2013年05月28日

縁なき衆生は度し難し マクロ経済政策

 まず、前座として安倍政権のマクロ経済政策です。リーダーを遡って見ていたら、Wall Street Journalが2012年5月23日付で"An Abenomics Reality Check"のアジア版の社説で、株価の暴落を受けて金融政策に過度の期待を抱くのはアメリカでもないよと軽くいなした上で、成長に寄与する政策が必要だと指摘しています。率直なところ、タイトルを見て中身がなさそうだなと思いましたが、プリントアウトして読むと、本当に中身がないなと。ただ、思った以上に債券市場の混乱などを要領よくまとめていて、債券価格の下落が金融機関のバランスシートを傷めるあたりをきちんと指摘しているあたりは、だいたい1週間前の社説としてはさすがだなと。ユーロ圏のような債務危機にいたらなくても、債券価格の下落で金融システムが不安定化してしまうリスクがあるわけで、当たり前の話なのですが、国内の報道で指摘しているのでしょうか。英字紙しか読まなくなったので、知らないのですが。

 あとは、日銀の4月の政策決定会合に関する記事でしょうか。議事要旨が公開された関係ですね。WSJが2012年5月26日付で配信したTakashi Nakamichiの"BOJ Divided Over Rising JGB Yields"という記事を読みました。"different dimension"という苦しい英訳を見て苦笑しました。黒田総裁という方は、新しい知性を備えた(日本経済を破滅させることによって人々が塗炭の苦しみを味わい、虚言で抱かせた希望が絶望に相転移するときに生み出される感情エネルギーを集めて熱力学の第2法則を捻じ曲げようとする)インキュベーターというか、宇宙人みたいで、「異次元緩和」って日本語からしておかしくないですかという感じ。

 本題はロゴフとラインハートの著作に対するクルーグマン大先生の批判でしたが、"This Time is Different"もまともに読んでいないので、無理でした。エクセルのスプレッドシートにミスがあったというのはロゴフとラインハートにとっては悔やみきれないミスでしょうが、問題は、政府債務と経済成長の相関ですね。政府債務があると、経済成長率が低下するという主張と経済成長率が低下するから政府債務が増加するという主張は、一方が誤っているというほど単純ではないと思います。素人考えですが、政府債務がGDPの9割を超えるあたりで相関が変わるという主張自体は、基礎的なモデルがあるとは思うのですが、やや奇異な印象を受けますが。

 なんか本題に入らずに終わってしまいました。やはりマクロ経済政策のように難しい分野は私みたいな凡人には「縁なき衆生は度し難し」といったところなのでしょう。


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2011年05月30日

長期化する電力問題とエネルギー政策

 最近、昼間にコンビニに立ち寄ると、店外の照明はもちろん、店内の照明を半分ほど消している店が目立ってきています。そういえば、家電量販店やその周囲の店も照明を落としている状態です。石原慎太郎東京都知事のお膝元ではないのですが、外から見ていると、パチンコ屋でも外のネオンをつけている方が珍しい状態です。転機となったのは、やはり中部電力浜岡原子力発電所に対する菅直人内閣総理大臣の要請によって、運転停止が実現したことのようです。私の住んでいるところでも、もはや夏場の電力は綱渡り状態であり、非常に厳しい状態だということを、地元の電力会社の方からも聴きますし、実感もします。

 東京電力管区内で計画停電が生じた際には、全国紙や在京キー局がこれでもかと報道しました。もちろん、東京電力福島第一原子力発電所の事故による影響は深刻ですし、福島第二原子力発電所も停止している状態ですから、理解はできます。しかし、浜岡原子力発電所の運転停止が東海地方の電力需給や経済に与える影響にはやや冷淡だった印象があります。今でも、パソコンのポータルサイトの多くには東京電力管区内の電力使用量と使用率が表示されていますが、需給の逼迫の程度が異なるとはいえ、東京電力管区内の問題には敏感なのに対し、地方の電力問題には首都圏の各種媒体が無神経なのではないかと感じております。

 「なまもの」に属する報道ですが、『朝日』が2011年5月27日付で「玄海原発、想定以上の劣化か 専門家指摘『廃炉に』という記事を配信しました。東京電力福島第一原子力発電所の事故による「脱原発」の世論の高まりによって九州地方の電力逼迫は長期的な問題になる可能性があるという点で注目しました。

 九州電力玄海原子力発電所1号機(佐賀県玄海町)の原子炉圧力容器の劣化が想定以上に進んでいる恐れのあることが、九電の資料などからわかった。九電は「安全性に問題はない」とするが、専門家は「危険な状態で廃炉にすべきだ」と指摘。1号機は稼働中で、反原発団体は原子炉の劣化を危険視している。

 原子炉は運転年数を経るにつれ、中性子を浴びて次第にもろくなる。その程度を調べるため、電力各社は圧力容器内に容器本体と同じ材質の試験片を置き、もろさの指標である「脆性遷移(ぜいせいせんい)温度」を測っている。温度が上がるほど、もろさが増しているとされる。

 1975年に操業を始めた玄海原発1号機は九電管内で最も古い原発で、想定している運転年数は2035年までの60年間。脆性遷移温度は76年、80年、93年に測定し、それぞれ35度、37度、56度だった。ところが、09年には98度と大幅に上昇した。

 九電はこの測定値から、容器本体の脆性遷移温度を80度と推計。「60年間運転しても91度になる計算で、93度未満という新設原子炉の業界基準も下回る数値だ」と説明している。


 2011年5月9日に「中部電力浜岡原子力発電所運転停止による九州地方の電力逼迫」という「寝言」を書きましたが、九州電力玄海原子力発電所は、1号機と4号機が運転中で、2号機と3号機が定期検査中です(先の「寝言」で引用した『西日本新聞』の記事に2号機と3号機の運転再開が福島第一原書力発電所の事故によって延期になったことが記されています)。日本原子力技術協会のHPにある「運転状況&放射線関係モニタリング情報:原子力発電所」のページによると、運転中の1号機の出力は58.2万kWと1970年代に建設された福島第一原子力発電所1号機よりも出力が大きく、2号機よりは出力が小さいです。現時点で玄海原子力発電所の2号機、3号機の運転再開のめどが立たない状態で、万が一、1号機が廃炉を前提とした運転停止に追い込まれた場合、九州地方は石油をはじめとする代替燃料のめどが立っておらず、東京電力管内よりも電力需給の逼迫が厳しい状況に陥る可能性もあります。『朝日』が玄海原子力発電所1号機の問題を報道したのは、首都圏のメディアの中ではまだ視野が広いと思いますが、各地方の電力需給や経済への影響などの視点はなく、「東京目線」でしか物事を見ることができない限界をよく示している部分もあります(他社よりはマシな印象があるので、引用しているのですが)。電力問題はもはや東京電力管区内だけの問題ではなく、被災地である東北地方はもとより、東海地方や近畿地方、九州地方などでも既に顕在化しつつあると思います(中国電力や四国電力の実情がよくわからないのですが)。

 話が変わりますが、菅総理は、ドービルサミットで日本のエネルギー政策に関して3点ほど大きな方向性を示しました。首相官邸HPにある2011年5月25日に行われた「OECD50周年記念行事における菅総理スピーチ」(参考)に、その3点が示されています。第1に、原子力の平和利用に関しては、「最高度の原子力安全」を達成することです。第2に、化石燃料の効率性を高め、温室効果ガスの排出を極力、抑制するということです。第3に、自然エネルギーを社会の「基幹エネルギー」に高め、発電電力量に占める自然エネルギーの割合を2020年代のできるだけ早い時期に少なくとも20%を超える水準となるよう技術革新に取り組むことです。スピーチでは省エネも挙げられていますが、電力だけでなく水の節約まで各家庭で進んでいる状況で省エネにはかなり限界が多いと私が独断し、割愛しました。また、2011年5月27日の「G8ドーヴィル・サミット内外記者会見」(参考)では、質疑応答を含めて、自然エネルギーの問題に重点があり、自然エネルギーと並ぶ柱とされている省エネルギーは、相対的にはるかに低い優先順位が与えられているように感じるからです。ちなみに、5月27日のスピーチでは、孫正義氏の名前が出てくるのは、これほど政治と企業が癒着する典型例はないのではという問題はさておき、本業である通信事業でインフラストラクチャー整備に関して、「定評のある」人物が、電力という生活の根幹に関わる分野に総理の後ろ盾をえて参加することには恐怖を覚えます。ひどい話ですが、東京電力管内でのみ発送電分離を実行し、孫氏には利益が見込めるかもしれない東京電力管内でのみ事業を行って頂きたいと地方在住者としては切に願います。

 さて、ドービルサミットでの菅総理の発言は、大雑把にいって、次の二つの反応があるように思います。脱原発を積極的に進める方からすれば、自然エネルギーの比率を2割以上に高めるという目標を歓迎する立場です。他方、当面は原子力発電と付き合わざるをえないという方は、原子力発電の安全性を高めることには異論はないものの、自然エネルギーの比率を上げることには、主として実現可能性の点から批判的な立場です。菅総理の発言は、かならずしもエネルギー一般であって、発電設備の問題に限定されているわけではありませんが、電力の問題を念頭においていると思います。私自身は、自然エネルギーの比率を高めること自体には反対ではありませんが、懐疑的です。そんな私が、実は、データの取り方によって、菅総理の発言は、単なる寝言(「時の最果て」の中の者としてはあまり使いたくない表現ですが)ではないですよということを以下に見ていきましょう。

 まずは、東京電力のHPで「数表でみる東京電力」(参考)から31ページを見てみましょう。他社受電を含まない「(a)電源構成比の推移」では、新エネルギー等の割合は、小数点処理も問題が大きく0%ですが、水力は17%ほどを占めています。なお、新エネルギーの定義に関しては、経済産業省資源エネルギー庁に詳しい内訳が表示されています(参考)。東京電力のデータでは、2009年度以降は地熱発電を新エネルギー等に含めているので、資源エネルギー庁の定義とはやや異なる点があることにも注意が必要です。以上のことを踏まえて、水力発電が既に17%を占める状態ですから、自然エネルギーを「基幹エネルギー」に高めるのは実現可能性という点で懐疑的ですが、2020年代の早い時期に自然エネルギーを全エネルギーの20%に高めるという菅総理の発言は、私と似たようなスタンスの人がバカにするのとは異なって、荒唐無稽ではないと思います。

 次に、他社受電を含むデータでは、水力発電は全発電の実に19%を占めます。おそらく、電源開発などが運営する水力発電所が含まれるからでしょう。この場合、電力に限って言えば、新エネルギーを含む自然エネルギーを全体の20%に高めることは、はるかに実現可能性が高いでしょう。このスピーチの数字の裏付けを行ったのは環境省なのか、経済産業省なのか、あるいは他の菅総理に近い方なのかは知る由もありませんが、このデータに基づいて考えれば、自然エネルギーを20%に高めるという目標は、さほど野心的ではありません。

 実は、このデータは、図の注にあるように、認可電力です。電気事業連合会の電力統計情報(参考)では、他社受電を含まないデータに関しては最大出力です。発電電力量の実績値を見れば、光景は全く異なります。下に、電気事業連合会の電力統計情報から作成した発電電力量の内訳を示します。

表 発電電力量(含む他社受電)の推移(2000年度−2009年度)

hatsujuden2000-2009

 このデータによれば、2009年度の水力発電を含む自然エネルギー(水力発電と新エネルギーによる発電量の合計)は、全発電量の6.4%にすぎません。他方、原子力発電も、2000年度には、3億247万4,802MWhを記録しましたが、2005年度に2,450万2,083MWh2006年度と連続して発電量の増加を記録して以降は、発電量と全体に占める割合を減少させる傾向が続いています。ちなみに、2005年度には、前年度ではありますが2005年1月に中部電力浜岡原子力発電所5号機(定格出力138kW)、12月に東北電力東通原子力発電所1号機(定格出力110万kW)、2006年3月に北陸電力志賀原子力発電所(定格電力135.8kW)などが運転を開始した時期です。それにもかかわらず、2000年度から2009年度で3,636万4,450MWhほど減少しています。また、総発電量に関しては景気との関係が大きく、2007年度には10億353万3,215MWhと10億MWhを超えましたが、2000年度から2009年度の総発電量の増加は2,155万9,706MWhと2.3%の増加にとどまっています。

 実際の発電量から見た場合、菅総理が打ち出した「自然エネルギー」を2020年代に全エネルギーの20%を占める「基幹エネルギー」とするのは極めて困難でしょう。また、「最高度の原子力安全」を実現するのには、どれほど時間がかかるのかも明示すらされておらず、現実には福島第一原子力発電所を安定化させることが可能かどうかにも疑問が残る状態では絵空事でしょう。現政権の方針の下では、今後、少なくとも10年間ぐらいは、原子力発電に関しては福島第一原子力発電所の状況しだいで、各電力会社の原子力発電所の運転再開に地元の理解がえられなければ、ベース供給力として極めて不安定な状況が続き、自然エネルギーは原子力エネルギーを代替することはできず、長期間にわたってベース供給力不在が続くのでしょう。

(追記)2005年度の原子力による発電量に誤りがありましたので、抹消いたしました。また、下線部を加筆いたしました。(2011年5月30日)


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2011年02月22日

悩ましい地方政治

 アラブ諸国の動向から目が離せない状態が続いているのですが、国内も少なくとも斜め読みぐらいはしなくてはと思うのですが、民主党中心の連立政権のゴタゴタは読むだけで萎えますね。これには「寝言」も浮かばない惨状なので、おそらくは民主党亡き後、国政レベルでは再び自民党中心の政権が生まれるのかもしれませんが、今年に行われる統一地方選挙は国政にも影響をおよぼすのかもしれません。

 他方、名古屋市の市長選挙と市議会のリコールの問題には今一つ興味がわかないのが率直な実感ではあります。名古屋市の公式サイトが公表している「平成22年度予算のあらまし」(参照)を見ると、PDFファイルの全ページ版の7頁では「厳しい市の財政状況」とあって、次のページをめくると、「収支不足への対応」として市民税減税161億円の財源として行財政改革によって185億円を捻出すると読める表があり、どこぞのいい加減な政党がムダの排除で財源をと主張していたのを思い出させる光景です。「通常の収支不足額」321億円に義務的経費の増と並んで市税の減収が挙げられており、悪い冗談なのかと。所得割の部分や法人事業税、固定資産税が減収になれば、実質的には減税と同じ効果なわけでして、加えて市民税の減税を行うのは何の効果をねらっているのかさっぱりわかりません。しかも、「臨時財政対策債」はまだしも、「行政改革推進債」というのは「時の最果て」でも思いつきそうにない「寝言」、あるいは悪い冗談のようなネーミングでありました、行政改革を進めて市民税減税を進めるという一方で、行政改革を推進するために、借金を増やしますというのは、いくら私の本籍地とはいえ、あまりの話です。「減税日本」の公式サイトを見ても、あまりのアバウトさにやはり帰るべき故郷は静岡県だなあという気分になります。

 実は、名古屋市長選挙の後で、この表を見て、民主党亡き後の政界も大変だなあと。民主党がいうなれば自民党の劣化コピーならば、その後にくるのかもしれない地方政党は、民主党の劣化コピーとなるわけで今後10年ぐらいは日本の政治システムは麻痺状態が続くというのが2月の中頃までの見通しでした。ため息が出ます。アメリカ外交は、日本外交と異なって、今回のアラブ諸国の反乱にさほど選択肢があるわけではないとはいえ、様々な影響力を行使せざるをえないでしょう。アジアでは中国の台頭に日本が中心にアメリカ外交を補完してくれれば、多少は負担が軽くなるのでしょう。しかし、地方政治の動向が国政に影響力を与える情勢になれば、中国に対して日本の利益から防波堤になるというのは極めて困難な情勢になるのでしょう。

 もう一つの「策源地」である大阪も名古屋と同様、ダメだろうと。昨年の11月頃に、「大阪維新の会」の公式HPを見ましたが、なんじゃこりゃと思いました。本を読んで勉強しろと大阪府民にお説教をしていて、ある意味では開き直っていますが、「大阪都」構想でなにがかわるのかが不明確で、名古屋市と愛知県の動きを見ながら、混乱した時代を迎えそうだなあと鬱になっておりました。

 しかし、先週、見ると、「大阪維新の会マニフェスト」がいつの間にかアップロードされていて、「マニフェスト」という言葉を見ると、できもしないことを書いてあるのですねという先入観がありますし、いかがわしい「成長戦略」という表現もでてくるのですが、名古屋市の派手な減税と比べて、具体的な成長戦略が地道な話でしたので、意外感がありました。インフラストラクチャー整備に偏っている印象もありますし、インフラを整備して人材が大阪市・大阪府に集まるのかは疑問もあるのですが、とりあえず減税というわが本籍地に比べると、はるかに政策的な方向性は戦略性があるように思いました。端的に言えば、金融危機を経験するまで不交付団体だった愛知県と名古屋市とそうではなかった大阪府と大阪市の違いもあるのでしょうが、それが的確かどうかは別としてまだしも大阪維新の会は長期的なビジョンを打ち出しており、成長戦略の遂行と「ONE大阪構想」との関連はかならずしも自明ではないと思いますが、少なくとも政策立案そのものは練られているという印象をもちます。

 「大阪維新の会」のマニフェストの資料編は興味深く、ここでも「大阪都構想」は成長戦略を実現する手段として首尾一貫して位置付けられています。ほほおと思ったのは、大阪市が「最貧地帯」という一昔前のWBSが好んで描いていた大阪市の現状を率直に認めているあたりでしょうか。実現可能性は別として、大阪市・大阪府の持続的な経済成長を促し、成長の果実を再分配して貧困を克服するというのは、それができるかどうかを別にすれば、筋が通っていると思います。18頁のグラフと表を見ると、大変どすなあと思いましたが、年収200万以下の世帯が総世帯の約4分の1を占めるというのは、さすがに尋常ではありません。個人的には、この資料の出所が意外でして、こんなデータをどうやってとるのだろうかと思ったら、総務省の「平成20年住宅・土地統計調査」(参照)から作成とのことで、これは恥ずかしながら、知りませんでした。マニフェスト本体では横浜と比べて、貧困層が多く、富裕層が少ないということを強調しており、それ自体はそうなんだろうなと。他方、「平成20年住宅・土地統計調査」を見ると、意外な傾向もでてきます。「続き」はごく簡略に大阪市と横浜市の意外な共通点と相違を見てみます。


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2010年10月20日

2010年半ば時点でドルの代わりになる通貨はない(「『グランドデザイン』のない国際経済」現状編)

 『週刊ダイヤモンド』のインタビュー連載は「デフレ日本長期低迷の検証」ですから、日本国内の問題限定であることに異議を唱えた私は、ちと空気が読めないというより、日本語が不自由なようです。第5回は岩本康志氏で、この連載でもっとも共感するところが多かったです。「前回のデフレ」と「今回のデフレ」はやや図式的な印象もありますが、今回は日本の金融機関が不良債権問題をあまり抱えていないという相違は事実でしょう。他方、「今回のデフレ」で気になるのは、不良債権問題を抱えていないのにもかかわらず、金融仲介機能が低下していることでしょうか。やはり、世界経済の落ち込みと外需の急激な減少による実体経済への影響は、むしろ「今回のデフレ」の深刻さを示しているのかもしれません。

 このインタビューを読みながら、そうしてみると、今回の金融危機は、欧米の金融機関にとっては深い傷を負わせたのだろうと。一時期は、アメリカの金融機関の業績回復とボーナスの異常な高さが叩かれましたが、"foreclosure"の凍結などによる混乱は、金融市場の再構築が、私が当初、考えていたよりも、はるかに時間がかかることを実感させます。根幹にあるモーゲージの問題、それを原資産とする金融商品など、単純化をすれば、1990年代の地価のバブルと似ているとはいえ、複雑な金融システムを再構築するのは容易ではないとあらためて思います。

 そんなわけで、今後、国際経済、とりわけ国際的な通貨制度がどのように変容していくのかを予想するのは私の手に余ります。とりあえず現状を確かめようという安直な発想にもとづいて、簡単なデータを見てみました。まず、外国為替における各通貨の比率はBISの"Triennial Central Bank Survey of Foreign Exchange and Derivatives Market Activity in April 2010"(参考)から入手できます。PDFファイルの表3を見ると、ドルの比率は2001年の約45%から2010年には約42.5%に低下していますが、非常に緩やかなペースです。ユーロが2001年には約19%でしたが、2010年に約19.6%に増加した程度です。元もほとんど無視できる状態。カナダドルやオーストラリアドルが無視できない程度に比率を上昇させていますが、ドルを補完するというほどではありません。やはりドルを補完する通貨はユーロが第1候補ですが、ユーロ圏の脆弱性が解消されたわけではなく、ドルの補完役としても、荷が重いのが現状でしょう。わが日本円の地位低下は目を覆わんばかりです。そうはいっても、2010年には10%近くまで比率が上昇しています。円高といっても、つまるところドル安基調で安全資産の一つとして(日本人からするとピンとこないのですが)円が買われているのが実情なのでしょうが(諭吉様不足で苦しんでいる私にはいくらあってもありがたいのも否定はできませんが)。

 外貨準備を主要通貨別の構成を示したのが下の表です。

表 外貨準備の通貨別構成



      2006年第一四半期   2010年第二四半期

(世界全体)

総額        2,937,019      4,719,498

米ドル        66.5% 62.1%
ポンド 3.9% 4.2%
スイス・フラン 0.2% 0.1%
円 3.3% 3.3%
ユーロ 21.6% 26.5%
その他 1.5% 3.3%

(先進国)

総額 1,836,414 2,565,229

米ドル 69.1% 65.2%
ポンド 2.8% 2.5%
円 4.6% 4.1%
スイス・フラン 0.2% 0.2%
ユーロ 21.5% 24.9%
その他 1.6% 3.1%

(新興国)

総額 1,100,604 2,154,270

米ドル 62.2% 58.4%
ポンド 5.7% 6.2%
円 1.0% 2.3%
スイス・フラン 0.06% 0.04%
ユーロ 29.4% 28.3%
その他 1.4% 4.5%


(出所)IMF, "Currency Composition of Official Foreign Exchange Reserves"(参考).

 総額の単位は百万ドルです。2006年と比較をしておりますが、金融危機が囁かれるようになった2007年の直前を選んだというところです。驚くのは世界経済が拡張期にあった2006年の外貨準備が2兆9,370億19百万ドルであったのが、金融危機を挟んでも、4兆7,194億98100万ドルと大幅に伸びていることです。もっとも、増加率でみれば、2000年から2005年の期間には倍以上に増加してはいるのですが。とりわけ、新興国の外貨準備は1兆1,006億4100万ドルから2兆1,542億70百万ドルへ2倍近くにまでに拡大しました。ただし、2010年第1四半期の新興国の外貨準備は2兆1,667億56百万ドルにのぼっており、第2四半期で減少していることにも注意が必要なのででしょう。外国為替という、いわば国際的な決済手段としては米ドルの比率は4割を超えるぐらいですが、外貨準備のように貯蔵手段としては米ドルのみでも世界全体の6割を超えます。これにユーロを加えると、外貨準備の9割近くを米ドルとユーロが占めているのが現状です。米ドルの比率が4%程度、低下していますが、ユーロがその大半をカバーしています(2006年は合計で97%ですので誤差が利いている可能性が高いです)。世界全体でみた場合、現状では金融危機によってドルの地位が大きく後退したわけではありません。

 外貨準備の増加が著しい新興国では、金融危機の前から、米ドルの比率が先進国と比較してやや低いことにも留意が必要でしょう。現状では、先進国よりも米ドルとユーロの比率が低く、その他の伸びが、若干ではありますが、大きくなっています。国際経済の多極化とともに、ドルの地位が数十年かけて低下していく可能性も無視できません。短期的な金融ショックやドルの減価よりも、国際経済の多極化というはるかに長期的な現象が、現行の国際通貨制度を変容させていくのでしょう。ただし、中国など新興国の金融政策は原始的であり、とても現代の複雑な国際経済における決済手段や貯蔵手段として自国通貨を流通させるためにはあまりの多くの制度改革が必要でしょう。ブラジルの事情はまったくといってよいほどわからないのですが、中国やロシアは旧共産圏であり、インドも社会主義的な経済運営を行っていた時期がありました。中国やインドの経済規模が拡大しても、複雑な市場経済をマネージするにはあまりに歴史が浅く、経済の側面に限定すれば、欧米の地位にとって代わることは、百年単位ならばともかく、私が生きている間には起きないのかもしれません。


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2010年03月13日

中国の白鳥の歌:クルーグマンによるスワン・ダイヤグラムを用いた分析

 クルーグマン先生が3月11日付で"China’s Swan Song"というコラムを書きました。クルーグマン先生は、昨年から中国のドルペグに関する批判を連続して行っています。実は、クルーグマンのアメリカ国内に関するコラムはどうかなと思うことが少なくないのですが、今回の論点自体は興味深いと思います。以前、「寝言」にした"Chinese New Year"は保護主義的な主張ととられてもやむをえない部分が多々ありましたが、やはり鋭いなと思ったのは中国の為替レートが固定されており、資源配分に歪みを与えている可能性を読みとったからです。

 今回は、"Swan Diagram"を用いて、中国経済の大雑把な分析を行っています。やや中国に対して批判的なトーンが強いので、やや警戒して少し眉に唾をつけて読んではおりますが、理論的な可能性にすぎないとはいえ、問題の一面をついているのではないかと考えております。というのは、現代の国際マクロ経済学では固定為替相場制を前提とした分析はあまりないように思います(門外漢なので間違っているでしょう)。しかし、中国の場合、一時期は管理フロート制を採用したものの、実質的にはドルペグを採用しています。

 私自身、"Swan Diagram"という分析手法になじみがありません。ちょっと迂遠ですが、クルーグマンの"Latin America's Swan Song"という論考にスワン・ダイヤグラムの説明があります。スワン・ダイヤグラムは、クルーグマンによると、オーストラリアの経済学者Trevor Swanが、1955年に、国内均衡(完全雇用の実現)と国際均衡(経常収支赤字の抑制)の両立の困難さを示す分析手法として提示したとのことです。"China’s Swan Song"で用いられているグラフと横軸と縦軸が異なる値をとっていますが、まずは"Latin America's Swan Song"で用いられているグラフでこのダイアグラムをつかんでおきましょう。といっても、誰かに説明したくやっているわけではなくて、自分用のメモです。

 まず、スワン・ダイヤグラムで想定しているのは、次のような状況です。

  We imagine a country with a pegged exchange rate and high capital mobility, so that interest rates are determined by the need to avoid rapid depletion of reserves, and in effect monetary policy is removed as a tool of stabilization.

 為替レートが固定されていて資本移動が自由な国を想定しよう。このため、利子率は外貨準備の急激な減少を避けるように決まり、金融政策は事実上、安定化の手段として機能しない。


 ラテンアメリカの通貨危機と関連しているので、外貨準備との関係で利子率が決まると説明されています。中国の場合、これがそのまま当てはまるのかは、ちょっと微妙な感じもします。

  What Swan pointed out was that the nature of the difficulties facing a country depend on where in this space it resides. To see this, we draw two curves. One curve represents conditions under which the country has "internal balance"; as drawn, it is upward-sloping. The reason is that any rise in the country’s relative costs would tend to reduce exports, increase imports, and thus reduce employment; to compensate, to keep employment constant, the country would need to have a fiscal stimulus – a larger budget deficit. At any point to the right or below this internal balance curve, the economy will suffer from too much demand for its goods, and will experience inflationary pressures. At any point above or to the left, it will suffer from unemployment.

  The other curve shows conditions under which the country has "external balance". It slopes downward, because an increase in spending would other things equal increase the current account deficit; to offset this the relative cost of production in this country would have to fall. At any point below or to the left of the external balance curve, the country will have a current account surplus (or at least a deficit below what is really appropriate), at any point above or to the right an unacceptably high current account deficit.

 スワンが指摘したことは、国が直面する困難の本質は、その国の空間に帰するということであった。このことを確認するために2本の曲線を描こう。曲線の一つは、国が国内均衡が実現している状態を表す。この曲線は右上がりで描かれている。これは、国の相対的な費用のいかなる上昇も、輸出を抑制して輸入を増加させる結果、雇用を抑制する傾向があるからだ。 これを相殺するためには、すなわち雇用を一定に保つためには、国は財政面からの景気刺激を必要とするだろう。すなわち、より大きい財政赤字が生じる。国内均衡曲線の右方、もしくは下方は、財への需要が方であることから経済が苦境にあり、インフレ圧力にさらされる状態を示す。

 もうひとつの曲線は、国際均衡が実現していることを表す。この曲線は右下がりだ。なぜなら、他の財に支出することは経常収支赤字を増加させることと同一だからだ。これを相殺するには、生産の相対的な費用が低下しなければならないだろう。国際均衡曲線の下方、もしくは左方は、その国に経常収支余剰が生じている(あるいは少なくとも経常収支赤字が適切な水準を下回っている)。上方、あるいは右方では受容しがたい経常収支赤字が生じている。


 この論考が書かれた時期は明記されていませんが、1998年から1999年でしょう。論考の内容から、まだ、アルゼンチンが債務不履行を宣言する前の時期だと推測します。クルーグマンは、アルゼンチンと同じく、当時のブラジルが、インフレ率こそ低いものの、相対的に高い生産費用によって失業に苦しんでおり、同時に対外債務に不安を抱えていると指摘しています。その上で、政策的には通貨切下げを主張しています。

 それでは中国の場合はどうか。先ほどの論考では横軸は財政赤字の値を表していましたが、こちらでは実質国内需要になっています。若干、微妙な感じもしますが、中国の場合、財政赤字が問題になっていないことや、先の論考では財政支出がメインでしたが国内需要とみなしてもよいのでしょう。このあたりは、スワン・ダイアグラムをより詳しく説明した論文を読む必要がありますが。縦軸に関しては、やや政治的なバイアスも感じます。そうはいっても、さきほどと同じく、実効為替レートが高ければ相対費用が高いとみなすことができろのでしょう。上記のことを踏まえた上で、クルーグマンの中国経済に関する描写を読んでみます。

  There are four “zones of economic unhappiness”; getting out of them requires some combination of exchange rate adjustment and changes in domestic demand.

  So where’s China? It’s clearly in the lower zone: a trade surplus at levels that is raising international tension, plus inflation. It’s actually not clear which way domestic demand should do — but renminbi appreciation is clearly indicated, for China’s own sake, not just to head off the outraged reactions of the rest of the world.

  There are obviously political considerations keeping the Chinese from doing the right thing. But with a little encouragement — say, a Treasury report saying that yes, they do manipulate their currency — things might happen.

 「経済的な不幸の領域」が4つある。そこから脱出するには、為替レートの調整と国内需要の変化を組み合わせる必要がある。

 中国はどの領域に位置するだろうか?明らかに下方の領域である。すなわち貿易黒字は国際的な緊張を惹起しており、インフレーションが生じている。国内需要をどのようにすべきかは明らかではない。しかし、人民元の切上げは、他国の憤慨している反応を避けるためだけではなく、中国自身の利益にかなっていることを示している。

 中国がまっとうなことをしないのは、明白に政治的配慮がある。しかし、しかし、わずかな関与でも、例えば、財務省のレポートが為替を操作していると述べれば、まっとうなことが起きるのかもしれない。


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2010年02月14日

経済的自由主義の終焉?

 あれこれ「寝言」なりにまとめようとしましたが、自分の力量を超えることに気がつくばかりです。結論は、向こう10年間ぐらい経済的自由主義は後退するかもしれないが、それに代わる秩序というのはないだろうということにつきます。この見通しが外れた場合、あくまで外交や軍事を捨象した話ですが、先進国・新興国・途上国を問わず、アナーキーが広がってゆく危険があると思います。そうはならないことを願っておりますが。

 国内の時事的な問題とは切り離したかったので、漸く本題ですね。実を申せば、このブログ、「『寝言』じゃないまじめな方たち」と称するリンク集がありますが、許可を頂かずに、勝手にリンクしております。『寝言@時の最果て』などという変なところでリンクされては迷惑ではないかと恐る恐る下の方にしております(リンクを外した方がよいという場合はメールもしくはコメント欄にてお知らせ下さい)。さらに、畏れ多いことに、最近はグーグルのリーダーで読めてしまうので、ごく一部のサイトを除いて、リーダーで読んでアクセスという形がほとんどで、私自身が利用していないという問題が。

 ギリシャの問題をとりあげた直接のきっかけは、ニューヨーク・タイムズがしつこいぐらいこの問題で速報を送ってきたからでした。読んでいくうちに隔靴掻痒の感もあり、調べてメモしたという程度です。もっとも、書いてから思い出しましたし、リーダーで新しい記事を拝読して、厭債害債さんの説明でなるほどと。「ギリシャ問題」(参照)を読み返すと、あんなに木曜の晩に慌てることもなかったなと(休日はなんとギリシャ問題を英語で追っていたら、一日が終わってしまいました)。下手に素人が四苦八苦して英語を追っかけるよりも、簡潔に事実関係が整理され、分析が加えられているので脱帽です。

 ドキッとしたのは(ちょっとだけ胸がときめいたのを正直に告白しておきます)、「ギリシャ問題再説」(参照)でして、やはりプロの説明というのはさすがだなあと拝読しながらうなりましたが、最後の部分で、考え込んでしまいました。率直なところ、厭債害債さんがこちらを読んでいる確率はほぼ無視してよいので、この問題を考えながら、「寝言」にしてゆくうちに力量不足でうまく表現できない部分が書かれていたので、ドキッとしました。

 システム的安定という観点からはギリシャの人々が(70%は受け入れているようですが)おとなしく厳しい制約に服してもらう必要があるわけですが、そこはそれ、にんげんだもの’byみつお、ですから、理解も納得もできない人が国民を扇動してしまって混迷を深めるというリスクは残っています。これでギリシャに甘い顔でもしたら今度はアイルランドの人が黙っていないでしょうしね。この問題に限らず、最近のすべてのテーマに共通するのは「政治、規制、行動」にかかわるリスクです。合理的経済人というのは、もともと怪しい概念であったとはいえ、これまでは多少は前提にしてもよかったのですが、今ではもはやどこにもいないというベースで考えないといけない時代なのかもしれません。結果としてワタクシの結論はボラティリティーの上昇。人のことはわからんし、ましてやそいつが何をするかまったくわからん、ってことがみんなわかり始めるってことではないかと思います。


 軽いタッチで書かれていますが、けっこう重たい問題だなと思いました。「時の最果て」らしく、ギリシャ問題を離れて「寝言」にしてしまうと、「『政治、規制、行動』にかかわるリスク」というのは、ギリシャ問題だけではなく、オバマ政権の金融規制でも直面している問題です。金融規制に関する実際的な問題としては、naked capitalismの"Volcker Rule Gives Goldman Easy Choice"という記事が興味深いです。ただ、ここで話を戻しますが、「合理的経済人というのは、もともと怪しい概念であったとはいえ、これまでは多少は前提にしてもよかったのですが、今ではもはやどこにもいないというベースで考えないといけない時代なのかもしれません」という問いは、18世紀以降の経済的自由主義の根源に関わる問題だと思いました。この経済的自由主義の後継者たちは不確実性下の合理的意思決定の問題に取り組んでいて、けっして少なくない成果を挙げていると思います。わたくし自身の感覚では、「合理的経済人」という虚構を捨ててしまうのは惜しいなあと。他方で、説明が難しい問題に直面していることも否定できません。

 ここで当初の問いから、かけ離れてしまうのですが、塩野七生さんの『ローマ人の物語XV ローマ世界の終焉』の次の件がつい思い浮かびます。最初に読んだときから、古代ローマのみならず、現代的な問題だという感覚を拭うことができないのですが。塩野さんの信頼すべき点は、女性に頑固というのは失礼かもしれませんが、ローマの衰退期でさえも、頑固なまでに原因の分析よりも「症状」の観察に徹している点でしょうか。案外、こちらの方が歴史に学ぶということに通じるのではと感じることもありますね。

 「共同体」(res publica)と「個人」(privatus)の利害が一致しなくなることも、末期症状の一つであろうかと思ったりしている。そして、公共心も、個人が、自分の利害と自分が属す共同体の利害は連動する、と思えた場合に発揮されるものではないか、と(72頁)。


 厭債害債さんの「合理的経済人」からかけ離れた問題のようですが、やはりどこかで私にはつながっている問題であろうと。やや、迂遠できどった表現を用いれば誘因両立性でしょう。もっと素朴に表現すれば、近代の市場経済に関する学は、基本的に個人の利益の追求が社会全体の福祉を増進するという立場が大前提になっているでしょう。学があって市場が存在するわけではなく、市場の観察からそのような立場が生まれてきたわけですが、学による正当化が、経済的自由主義の立場を強くしたことも無視はできないのでしょう。19世紀末から、さらにその前提が深められ、個人が目的をもち、その目的に合致した適切な手段を選択する(基本は需要でも供給でも同じ)ということになります。あくまで結果にすぎませんが、私利私益の追求が社会全体の幸福につながるということが個人合理性と密接に絡んでいます。

 もちろん、ことはそれほど単純ではなく、市場が欠落しているがゆえに市場機構では解決できない問題がむしろ経済的自由主義の立場から分析されてきました。古典的には不完全競争の問題ですが、今日ではゲーム理論によって経済主体間の相互作用として描写することが可能になっています。やや、話がそれるので端折りますが、今日、経済が直面している問題は、果たして合理的な意思決定を前提にして描写可能な問題なのか(解決可能かという問題以前にこちらができなければ話にならないので)ということが難しい問題です。この問題は、個人の幸福の追求が社会の福祉につながるという近代以降の経済的自由主義に、より本質的な懐疑を投げかける可能性をもっていると思います。

 個人合理性に限定すれば、人間というのはまったく非合理的でわけがわからない存在だとすれば、考えるだけムダですから、さすがの「寝言」お手上げで、以上。悩ましい点は、限定合理性という表現は微妙なので避けますが、中途半端に人間が合理的だとすると、非常に厄介です。今回は本質的な問題としては取り上げませんが、"altruism"が入ってくるだけで非常に問題が複雑になります。私自身は、欲と打算で動く人間の方がはるかに信頼できるといういびつな人間観をもっていますが、完全に利己的な個人というのも実は疑わしいとも感じております。

 それはさておき、どのような理由にせよ、中途半端に合理的で利己的な個人がより現実的な人間像だとすると、かなり悩ましい問題です。端的にいえば、ことが起きてからでなければ何もわからないという計算不可能、あるいは予測不可能な事態をもたらすからです。金融危機で経験しているのがそのような世界ではないかと言われると、否定はできないのですが、ちょっと微妙な部分も感じます。ヘッジファンドが欲得づくで行動しているとみなしてもよいと思いますが、金融危機後、利益を上げているところは少なくありません。一方で計算不可能な世界があり、他方で計算可能な世界が同時にあるというのは、単なる個人的な感覚ですが、非常に気もち悪いです。まあ、それもプラトン主義だからさと言われれば、あえて反論はしませんが、パラレルワールドを行き来しているような感覚におそわれます。

 どんどんと話を「寝言」らしく散漫にしましょう。塩野さんが、「そして、公共心も、個人が、自分の利害と自分が属す共同体の利害は連動する、と思えた場合に発揮されるものではないか」という表現は非常に根本的な問題をおそらく直観的につかんでいるのではと感じさせます。ある社会、ちょっと無神経ですが、あるいは共同体のステイトメントとして、「個人が、自分の利害と自分が属す共同体の利害は連動する」と描写するのではなく、公共心が発揮される条件として、「個人が、自分の利害と自分が属す共同体の利害は連動する、と思えた場合」となっていることです。ただし、先の引用の本質的な問題は公共心であり、これ自体があまりに大きい問題ですので、今回は端折ります。

 何気ない表現のように見えますが、この両者は大いに異なってきます。基本的に合理的意思決定に関する学は、主としてステイトメントの問題として扱うのですが、実はその前提になるのは、個人がステイトメントを合理的に把握しているということになります。「思える」という表現は曖昧ですが、より深い部分に関わってきます。このあたりをコモンナレッジの問題として扱う方が形式的ではありますが、まだわかりやすくはなります。しかし、現実にはヒストリカルな時間の下で「思える」という前提を考えると、あえて曖昧な表現を用いますが、ある特定の意図のもとに設計された制度ではなく、まず過去、それでうまく世の中がまわったという実感とともに一見、ある意思決定に関係のない制度がからんできそうです。これらを分析的に叙述することは不可能ではないのでしょうが、おそらく全体を描くことは非常に難しいだろうと考えます。

 ちょっと話が広がりすぎますが、1月15日に「クルーグマンは保護主義を正当化しているのか?」という「寝言」を書きました。クルーグマンの"Chinese New Year"そのものは保護主義的な主張としてとられてもやむを得ない叙述だと思いますが、自由貿易を否定しているというわけでもない微妙な論考です。また、自由貿易といっても、自然とそうなるわけではなく、リカードの比較生産費説自体が現実の通商政策と相互作用しながら発展してきたことを考えると、単に政府介入が少ないという意味での素朴な自由主義では説明がつかないでしょう。クルーグマンの論考は政治色が強いので深読みでしょうが、上記のことに加えて、今日では私益の追求が公共の利益と結び付くことへの根本的な懐疑が生じていることが背景にあるのではと感じます。貿易はリスクや不確実性以上に公的なアクターの振る舞いに影響されるので、やや特殊な側面が強いのですが。やや表面的な観察にすぎませんが、リスクや不確実性などを考慮しなくても、時代が時代だということもあるのでしょうが、私益と公共の利益の関係は、私が以前、考えていたほど自明ではないのでしょう。

 うまく、ギリシャ問題と古代ローマを結び付けることができないのですが、どうも今回の金融危機後の経済の不安定さと停滞、政治的対応は、ひょっとすると、経済的自由主義へのより長期的な懐疑に結びつくのではないかと感じました。今日では18世紀から19世紀の素朴な自由主義はかなりの修正を受けていますが、根本の部分への懐疑は、1929年の世界恐慌でさえも、その後の冷戦をへて克服されました。これは主として、旧西側諸国、あるいは先進諸国になるのでしょうが、現段階はどこぞの島国では政権交代で忘れていると思うのですが、政権交代は現実には政治的混迷の延長戦にすぎないであろうと。「そして、公共心も、個人が、自分の利害と自分が属す共同体の利害は連動する、と思えた場合に発揮されるものではないか」という塩野さんの観察の対象は、古代ローマがパクスを保障することができなくなった政治的混迷の産物でした。政治的な営みですら、人々に個人の利害と共同体の利害が連動するという確信を与える役割という点では、実際には限界があるのでしょう。この「寝言」に限りませんが、「時の最果て」ではなにか結論めいたことを出すことが目的ではありません。ただ、私たちは、個人の利益と公共の利益の関係に関してまだわずかなことしか理解していないのかもしれないという感覚をもちます。


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2010年01月19日

中国政府はインターネットに関する「戦争」で敗れつつある

 日曜日に服部正也『ルワンダ中央銀行総裁日記(増補版)』(中公新書 2009年)を読み始めました。土日は疲労が厳しくて眠気と脳の働きの低下(元々、低水準ではありますが)に耐えながら、読んでおりましたが、服部氏とルワンダ大統領の会談でスイッチが入って、最初から読み返しました。確か、本石町さんドラめもんさんのところでこの本を知ったのですが、中央銀行の役割から当時の固定為替相場制の問題点などを考えさせられます。まだ、読み切っていないので、落ち着いたところでじっくり読みたいです。日本銀行の職員の身分は公務員ではないのでしょうが、広い意味での公僕(public servant)として、尊敬しながら拝読しておりました。また、途上国の問題を論じるときに、過剰な善意が押し付けがましく、鬱陶しいのですが、そのような善意が適度な水準で日本人も捨てたものではないなあと明るい気分になります。報道を見ると、ただただ徒労感と閉塞感におそわれますので。

 増補された「ルワンダ動乱は正しく伝えられているか」も欧米、とくに米紙の偏向を厳しく指摘する一方で、日本の対応にも驚くほど的確な指摘をされていました。まだ、読み切っていないのに感想を書くのは、憚りがありますが、ルワンダ中央銀行内部における派閥の問題への対処に関する服部氏の描写を見ても、なにか原理原則からかくあるべしとするのではなく、実に細やかに現実を観察し、常識的な判断を下されることに脱帽します。バランス感覚が乏しい私には服部氏の実際的な思考と行動は実に頼もしく感じます。

 前振りが長くなりましたが、どうも私は観念的になりがちで、今回、とりあげるWall Street JournalのLoretta Chao and Jason Dean, "China Is Losing a War Over Internet"(2009年12月31日)の記事も、中国における"Great Firewall"をめぐる攻防を描いた実際的な話ですが、「寝言」に堕してしまう言い訳です。もう一つは、購読者のみが閲覧できる記事ですので、記事の内容をそのまま紹介できないという問題もあるのですが。以下も、観念的な話ですが、考えさせられることが多いので、別途、追記を行う予定です。なお、この記事は、日曜日から月曜日にかけて、WSJのアジア版では最も読まれている記事でした。グーグルをはじめとするICT関連企業と中国政府の攻防の背景を知りたいと思ったのですが、もはや単なる経済・経営の問題ではないなあと実感します。

 第1に、記事の後半部分で詳細に描かれていますが、中国政府の検閲とそれを逃れようとする市民がいたちごっこになっており、ネットの開放性を遮断しようとする共産党の検閲が敗れたわけではないが、敗れつつあるという趣旨です。やはり日本人の感覚では理解できないのですが、インターネット・サービスが本格化する1996年の段階から中国政府がインターネット利用を登録制にしようとしていたことはは驚きです。グラフが曖昧ですので、2005年の上半期でよいのかは疑問ですが、中国国内におけるインターネット利用者が1億人を超える10年近く前から、監督下に置こうとしていたのは、変な表現ですが、共産党の先見性を示しているのでしょう。インターネットは海外の情報へのアクセスの機会を広げると同時に、国内における言論統制を崩す危険を敏感に察知していたというわけです。

 第2に、"fan qiang"という言葉が共産党に反抗的なネット利用者で用いられているそうです。英語では"scall the wall"の意味とのことで、「壁を崩せ!」という感じでしょうか。繰り返しになりますが、中国のネット利用者の大半は中国政府の誘導もあって、他の国と同じく、ゲームや音楽を楽しんだり、「セレブ」のゴシップやスポーツに関する記事を読んだりと民主化とは無縁という表現はやや極端かもしれませんが、民主化を求める動きが燎原のように広がるという状況ではないようです。ちょっと、話が飛躍しますが、「先富論」の負の部分は中国の経済的な格差問題の文脈で捉えられることが多いと思いますが、生活水準の向上とともにコミュニケーションの手段が増えてくると、ただちに民主化までゆかなくても、市民的政治的自由を求める傾向は急激にではないのでしょうが、今後も広がってゆくのでしょう。

 第3に、中国の公安当局が警戒しているサイトが、08憲章に代表される反政府的な運動だけではないということを、興味深く感じました。記事の前半ででてくる官憲の横暴や後半で紹介されているメラミン汚染でこどもが苦しんでいることを告発するサイトなどは中国政府が真実を隠す以外に統治能力を維持することが困難になっていることを実感します。2009年の"Green Dam"はネーミングからして「寝言」、あるいは悪い冗談も顔負けですが、3億人を超えるネットユーザーをコントロールしようという発想が出てくること自体が、民主化以前に共産党の内政における統治能力を維持することが困難になっていることを示唆していると感じました。

 最後に、Chao and Deanは、記事の中間部で検閲は敗れつつあるが、敗れたわけではないと指摘した上で、検閲が失敗しつつあることがただちに共産党の権力を脅かすかどうかは不透明だと主張しています。むしろ、部分的にせよ、ネットを開放することはガス抜きになる結果、共産党の権力保持にプラスにはたらくかもしれないと指摘しています。おそらく、現実的な見方でしょう。ただし、最近のグーグル事件は、市民的政治的自由を強権的に抑圧する傾向の方が強いことを示していると思います。また、2009年7月の新疆ウィグル地区ではウィグル人がHIVを漢民族に感染させようとしているというデマが流れた事例が紹介されています。当局は、地区内でのインターネットを完全に遮断した後に、公的なメディアへのアクセスを認めるという形で検閲を強化しました。この事例は、中国の同化政策が、漢民族の異民族の強圧と隷属への反発にたいする恐怖という点で、完成していないという側面を示すとともに、いとも簡単にデマが流れてしまうという中国社会の成熟度を示しているのでしょう。共産党の一党独裁は、混乱期に入る可能性を秘めながら、同時に、ただちに瓦解するほどの脆弱性を示すにはいたっておらず、市民社会というほどの共通の価値観がないまま、コミュニティとの摩擦を起こしながら、場合によっては徐々に衰える可能性もあるのでしょう。他方、少なくとも一時的には強権的に権力を維持する余地はまだあるのかもしれません。

 私には中国政府、あるいは共産党の行動は理解しがたい面もあります。インターネットの検閲自体は、国内に限定すれば、反発がありながらも、共産党支配を崩すほどのインパクトがあるのかは疑問です。「先富論」で登場した富裕層は共産党支配に組み込まれている、あるいは今後組み込まれてゆく可能性もあるからです。他方、民族問題や経済成長にともなう環境汚染や種々の食品汚染などを考慮すると、一党独裁を肯定する意図はありませんが、統治のコストが上昇していることをWSJの記事は示唆していると思います。インターネットの検閲や中国国外企業の反発は、中国政治にどれほどのインパクトがあるのかはわかりません。中国異質論には問題もありますが、真実を隠そうとすればするほど知りたくなるという、私自身は人間の、一見、どうでもよい欲求が意外と本源的ではないにしても、根強いものだと考えております。中国人はこの欲求をどのように発露するのかは私にはわかりません。ただ、米中関係が安全保障というハードパワーの側面だけではなく、通商や通貨、文化などソフトパワーの側面に広がったときに、単純に民主化という方向性へと進むとは考えておりません。まだ、「寝言」を整理できていないので(整理された「寝言」がありましたかねというツッコミはご容赦)、気が向いたら、追記します。

2009年12月31日

不思議な世の中への素朴な疑問

 クリスマスは縁がないまま、仕事をしていたら終わっていました。いよいよ年末ですので、年賀状を書いて、CPUを取り替えたら、年末にしては気合が入って、ふだん整理しない書類を整理したら、大変でした。ほとんどがシュレッダーにかけざるをえないのですが、これがない。そんなわけで、平気で2007年のドコモの請求書が残っていたりします。しょうがないので、アマゾンでコクヨのKPS-X80LS(アシュラテ)が安かったので、注文をかけました。大晦日にシュレッダーを使うのは無粋ですが、それどころじゃないというところでしょうか。

 書類の整理をしながら(なくなると困る書類が多いので迂闊に触れないのですが)、『日経CNBC』を見ていたら、経済討論番組でしたが、みなさん世代間扶助には怒り心頭で、メンバーを見ながら、意外な感じがしましたが(伊藤元重先生が入っていて過激な議論というのは、ふだんはバランス感覚がよすぎて退屈なぐらい(失礼!)なのに)、もう年寄りだけ別枠にして勝手に世代内で所得再分配しろというあたりで落ち着くのが麗しい光景でした。まあ、高齢者が見ていそうな地上波では本音に近い議論は無理だろうなと。私がこの問題に辛くなったのは、『文語の苑』からしきりに会員になる勧誘が来ていたのに、金壱萬円を今年の正月に入金したら、音沙汰なしでして、ああ、高齢者というのは現役世代からボッタくるのがデフォなんだなと実感したという私怨でしかないのですが。この手の話をしだすと、「寝言@時の最果て」がネット上から消えてしまいそうですが、個人的には日本の平均寿命が上昇するたびに、嫌な世の中になったものだなあと。なぜか年金は物価上昇にはスライドしますが、デフレのときには下がらない。「年金の下方硬直性」という表現はないのでしょうが、現役世代の賃金は伸縮的なのに、働かない世代の収入が硬直的だというのは不思議なものです。

 まあ、そんな話程度なら不思議というほどでもありませんが、経済から政治までわからないことが多いなあと。以下、思いつくままです。

(1)長期債務残高の累増、金融緩和にもかかわらず、デフレが生じる。

 白川方明日本銀行総裁が出演されていたWBCを見ましたが、全体として当たり障りのないやりとりでやや不満が残りました。ただ、番組の最初の方で白川総裁が説明されていたフリップは、基本的ですが、欧米諸国と比較して1980年代から日本の物価上昇率が低いことが一目瞭然で、なるほど。民主党の経済政策への批判として成長戦略がないというタイプが多いのですが、現実問題として、1980年代から欧米と比較して物価上昇率が低い状態が持続して、なおかつ1980年代には先進諸国の中でも相対的に高い成長率を記録したわけですから、やはり外需依存の経済ということにつきるのだろうと。気どった表現をすれば、GDPギャップを埋めてきたのは内需ではなくて外需であろうと。海外の所得に依存しているわけですから、成長戦略であろうが、内需拡大であろうが、あまり効果が見込めないと思います。

 しっかし、無利子国債とか政府紙幣の話が大真面目にでてくると、本当に長期金利が上昇するのは意外と近いのかもしれません。近いといっても2−3年後、すなわち民主党政権が財政を滅茶苦茶にした後だろうと考えておりますが、それよりも速いのかも。公的信用が機能しなくなるとお手上げでして、あまり考えない方が精神衛生にはよさそうです。

(2)アフガニスタン増派とテロ未遂

 年末に飛び込んできた嫌なニュースです。オバマ米大統領ののアフガニスタン増派は延び延びになってこれはまずいなあと思っていたら、出口を求める演説をしちゃったものだから、これは厄介だなあと。筋としては出口を考えるのが当然ではあるのですが。そこへテロ未遂。出口を残す余地を求めようとするほど、出口が狭くなる。対テロ戦争で「勝利」を口にしては政治的には拙劣なのですが、オバマは8月の演説で口にしてしまった。そのあたりから混乱が始まったと思いますが、個々の出来事は偶然であっても、不思議なことにアフガニスタンから米軍が離れにくくなってゆきます。あるいは、嫌気がして孤立主義が強まるのか。後者ですと、日本人は畳の上では死ねなくなるのかも。

(3)成長の限界

 「成長の限界」といえばローマクラブが公表した報告が有名ですが、再生不可能資源の枯渇以前に、先進国は成長の限界に直面するのかもしれません。漠然とした感覚ですが、経済に限定しても、規模に関する収穫逓増が未来永劫、続くはずがないというところでしょうか。要素投入を増やすだけではダメだから、生産性を上げるということになるのでしょうが、産業や職種によってバラツキはあるものの、 人間の能力開発にも限界があるのでしょう。技術進歩は無視できないのでしょうが、既に生産性が高い状態では追加的な技術進歩の効果も薄れてくるのかもしれません。このことは社会全体が割けるリソースが限定されてくることを意味するのでしょう。

(4)バターか大砲か

 冷戦期と比較して各国、とりわけアメリカの軍事費のGDPに占める割合がはるかに小さいという指摘があります。ただ、これは、成長率が鈍化してくれば、追加的に軍事に割ける資源が限られてくることを意味するのでしょう。これは非常に悩ましい事態です。最近は鳩山首相まで抑止力とか言いだしているようですが、大国間戦争が生じない大きな要因はやはり核抑止がベースにあり、冷戦後も大きな枠組みでは変化がないのでしょう。他方、通常戦力を用いた武力行使に限定しても、アメリカが自制しているから、まだイラク戦争でも一般市民の犠牲がまだしも少なくて済みました(映像で見ると、正視に堪えない悲惨さですが)。本気でアメリカを怒らせて世論の歯止めがかからなくなれば、通常兵器でも瓦礫の山だらけになるのでしょう。だから、十年ぐらいは大国間の戦争という事態は生じないと考えても差支えなかろうと。

 問題は、中国の経済よりも軍事的な台頭によって勢力均衡が破られる可能性がでてくることなのでしょう。インド包囲網はかなり危険な話でして、ディエゴ・ガルシアが文字通り、孤島になるリスクも生じてくるのでしょう。さらにアフリカへの浸透は単なる資源ナショナリズムでは説明がつかない部分もあります。インドを包囲した上でアフリカへ中国が軍事的に影響力をおよぼすようになれば、西太平洋・インド洋・大西洋が中国の影響を受けるようになるでしょう。あまりにナイーブですが、日本人は中国の海洋権力に関する戦略に鈍感な印象があります。

 最後の項目は私らしく非常に内向きなので、「追記」に回します。まあ、最近、ページビューが減って過疎化が著しいので、ちょっと寂しいということもありますが(訪問者数が1日あたり400を超えるぐらいでこちらは激減というほどでもないのですが、ページビューが少なくて1300−1400で推移)。あとは、長いと揶揄されるのには慣れましたが、たまにリーダーではなく他の方のブログを覗くと、「時の最果て」のトップページの長さが異様に感じて、恥ずかしいということもあります。


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2009年12月22日

増税による財政再建は可能か?

 『日経』2009年12月21日朝刊5面に平田育夫論説委員の「日本国債いつ火を噴くか」というオピニオンが掲載されています。周囲で、財政危機の到来を予想されている方は、概ね、この論説の内容と似通っています。第1の前提は、現在は内国債で財政赤字をファイナンスしていますが、その原資は家計金融資産であるということです。

 この論説では、「個人の金融資産は、個人負債を除き1065兆円」とあります。日本銀行が公表している「資金循環統計」から四半期計数で「2009年7−9月期速報」(参照)を見ると、「金融資産・負債残高表」を見ると、家計の金融資産・負債差額が1,065兆4,628億円です。『日経』のオピニオンを疑っているわけではなく、最近、原データを見ないと、なかなか掴みにくいという感覚があります。ちなみに、個人の金融資産が1,400兆円という数字は、グロスの資産である1,439兆4,837億円を指しているのでしょう。資金循環表では、家計に関する貸出は、非金融部門貸出金94億円が資産の部にあるのを除けば、負債に計上されます。負債に計上されているのは、貸出311兆9,964億円、企業間・貿易信用50兆7,742億円、未収・未払金3兆8,929億円、金融派生商品3,720億円であり、これに金融資産・負債差額を加えて資産と一致します。長期債務の持続可能性を考える場合に、グロスの数字がよいのか、ネットの数字がよいのかは判断がつきかねますが、ここでは制約をタイトに考えるというバイアスをかけて『日経』のオピニオンのネットの数字がよいとしましょう。

 次に国と地方の長期債務残高です。『日経』では825兆円とあります。こちらは、財務省の「財政関係諸資料(2009年8月)」(参照)の中で12月に更新された「国及び地方の長期債務残高」のうち、12月に更新された「平成21年度末2次補正後」の825兆円程度という数値でしょう(リンクはPDFファイルが開きます(参照))。これが鳩山政権後成立後の数値とみなしてよいのかは私にはわからないことをお断りします(おそらく麻生政権下での補正後の数値であると見ております)。なお、財務省が2009年11月10日に公表した「国債及び借入金並びに政府保証債務現在高」(2009年9月末現在)では2009年9月末の「国債及び借入金現在高」は864兆5,226億円です。この数字は国のみであり、なおかつ政府短期証券を含みますので、長期債務残高がよいのでしょう。

 煩雑で恐縮ですが、データは粗雑ではありますが、なんとか揃いました。「日本国債はいつ火を噴くか」では、まず、第1の前提である、国と地方をあわせた政府の長期債務残高の原資は家計の金融資産であることを前提にした上で、第2に、内国債ではファイナンスが困難な状態になるのが迫っていることが前提です。この前提も留保はありますが、認めておきましょう。第3に、選択肢として、家計の金融資産による資金調達が飽和したときに、(1)外国人投資家からの調達、(2)日本銀行による購入の増加を挙げています。前者は投機の対象になるという指摘がありますが、海外の投資家から見れば、現状では公債の金利が異常に低く、したがって債券価格は高いわけですから、海外の投資家はそもそも投機の対象としてJGBを扱っても、投資対象としてはみないのでしょう。おそらく投機の影響自体はそれほどではないと思います。もっとも、追加的な国債増発による投機が債券価格の形成に無視できない影響を与えることも考慮した方がよいのかもしれません。このオピニオンでは投機対象としてJGBが扱われると不安定になるということで日銀による国債買い入れの拡大の検討に移っていますが、インフレと金利高騰を招くとしています。

 タイトルがやや扇情的な印象を与えるので、好ましくないのですが、結局、財政再建と経済成長の両立を目指すべしというあたりがこの論説の落としどころです。結論自体は、考慮に値するとは思います。問題は、これだけ成長戦略が必要だといわれながら、長期の経済成長を政府が促す具体的な政策が見当たらないことです。GDP成長率を1%上昇させるためには、雑に表現しても、毎年、5兆円の付加価値を生み出すことが不可欠です。財政再建と経済成長の両立は実現すればベストですが、具体策がまったく見えない印象があります。

 「日本国債はいつ火を噴くか」では日銀による国債購入の拡大によるインフレーションの進行、長期金利の上昇を「惨劇の幕が上がる」と描写していますが、私自身はそれほど悲観することもなかろうと。真の財政再建のはじまりは、この予想が正しいかどうかは疑問がありますが、この地点なのかもしれません。ここまで追い詰められないと財政再建は無理なのではと感じております。

 一般会計予算における最大の費目である社会保障費の抜本的な削減は、財政破綻を実感する状態になっても難しいのかもしれません。しかし、財政再建のために消費税率の引上げを主張する方から、セットで年金・医療を中心とする社会保障関係費の抜本的な削減を求めることは寡聞にして知りません。また、防衛関係費の増額を求める方から自らの恩給や年金を返上してでもという主張すらありません。財政破綻という表現は人々を不安に陥れるでしょうが、財政の非効率の根源である、受益と負担の世代内・世代間の不均衡をもたらす社会保障関係費を徹底的に削減するためには、他に手段がないのが実情でしょう。海外でも日本の財政を問題にする論調の主流は、単に日本を嘲笑しようというのではなく、非効率の根源である社会保障関係費にメスをいれることができない日本政治の機能麻痺を重視しているのが現状です。財政破綻による日本の国際的な影響力はゼロになるでしょうが、他国の経済危機に連鎖しないのなら、単に現状維持で終わる程度でしょう。

 既に長くなったので、今回の「寝言」のテーマである「増税による財政再建は可能か?」という問題は「続き」に記しました。前ふりが長すぎて申し訳ないです。


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2009年12月04日

政治とビジネスの間

 バーナンキFRB議長が11月29日付でワシントンポストに掲載された"The right reform for the Fed"をめぐる周辺がなにやら臭うので、片手間で追っていましたが、議会は議会で共和党がまとまれない様子。お皿を洗い終えたら、次々と「これを洗ってね」とお皿がどんどんと重なる状況では「寝言」も浮かびません。オバマ大統領がアフガニスタン増派を決めましたが、なにしろ、米紙が無暗に報じてくれるので、目を通すのがやっとです。まあ、急いで評価する必要もないだろうと。なんとなく、オバマはやっぱりインテリだなと思いましたが。

 「日銀はバカだ」論には与しませんが、「政府との対話」を始めたら、「市場との対話」を忘れたというのにはふきました。まあ、日銀も所詮は公的機関でありまして、デリカシーのなさという点では現政権にはさすがにおよばないのでしょうが、やはり同じ穴の狢かなと思う部分もあります。正直なところ、経済に関しては政府が関与する度合が少ないほどうまくいっている証左と感じますので。エコカー減税、エコポイントそのものには反対というほどではありませんが、これが長引いて依存してしまうと、海外市場で製造業企業が競争してゆけるのだろうかと余計なお世話でしょうが、懸念もあります。

 それはさておき、公取のHPで競争政策のディスカッション・ペーパーを読んでいたら、「小宮隆太郎教授へのインタビュー」がおもしろかったです(参照)。歴史的な視野ではやはり中村隆英先生の方が興味深く、1930年代の重化学工業化の時期にむしろ1920代に古典的経済、あるいは自由経済に近い状態があったという指摘の方がより深みがあると思いますが、小宮先生は戦前は統制一色で割り切ってしまっていて、このあたりが歴史家と理論家の違いなのかなと思ったりします(時期の区切りによりますが、1930年代以降を考えれば割り切りすぎというのは的外れな指摘だと自分では思いました)

 ただ、やはり大正末・昭和初期生まれの方の時代の感覚は共通する部分もあって興味深いです。戦前は自由主義者と呼べるが少なく、「寥寥たるもの」と形容されていますが、この時期は英米でも自由主義が後退してリベラルの意味が変化しつつあった時期ですから、学者や言論人の風潮からばかり評価するのはちょっとどうかなと。それよりも、実業界の方がはるかに現実社会で果たしている役割は大きいわけですから、下記の指摘の方が時代をよく捉えていると思います。

(小宮教授)でも,そうなるとどうしても《マーケット》を入れないと意味を成さなくなりますね。日本語を直訳して《フリー・エコノミー》としたら大変なことになる。それでも日本では,《自由経済》という言葉が比較的頻繁に使われていました。
 この言葉が意味する自由経済の思想が多少ともあったのは,東洋紡とか日清紡といった関西の紡績会社でした。これらの企業の人々が自由経済思想を持ちえた背景には,東京から離れていたという事実と,輸出で繁栄していたという事実が挙げられると思います。これらの企業では,世界各地の原綿を輸入して,それを製品へと加工していました。日本において綿業が世界でも有数なものとなったのは,紡ぐ前のまだ綿の段階の混棉技術に優れていたからです。その技術を背景に,この2社をはじめ綿紡績の会社は世界中を相手に原料を購入して,製品を販売していたのです(10頁)。


 このあたりの描写はさすがだなあと思います。思想嫌いの私には紡績会社の「思想」には興味がわきませんが、単純に、国、あるいは中央政府がなにかをしてくれるのを待つよりも、関西の紡績会社が自らビジネスを展開していたのが実情だということが伝わってきます。あらためて中村隆英『昭和経済史』151頁のグラフを見ると、繊維生産が1939年から急激に落ち込んでいるのを見ますと、あためて小宮先生の紡績会社の評価はなるほどと思います。「東京から離れていた」がゆえに関西の紡績会社は当時の統制一色の経済から比較的、自由ではありましたが、対中戦争の開始とともに強烈な打撃を受けたのでした。軍部の政治ほど無能だったのはおそらく日本史でもごく稀ではないのかと思います。他方、戦後もこの関西の伝統(?)が受け継がれたのか、八幡製鉄と富士製鉄の合併に関する問題でもでてきます。

 住友金属が設備投資調整に強硬に反対していた理由としてもうひとつ考えられる点は,東京と比較して関西の方が競争的なスピリットが多少とも強いことが挙げられると思います。既に触れましたように,関西の東洋紡とか日清紡の経営者には,世界中から自由競争で原棉を買ってきて,製品も世界中に輸出して,お上の世話にはあまりならないという戦前の自由主義的な経済思想の気風が残っていました。日向さんも,そういう考え方から設備投資の調整に強く反対しておられたのだと思います。八幡,富士の両会社の企業体質は,戦後かなりの時期まで東洋紡や日清紡とは明らかに違っていました。まず両社の源は「官営八幡製鉄所」であり,鉄鋼は配給制だったからです。何をどれだけ作って,どこにどれだけ配給するという戦争中の統制経済が完全に払拭されたのは,1950 年に始まった朝鮮戦争後のことではないでしょうか(23頁)。


 官営八幡製鉄所まで遡りますと、東京と関西の相違というよりも、民業対官業の問題のような気もしてきます。私自身は関西人ではありませんが、経済史に興味をもったのは明治期の殖産興業、戦後の産業政策というものが本当に効果があったのだろうかと。露骨にいえば、民間が稼いだお金をぶんどって成り立つのが政府でありまして、それが民間部門の代わりに商売をやったり、あれこれ指図する能力があるとは思えなかったという素朴な感覚でしょうか。そんな頃に『日本の産業政策』は干天に慈雨でした。さすがに小宮先生は格調高く、このあたりの感覚を表現されているので、なるほどと思います。23頁の「自動車業界には,通産省にお百度を踏んで優遇を求めるというメンタリティが,他の業界と比較して少なかったように思われます。その当時の通産省と民間産業との関係は,個々の産業ごとにそれぞれ非常に違っていたのです」という指摘も興味深いです。このメンタリティが今次の景気対策で損なわれることを恐れているのですが。

 やや視野が狭いとはいえ、大野耐一氏は1978年初版の『トヨタ生産方式』で次のように述べています。

 ものごとを、決めたとおり、なにがなんでも動かしてしまおうという考え方は、たとえていえば、統制経済・計画経済のやることである。
 このようにすれば、すべてがもっとうまくいくはずであるという、統制経済の下では、人間の意を体した「かんばん」による生産の微調整などという芸当もできるはずはないと私は思う(91頁)。


 まだ冷戦の盛りの時期にこのような感覚をビジネスサイドがもっていたことはあらためて驚きます。逆にいえば、ビジネスサイドからすれば当然なのかもしれません。公正取引委員会や競争政策の話がおまけになってしまいましたが、ビジネスサイドに市場経済への信頼感がないところでは競争政策は機能しないでしょう。また、競争政策自体は事後的な措置ですから、それがあるというだけで企業が競争を阻害しようとする行為への抑止力になるのでしょう。他方、競争政策あるいは独占禁止政策も規制の一種である以上、現状では杞憂にすぎませんが、やりすぎれば統制経済や旧通産省の産業政策と変わらず、市場を混乱させるだけになる危険もあります。時間がかかるのでしょうが、既に多くの事業法が撤廃されたとはいえ、競争を制限する公的な規制を競争政策で代替してゆくのが望ましいのでしょう。

(追記)事実認識に誤りがありましたので、訂正しています。下線部は補足です。なお、中村隆英『昭和経済史』152頁には「国民生活物資の量」という表があって、米こそ1941年に1,175万kgから1945年7月時点で942万kgへの減少でとどまっていますが、昭和16年(1941年)を100として肉が20%、魚が30%、綿織物が2%、毛織物が1%、地下足袋が10%、石鹸が4%、紙が8%となっています。151頁では機械生産が落ち込んだのが1945年でほぼ1937年の水準です。鉄鋼は1943年をピークに低下していますが、落ち込みが激しいのは1945年で実数が表示されていないので参照程度ですが、1937年の6割程度です。戦後直後を「焼け野原」と言いますが、各種生産が落ち込んだのは空襲の被害よりも、戦時統制で軍需に偏った生産を行ったことと原材料が輸送できなくなったことが大きいのでしょう。生産は落ち込んでいますが、銑鉄や銅、アルミ、鉛などの生産設備は、空襲の被害にもかかわらず、1937年よりも大幅に増加しています。繊維産業の設備は不要不急ということで強制的にスクラップ化されてしまった。国富の被害で最も大きいのが船舶でして金額ベースなので問題もありますが、経済安定本部の推計で約84%。中国、ついでアメリカを相手に戦争をするというバカなことをしている間に、人命を数多く失っただけではなく、もちろん、それが最大の悲劇ですが、生き残っても生活に苦労する状態になっていたということです。


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