。これが、外交上の懸案事項を次々に解決する大きな後ろ盾となりました。代表的な事例としてマレー半島における日本人医師の医療活動制限撤廃や、オーストラリア・ニュージーランドの日英通商航海条約への加入、山東半島のドイツ利権の譲渡・南洋群島の領有などが海軍の作戦行動と関連付けられます。



 第3の特徴は、日本の動向が他国に与えた影響を多角的に分析していることです。まず、同盟国イギリスへの影響という点では、陸軍の派兵が実現しなかったこともあり、大戦中の軍事的支援が限定的なものに止まりましたが、それが戦争終結とともにイギリスから高い評価を受けたことが分析されます。また、参戦の前後は、日米関係が極度に緊張し、反日世論が高まったことが描写されています。とくに、開戦直後に海軍は、ドイツ東洋艦隊の撃滅のために遣米支隊をアメリカ西岸に派出しました。この作戦中に巡洋艦浅間が座礁してしまいます。この浅間の座礁事故がアメリカ、メキシコ、ドイツによって利用されてしまいました。「浅間の座礁はメキシコによって対米牽制に利用され、ドイツには日本とメキシコが同盟してアメリカを攻撃するとのツィンメルマン事件を引き起こす遠因を与え、さらに大戦後にはアメリカの軍備拡張主義者に対日脅威を煽りたて、恐日・反日世論を高め海軍力増強の道具として利用されたのであった」(4頁)。



 次回は、大戦への参戦における海軍の対応についてとりあげます。

2006年05月22日

日英同盟の形成にみる偶然と必然 まとめ

 ない頭を使いすぎたせいか、湿気にまいったのか、いきなり「夏バテ」状態になってしまいました。まだ、よれよれですが、とりあえず、まとめに入ります。



 ずいぶんと長い寄り道をしましたが、日英同盟の「不思議」にまつわる周辺をさまよってみました。書きながら、疑問が氷解するというより、あれこれの書物を読みながら、自分の疑問がある程度、整理できました。本当は、ビスマルクによる「外交の革命」まで触れる予定でしたが、話が広がりすぎますし、「日英同盟の形成にみる偶然と必然(2)」で触れたビスマルクの後継者たちの失敗の方が今回の問題に強く結びついているので割愛いたします。プロイセン主導のドイツ統一のプロセスは、私も感情抜きで読めないほど、近代国家の成立過程として見事な部分があります。他方で、ビスマルク亡き後のドイツが、アジアにおける日本ではなく中国であるという構図を外交上、明確にすることが今日では肝要であると思います。まとめとしては不十分ですが、7回のシリーズを書いてみて、中間的なまとめというよりも、感想です。ほとんど常識に属することばかりですが、当たり前のことを自明とせずに意識しておかないと、勘違いをしてしまう非常識な者の戯言と読み流していただければ幸いです。



(1)ロシアの脅威から日本は、英国との同盟を求めていた。同盟締結当時、英国も、極東でロシアの脅威に苦慮していた。日英同盟は、ロシアの脅威という点で利害の一致があったことが大前提であった。さらに、日本が英国からみて同盟国とするにたるだけの自助努力を行っていた。他方で、「我々には永久の同盟も永久の敵もない」というパーマストンの言葉は、英国外交だけでなく、今日の国際関係でもあてはまる。それにもかかわらず、日英同盟は1902年に締結され、1923年の失効まで20年の長きにわたって日英を結びつけた。海洋国家どうしの絆は当面の脅威が去っても、持続する利害の一致がある。



(2)国際秩序の安定性は、第1に、秩序の構成者の利害が一致する、あるいは不一致があっても秩序を破壊しないレベルに至らないことである。第2に、その現実を秩序の構成者が理解しているということを互いに共有しているという「信念」が成立することである。第3に、価値の共有は、秩序を安定させると同時に秩序そのものから生じてくる側面をもつ。



(3)同盟は、国際秩序を形成する最も有効な手段である。ただし、独立した国家どうしに恒常的な利害の一致はありえない。メッテルニヒが弱者の立場から、ビスマルクが強者の立場から理解したように、利害の一致とは、利害を異にする側面をもつ国家間の妥協の産物でしかない。



(4)ニコルソンにしたがうと、英国の優れた外交官は、「そしてすぐれた外交の基礎はすぐれた商売の基礎と同じであること――すなわち、信用、信頼、熟慮、妥協であることを知っている」。このような英国外交の常識は、クロー覚書で示された英国の島国という地理的な条件、通商の利益の必要性という基礎条件から生まれてきた。キッシンジャーは、さらに英国の政体の先進性にその基礎を求めている。気長な話ではあるが、19世紀の英国外交のように成熟した外交を行うには、百年単位で形成される民主的なコンセンサスが必要である。他方で、英国のおかげで勢力均衡がコンセンサスの主たる内容であることも自明である。



 ふと思うのは、日英同盟を失ったことは、日本にとって打撃であっただけでなく、英米にとっても不幸なことであったということです。日本が対中戦争にのめりこんでいった過程は、軍国主義などという、お世辞にも一貫した戦略的な意思決定のプロセスによるものではなく、民主主義の失敗という日本独自の問題であったと思います。他方で、日本の軍事力は、英米を屈服させるにはあまりに貧弱でしたが、アジアから「英米本位の平和主義を排す」には十分すぎるぐらいでした。詳しくは、『第一次世界大戦と日本海軍』に関するメモで触れてゆきますが、日英同盟が廃棄に至る過程は非常に複雑です。もちろん、日露戦争に日本が勝利し、英露協商の成立によって同盟の本来の意義が希薄になったことは事実でしょう。他方で、地中海に派遣された第二特務艦隊の活躍は目覚しく、中国や南洋諸島情勢とあいまって、かえってアメリカの世論の猜疑を招いたという点は皮肉としかいいようがありません。民主国の国内世論というのが、判官贔屓であるというのはアメリカに限ったことではないと思いますが、当時のアメリカの世論は、あまりにナイーブでした。



 日本人としては遺憾なのですが、それ以上に日本はナイーブでした。現在で言えば、第一次大戦での海軍の活躍は集団的自衛権の行使にあたるものでしたが、それが短期で認められないと、アジア主義の高揚、英米への対決という方向に向かったのは、稚拙な表現ですが、本当に惜しいと思います。幣原外交の破綻の背景には、英米への怨恨感情が少なくないだろうと思います。



 話が飛躍しますが、露悪的に言ってしまえば、世界を方向付けるだけの力をもった英米と同盟関係にあることは、日本の安全に直接、寄与するだけでなく、英米の選択肢を、ある程度までとはいえ、限定してしまうという点でも日本の安全に寄与するでしょう。同盟というのは失ってから、その価値がわかるとはいえ、同じ失敗を繰り返せば愚かというものです。第一次大戦における対英協力は、けっして利他的な動機に基づくものではありませんが、やはり私たち自身が記憶しておくべきことだと思います。『第一次世界大戦と日本海軍』に関するメモは、私自身の戦前史の理解が浅いために雑駁なものとなりますが、お読みいただければ幸いです。

2006年05月19日

自国を信じるということ 日英同盟の形成にみる偶然と必然(7)

 一読者として自分のブログを見ると、異様です。なにより、文章がやたらと長い。慌てて、昨日の記事をメモ帳からワードに移しかえたら、A4で5頁超ほどありました。昨日の記事を最後までお読み頂いた方には、心から感謝いたします。ここで現実に戻って小休止と思って辺りを見回すと、同友会の提言とか竹島問題とか食が進まないテーマが多くて、書く気がしないというのが正直なところ。まあ、かんべえ師匠が怒っている珍しい光景を見たのがおもしろいぐらいで、提言そのものを読むと、正直、萎えます。お役所の作文から言質を与えないずるさを除いたら、こんな感じかなと思うぐらいつまらない。という訳で予定通り、続きを書きます。


 まずお断りしなければならないのは、私はイギリスびいきです。キッシンジャーの叙述は、大陸、とりわけオーストリアの立場から19世紀のヨーロッパ外交を見ています。キッシンジャーの分析を読んでいると、彼は正直なあまり、イギリス外交に感嘆しながらも、イギリスへの不満が隠せません。たとえばこんな具合です。

「一八五六年にパーマストンは、国益についてのイギリスの定義を次のように定義した。『何が政策なのかと問われた場合に私が与えられる唯一の答えは、問題が起こるたびに、我が国の利益に照らして一番良いと思われることを行うことである、というものである』。外務大臣エドワード・グレイ卿の言葉にあるように、半世紀たっても、イギリスの公式の外交政策は、別にそれ以上詳細になっていない。『イギリスの外務大臣は将来のことまでは詳しく考えないで、現在イギリスの利益にとって何が必要かということによって導かれている』」(キッシンジャー『外交』、邦訳118頁)。

 これに続けて「他の国ではこんなことを言えば、それは無意味な同義語の繰り返しだといって嘲笑されるであろう」と述べています。これに続く、イギリスの指導者たちは国益を本能的に理解しており、世論もそれについてくることに自信があるから、正式な戦略を必要としないという観察はおもしろいのですが、大陸的なキッシンジャーの限界を感じます。


 イギリス外交を特徴付けるのは、常識ということにつきるのだろうと思います。しかるに、この「常識」なるものを理解し、説明することは非常に難しい。なぜなら、イギリス人たちが膨大な試みの中から良いものを記録して残してゆくプロセスの中からしか生じないからです。イギリスの異常なまでの歴史への愛情は、まさに常識を重んじるというイギリス的気風からしか説明が難しいように思います。いざというときになぜ彼らが判断を誤らないかといえば、それは理性によって説明できることに限界を認め、可能な限り事実を重んじ、空想にふけることを戒めるというごく当たり前の、しかし、外交という極限状態もありうる状況で常識を貫くことができるという驚くべき特質にあるのだろうと考えます。この評価は、イギリスをあまりに美化しているかもしれません。ただ、幣原喜重郎のようにイギリス、そしてアメリカの知日派にも評価された日本人を思い浮かべると、そのように考える方が自然だと思います。


 もし、これだけだったら、イギリス外交について論じるときにキッシンジャーの分析を借りることないでしょう。彼は、イギリスの外交政策の一貫性の源をイギリスの政体に求めています。

「イギリスが危機にあたってかくも一貫性を持ちえた理由の一つは、その政治制度が民主的性格のものであったからである。一七〇〇年以来、世論がイギリスの外交政策において重要な役割を果たしてきた。十八世紀においては、ヨーロッパの他の国では、外交政策において?野党的?立場というものはなかった。イギリスでは、それはシステム自体の中に存在していた。
(中略)
 イギリスの外交政策は公開の討論から生まれたものであるため、イギリス国民は戦争の際は異常なまでの結束力を示した」(前掲書、124−125頁)。

 イギリスの先進性は、産業革命と交易よりも、むしろ、漸進的な民主政治にありました。実際、この政体が成熟するまでイギリスは惨憺たる失敗を何度も重ねています。イギリスの幸運は、他の国の干渉を最小限にして自国の政体をつくりあげる安全保障環境にありました。そして、外交政策においては、与党と野党の違いは程度問題に過ぎないほど、19世紀において強力なコンセンサスを形成していました。皮肉なことに、イギリスは、アメリカから、自らの歴史をまったく別の形で追体験させられるという運命にありました。それが、さらに皮肉なことにイギリスの幸運となるわけで、平凡ですが、禍福はあざなえる縄の如しと思わずにはいられません。


 同じ日本人として感嘆するのは、明治の指導者たちがこの英米の先進性の秘密を理解していたということです。もし、この洞察がなければ、日英同盟は成立しなかったでしょう。『幣原喜重郎とその時代』は岡崎先生の近現代外交史シリーズの中でもっとも好きな著作です。明治の人たちが新しい土地を開拓し、種を蒔き、失敗を重ねながら、苦心惨憺して育てた苗が大正デモクラシーとして花を咲かせる時代でした。ノモンハン以降を「転落の歴史」と見ること自体は誤りではないと思います。ただし、それが民主主義の失敗であること、そして現在でも外交政策において堅固といえるコンセンサスは充分ではないことを忘れてはならないと思います。


 敗戦と占領というプロセスを経たために、日本人はこの国の民主主義の復元力に自信がないところがあります。靖国参拝で国論が割れてしまうのも、自国の復元力に自信がないことの現れでしょう。戦前以来の民主主義は、英米に触発されたとはいえ、日本人自身がときには血を流して自ら獲得したアジアの中でも数少ないものです。「ある敗戦国の幸福な衰退史」というのは、短期では日米同盟の強化への取り組みを悲観的に見る一方で、長期では日本人のもつ復元力への信頼を綴ってゆくためのカテゴリーです。自国を愛するということ以上に、自国を信頼するということは、現代のように物事の変化のスピードが速い上に情報過多の時代には難しくなっているようです。自国を愛することを強調する人たちは増えました。しかし、自国を信頼する人たちはまだ少ないようです。私みたいに市井でのおのおと暮らしている人間に誰も頼みはしないのですが、この国を信じるということについて今後も綴ってまいりたいと存じます。

2006年05月18日

日英同盟の形成にみる偶然と必然(6)

 「ほとんど病気」状態の記事が続いております。お付き合いいただいている読者の方にまことに失礼な話なのですが、アクセス数がゼロにならないのが不思議だったりいたします。この記事を読んでお金になるわけでもなく、色気もなく、キッシンジャーの本を読めば済む話がほとんどですから、利巧になるわけでもない。アクセス数を減らしたいわけではないのですが、なぜか一日400アクセス程度(述べ閲覧数であってIPベースではありませんので、読者数とは一致しないと思いますが)はあること自体が、低位安定とはいえ、驚きであります。

 すでに『第一次世界大戦と日本海軍』を読む準備にしては長すぎるのですが、あらためて19世紀ヨーロッパ外交の魅力の虜になってしまいました。前回は、ヨーロッパ協調で示されているキッシンジャーのバランス・オブ・パワーと民主主義の関係を現代との対比で読んでみました。キッシンジャーの分析と私のコメントはずいぶんかけ離れていて、自分でも恥ずかしい部分があります。彼の分析は、おもしろいというよりも刺激的でいろんなことを思いつくままに述べてみました。今回(おそらく次回も)は、バランス・オブ・パワーの典型とされる19世紀のイギリス外交について考えてみます。

 まず、興味深いのは、イギリス人が、おそらく経験的に行ってきた外交政策が「バランス・オブ・パワー」という原則としてイギリス人自身に意識されるようになった頃には、イギリスはヨーロッパのバランサーとしての地位を失っていたことです。キッシンジャーもニコルソンもこの点には何も言及していないのですが、外交政策が原則として意識されるようになるのは、それぐらい難しいことであるということを感じます。ニコルソン自身が指摘していますが、イギリス外交は一面において非常に機会主義的であり、諸外国からは理解しがたいものでした。ニコルソンによれば、フリードリヒ大王は、「イギリス人は何ら方法をもたない」と評したそうです。他方で、ニコルソンもキッシンジャーもイギリスの外交政策が基本的に自由主義的であり、「光栄ある孤立」を捨てた後にもこの特徴に変化がないという点では全く一致しています。日英同盟に直接、関係のない問題も取り上げます。以下では、まず、ニコルソンの『外交』(斎藤眞・深谷満雄訳、東京大学出版会、1968年)の「第六章 ヨーロッパ外交の諸類型」からイギリス外交の特徴を考えてみます。まず、彼のイギリス外交の特徴に関する有名な一節を引用いたします。

「つまり、イギリスの優れた外交官というものは、寛容にして公正である。彼は想像と理性、理想主義と現実主義との間の見事なバランスを保っている。…(中略)彼はとりわけ自国政府の政策を忠誠と常識をもって解釈することが自己の義務であること、そしてすぐれた外交の基礎はすぐれた商売の基礎と同じであること――すなわち、信用、信頼、熟慮、妥協であることを知っている」(ニコルソン『外交』、邦訳書、139頁)。

 ニコルソンは、慎重にイギリス外交の欠点や海外での批判をとり上げて、その批判がある範囲では正当であることを認めた上で自国の外交政策が決して無原則ではないことを主張しています。そのプロセスを忠実に追うのが、ニコルソンの著作を紹介する上では適切だと思います。しかし、ここでの目的は、ニコルソンの著作の紹介ではなく、イギリス外交の理解ですから、結論部分を冒頭に挙げました。ニコルソンは、自国の外交がイギリス特有の傾向を持っていると同時に、外交の普遍的なあり方をもっていることに疑いをもっていないと思います。ニコルソンは、個々のドイツ外交官の優れた資質に讃辞を惜しまないものの、ドイツの外交をイギリス外交と対照して「武人的」であると評しています。イギリス外交を過大評価しているという批判や自国外交の正当化に過ぎないという批判も可能でしょう。しかし、彼が引用部分で述べているイギリス外交の特徴は、例外も決して少なくありませんが、様々な歴史的事実によって裏付けられています。小村寿太郎は、日英同盟を締結するにあたってイギリス外交の特徴を理解したうえでイギリスとの同盟を決定付けた意見書を提出しました。小村寿太郎は、岡崎先生が描いたようにイギリス外交というよりは、国権主義者という点ではドイツ外交に近い感覚の持ち主のように見えますが、その彼がイギリスとの同盟の意義を正確に理解していたという点で感慨をもたざるをえません。

 「すぐれた外交の基礎がすぐれた商売の基礎と同じである」というニコルソンの主張は、今日の外交の世界では常識に属するのかもしれません。前回、日本型エリートの育成について「文武両道」という唐突な主張を申し上げた背景には、このニコルソンの認識があります。外交・安全保障政策では「商人型」が理想である外交と「武人型」が当然である軍事が補完的な関係にあることが理想だと考えます。文民統制という日本語になじまない用語も、このような文脈から理解する必要があると思います。外交に携わる方が、単なる交渉術だけでなく、軍事に関する知見をもつことは当然だと思います。外交交渉で解決ができない場合、最悪の事態に備えることが不可欠だからです。しかし、多くの場合、武力による解決は、最後の手段です。商人気質と武士道は、けっして排他的ではなく補完的であると考えますが、やはり折り合いがつかない問題も多いでしょう。しかし、平時においては商人気質が優先し、自国の安全を守るという点でも、武力衝突を避けることが難しい短期的な状況ではなく、長期で自国の利益を守るためには商人気質が有利だと考えます。

 また、イギリスにはカエサルのような英雄を生み出すことはありませんでした。率直なところ、塩野七生さんの著作の影響も大きいと思いますが、イギリスの歴史には個人としてローマにおけるカエサル、フランスにおけるヴォナパルテ、ドイツにおけるビスマルクのような卓越した人物というのは見当たりません。イギリスの近代史を見ながら驚くことは、傑出した人物が現れないのにもかかわらず、外交政策に関しては一貫性があるということです。この点に関しては後でキッシンジャーのさりげない、しかし示唆に富んだ指摘をとり上げますが、ここでは、党派の対立を超えてイギリスの指導者のもつ貴族的な側面とブルジョア的な、一面において俗物的な側面の見事な調和を指摘しておきます。キッシンジャーによれば、「光栄ある孤立」という表現の生みの親であるソールズベリは、次のような言葉を残しています。「ある時、彼は『我々は魚である』と言ってのけたのである」(キッシンジャー『外交』上、邦訳書、244頁)。イギリス貴族の自己犠牲的精神は、バトル・オブ・ブリテンで他国にも比類ない高貴さを発揮しましたが、イギリスのエリートを見るときに忘れてはならないのは、彼らは高貴な精神とともに俗物的ともいえるぐらい現実的な感覚に富んだ存在だということだと思います。他のヨーロッパ諸国では、このような人物が散発的に出現することはありましたが、継続して現れるということはありませんでした。このことは、イギリス外交に自国の利益を追求するために、他の弱小国との利害を一致させるという政策を一貫して追求させる背景になったと考えます。

「一九〇七年一月一日、当時イギリス外務省の西欧局長であったエア・クロウ卿は内閣のために英独関係に関する秘密覚書を書いた。ドイツの目的についての鋭い分析をあわせ含んでいるその覚書は、イギリスの政策の歴史的原則についての注意深い規定を含んでいる。そのさい、エア・クロウ卿は、イギリスの政策が地理によって決定されるという明白な前提を彼の公理とした。つまり、一方においてヨーロッパの露出した側面に位置する小さな島国がある。他方において全世界にまたがって広がる広大な帝国がある。自己保存の法則は、島の糧食の保持と海外にある帝国属領地との交通の安全の確保を必要とする。この二重の必要性のためには、すべての潜在敵国にたいする海上権の優越を保っておかなければならないことになる。ちなみに、アメリカは潜在敵国ではない」(ニコルソン『外交』128頁)。

 クロウ覚書は、別の機会にキッシンジャーによる分析を紹介いたします。この引用部分は、現状分析とそこからとるべき戦略の見事な関連を示しています。日本との同盟を選んだ国は、ヨーロッパ大陸には他に存在しないといってもよいほど、現状を正確に利益し、自国の守るべき利益とそのための手段に関して見事な現実的感覚をもった国でした。この分析を読むたびに日英同盟があまりに短命で終わったことを惜しまずにはいられません。

「私の現在の論旨に適用されるのはこの命題のコロラリーである。エア・クロウ卿は、もしこの海上の覇権が強引に推し進められるならば、それは全世界に憤怒と猜疑の念を惹き起こすことになるだろうと論じている。したがってそれは、できるだけ他国に恩恵を与えるように、そしてできるだけ他国を挑発しないように行使されなければならない。それは『他の大多数の諸国の基本的死活的利益と一致せしめられ』なければならない。
 では、これらの基本的利益とは何であろうか。第一には独立であり、第二は貿易であった。したがって、イギリスの政策は門戸開放を維持し、同時に、『小国の独立に直接的積極的関心』を示すものでなければならない。かくして、イギリスは、自らを、『小国の独立を脅かすすべての国にたいしてはおのずからなる敵国』とみなさなければならない。この点、『勢力均衡("Balance of Power":引用者)』の理論は、イギリスにとっては独特の形態をとることとなった。つまり、それはイギリスが『いついかなるときでも、最強の一国家あるいは国家群の政治的独裁に反対』しなければならないことを意味した。この反対は、イギリスにとって『一つの自然法である』とエア・クロウ卿はのべている」(前掲書、128−129頁)。

 ニコルソンによれば、イギリス外交の自由主義的傾向、小国、とりわけ低地諸国の独立を重視する理想主義的傾向は、アメリカのように理念から理想主義から生じたプロセスとは異なって、自国の死活的利益を(ハプスブルグやフランスなどの脅威から守る)歴史的プロセスからとの中からうまれたものでありました。イギリス紳士の典型のようなニコルソンは、理想主義的な観点から自国の外交を正当化することには慎重な態度を示しています。「(イギリス外交の前提に懐疑的な歴史家でも)イギリスをして自らを小国の権利の擁護者とみなすようにさせることは、何らかの特別な人間的美徳によるよりも一つの政策上の原則であるという主張は認めるであろう」(前掲書、129頁)。ウィルソンの理念にもとづく理想主義との見事な好対照をここにみることができます。イギリス外交の理想主義が、アメリカのそれと異なって、自己破壊的な要素を抑制することができるのは、このような現実的な外交から派生してきたという事情を理解しておく必要があります。

「イギリスの対外政策を貫く一定不変の動機または原則は、勢力均衡の原則である。その原則は近年になって評判が悪くなり、大いに誤解されてきた。勢力均衡政策とは、その批判者が考えるように、イギリスの政策が、ヨーロッパにおいていついかなる国であれ、その最強国にたいして同盟を組織することを絶えず期していることを意味するものではない。それは、その一般的な政策方向が、自己の力を他のヨーロッパ諸国からその自由またはその独立を奪うために用いようとするかもしれない、ある国家または国家群に反対することにあることを意味している。一八五九年、〔当時イギリス外相であった〕ジョン・ラッセル卿は、『勢力均衡とは、ヨーロッパでは、要するに数ヶ国の独立を意味する』と書いている」(前掲書、130頁)。

 イギリスの外交政策としてのバランス・オブ・パワーの本質が見事に表現されています。メッテルニヒのヨーロッパ協調は、四ヶ国同盟と神聖同盟という力の均衡を保障する同盟と「道徳的均衡」を保障する同盟戦略から成立していました。両者の巧拙の評価は、私の能力を超えますが、メッテルニヒは、自国の安全、体制を脅かしかねない不可逆的な変化に対応するために恒常的に大陸の他の国に深くコミットせざるをえませんでした。当時のイギリスは、そのような手段に訴えなければならないほど、自国の安全と体制は、脅かされていませんでした。しかし、そのような恵まれた条件があるからといって、適切な外交が行われるとは限りません。イギリスの外交は、節度をもって大陸に接するという、一見、容易でありながら、指導者にそれを洞察する能力がなければ実現不可能な政策を追求しました。ただし、ニコルソンも認めるように、イギリス外交には他の国からみて批判の対象となる傾向も同時に生じました。

「勢力均衡の理論が、イギリスの政策に経験主義的、さらには機会主義的ともいえる特殊な性質を課したことは明らかである。イギリスの方法はドイツやイタリアの政策のように何らかの野心的な計画によって支配されておらず、また(フランスの政策が決定される場合のように)伝統的な敵国にたいする執念によって決定されるということもない。つまりそれは、いくつかの事柄の結合によって決められるのである」(前掲書、130−131頁)。

「この機会主義は、イギリス人の性格の島国的気質によって強められ、イギリスの制度の民主的性質によって強められている。過去数百年間、イギリスの政治家が、何らかの計画的もしくは長期的な対外政策をもつことを避け、大陸と密接な掛り合いをもつことをすべてできるだけ回避しようと全力をつくしてきたのはこのゆえである」(前掲書、131頁)。

 ニコルソンの叙述は、冷静に自国の外交がもつ特質を欠点として海外に映ることも意を尽くして述べており、誠実です。注意しなければならないのは、イギリス外交が機会主義的であり、長期的な戦略にもとづくものではないという指摘は、単に自国の外交を正当化しようとする意図からではなく、イギリス外交がある大戦略に基づいて演繹的に実施されているのではなく、イギリス独特の経験主義、懐疑論的な哲学的傾向と結びついていることを示唆していることです。もちろん、知的ではあっても、観念で外交のように現実の営みを論じる傾向は、ニコルソンには無縁です。話がそれますが、最近のこの国の外交・安全保障政策を批判する際に「戦略的思考の欠如」が、表現こそ違え、決まり文句のように散見されます。ニコルソンの描写は、対照的に外交という営みが冷静な現状認識をもとにその場、その場で"decent"な対応をする知恵と工夫と行動であることを示しています。私は、外交・安全保障に戦略が必要なことを否定するつもりはありません。しかし、ニコルソンが描写するイギリス外交の特質というものは無形の知恵と経験の積み重ねだけに、戦略論とは異なり(戦略的アプローチも決して容易ではありませんが)模倣が難しいのですが、イギリスの特質に留まらず、戦略という枠に収まらない外交の実際を適切に描写していると考えます。

「国際問題におけるイギリスの地位をもっともよく評するには『誠実なブローカー』、『最終的調停者』、『世界の調停者』、『漁夫の利を占める者』または『救いの神』などの表現のどれがよいかは個人的見解に属する問題である」(前掲書、133頁)。


 最初に引用した「すぐれた外交の基礎はすぐれた商売の基礎と同じである」というイギリス外交の特質であると同時に外交の普遍的な特質を占める表現は、このようなイギリスの機会主義的な外交の積み重ねから生まれたものです。このようなイギリス外交の伝統がなければ、日英同盟の成立はありえなかったでしょう。日英同盟が成立した背景には、以上で描写したイギリス外交が、それ以前ほど機能しなくなったことがありますが、もし、イギリスがこのような外交の伝統を誇る国でなければ成立しなかったものと思います。

 キッシンジャーのイギリス外交の描写もある一面においてはニコルソンと同じ土壌の上にあります。キッシンジャーは、観念的な議論を好む自身の傾向を抑えて外交史の叙述を通して、理論−経験−歴史に架け橋を設けようとしました。他方で、キッシンジャーは、やはり戦略的思考に偏するところがあり、ときに驚くべき洞察力を発揮しますが、読み手によってはかえって外交という演繹的に説明することが難しい問題が多い対象に図式的な理解を与えてしまう危険があります。イギリス外交と外交のもつ普遍的な性質を理解するには、ニコルソンのあまりに古典的な古典が勝ると思います。

 他方で、キッシンジャーは、ニコルソンにはない洞察を『外交』のなかで示しています。次回は、キッシンジャーの描写によってさらにイギリス外交、そして日英同盟に至るイギリス側の背景を考える予定です。

2006年05月17日

日英同盟の形成にみる偶然と必然(5)

 話が止まらなくなってしまいました。書いている本人は楽しいのですが、過疎ブログで読者無視というのはいかがなものかと。『第一次世界大戦と日本海軍』にいつになったらたどり着けるのだろうと不安になりますが、民主主義の「失敗」と復元力について引き続きキッシンジャーと秘密の会話をしながら、「寝言」を述べさせて頂きます。



「国内の政治制度の性質がその国の対外態度を決定すると考えたのは、ウッドロウ・ウィルソンが最初ではなかった。メッテルニッヒもそう考えたのであるが、それは全く異なる前提の上に立っていた。ウィルソンは、民主主義国はその本来の性質上、平和愛好的で公正妥当であると考えたのに対して、メッテルニッヒは、民主主義国は危険で予測不可能な行動をとると考えた。共和政のフランスがヨーロッパにいかなる苦痛を与えたかを見て知っているメッテルニッヒは、平和とは正統支配のことであると考えた。メッテルニッヒによれば、古来の王朝の君主は平和を維持する者と言えないとしても、少なくとも、国際関係の基本構造を維持するものであった。こうして正統性は国際秩序を固めるセメントとなった。
 国内の正義と国際的秩序に関するウィルソンとメッテルニッヒのアプローチの違いは、アメリカとヨーロッパの対照的なものの考え方を理解するための基本である。ウィルソンは、彼が革命的に新しいものだと考えた原則を唱導した。メッテルニッヒは、彼が古来のものと考えた価値観を制度化しようとした。ウィルソンは、人間に自由を与えるために意識的につくられた国の大統領として、民主主義的な価値観は法制化することが出来、全く新しい世界的な制度として実現させることが出来ると確信していた。メッテルニッヒは、その政治制度がほとんど目に見えないくらいゆっくりと徐々に形成されて来た古来の国家を代表する人間として、正義なるものが法律によってつくられるとは信じていなかった。メッテルニッヒによれば、??正義??とはものごとの中に自然に存在するものである。それが法律や憲法で確認されるかどうかは本質的には技術的な問題であって、自由をもたらすということとは無関係なことである。『当然のこととして認められていることをわざわざ宣言すると、その力を失ってしまう。誤って立法の対象にされてしまったことは、それを否定するとまでは言わないまでも、かえって守ろうとしたものに制約を加えるだけの結果になってしまう」(前掲書、102??103頁)。



 私は、民主政治もその歴史を積み重ねてゆくうちに、引用部分の最後の点以外は、メッテルニヒが懸念した問題をある程度、回避できるものと思います。しかし、英米を除く国では、フランス、ドイツ、日本などが代表ですが、民主主義の初期段階、あるいは成熟段階の以前では、「民主主義国は危険で予測不可能な行動」をとり、なおかつ自国の安全を根底から覆しました。「ある敗戦国の幸福な衰退史」というシリーズの大きなテーマはここにあります。自由と民主主義という価値が、「古来のものと考えた価値観」と人々の大多数に意識されるまでにはまだ時間がかかります。日本の自由と民主主義の伝統は、100年近い歴史を誇りますが、それがさらに成熟するにはさらに100年近い積み重ねが必要かもしれません。もっと、正直に言いましょう。集団的自衛権の行使をめぐる混迷は、日本の民主主義が成熟段階にあるとは到底、評価できないことを示していると思います。自国の安全についてすら、全くとまでは言いませんが、十分なコンセンサスが形成されていない。ただし、この問題に関する私の基本的な態度は、長期では楽観的、短期では悲観的です。キッシンジャーとの相違は、自由と民主主義という価値の存続に関して私は、彼よりも楽観的であるということにつきます。



 念のため、お断りしておきますが、集団的自衛権の行使を中核とする日米同盟の強化がコンセンサスとなることをもってこの国の民主主義の「成熟」と私が表現するのはおかがましいと思います。民主主義の下では異なる意見も尊重しなければなりません。あくまで私の民主主義の「成熟」に関する仮説と考えていただければ、幸いです。



 ただ、引用部分の後半は非常に難しい問題です。メッテルニヒの金言は、現代でも意義を失っていないように感じます。民主主義に懐疑的な人たちではなく、民主主義を信頼している人たちほど、この金言を噛み締めることが大切だと思います。自由と民主主義が基調となる社会では、私人間の関係にせよ、国家間の関係にせよ、それを律する約束事が法や条約といった形で明文化され、人々の共有知識となることが不可欠です。他方で、このような社会では法を形成するプロセスであまりに人間の作為が強く反映してしまう。成熟した民主主義国でも、いや成熟した民主主義国こそ、このような問題に直面します。このような問題に伝統的価値を意識的に残す努力というのは、ソリューションの一つでしょう。私は、そのような解決法を否定するものではありませんが、今日の憲法改正や教育基本法改正に象徴されるように、伝統的価値を意識的に残すには法の制定が不可欠になっています。愛国心教育自体はけっこうなのですが、あまりに作為的になると、かえって言わずもがなのことを「強制」する形になり、うまくゆくのだろうかという疑問があります。自衛権の問題にしても、憲法で明記するよりも、9条2項を削除すれば十分でしょう。ただし、日本の場合、占領統治の下で明治以来、あるいはそれ以前から培ってきた伝統が断絶されてしまったという問題があります。戦時統制による断絶もあります。復古調の主張にはそれなりの根拠があると思います。



 それでもなお、私は、やはり民主政治のもつ復元力というものが大切だと考えております。アメリカの歴史をつまみ食いしながら、アメリカ政治独特の復元力に感嘆するからです。キッシンジャー自身が、この復元力のおかげで実務的には苦労したため、これを過小評価する傾向にあります。私自身は「外道」ですが、政治的な「中道」あるいは中庸というのは、政治体制自身がもつ復元力を重視し、その力をゆきすぎないよう、瀬踏みをしながら、復元力がその価値を発揮する環境を整えることに苦心する立場だと理解しております。戦後民主主義には左右からの批判がありますが、50年近く続いた体制をたえず再構築しながら、日本人自身の運命を自分自身の手に取り戻すことが最も現実的なアプローチだと思います。世論はたえずブレます。そのブレこそが、民主政治における復元力そのものであるという突き放した見方をしております。間接民主制というのは、そのブレが自己破壊的な水準に至らないよう、エリートで補完する知恵なのだと考えております。間接民主制の下では、世論とエリートが補完的であるというのは自明かもしれません。問題は、良質のエリートをたえず生み出してゆく制度が不可欠なのですが、以前、「『転落の歴史に何を見るか』メモ」シリーズでも、私自身は、それに自分自身を納得させる解を見出しておりません。現時点では、この国がその水準に至るまでは、先ほど述べた自国の安全に関するコンセンサス形成を最優先にする必要があるだろうと思います。そのためには、自衛官のような軍事エリートの地位を高めて政治的リーダーとの交流を図るとともに、軍事エリートにも政治的エリートが直面する多様な世論を説得するプロセスの困難さを共有する努力が必要なのだと思います。「文」と「武」が分業関係になるのは、民主政治でなくても、統治機構が複雑になれば生じることです。しかし、「文」と「武」が分離してしまうことは、古代ローマでも衰退の一因となったように良質のエリートを生み出す蓋然性を低下させます。平凡ですが、武士道の復活よりも、より陳腐な「文武両道」を今日の分業が高度に発達した社会で実現する知恵と工夫が必要なのだと考えます。



「メッテルニッヒの遺した金言の中には、新しい世界に適応できないオーストリア帝国の慣行を自己弁護するための理屈もある。しかし、メッテルニヒの考えは、法や正義は自然の中に存在するのであって法制によるものではない、という合理的な考え方をも反映している。彼の思想を形成した経験はフランス革命であり、人間の権利を宣言することから始めて、恐怖政治に終わっている。ウィルソンは、それよりもはるかに恵まれた国家的経験から生まれて来て、しかも、それから十五年後に近代的全体主義が起こる前の人間であり、民衆の意思というものの中に突然変異が起こるなど想像も出来ない時代の人だった」(前掲書、103頁)。



 民主政治が同じ過ちを犯さないかといえば、私には確信はありません。ただし、他の政体と同じく、民主政治は誤りを繰り返す可能性はあるのでしょうが、過ちが社会の構成員の共有知識となる制度設計がしっかりしていれば、他の政体よりもはるかに同じ誤りを繰り返す確率は他の政体よりも低いと考えます。私みたいな低レベルの人間が申し上げるのも衒いがありますが、社会を構成する個人の識見がかならずしも高くなくても、それなりの解をうみだしてしまうという自由と民主主義の驚くべきメカニズムも考慮すると、それほど悲観する必要はないと思います。この点に関する限り、この国の民主主義は、極端な解(日米同盟の廃棄など)をうみだすほど未成熟ではないと思います。反米感情が強かったのは、「反米論」が言論の世界で声高に叫ばれた時期よりも、クリントン政権下での日米構造協議でアメリカが強引な主張をしていたころだと思います。その時期でも、日米同盟を破棄せよという議論は、私の知る限り、よほど特殊な政治的ポジションをとる人たち以外にはほとんどなかったと記憶しております。



 日英同盟からずいぶん遠ざかった話が続いておりますが、『第一次世界大戦と日本海軍』を拝読しながら、年来の疑問がいくつも沸いてきて、平間先生の著作に関するメモの前に、整理しておきたいことをブログで述べております。まだ、続くのかと呆れる方が多いと思いますが、日英同盟以前のイギリス外交とビスマルクによるウィーン体制の「革命」について触れておかなくては、日英同盟の形成における偶然と必然は理解できないと考えております。退屈な記事が連続して恐縮ですが、ご理解を賜りますよう、お願い申し上げます。



(追記)下線部を修正し、補足を加筆いたしました(2006年5月17日)。

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2006年05月16日

日英同盟の形成にみる偶然と必然(4)

 天道是か非か。



 「不規則発言」(2006年5月15日)を拝見しながら、「これを意訳すれば、『エヘヘ、わざとだぴょーん』となる。米中間のコミュニケーションはつくづく高度である」とあって、誠に遺憾ながら、『まーすさいと』を運営されている方から「天罰」はなかったようであります。無念。悔しいことに「エヘヘ、わだとだぴょーん」というくだりで思わず、お茶をキーボードにこぼすという始末。不覚でござる。



 このシリーズを書き始めたときにこんなにとんでもない分量になるとは思いませんでした。つまらない話が続いて恐縮ですが、前回の続きです。まず、民主主義と民族主義、ナショナリズムの高揚は、この後の記事全体で問題になりますので、論点の(2)ヨーロッパ協調から話を始めてまいります。ヨーロッパ協調というのは、ナポレオンの大陸制覇が破れた後の講和会議であるウィーン会議で形成された国際秩序です。ここではウィーン会議の混乱や各国の駆け引きを描写することがありませんので、余計な叙述はすべて省きます。キッシンジャーは、抽象的には「いわゆるヨーロッパ協調とは、互いに競争し合っている諸国が、全般的な安定に関する問題については合意に基づいて事態を解決することを意味した」(『外交』上、102頁)と定義しています。キッシンジャーの分析が冴えるのは、この抽象的な定義の前の叙述です。かなり長い引用になりますが、ヨーロッパ協調の本質をこれほど的確に述べている叙述はありませんので、御容赦ください。



「逆説的ではあるが、この国際秩序は、他のいかなるものよりも公然とバランス・オブ・パワーの名の下につくられたにもかかわらず、力に依存せずに維持されていた。どうしてこういう稀な現象が起こったのかというと、均衡というものがあまりにうまく出来ていたために、これを覆すためには普通では結集できないぐらい大きい力が必要だったからである。しかし、最も重要な理由は、大陸の諸国が同じ価値観を持つという点でお互いに結び付けられていたことである。単に力の均衡があっただけでなく、道徳的な均衡も存在していたのである。バランス・オブ・パワーは武力を用いる機会を減らし、共通の価値観は武力を使おうという意思を減じた。公正であるとみなされない国際秩序は、遅かれ早かれ挑戦を受けるであろう(原文に即して訳文を変えた:引用者)。ある種の国際秩序が正しい(「公正」とした方が妥当か:引用者)ものであるかどうかが判断される場合、その判断の基準となるのは、外交のやり方だけでなく、それぞれの国の国内体制でもある。その意味で、各国の国内政治体制が共存できるものであることは、平和を促進する。皮肉なことに、共通の価値観が国際秩序の前提条件であると言ったという意味で、メッテルニヒはウィルソンの先駆者といえる。だが、メッテルニヒの考えは、二〇世紀にウィルソンが制度化しようとした正義の観念とは一八〇度反対側にあった」(前掲書、96頁)。



 細かいことですが、訳を変えた部分の原文は次の通りです。"An Internatinal order which is not considered just will be challenged sooner or later".邦訳の元の文は次の通りです。「正当と思われない国際秩序が生じても、遅かれ早かれ批判や修正の圧力を受けることとなった」。このように訳してしまうと、「批判や修正の圧力」がウィーン体制の下での事態を指しているように読めてしまいます。細かいことでくだらないとは思いますが、この訳では彼の思考が一貫していることがわかりにくくなります。キッシンジャーのバランス・オブ・パワーの理解は、第1章で示されている通りです。「本来バランス・オブ・パワーのシステムは、この国際システムに参加した国すべてを完全に満足させることが出来ない。すなわち、不満を持つ国が国際秩序を破壊しようとするレベル以下にその不満を抑えることが、バランス・オブ・パワーの最高の機能なのである」(前掲書、8頁)。



 あとでもでてきますが(98??99頁)、第一次大戦後のヴェルサイユ体制と比較してウィーン体制をキッシンジャーが高く評価するのは、ヴェルサイユ体制がバランス・オブ・パワーという点から見たときに、比較的、短期間でナチス・ドイツという挑戦者が出現したことに象徴されるように、ヴェルサイユ体制そのものにバランス・オブ・パワーという点から見て大きな欠陥があったことが大きいと考えます。どんな国際秩序でも不満をもつ国はある。引用文の前には紛争や場合によっては局所的な戦争があることすら、キッシンジャーの「バランス・オブ・パワー」概念のもとでは容認されています。問題は、その不満を国際秩序そのものを破壊する水準に至らないように抑制することです。この点でヴェルサイユ体制は、力の均衡という点でドイツに対して公正であるとはいえない上に、道徳的均衡、あるいは共通の価値という点でも失敗してしまったというキッシンジャーの評価があります。細かいように聞こえますが、私が書き換えた元の訳文は、バランス・オブ・パワーに関するキッシンジャーの理論的・歴史的評価に関するニュアンスを無視しすぎているように感じました。したがって、細かいように見えるかもしれませんが、日本語としてはつたなくても、直訳に近い方が、キッシンジャーの思考が一貫していることを示す上で非常に大切だと思いました。



 ここで問題になるのは、ある国際秩序がバランス・オブ・パワーの観点から見て安定的であるのかどうかという点です。すなわち、国際秩序が、それを構成する国々からみて受容できる程度に不満を抑えることができるのかどうかという点が問題です。ここで、内政と外政の関係が問題になってきます。やや先走りますが、メッテルニヒが、秩序を構成する共通の価値として王朝間の正統性の認識に訴えたことは、凋落傾向にあるハプスブルグ朝の延命を国際秩序の安定に重ね合わせたことを意味します。ウィルソンが、ヴェルサイユ体制の「道徳的均衡」を民主主義や民族自決など、当時の情勢からゆけば、利他的な価値(そして結果的にアメリカのみがそのような理想主義の世界においても安全であるという現実を反映している)においたことと対照的です。



 彼がバランス・オブ・パワーという場合、単に力の均衡だけでなく、道徳の均衡、あるいは価値の共有という点に同じ程度に重きをおいている点が大切です。実は、これは、非常に乱暴に彼の緻密な事実の叙述と分析を省いてしまうと、高校程度の世界史の教科書にでてくるウィーン体制の評価とさほど変わりません。高校程度のテキストではいわゆる「正統主義」をフランス革命に対する、単なる「保守反動」のむすびつきとしてしか見ていませんが、キッシンジャーはこれを「道徳的均衡(moral equilibrium)」として捉えている点だけが異なるといってもよいと思います。問題は、メッテルニヒが民主化のスピードを抑制しようとしたことを、体制の安定化としてキッシンジャーが捉えているということです。現在の高校のテキストはどうかわかりませんが、フランス革命以降の自由と民主主義、民族主義の勃興をある程度まで不可逆的な現象として見ている点では、キッシンジャーも通説とそれほど変わりはないと思います。しかし、メッテルニヒが自身の経験と自国の利益から抑えようとしたことが、ウィーン体制の安定をもたらしたという視点は、第一次大戦にいたるプロセスで世論を説得するのではなく、世論に流される指導者が破滅を招いたという点を考えると、通常の理解とは異なる視野が広がると思います。



 私がキッシンジャーの優れた資質と見るのは、現代人が「民主主義」といえば、それをなんの批判的な吟味もなく、仮に懐疑があったとしてもそれを突き詰めることなく、「善」であるとみて肯定し、それに反する過去の倫理を「悪」としてしまう発想から自由に19世紀を評価しているという点です。私自身は、自由と民主主義は、過去の歴史に照らして、やはりかけがえのない価値であると認めております。しかし、それ以外の伝統的価値を「断罪」するというのは現代人の傲慢でしかないと思います。「思い上がり」の程度がひどくなるほど、その人物がどんなに精密に史料から歴史の描写を行ったところで信頼できないと考えます。傲慢というのは、愚鈍の別称です。私がキッシンジャーの美徳と評価するのは、彼が国際関係を論じる際に倫理を持ち込むというナイーブさを免れていることではなくて、やや美化が入っているかもしれませんが、このような現代人の「思い上がり」から自由であるということです。最初に『外交』に触れたときに、世間一般の評価からかけ離れた彼の精神の自由さに思わず、歴史を楽しむことを教えていただいた気分になりました。彼の問題意識が切実かつ真剣なだけに門外漢には楽しめるということがおもしろいところです。



 既に、続きの記事はできておりますが、一つの記事としてエントリーするにはあまりに長くなったので、続きは次回にエントリーいたします。今回は、中間的なまとめとして次の点を指摘しておきます。



(1)キッシンジャーが唱える「バランス・オブ・パワー」は、単なる力の均衡だけではなく、国際秩序を形成する各国の国内の政治体制を結びつける「道徳的均衡」をも同等の要素として含む。



(2)「民主主義国どうしは戦争をしない」という命題は、「民主主義」以外の価値が安定的な国際秩序を形成する可能性を見落としているという点で、またヴェルサイユ体制が短命であったことを評価できないという点で、一面的である可能性がある。



(3)キッシンジャーの考える「バランス・オブ・パワー」とは、単に戦争がないという意味での均衡ではなく、仮に戦争があったとしても、国際秩序を復元するのに不可能なレベルでなければ、「バランス・オブ・パワー」の破壊とは見なされないという柔軟な概念である。一時的な平和が問題なのではなくて、各国が利害対立や不満を抱えつつも、秩序の破壊をもたらしかねない予測不可能な事態が生じない安定性が重視される概念である。