2006年05月15日

日英同盟の形成にみる偶然と必然(3)

 本題に入る前に、やじゅんさん、雪斎先生から興味深いコメントを頂きました。御礼申し上げます。コメントをすべてご紹介すると長くなりますので、できるだけ簡潔に参ります。やじゅんさんは、「『コメントが記事ほどではないにしても、異様に長い』とのことですが、ご自身のブログを作られてからの解き放たれたかのような発信の濃さに圧倒されております(笑)」というコメントを頂きました。リプライでも書かせて頂きましたが、長文のわりに内容が薄く、恐縮です。言い訳になるのですが、とくに「ある敗戦国の幸福な衰退史」は、文章としてまとめる前にいろんな論点について、「脇道」も含めて様々な無駄な「読み」を恥を掻くことを恐れずに書いてまいりたいと考えております。



 雪斎先生のコメントは、私みたいな門外漢にはちょっと重い問いかけでした。「キッシンジャー流の現実主義というのは、ケナン流の現実主義とは色合いを異にしているところあります」というのは門外漢にも感じるのですが、そのニュアンスの違いを説明するのは門外漢には少し荷が重いというのが率直なところです。というのは、キッシンジャーもケナンの実務経験や著作から影響を受けないはずがありません。難しいのは、ケナンが「封じ込め政策が展開されるうちに、的確ではあるけれども、それぞれの時期の政策担当者からすれば、「じゃあ、どうするの?」という疑問を持たざるをえない批判をしていることです。いささか感傷的ではありますが、ケナンの不幸は、あまりに多くの弟子を抱えてしまったことであり、彼の幸福は彼から見て不適切だという政策が積み重ねられたにもかかわらず、そして、その結末が彼の本意とかならずしも一致しないにもかかわらず、やはり彼の見通しの正しさを、大局的には多くの誤りの積み重ねのうちに示されたことだと思います。



 「岡崎大使は、ケナンよりもキッシンジャーに近いかもしれませんね」というコメントには、トゥキュディデスをもちだしましたが、ネオコン論議が華やかな頃、ある会合で「あなたがどういう立場なのか」という問いに岡崎先生が「トゥキュディデスだ」と躊躇うことなく答えたというお話を伺ったことがあります。気負わない程度に、少なくとも心構えだけでも岡崎先生のような広い視野から論じてまいりたいと思います。



 本題に入ります。民主主義の初期段階での「失敗」についてです。この問題は、説明を始めると長くなりそうなので、まず、要点を絞ります。



(1)19世紀から20世紀のヨーロッパではイギリスなどを例外にして民主主義と民族主義は分かち難く結びついており、しかも、現代とは異なって民族の独立という目標が達成されると、排外的なナショナリズムと結びつく傾向が強かった。



(2)「ヨーロッパ協調」は、国際関係の面では安定的で強固なバランス・オブ・パワーを作り出すことに成功した。同時に各国の国内体制では民主化のテンポを緩めることにある程度まで成功した。民主化の抑制という点では1848年の「諸国民の春」、国際関係の面では1853年のクリミア戦争によってウィーン体制は崩壊するが、その後、ドイツの統一プロセスにおける大国間戦争を除くと、その後も、第一次世界大戦に至るまで比較的、安定的な国際秩序が保たれた。ビスマルクは、自分がヨーロッパ協調にとどめを刺した確信犯であったが、ドイツ統一後は安定的な国際秩序をつくるべくリアルポリティークを展開した。しかし、それは彼のような洞察力がある指導者の下でのみ可能である脆弱なものでしかなかった。



(3)キッシンジャーは、第一次世界大戦を外交面からはバランス・オブ・パワーの硬直化、軍事面からは軍部の全面戦争に至る作戦立案とそれを抑え切れなかった政治的指導者の問題から捉えている。その背景には、政治体制を問わず、列強の外交政策に世論が大きく反映し、とくにドイツ・オーストリアなどでは対外強硬的な世論が政治的指導者の選択肢を狭くしてしまった。



(4)日本は幸運にも、対外強硬の世論を日清・日露戦争の政治的指導者に瀬踏みするだけの人物が政府部内にいたために、日英同盟の締結によって民主主義の「失敗」が生じても、社会的な不安定を避けることができた。しかし、日英同盟を失った後は、盧溝橋事件以後、民主主義の「失敗」は、国の安全を脅かすに至った。



 この問題を論じるのは、(4)の論点にかかわる補助線をひくことが目的です。もう一つは、中国の民主化の意義を過大評価しないようにという門外漢の素人的な発想もあります。ただし、これらの点まで議論を広げてしまうのは、既に議論が拡散している状態であまりに困難を覚えますので、以下では(1)から(3)まで見た上で、『第一次世界大戦と日本海軍』に関する覚え書きに移りたいと思います。



(追記)ジャファリーさんのご指摘により、下線部を次の通り訂正いたしました(2006年5月15日)。



(誤)「1948年」→(正)「1848年」 (誤)「1953年」→(正)「1853年」

2006年05月13日

日英同盟の形成にみる偶然と必然(2)

 前回、日英同盟は「幸運」の産物であるという乱暴な見解を示しました。拙文からの引用で恐縮ですが、日本の「幸運」と帝政ドイツの「不運」について次のように述べました。「19世紀末から20世紀の初めに限定すれば、日本の幸運はイギリス側からいろいろ言い逃れの余地がある同盟でも歓迎するほど弱小な国であったことであり、ドイツの不運は言い逃れの余地があることはドイツを軽く見ていると感じるほど強大な国であったということでしょう」。



 この点に関してキッシンジャーは、当時のヨーロッパ情勢から次のように描いています。お断りしなければならないのは、以下、引用する叙述は、『外交』第7章「破滅に至る政治的仕組み」の一部です。



 この章におけるキッシンジャーの関心は、第一次大戦にいたるヨーロッパ外交の事実関係をバランス・オブ・パワーが機能しなくなるプロセスとして描くことにあります。したがって、日英同盟に関する記述は極めて簡潔であり、ドイツ外交の拙劣さと対比し、イギリスがドイツを脅威をみなすに至るプロセスのなかで日英同盟を位置づけています。迂遠ではありますが、まず、19世紀末から20世紀初頭の英独関係に関する叙述から入ります。ドイツの首相ビューロー(前回はビューロワ公と記載しましたが、『外交』での翻訳にならってビューローとします)は、3度目の英独協定を目指します。ドイツ側の提案は、ドイツ海軍の大幅な拡張か独伊墺の三国同盟へのイギリス加入による軍拡の縮小化という選択肢をイギリスに提示します。キッシンジャーは、ビューローの見解とソールズベリのメモを引用してイギリスがこの提案を拒否するプロセスを丁寧に描いています。私から見ると、イギリスと交渉をするのにこれほど拙劣な方法はないだろうと思います。要は、ドイツの武力を背景にイギリスを恫喝しているようなもので、イギリスという国はこのような外交を最も軽蔑するでしょう。当時の英首相ソールズベリの回答は冷静そのもので感情的な表現は見当たりませんが、愚劣であることは感じていたように思います。この英独交渉をキッシンジャーは次のように評価しています。



「要するに、帝政ドイツが渇望した正式の世界的同盟を理由づけるに足る共通の利益を、イギリスとドイツは持っていなかったのである。イギリスは、ドイツがイギリスのドイツの同盟国となるにしても、もし、ドイツの国力がさらに増加すれば、その同盟国はイギリスが歴史を通じて抵抗し続けてきた一種の覇権国になることを恐れていた。一方、ドイツも、たとえばインドに対する脅威のように、ドイツの利益にとっては瑣末な問題だと伝統的に見ていた問題のために、イギリスを援助する役割を与えられることを快く思わなかった。ドイツはつまり、イギリスの中立から引き出せる利益を理解出来ないほど、尊大だったのである」(『外交』上257??258頁)。



 もっと露骨な表現をすれば、ドイツはイギリスに実利を与えることなく、一方的にイギリスとの「同盟」という自国の実利だけを追求したわけです。イギリスが「好意的な中立」を守ることだけでも、当時のイギリスの国力からすれば、歓迎すべきことでしょう。実利には実利をもって報いるイギリス外交の商業的な特質を武断的な外交を好むビスマルク引退後の帝政ドイツには理解することができませんでした。最大の不幸は、ドイツがやがてイギリスが脅威と見做すほど強力になっていた一方、イギリスのように地球的規模で情報を収集し、事態に対処するような情報能力をもっていなかったことでしょう。周囲を見ずに棍棒を振り回しているうちに、危険を感じる国はそっとイギリスに寄り添っていったわけです。これと対照的して日英同盟の締結が紹介されます。



「ランズダウン外務大臣が次にとった施策は、『自国がイギリスにとって不可欠である』というドイツの指導者の確信は、自己の過大評価に過ぎないことを示すものであった。一九〇二年に彼は日本と同盟を結んでヨーロッパを驚かせたが、これは、オットマン・トルコと提携したリシュリュー以来、ヨーロッパの国がヨーロッパの協調の外側の国に援助を求めた最初の例であった。イギリスと日本は、いずれか一方が、中国または朝鮮半島に関して第三の国「一国」と戦争状態に入った時は,他方は中立を守ることに合意した。しかし、一方の締約国が「二ヶ国」の敵から攻撃を受けた場合には、他の締約国は、その同盟国を支援する義務を負うものであった」(前掲書258頁)。



 とくに日英同盟にも(日本自体にも)思い入れがあるとは思えないキッシンジャーの簡潔な評価です。キッシンジャーは触れていませんが、ドイツの「思い上がり」と比較すれば、日本ははるかに「謙虚」であったと思います。もう一つ、興味深いのはビューロー公(ニコルソンは主として不誠実という点から酷評していますが)がイギリスとの協商を実現できなかったのは、国内世論の説得という点でも無能であったという背景があります。海軍の拡張計画を縮小するためには協商の英独提携では世論を説得することができないぐらい、ドイツ国内の世論は強硬になっていました。対照的に、日英同盟の締結が発表されると、ロシアの脅威に怯えていた日本の国内世論は、これを一斉に歓迎しました。ちょっと一息入れて平間洋一『日英同盟』から慶応義塾の教職員、学生が日英同盟を歓迎する行進中、歌った「日英同盟を祝する炬火行列の歌」を引用いたします。



 朝日輝く日の本と 入日を知らぬ英国と
 東と西に別れ立ち 同盟契約成るの日は
 世界平和の旗揚げと 祝ぐ今日の嬉しさよ(43頁)



 日英同盟の締結は、対露戦争の布石であったと学校では習いました。『日英同盟』の第1章でも栗を焼いているロシアに対してでっぷりとしたイギリス人が日本をけしかけ、さらにその後ろに細身のアメリカ人はお手並み拝見とばかりに済ました顔をした風刺画が掲載されています。ロシアの脅威、傍若無人さ、無礼に苦慮していた指導者は別として、一般には臥薪嘗胆の時代をへて、これで日本も英国と対等の立場に立ったという喜びと、これで平和が確保できるという希望が生じたのだろうと思います。日清戦争に勝利したとはいえ、三国干渉でパワー・ポリティクスの深淵を除いた国民は、「臥薪嘗胆」で苦しい生活の中、軍備拡張のための負担をまさに挙国一致で行いました。日英同盟の締結は、当時の一般の国民にとって日本の安全が高まったと素直に歓迎されたものと思います。日英同盟の締結が、次の対露戦争へ必然的につながったかのような描写は、事態のある一面を捉えているのかもしれませんが、あまりに一面的だと思います。日英同盟の締結を背後にロシアとの妥協を探りながら交渉が行き詰まったときの備えを怠らなかった明治の指導者、軍備拡張の「血」と「金」の負担に耐えながら自国をより安全にする同盟締結を心から歓迎した世論。自分でも美化しすぎているとは思いますが、ドイツとは好対照をなす光景に思わず感慨を覚えます。再び、キッシンジャーの冷徹な分析に戻ります。



「この同盟が、このように日本が二ヶ国と戦う場合にのみ発動されるものであったがゆえに、イギリスはついに、他国との関係に巻き込まれる危険を冒すことなく、ロシアの前進を阻む強い意志を持っている日本という同盟国(原文"an ally which was willing, indeed eager, to contain Russia")を発見したのである。しかも、日本は極東に位置しているため、イギリスにとっては、ロシアとドイツの国境地域よりも戦略的利益が大きかった。また、日本の方ではこの同盟のおかげで、ロシアを支援しているという主張を補強しているために戦争に訴えかねないフランスの脅威から保護されることとなった。これ以降、イギリスはドイツを戦略上のパートナーと考える意義を失い、事実、時の流れとともにドイツを地政学的な脅威と見なすに至るのである」(『外交』上 258頁)。



 当時のヨーロッパ諸国の中で唯一イギリスのみが地球的規模で戦略を考える能力であった国であることが、簡潔な叙述の中で示されています。ドイツにとっては、東方・西方の両正面で優位に立つことが焦眉の課題だったのでしょうが、イギリスにとっては極東に手が回らなくなる状況が生じるかもしれないという状況で日本というパートナーは貴重でした。さらに、重大なことは、日英同盟の締結(おそらくその後の日露戦争の勝利も含めて)がイギリス外交にも影響をおよぼしたという点です。もちろん、日英同盟は、日本側からすれば、日本の安全を高めるためのものであって、イギリスの対ヨーロッパ政策を転換させる意図はなかったでしょう。しかし、極東でロシアを「封じ込める」同盟国を発見したことにより、大陸における不安定要因がドイツなのか、フランスと同盟しているロシアなのかという問題にある方向性が生まれる。そして、日露戦争の勝利ともにロシアの脅威は遠のき、日本以上に辛抱強く、イギリスとの盟約を求めていたフランスとの提携に踏み切ってゆきます。もちろん、ドイツとフランスの外交の質を比較した場合、ドイツがいずれにしても、イギリスにとって主たる脅威となったのかもしれません。



 当時の日英の経済力や政治的影響力、そして、その基盤となる軍事力を考えた場合、「月とすっぽん」と日本人自身が揶揄する同盟が、イギリスの外交政策に影響をおよぼすなどというのは、夢想と思えたことでしょう。このキッシンジャーの分析と評価は、通説として確立しているのかどうか、私が確信をもてるほどの知識・見識を残念ながらもっておりません。しかし、キッシンジャーの分析は、地球的規模で戦略を展開しうる国との同盟を結ぶときに、同盟が自国の安全に与える影響と同時に同盟が超大国の対外政策に与える影響もよくよく吟味しておく必要があることを示唆していると考えます。私は、日英同盟はけっして必然の産物ではなかったと考えております。他方で、それがいったん締結され、発効し、日本が実力を発揮すると、イギリスの対外政策に間接的とはいえ、影響を与えるほどの力をもった可能性があることは、後の同盟廃棄に至る過程を考える上でも忘れるべきではないと考えます。



 もう一つ、これは岡崎先生や平間先生がつとに強調されていることですので、いまさら私ごときが繰り返すのが躊躇われることです。岡崎先生は、邦訳の出来を気にされていますが、私自身は、これだけ洗練された訳書が日本人の手でできることに驚きます。ただ、この日英同盟に関する叙述に関してはキッシンジャーの原文の方が簡潔であるとはいえ、同盟の本質をあらためて理解させる表現だと思います。日本は、極東からロシアの影響力を排除することを自ら進んで、いやそれどころか切実に望んでおり、またそのための準備を怠っていなかったという点です。だからこそ、イギリスは日本との同盟を望んだ。自国の安全を守るという当然のことを適切に行っていなければ、仮に脅威が共通していたとしても、同盟など結ぶはずがありません。自国の防衛を真剣にやっていたからこそ、日英同盟が幸運にも成立したのです。自国の防衛もまともにできない国は、同盟国に値しないでしょう。



 日露戦争で日本が払った代償は、カネだけで量れるものではありません。血の犠牲を払って名実ともに列強となり、日英同盟は二度の改訂を経てイギリスの最も重要なパートナーの一人となる地位をえたわけです。自国の防衛と同盟が補完的なものに他ならないことは、「帝国の時代」の指導者には自明のことだったと思います。これを現代のように剥き出しのパワー・ポリティクスがオブラートに包まれている時代に持ち込むのは、いささか牽強付会かもしれません。



 しかし、国家間の関係が最後は力関係で決まること、力関係の基礎は経済力ではなく自国を防衛する能力であることは、国家というものがこの世から消え去らない限り、普遍の真実です。このような主張は、アナクロニズムであり、汚らわしいと感じる方も少なくないと思います。見たくない現実を見るのか、目をつぶるのかは個人の自由に属する問題でしょう。私は、他人に強制するつもりはありません。ただ、明治の指導者は、この国の生存に危機感を覚え、見たくもない現実を直視して対応しました。気概というのは、こういう状況が生み出すのかもしれません。市井の人間が「時の最果て」で「寝言」を書き綴っている訳で世の中には何一つ影響はないと思いますが、一国の指導者たるものは、このような気概を現在の安保環境に即して持って頂きたいと思います。



 次回は、日英同盟と対照的にイギリスとの提携に失敗したドイツ外交をキッシンジャーで読み解きながら、民主主義の初期段階での「失敗」について「寝言」を呟きます(え゛っ、まだ続くの?)。



(「続き」は「バランス・オブ・パワー」に関するちょっとしたネタです。オタクあるいは同じ病気の方興味のある方はお暇つぶしにどうぞ。)



(追記)下線部を加筆しました(2006年5月14日)。

続きを読む

2006年05月12日

日英同盟の形成にみる偶然と必然

 日英同盟というのは、「不思議な」同盟です。始まりがあまりに幸運であり、終わりがあまりに不運だったという点で。あれほど大陸への恒常的な関与を嫌ったイギリスが、同じ島国とはいえ、遠く離れた極東の島国と同盟を結んだ。「光栄ある孤立」とはよくいったもので、意地の悪い見方をすれば、これほど一面において機会主義的な外交を展開した国は、大陸には見当たらないぐらいです。海の存在が、イギリスに機会主義的な外交を展開する余地を与えていたことが大きいと思います。他方で、「協商」などという勢力圏をお互いに確認しあうだけの関係ですら、いざというときにイギリスは、全力を挙げて同盟国以上の協力を惜しまない。もっとも、第一次大戦でもしドイツが底意地の悪い国でベルギーの中立を侵さずにフランスに攻め込んでいたら、イギリスは対応に苦慮したことでしょう。



 不適切な喩えかもしれませんが、イギリス外交というのは、基本的にはスポット取引を好む。海外というのは彼らにとって信頼に値しない。ヨーロッパの勢力均衡を保つためには、弱い側にイギリスが肩入れをする余地を残しておかなければならない。他方で、長期的取引には非常に慎重である。スポット取引を好むと同時に彼らは、信用を重んじる。長期的取引は、イギリス外交から自由度を奪うために、極力避けられるが、いったん長期契約を結ぶと、これほど信頼できる取引相手というのは存在しないぐらい協力を惜しまない。19世紀末から20世紀の初めに限定すれば、日本の幸運はイギリス側からいろいろ言い逃れの余地がある同盟でも歓迎するほど弱小な国であったことであり、ドイツの不運は言い逃れの余地があることはドイツを軽く見ていると感じるほど強大な国であったということでしょう。



 平間先生や岡崎先生の著作を読んだ割には低次元の議論かもしれませんが、国際関係を見るときにどうしても、考えてしまうのが、「運」または「ツキ」という要素です。もちろん、イギリスのように計算高い国が同盟関係を結ぶというのは、少なくとも無視できない程度の実力がなければならない。日清戦争での勝利、北清事変での貢献と日本軍の綱紀厳正さなどはイギリスが信頼できるパートナーとして注目するに値する出来事だったでしょう。そして、なによりも極東でロシアを抑止できるだけの海軍力をもった国は同盟締結時、日本以外に存在しなかったことが、ドイツの拙い海軍増強策で極東に手が回らなかったイギリスからみて「同盟」という強い絆を結ぶ最大の要因となったことでしょう。ビスマルク亡き後のドイツの外交は、裏から見れば、一歩一歩、イギリス外交の選択肢を狭めていったプロセスでしょう。まあ、「歴史のイフ」というより「寝言」ですが、ヴィルヘルム二世とビューロワ公がビスマルクの見ていた現実を見ていたのなら、統一ドイツは自制に自制を重ねてついにイギリスは日本との同盟の必要性を認めなかったかもしれません。日英同盟にいたるプロセスを軍事バランスから論じること自体に異議はまったくありません。ただ、ヨーロッパ情勢という、当時の日本の実力からすれば、操作する能力が皆無といってよい独立の変数が日本にとって追い風になっていたという「ツキ」がなければ、日英同盟はなかったかもしれない。日英同盟の成立を論じている種々の著作でこの点を無視していることはありませんが、どうしても日本側から同盟成立を論じると、読者の目には蓋然性のほうが強調されてしまいます。物事の偶然と必然のバランスを描写することは非常に難しい。日英同盟は、あまりにその効果がとりわけ日本にとって絶大であったために、描写がリアルになるほど、必然の方が読者の目には強調されてしまう。私自身は、同盟の発効当初は、大西洋の島国と太平洋の島国の利害をぎりぎりまでひっぱて結びつけた「ぎりぎりの同盟」であり、ひとたび両国が結ばれると、いろいろな面から世界史的な意義をもつ同盟となったことになんともいえない感慨を覚えます。



 既に長くなってしまったので、いったん打ち切りますが、本稿の問題意識は、日英同盟の誕生というのは、日本側からは動かすことができない変数によって左右されていたことを忘れてはならないということです。もちろん、幸運というのは努力しないものには降りかかってこない。平間先生は、『日英同盟』(PHP新書 2000年)では『第一次世界大戦と日本海軍』よりもより鮮明に日米同盟の意義を説得するために戦前の日英同盟を分析されています。岡崎先生の、近現代外交史研究の一連の著作も「同工異曲」というべきものでしょう。「英米と強い絆で結ばれていれば、日本の安全はほぼ確実である」という驚くほどシンプルな戦略を緻密な分析で裏付けている。「ある敗戦国の幸福な衰退史」というのは、このような分析の果実を「寝言」スタイルで述べているようなものです。ただ、「外道」の私は、ついつい本旨を忘れていろんなところで道草をしてしまいます。歴史における偶然と必然とか、民主主義の「失敗」など、迷子になりかねない森に迷い込んでしまう。ちゃんとした食事よりも、つまみ食いのほうがおいしいというのは、ダメな人間の典型です。次回は、そのようなダメ人間から見る日英同盟の驚くべき意義と背景について「寝言」をつぶやいてみます。

2006年05月10日

キッシンジャーの夢

「第一次世界大戦後、ウッドロウ・ウィルソンの理念が世界を圧倒していたころ、近衛文麿が『英米本位の平和主義を排す』という文章を書いたことはよく知られているとおりである。英米は現在の世界で特権階級である、彼らの平和主義という主張は美しいが、実は彼らの地位を守るための主張に過ぎないと、若き日の近衛は論じたのである。これはアメリカ外交を理解するうえでの古典的な誤りだと考えている。アメリカが追求する利益があって、それを理念が覆い隠しているのではなく、結局その理念が実体なのである」(北岡伸一『日米関係のリアリズム』中央公論社、1991年、10??11頁)。



 アメリカ外交に関する情報は山ほどあります。アメリカ外交を理解するのに困難があるとすれば、中国のそれとは対照的にあまりにも情報が多くて、その軽重を順序付ける作業に膨大な労力を割かなくてはならないということだと感じております。上記で引用した北岡先生の文章は、アメリカ外交を理解する上で日本人によって語られた「大局観」のなかでも、最もすぐれたものの一つだと思います。



 理念国家アメリカは同時に自由であり、異端児も生みます。現代のアメリカ外交の異端児といえば、やはりキッシンジャーなのでしょう。アメリカの知識人でFDRの崇拝者の多くは、ニクソンを毛嫌いしますが、キッシンジャーにいたっては無視に値すると考えている人も少なくないという話を聞いたことがあって、「まあ、そうでしょうなあ」と思った経験があります。『外交』を読んだ方でキッシンジャーはビスマルクを理想としていると感じる方も少なくないと思います。ビスマルクが恋人に送った手紙で自画像を堕天使として描いているのを読むと、キッシンジャーを自らビスマルクに模しているようにも見えます。もっとも私は、キッシンジャーが範としたのは一貫してメッテルニヒであろうと思います。凋落するオーストリア帝国の衰退の速度を落とすことを、ヨーロッパの秩序を回復することと一致させることに成功した「ヨーロッパ協調」への彼の評価はほとんどブレを感じないからです。私は、「ガラガラポン」が大好きな方を見るとゾッとします。私の文章でますますキッシンジャーが嫌いになった方も少なくないでしょう。アメリカでは彼の外交政策・交渉の「道義性」の低さを批判する方は、左右を問わず、絶えません。悲観的で暗い陰謀・策略を弄ぶ人物というイメージがあるのでしょう。



 岡崎久彦先生は、東アジア情勢の認識でキッシンジャーをやり込めた経験(岡崎研究所HPのどの記事かがわかったらリンクします)を誇らしげに語る珍しい日本人です。キッシンジャーを嫌う人たちがキッシンジャーに誤りを認めさせたという話はあまり聞いたことがありません。そのやり込めた張本人がキッシンジャーの大著の監訳者として『外交』を私のような読解力が低いものにも、理解ができる邦訳をだされるというのは甚だ痛快であります(誤解を招かないよう、補足いたしますが、邦訳の出版の方が順序としては先の話です)。岡崎先生の戦略論を理解するにはとりあえず「キッシンジャーの夢」を読めと教えていただいたことがあります。私がキッシンジャーを語ると、嫌悪感を覚える方も少なくないようですので、冷戦の闘士が語る「キッシンジャーの夢」を断片的にですが、引用させて頂きます。



「キッシンジャーの『外交』(日本経済新聞社刊 岡崎久彦監訳)は、おそらく今後長い将来にわたって二十世紀の末尾を飾る歴史的名著として残るであろうと思われる。
 その最大の功績は、アメリカ外交の本質を究めようとしたことにある。しかもキッシンジャーの思想、分析の手法は、アメリカ外交のそれとは百八十度反対の極致にありながら、それを分析の武器として、皮相的にではなく真正面からアメリカ外交と取り組んでいるところに、他の追随を許さない特質がある」(岡崎久彦『国家は誰が守るのか』徳間書店、1997年、106頁)。



→いきなり主題が提示されます。引用者として失格ですが、余計な言葉を付け加える余地がありません。



「キッシンジャーはアメリカ外交の本質に触れるごとに、一方では困惑し、呆れはて、蔑視し、批判しつつも、他方では、それが産み出す力、ヴァイタリティーに眩惑され、圧倒され、そして讃歎しているのである」(前掲書、106??107頁)。



→岡崎先生の冷静かつ情熱的な描写です。このどちらを欠いても、あの大著を翻訳する作業を完結することはできなかっただろうと思わず、呟きたくなる叙述です。



「それ(ベトナム戦争反戦の時代:引用者)が一転して十余年後、冷戦はアメリカの勝利で終わった。あれだけの愚行を犯し、あれだけ国内を分裂させたアメリカの価値観が冷戦を生き延び、戦い抜いて、ついに勝利を収めたのである。
 それは、単に歴史のアイロニーというには、あまりに偉大な業績であった。キッシンジャーもそれには素直に讃歎を惜しんでいない。そこがまた、本書を偉大な書としているゆえんでもある。ド・トクヴィルがアメリカのデモクラシーの新奇さに目を奪われつつも、結局は人類の将来の希望の光をそのなかに見出しているところに、その著書の価値があるのと同じように、結局はキッシンジャーもアメリカ的価値の前にひざまづずいているのである」(前掲書、108頁)。



→キッシンジャーのように、アメリカの知識人の、タカ派からもハト派からも、そしてときには「中道」からも、批判を受ける人物はちょっと珍しいと思います。それは、彼がけっして隠そうとはしない、「アメリカ的価値」への不信が根本的な理由なのでしょう。そのキッシンジャーが、冷戦におけるアメリカ的価値の勝利という現実をあるがままに受け入れ、拝跪している姿は印象的でした。



「そして、全篇を通じて流れるテーマの一つは、キッシンジャーがアメリカ的価値観の強さ、ヴァイタリティーに畏敬の念をもちつつも、いつまでもそれだけでやっていけるのだろうか、パワー・ポリティックス的な要素も考慮に入れる必要があるのではないか、という自説をけっして捨てていないところにある。
 この二つの、根本的には相矛盾するテーマが織り成すシンフォニーである近代外交史、それが本書である」(前掲書、108頁)。



→パワー・ポリティクスの信奉者は、アメリカのナイーブさを軽侮する。アメリカ的価値の信奉者は、パワー・ポリティクスの論理を旧大陸のものとして排斥する。アメリカ的価値をパワー・ポリティクスという古い土台の上に乗せようとするキッシンジャーの問題意識は、ドン・キホーテなのか、現実的なのか。



「『近代の世界において、三度目の世界秩序構築への道を進むに際して、アメリカの理想主義はいままで同様、いやおそらくはそれ以上に欠くことのできないものとなるであろう。しかし、アメリカの国益を実際に定義するためには、伝統的なアメリカ理想主義は、現実に対する慎重な評価と結びついていなければならない』
 アメリカの理想主義、そしてそこから派生する集団安全保障の概念がアメリカの見果てぬ夢であると同様、国益に基づくパワー・ポリティックス政策を、アメリカという特殊な国家のなかで実現しようという努力は、キッシンジャーの見果てぬ夢で終わるのだろうか」(前掲書、132頁)。



→一気に結論部分に飛びましたが、この国にはアメリカの進路を決める能力はない。理念国家アメリカは、理想主義を弄ぶゆとりがあるのに対し、この国にそのようなゆとりはないことを自覚することが大切でしょう。現実のアメリカは、自国の生存のために壮大な自己変革を課そうとしている。自国の生存と同盟国の安全を両立させようとすることにもヒト、知恵、カネ、モノを惜しもうともしていない。これに応えない場合、この島国の生存は、太平洋に浮かぶ一片の木片の如く、潮の流れのなすがままになるでしょう。

2006年05月09日

帝国に関する寄り道

 前回の記事で「帝国の時代」という表現を用いました。通常の近現代史の標準的なテキストでは「帝国主義の時代」と表現するのが普通です。実は、帝国主義という用語は、学校で教わってから非常に違和感がありました。あまりに素朴な疑問なので、国際関係論を専門にされている方には失笑を買うと思いますが、どうも「帝国主義」の中身がわからない。歴史上、帝国と称されている国は数知れずあります。ざっと思いつくだけでも、ローマ帝国、中国の歴代王朝(中華帝国)、イスラムの歴代王朝(イスラム帝国)、大英帝国などなど。現代では帝国という表現は、暗黙に善悪の判断が含まれています。余談ですが、レーガンがソ連を「悪の帝国」と呼んだときには、ここまで率直に本当のことを言ってしまって大丈夫なんだろうかと思いましたが。



 帝国という表現は、対内的には専制的で対外的には拡張的である体制を指すようです。簡単言えば、周辺諸国から見て太刀打ちできないほどの卓越した軍事力をもち、それを効率的に運用する強権的な国内体制が確立していることが帝国の要件のようです。マルキストの立場からは、『資本主義の最高の段階としての帝国主義』という独特の位置付けがあるようですが、今日では日本の中高の教科書になごりを残してはいるものの、「世界システム論」など現代の国際関係論では主流ではないようです。言葉遊びのように聞こえるかもしれませんが、私自身は「帝国」に「主義」を結びつけるのは、「帝国」と「民主主義」が両立しないという漠然としているけれども、強固で暗黙な意識が広くあったからだと理解しております。さらに、現代において帝国が悪であるかのように語られる背景には、20世紀初頭の2度にわたる大戦が、欧米人、とりわけ知識人に深い傷跡を残したことが大きいと考えております。



 こんな子供じみた「疑問」をずっともっていたのですが、キッシンジャーの『外交』を読んで帝国というのは古くからある国際関係であり、なんの価値判断も交えずに帝国とは「一国がそれ自体として国際秩序になること」と述べていて、非常に共感を覚えました。話が逸れてしまいますが、さらに興味深かったのは、『外交』執筆当時、冷戦での共産圏の崩壊後、新しい世界秩序を考察する際に、アメリカ外交の基本として局外超然としていざというときにバランサーとしての役割を果たすイギリス外交ではなくて、ビスマルクのように(イギリスの打算を考慮したイギリスへの牽制と懐柔、独墺同盟、独露再保障条約など)恒常的に多国間関係にコミットして調整を図ってゆくのが望ましいと述べていたことでした。キッシンジャーには「一国がそれ自体として国際秩序になる」存在としてのアメリカは、それが仮に彼の理想であっても、非現実的に思えたのではないでしょうか。また、世界は一極集中よりも多元化の方向に向かっており、アメリカ単独ではなく、ユーラシア大陸の主要な勢力――ロシア、中国、インドなど――と関与しながら、ユーラシア大陸における「独裁者」(帝国)の出現を阻止するということがアメリカのとるべき戦略であるいう現状認識も基礎にあるのでしょう。さらに想像を逞しくすると、アメリカ自身が帝国になるには、彼が「ウィルソン主義」と「例外主義」の相克から生まれてくると描いたアメリカの対外政策(彼自身の補佐官や国務長官時代の経験も大きいように見えます)では無理だと感じていたと思います。アメリカの対外政策を論じるのはこの記事の目的ではありませんので、寄り道はこれぐらいにいたします。



 近現代の欧米や日本のナショナリズムの勃興や植民地支配を近現代特有の現象として捉える歴史観には違和感を覚えます。門外漢には古代のアテネ、カエサルのガリア制服などは、今日とは経済や社会体制に相違があるとはいえ、本質的に近現代以降の帝国と共通する部分が少なくないように見えます。「時の最果て」で「寝言」を綴っている貧乏人は、帝国とは、古くから存在する国際秩序のあり方の一つであり、現代でも力関係しだいで成立しうるものであるという、正統的な歴史観から外れた歴史観をもつ「外道」であることをお断り申し上げます。



(「続き」はお暇な方だけどうぞ。当方から閲覧していただいた方のIPアドレスなど個人情報は一切、把握できませんので、「この人は暇なんだなあ」などと当方が感想を漏らすことはありえないので、ご安心ください)。

続きを読む

2006年05月08日

『第一次世界大戦と日本海軍』を読む前に

 相変わらず、お手玉をいくつも投げる状態が続いております。社会人だから当たり前ではあるのですが。連休中に仕事をしながら部屋の掃除をしたら、必要なものがでてこなくなって大失敗でした。よくあることなのですが、今回は事態が深刻で平日であれば、むしろ問題がスムーズに解決したのですが、連休中だけに失敗が痛いです。かわりにといってはなんですが、平間洋一『第一次世界大戦と日本海軍』(慶應義塾大学出版会 1998年)が本棚から出てきて思わず喜んでしまいました。今、読み返している最中です。この本に関する記事が書ける状態になったら、エントリーいたします。ふだんは「です・ます調」ですが、この本に関する記事は自分用のノートという要素が強くなりますので、ふだんの記事と文体が異なることをお断りしておきます。平間先生の著作の内容を紹介しようというほど無謀ではありませんのでご了解ください。



 やじゅんさんが気にされておりましたが、ブログを始めてみてよかったというのが率直な感想です。数少ない読者の方には甚だ御迷惑のことと思いますが、自分の考えていることを自分以外の人の目にさらすという緊張がある下で整理してみると、ありきたりですが、わかっていることよりもわかっていないことの方が大きいということがわかります。かんべえ師匠が『溜池通信』の最大の受益者は筆者自身と漏らしておられましたが、記事の数が83程度でも多少なりとも実感いたします。そういう段階から、多くの人へ情報を発信するブログを目指したいのですが、自分の歩留まりが見えているので、「寝言」スタンスでまいります。



 こんなブログを始めた動機は、やじゅんさんのお勧めが大きいのですが、なによりもコメントが記事ほどではないにしても、異様に長いことに気がついて人様のところでわれながら図々しいなあと思ったことが大きいです。当面の目標は、「ある敗戦国の衰退史」というテーマである程度、まとまった文章を書くことです。それが終わったら、どうするかはなにも考えておりません。自分のHPの記事を商売道具にするあくどいかんべえ師匠ほどの才覚はないので、文章としてまとめたら、それでおしまいです。自己満足です。



 平間先生の著作に話題を戻します。『第一次世界大戦と日本海軍』は、最初に拝読した際に「しまった」と思いました。文章は平明で分析は精緻なのですが、いかんせん博士論文です。通読したものの、いかんせん素人の私には読めていない部分がいっぱいあることはわかります。今でも、あまり進歩したとはいえません。ただ、同盟が双務的になるほど難しい問題が生じる――国内世論の反発や第三国との関係など――ことは戦前も戦後も変わらない部分があるように思いました。同盟の主たる意義は、抑止力にあると考えておりますが、万が一、抑止が破られてしまったときにどうするのかということも考えておく必要があると考えます。日米同盟に関して私がそのようなシミュレーションを行うのは明らかに分不相応です。専門的なトレーニングはまったく受けておりませんし、なにより自分自身が勉強不足です。平間先生の著作は、抑止が破られたときの日本の対応を海軍の行動を正面から綿密に分析されていて、非常に興味深いものでした。軍事技術――装備だけでなく戦術・戦略面も含む――の進歩を考えると、この著作で描かれている内容を現代にそのままあてはめるのは無理があります。他方で、「帝国」の時代は、各国が自己の利益を露骨に追求した時代であり、現代のようにそれがアメリカの理想主義というオブラートに包まれている時代よりも、赤裸々に国際関係と安全保障の関係が、それでも複雑ですが、浮き彫りなった時代です。この著作をとりあげるのは以上のような問題意識があります。ノートがたまったら、エントリーしてまいります。

2006年05月03日

この国を守る気概と巧拙

 まず「業務連絡」ですが、ネットへ接続できないことがまれにですがあります。昨日の夜から今日の未明にかけても、まったく接続できませんでした。当方のPCやルーターの電源を全部、落としてからケーブルの接続をすべてやり直す作業を何度か繰り返してようやく接続が可能になりました。もっと手軽に初期化する方法を知っていれば、こんなバカげた作業を繰り返すこともないのでしょうが、ブログへの投稿やコメントなどが遅いときには、デブが必死にルーターのケーブルを抜いたり挿したりしている姿を想像していただければ幸いです。 



 5月3日は憲法記念日ですが、憲法論争は門外漢にはわけわかめ。『毎日』がなぜか一番「熱心」で、『読売』は民主党攻撃に徹し、『朝日』、『産経』が「後方支援」に徹している様子はおもしろいといえば、おもしろいのですが、読んでいるうちにバカバカしくなります。『日経』は、『産経』と同じく在日米軍再編のみに絞って論じていますが、こちらの方が字数のせいか、説得力では軍配が上がります。『日本経済新聞』は経済関係では「?」となる記事もよく見受けますが、政治の話はなぜかお好きなようで不思議な新聞だなあと感心します。社名、新聞名を変えてみてはいかがでしょう。



 門外漢からすれば、憲法を「不磨の大典」とすべきではないという立場なら、96条の改正を行って自分の国の祖法は自分たちで定めるという話から入るのが普通ではないかと思うのですが。もちろん、制定時の環境から現在では大きく異なるので改憲そのものは必要なのでしょう。最大の焦点が9条であることには異論はありません。とくに2項は削除した方がよいと思いますが、いまだにコンセンサスには至っていない。敗戦国の再軍備は難しい問題が生じることが多いのですが、日本を占領したアメリカが再軍備を要求して今日に至っているため、敗戦国の再軍備にともなう戦勝国の猜疑を免れるという幸運はありました。他方で再軍備を行う際に必要な国内でのコンセンサス形成という作業を、「外圧」にすりかえるおかげで自分たちで決めるという原則を曖昧にしたために混迷するという問題を抱えました。「ある幸福な敗戦国の衰退史」のカテゴリーは、この問題に関するささやかな「寝言」です。



 自国の安全は、自国で守るのが基本です。自国のみで対応が困難な場合、同盟国の力を借りるというのも基本だと思います。それすら、曖昧としている状況では、まず当たり前のことを常識としてゆくのが大切なのでしょう。他方で、国家間の相互依存は、経済だけにはとどまりません。連休中の「宿題」に追われている私が申し上げるのもなんですが、自国の安全を誰がどのように誰とともに確保してゆくのかという問題に関してあまりに宿題が多すぎる。私のような凡夫には「妙手」などありません。ただ、狭い意味で自国の安全を守るという点でも足元が十分には固まっていない現状で、アメリカとともに地球的規模で戦略を共有するというのは、自衛隊の憲法上の位置、自衛隊の任務を定義する自衛権の解釈・運用、自衛隊の任務に似合った能力の整備、それを支える財政基盤、そのような外交・安全保障政策へのコンセンサス形成という点でクリアーしてゆかなくてはならない問題が多い。一つ一つの問題を個別にとり上げても、すぐには決着しないのは自明でしょう。平凡な結論で恐縮ですが、この国が自らの運命を自らの意思で選択するという気概を具体的な政策に反映させてゆくという地道な努力こそが、自国を守るという最も基本的な問題に対処する上での肝要な点であるということを繰り返し強調いたします。政治家の方々に私が期待しているのは、気概そのものではなく(これはもって当たり前です)、気概を政策に反映する巧拙を冷静に見極めて頂くことです。



(追記)タイトルから「ブログ」を削除し、下線部を修正しました(5月8日)。

2006年04月01日

敗戦国のコンセンサス

 ブログなるものを書いてみると、以前から薄々は感じていながら、どうなんでしょと思っていたことがやはりそうなのだということを実感させられます。自分で言うのもなんですが、つくづく変人だなあと。年配の方から子供のときから「お前は日本人じゃない(非国民)」と言われ続けて20年近くなります。失礼千万な話ですが、私から見ると、日常で接する方の95%以上はどうでもいい方です。こちらがそう思っているということは、相手もそう思っているだろうと。年をとってから慈しみという感情を理解するようになってどうでもいいと思っていることを表面に出さないほうがよいということぐらいはわかるようになりました。お互い様のことなのであからさまにしない方が、うまくゆくとまではいかないにしても、くだらないことに巻き込まれることは皆無になりました。ああ、日本人ってなかなか思慮深い民族なんだなあと思う私はやはり日本人じゃないんでしょうねえ。



 昨日の記事を書いてから、なんか変だなと思ってキッシンジャー『外交』第3章を読み返しました。最初に読んだときに非常に感心したのは、「哲学者たちは意図と結果を混乱させている」(邦訳78頁)という一文でした。ヨーロッパではローマ帝国以後、帝国と呼ぶに値する秩序をつくる国が存在しなかったのだということをあらためて実感いたします。なぜかと考えると難しいのですが、ついついヨーロッパをイギリスの立場から見てしまう癖がついています。たぶんですが、読んでいるものの大半が、イギリス、アメリカの立場から書かれていることや、島国であるという地理的条件、なにより自国の立場を正当化する傾向があるにしても客観的に物事を叙述するという信頼すべき性癖などが大きいのだろうと思います。非常に素人的ですが、18世紀、あるいは19世紀のイギリスの指導者が現在の日本を見たらどう思うのだろうと考えることがあります。おそらく慄然とするでしょう。海の向こうにフランスとドイツ、ヨーロッパ・ロシア、スペイン、オーストリアを統合したような勢力が存在する。最も苦しいときですら、大陸との恒常的な関わりあいを拒絶した古きよきイギリス人でもアメリカとの恒常的な同盟関係に入ることは理解してくれるでしょう。



 前回の記事ではホイッグとトーリーという非常に拙い喩えをしました。私自身の拙い理解では両者の違いは、煎じ詰めれば、ホイッグの外交政策はトーリーよりも機会主義的な傾向が強いということにつきると思います。そこまで日本人の意識や日本人を代表する政党の外交政策が強力なコンセンサスの上での戦術的な相違にすぎないところまで成熟しているのかと問われれば、非常に心もとないです。ただし、過去の外国の事例から日本の現状を批判したり、嘆くのは的外れでしょう。イギリスの伝統的な外交政策であるバランス・オブ・パワーもヨーロッパ大陸で帝国が出現しないということが自国の安全と独立に不可欠の条件であるこということを数百年にわたる大陸の「内乱」に対応するプロセスで形成されたものです。そして、クロー覚書に代表される政策として明確に意識される頃には既にイギリスはバランサーとしての地位を失いつつありました。戦前でさえも、日清・日露戦争に勝利しても、日本はアジアにおけるバランサーとなることはありませんでした。30年も油断した程度で自国の安全すら危うくなるぐらい脆い勢力でした。戦後となると、戦勝国から再軍備を求められたにも関わらず、これを渋るなどちょっと信じ難い状況がありました。敗戦国の再軍備は、例外も少なくないですが、非常に難しい場合が多いです。「吉田ドクトリン」が外交政策として有効であったかどうか、非常に懐疑的にならざるをえないです。占領政策の後遺症は、国民というよりも政治的指導層の少なからぬ部分が安全保障に関して非常に鈍かったことだと考えております。「世論が、世論が」と口にだす政治家は信頼できません。何のために、政治的特権を与えて国事に専念できるように(現実にはそこまで良好な環境とはいえないのでしょうが)しているのか、疑念を抱かせます。制限選挙の下でのエリートと比較するのは酷だとは思いますが、世論を説得することができない政治家は無能だと思います。



 日本の安全はユーラシア大陸で帝国が出現すれば、非常に危険になります。そのような事態が出現することを阻止することが基本的な戦略であり、その不可欠のimplementが日米同盟であることが、国民の間でとまでゆかなくても、主要政党のコンセンサスとなるまでまだ時間がかかると覚悟せざるをえないと思います。小泉後は大変だとか、ブッシュ政権が弱体化したらどうするとか、アメリカで政権交代が起きて外交政策がドラスティックに変化したらどうするかとか心配はつきない訳ですが、気長にやるしかないのだろうと。脱力される方が多いと思いますが、順風のときは船をどんどん進めるにしても、嵐のときにあえて勝海舟のように荒海にでかける度胸も必要かもしれませんが、通常は港に一時的に避難する勇気の方が勝るでしょう。船を沈ませないためには気長にやるしかない。凡人の結論は以上です。

2006年03月30日

Japanese Phlegm

 怠惰というのは、罪です。まず、テレビは見ません。リモコンに反応しなくなってからは、目覚まし代わりにもならないので電源を入れるのが億劫です。雑誌も読まないです。ひどいときは新聞もさぼってしまう。もちろん、ちゃんと仕事をしておりますし、生活もしているのですが、どこか今、生きている現実というものを信じないという病的なところがあります。とくに苦手なのは女性。昨日と今日で、よくまあ、コロコロ変わりますね。もっと嫌なのは一緒にいる時間が長くなるほど、自分も同類だと気がつかされることですが。仕事で理屈とか過去の出来事といった「死人」を相手にすることが多いのでだんだん「現実感」がずれてきているのかもしれません。「死人」を相手にすることほど心が落ち着くことはありません。余計なことはしゃべりませんし、もう変わりようがない。変わるとすれば、こちらの側に責任があるわけでしてわかりやすい。私自身がそうですが、生きているものほど、どうしようもないものはありません。



 生きているものを観察するのは難しい。「死人」を見ることを生業としている人ですら、感情や先入観から自由になることは難しいです。目を曇らせる感情や生き生きとした感性を失った観念ほど疎ましいものはありません。そういう他人を見て嫌だなと思うこともあるのですが、一番、腹が立つのはやはり自分がそういうどうしようもない存在だと感じるときでしょうか。厭世的になっているわけではありませんよ。まあ、日々がこんな程度だということです。30年以上生きてきたのだから、それ相応に利巧であってほしいのですが。



 もう十数年前でしょうか、ある会合で年配のお医者さんのお話を伺う機会がありました。当時、修行が思うようにはかどらず、悪戦苦闘していました。名医と経験というテーマでしたので思わず、「畑違いですが、名医じゃない者が名医と同じ感性をもつにはどうしたらよいのでしょうか」とお尋ねしました。先生が破顔一笑、「今生きている人で尊敬できる人をたくさんつくりなさい」とおっしゃったのにはハッとしました。「僕が名医じゃないから、(君の)気もちはなんとなくわかるよ。あとは、自分で考えてね」とも。そう、私は子供のときから「死人」ばかり追っかけていました。よくいえば「知的好奇心」でしょうが、とにかく何か確かなものが欲しかったのでしょう。祖母を亡くしてからでしょうか。いつも元気で文字通り「目に入れても痛くない」ぐらい溺愛されていました。亡くなるちょうど同じ頃に妙な夢を見ました。祖母がいつもとは違う表情で別れを告げにきました。両親は、危篤の知らせを深夜に受けて病院にでかけて家にはおりませんでした。翌朝、両親に連れられて言葉を発することもなく、冷たくなった祖母と再会して一日中、泣きました。この世に確かなものなどなにもない。それ以来、確かだと思えるものを探して書物に耽溺しました。



 ずいぶん「寝言」が長くなりましたが、「凡庸なフランス」を拝読して生きているものを相手に悪戦苦闘するしか、確かなものをえる道はないのだと思いました。筆者の精神の背後には疑うべきものを感じません。私のような凡庸な人間ではなく、多くの方々が同じ精神を共有していただきたいと思います。古来の美徳に学ぶことは私たち自身を知ることでもあり、けっして軽んじることではないと思います。ただ、現在育っている美徳にももっと目を向けた方がよいと思います。私のように無教養な人間には"Japanese Phlegm"とも呼ぶべき美徳が存在したのかどうか、定かではありません。仮にこの国が「凡庸な日本」であったとしても、"Japanese Phlegm"の精神をもち、実践する優れた人が千人もいれば、「一寸先は闇」の世界の中で生き残ることができるでしょう。そうでなければ、防衛費を倍増しようが、衛星を打ち上げようが、孫子・クラウゼヴィッツ・ハートなどを極めた戦略家を育てようが、国を誤るでしょう。アメリカとの関係を間違えれば、この国は滅ぶ。ド・ゴールの愛国主義よりも、感情や主義に囚われずにアメリカを知り、事実を語ることの方が、はるかに困難で高貴なことだと思います。このような方が日本人であることに誇りを覚えます。このような美徳がこの国に根を張るには時間がかかります。この駄文が、「坂の上の雲」を目指す志をもつ方を増やすことに少しでも貢献できれば、それに勝る幸せはありません。



 …えっ、ちょっと待て。ご高説はいいんだけど、お前は努力しないのかって?ええとですねえ、も、もちろん、目指したいんですけど、なにせ頭が悪くて悪くて…。めまいがひどいときに脳のMRIをとってもらいました。問診のときに「・・・という訳で異常はまったくないので安心してください。ところで他にご心配はありますか?」と尋ねられましたので、ここぞとばかりに年来の不安を吐露いたしました。「先生、昔から頭が悪くて悪くて困るんです。つける薬はありませんか?」こんな患者に当たってしまった先生は本当にお気の毒です。それまでギャグを連発していた先生もさすがに一瞬、後頭部を鈍器で殴られたような表情をしてしばらくしてから神妙な面持ちで「申し訳ありませんが、こればかりは使っていただくしかありませぬ」。頭が悪い上に、お金は貯まらず、仕事は貯まる一方。気がつけば、恐怖の31日が…。怖くて仕事用のメールボックスを見ることができない。「ビ、ビネガー、び??んちっ!」どころじゃないです。ってな訳で私には解説する資格のない「凡庸なフランス」を御自身でじっくり味わってくださいね。



 要は、仕事が煮詰まっているくせに、いやだからこそ「ご高説」を垂れたいんだろうって?そこまで言うか!?道化師みたいな顔をしたキャラが真面目な顔をするつらさって、みのさんぐらいしかわかってくれないだろうな(遠い目)…。あの人、欲張りすぎだけど(ぼそっ)。

2006年03月29日

「演ずる」ということ

 ある知り合いが学生時代に合唱の練習に真剣に打ち込んでいたそうですが、話を聞いていてハッとしました。自分の頭の上で聞こえている音と観客で聞こえている音は違う。したがって、観客に聞いてほしい音色をだすために自分の頭上で響いている音を自分で調整するのだと。彼はセミプロであって歌うことを生業としているわけではありませんが、この話にはほとほと感心しました。私がド素人だからかもしれませんが、こういう発想はプロらしいと思いました。



 例外も多いので、誤解していただきたくないのですが、非礼を承知で申し上げると、外交や安全保障をめぐる評論で違和感を感じることが多いのは、しばしば自己満足で終わっていることです。私みたいに自己中心的で協調性のない人間でも、30数年も(四捨五入すると40ですが)この国の人情にうたれれば、日本人の「察しと思いやり」ほどありがたいものはないと思います(フッ、俺も堕落したぜ)。経済界でも、これほど信用と誠実が重んじられる国はないでしょう。何を能天気なことをお叱りを受けるかもしれませんが、この掟に反した人たちは、その事実が世間にさらされれば、司直のみならず、厳しい社会的制裁を受けています。「廉恥」という言葉は死語になったかもしれませんが、そういう名詞が使われなくなっても、精神は生きのこっています。しかるに、私が見るところ、この国の人は身内の恥には過度に厳しいですが、国を挙げて恥をかくことには極めて鈍感です。外交や安全保障の実務に携わっている方はともかく(私ごときが申し上げるまでもなく、日々実感されていると思いますので)、これを論じる人たちにも、せめて音楽家の感性を少しはもってほしいと思います。思うに、この現象は外交や安全保障に限らないのかもしれません。日本語という壁があるために、世に出版される書籍・雑誌は日本人が読者であることを自明としていて、価値観が異なる異国の人が読んだらどう感じるのかという視点を感じないことが少なくありません。



 日本人は真情を吐露することを好むようです。これはけっこうなことです。しかし、真実を語るのは苦手なようです。ありのままのことを述べることは、真実を語ることではありません。なぜなら、人の数だけ「ありのままのこと」があるわけです。"relativism"などという虚弱な精神を称揚する気はありません。誰しも、自分の価値観をもって物事を見て部分しか理解しない。私もそうです。無意識に自分の見る現実は限られてしまう。自分の見えていない、見たくない現実を見るには自分の中に他者を育てるしかありません。まだ、戦前はよかったのです。欧米という目を気にしなくては自国の生存を図ることができなかったから、否応なく他者を持ち込まなければなりませんでした。戦後は経済成長とともに、このような緊張感を失ってしまいました。



 ニコルソンによれば、外交では信用、熟慮、妥協、公正な取引などの商業的精神が肝要とのことです。"ignorance"は幼稚で横暴でしょうが、"innocence"は罪だ。この国は、欧米中心の世界秩序のなかで100年以上、主要とはいえないけれども、アジアの中で無視できない存在であり続けました。その国が、再び生存をかけた時期に入るにあたって"innocent"であることに危機を感じるべきでしょう。中国の外交は長続きしないかもしれない。しかし、嘘が一時的に勝利することはあります。真剣に生き残りを図るならば、彼らと同じ土壌に立たずに、他の観客に「日本を演じる」ことが大切でしょう。私の知り合いは、そこまではしゃべってくれませんでしたが、その際に「演技」を誰に一番、見てほしいのかを忘れないことが、肝要だと考えます。