2008年09月16日

アイスクリームはとけるのが早い?

 市場がドタバタしているおかげで、「波」に隠れた格好ですが、14日の「国籍不明」の潜水艦による領海侵犯は「藪の中」になりそうです。なんのめぐりあわせか、発見したのがあたごとは皮肉なもので、以前、散々、バッシングされた上に、幹部会も最高司令官が無断欠席では士気が維持できるのかなと余計なお世話でしょうが、不安になります。それにしても、今回の領海侵犯でいきなり「撃沈」は乱暴でしょうが、「専守防衛」というのは、攻撃されない限りは一切手を出さないということのようで、最高指揮官への連絡が少々、遅れたぐらい、たいしたことではないような。下手をすると、攻撃されても反撃しないということさえありうるわけで、建前上、個別的自衛権は行使できるが集団的自衛権は行使できないとなっていますが、実際上、自衛権そのものが行使できないのが実態ではと思います。それにしても、平和な官邸だなと。辞意を表明すれば好きなことさえしていればよいようで、うらやましい話です。

 荒れている国際金融ですが、優れた観察を読んでしまうと、気が引けます。こちらを拝読すると、あまり付け加える余地がないような気がいたしますが、日本の金融危機とはずいぶん異なるなあというのが率直な感じです。まず、1997年から1998年の金融危機の際には誰が大蔵大臣(当時)だったのか、まったく思い出せないです(首相官邸HPのこちらを見ると、第2次橋本内閣では三塚さんで2008年に橋本総理(当時)が一時的に兼任して松永光さん)。Paulsonの決断の評価はわかれそうですが、彼の国では誰がどのような決断をしたのかが非常に明確です。日米ともにアイスクリームが溶け始めると、そのスピードが速いこと自体は共通していますが、やはりアメリカの方が市場も政府もせっかちなのか、スピード感がまるで異なります。この国の場合には政府の対応がよくわからないまま、アイスクリームが溶けちゃったのに対し、向こうは溶けるにしても、どこまで溶けることを容認するのかを政府の、それもトップが明確に述べています。その決断が正しいのかどうかは別の問題ですが。

 欧州に飛び火するんじゃないかとか、日本にも「ハゲタカ」が現れよとかというのは狼狽していて現実を見ていない感じでついてゆけないです。伊藤洋一さんの分析が日本語で読んだ範囲では現実を抑えて、意見は控えめで刺激はあるけれども、安心して読めます。もちろん、責任の所在と決断が早いからといって、行動が正当化されるわけではなく、伊藤さんは次のように問題を提起されておりますが。

 声明の最初の文章でも明らかなように、「既存のファシリティーの強化を含めて、金融市場に新たに流動性を付与する措置」です。しかし、流動性は付与できても、「信用 confidence」は付与できない。今のニューヨークの金融市場で一番欠如しているのはこれです。少なくともリーマンを救済していれば、これは維持できた。しかしそれは国家の意思としてはやらなかった(『住信為替ニュース』第1937号)。

 これだけ本質をつく問題というのはシンプルなのかと感心しますが、悩ましい問題です。Paulsonは市場からすれば、想定外の行動に出たのでしょう。もし、彼がリーマンにも公的な保証を与えていれば、市場の期待の範囲内ということで、少なくとも安心は付与できたかもしれない。他方で、すべての破綻しそうな企業を救うことは、モラルハザードの問題以前に不可能で、線引きが必要になるでしょう。適切であったかどうかは別としてPaulsonは、結果的にリーマンとメリルは線の外とした。この線引きが妥当かどうかは正直わかりませんが、モラルハザードを持ち出したということは、これ以上は公的保証の対象を増やしませんよということで、 Yahoo Finaceを見ると、伊藤さんが指摘しているAIGやWashington Mutualが市場で試されることになるのでしょう。政府が信用を付与できるのかはわかりませんが、ど素人には市場はFannie MaeやFreddie Macの国有化を織り込んでいるようにも見え、このタイミングで線引きをすると、国有化はモラルハザードを助長するのではないかという批判がでてきそうで、悩ましいところです。

 ただ、気になるのはWSJの記事を読んでいると、日本よりもドライな感覚でしょうがアメリカでさえも、やはり民間が政府へあまりに依存する傾向が強いことです。危機の時期には理解できる部分が大きいのですが、リーマンやメリルにも公的な保証を与えれば、AIGをはじめ、「予備軍」を救わない理由がなくなってしまう。他方で、与えなければ、市場は「予備軍」の破綻を織り込んでしまう。この線引きがどの範囲で妥当なのかは見当すらつかないというのが率直なところです。結果論からすれば、「泣いて馬謖を斬る」(Paulsonは泣きそうにないですが)というのは、多くの場合、規律を維持する代償として士気を萎縮させてしまう。軍事に限らず、経済でも「勝ち戦」ならば両者はトレードオフではないのでしょうが、「負け戦」あるいは信用収縮の状態では、士気の低下を緩やかにするだけでも、規律を犠牲にせざるをえないのでしょう。

 ここ数日の、いわゆる経済紙ではないニューヨークタイムズ紙やワシントンポスト紙では、わざわざ"credit default swap"と断った上でCDSと略している記事が目立ちます。素人の浅知恵ですが、読者への配慮もさることながら、全体として市場が萎縮している感覚が伝わってくる印象があります。そんな時期に規律を優先させる決断というのは不適切だと考える方が自然なのでしょう。市場が機能する条件は経済主体の参入と退出がともに自由なことですが、現状では政府が事実上、退出をさせる意味をもってしまう。他方で、士気が低下している状態では、過度に退出を恐れる傾向が生じてしまう。実際には市場自体が退出させるのにもかかわらず、危機の時期には、市場という「見えざる手」ではなく、政府という「見える手」による調整として認識されてしまう。それ自体が誤りだというわけではないのですが、市場への参加者が増える一方という状態が「正常」であり、ときには厳しい退出も生じるのが市場なのだという認識が弱まりすぎることを懸念する。私自身は、単なる信用収縮に留まるのなら、Paulsonの決断は、このタイミングが適切なのかという問題は残りますが、やはり適切なのであろうと。ただし、それが単なる信用収縮に留まるならば、ですが。

 国家が信用を付与できるのかという根本的な問題はわかりませんが、今回の対応が市場の不安心理を強めたことは間違いないでしょう。よって"meltdown"でも"domino"でも表現はなんでもよいのですが、パニックが続く。ただし、現状では、表現が悪いかもしれませんが、「平時のパニック」なのでしょう。怖いなあと思って真っ先に見たのが、こちらのチャート。アジア通貨危機のときでも4%を超えていたアメリカの長期金利が今回はさすがに3.5%を切って、歴史的な水準です。ドル安と債券安が同時に進行するとなると、本格的なドル危機のリスクが高いわけで、少なくとも現在の市場はそのような事態を排除しているのでしょう(もちろん、長期金利の低下にも負の作用があるのでそれ自体が望ましいというわけではありませんが)。「平時のパニック」も大変でしょうが、日本人がお好きなこの国の事例が示すようになんとかなるでしょう。それを超えた危機がくると、私自身、まるで見通しが立ちません。経済に関してはこの点だけを懸念しておりましたが、現状ではその確率は非常に低いようで少しだけ安心しました。もちろん、「平時のパニック」がどうでもよいというわけではないのですが。この状態であれば、アメリカを中心とする民主主義諸国もユーラシア大陸の東側・南側・西側での問題に苦しいながらも耐え切れると信じております。そうでなくても、金融危機に優先する危機ですが、国際的な信用秩序が一時的にせよ崩壊してしまうと、交易の利益を失うところが大きいのは専制国家ではなく民主主義国家でしょうから、ただただ資源を浪費する国家間の闘争に耐え切れなくなることを恐れておりました。現状では、そのような心配はほとんど「杞憂」と言ってよいのでしょう。

 私事で恐縮ですが、左足以外にもあちこちが痛んでおりまして、「寝言」も浮かばない状態です。ここ数日は生気がまるでなく、どうにもなりません。しばらくは更新の予定もなく、コメントも返せないと思いますが、私自身のことに専念せざるをえない時期ということでご理解ください。

2008年06月30日

国際政治の「分裂」 国際経済の「一体化」

 あれこれ書きたいことがあるのですが、「寝言」とはいえ、まとまりがあまりなく、なんとなく「倦怠期」というところでしょうか。私は食べ物では偏食がまるでないのですが、ネットで毎日読むところは「偏食」が激しい気もいたします。岡崎研究所(最近は『世界の論調批評』がメインですが)に『溜池通信』安達正興さん伊藤洋一さんあたりで、気がつくと、10年近く同じサイトを見ていることに気がつきます。一時期はブログを読む頻度が高かったのですが、コメント欄のない昔ながらのサイトの方が安定している印象があります。もっとも、伊藤洋一さん以外は岡崎研究所つながりということが大きいのかもしれませんが。

 イラク情勢を見ていて、イラク戦争とはなんだったんだろうとぼんやりと考えることがあります。もちろん、現代の戦争というのは単一の原因から説明できるほど単純ではありませんし、今日では戦争の違法化が極限まで進んでいます。イラク戦争が国際法上、どのような位置づけにあたるのかはわかりません。また、この数ヶ月の変化でさえ、リアルタイムで評価することは難しいものだと感じます。それにしても、しみじみ思うのは、中東という地域は本当に難しいというあまりに素朴な感想です。「イラク戦争の『本当の理由』」という「寝言」ではイラク戦争とその後の占領統治についてアメリカの「自衛」をメインにT. Friedmanのコラムを紹介しましたが、戦争のもつ多面的な性格やその後の影響などを考えるのはなかなか洞察力の要する作業だと実感します。露悪的に言えば、民主化など理想はおいてアメリカにとって有利な状況をつくりだすために軍事力を用いていればと思いますが、それがアメリカ外交の伝統にそぐわないことも感じます。

 『世界の論調批評』では「米国外交力の凋落」と題した記事が掲載されていますが、これを読んでから、頭から離れず、今でも整理しきれない状態です。意味もなくベトナム戦争後の状況と比較して考えたりしましたが、今日の状況はそれとは異なった困難があって、私の手には余ります。ない頭をひねりながら考えましたが、まず、中東における米軍のプレゼンスが存在するのにもかかわらず、中東におけるアメリカの外交的な影響力が低下しているという問題です。もちろん、占領統治、そしてイラクの国家再建が遅れているから当然だという見方が自然なのでしょうが1970年代と比較すると、やはり中東という地域はアメリカの影響力がそもそも非常に限定される、アメリカから見れば、「辺境」の地という印象をもちます。

 もちろん、占領統治やその後のイラク再建がスピーディであれば、このような事態を避けえたのかもしれませんが、アメリカの地理的な「帝国」としての影響力の限界はこの地域に象徴されているような印象をもちます。地理的といっても、単に距離の問題だけではなく、複雑な中東の歴史的背景を含む、アメリカの「普遍主義」が、他地域でもそのまま受容されることは珍しいですが、受容される余地がはるかに少なく、現実主義というよりも、より赤裸々に利害で動くプレイヤーが支配的であるという事情も大きいのでしょう。中東の問題を考えるには宗教的な背景が欠かせないのですが、私自身が疎いせいか、宗教的なバックグラウンドにもかからわらず、あるいはそうであるがゆえに、中東における国際関係は力の論理で動いているようにも見えます。アメリカが軍事的プレゼンスでこの地域に秩序をつくろうとするならば、イラクはもとより、イランを牽制し、同時にイスラエルをも牽制する力が不可欠で、これはアメリカの能力を超えた問題ではないのかと感じます。

 気になるのは、アメリカの外交的影響力の低下は中東の問題に限定されない傾向が生じつつあるということでしょうか。朝鮮半島では北朝鮮が米朝関係を重視しているがゆえに、アメリカの影響力が大きいと思いますが、過去の米朝交渉ではアメリカが北朝鮮に振り回されている印象があります。今回もそうならないという実感があまりなく、北朝鮮がアメリカに「恭順の意」を示した結果として事が進んでいるとは思えないです。話が飛躍しますが、EUは以上とは異なった事情からアメリカとの距離(ただし他地域とは比較にならない多面的な関係が存在しますが)が拡がっており、世界的規模でアメリカの「帝国」としての「重石」が利かなくなりつつあるようにも見えます。

 米ソ冷戦の終結から10年はアメリカ抜きの国際政治など考えることができない時期が続きました。あまりにも悲観的な見方かもしれませんが、今後10年はアメリカから見て海を隔てた東西でアメリカの影響力が低下する時期が続くのかもしれません。抽象的で曖昧な印象論に過ぎませんが、そのような傾向が一時的な現象なのか、不可逆的な現象なのかを見定めることは私にはできません。ただ、中東を見ても、イランとイスラエルの対立が深刻になることがアメリカ中心の秩序にとって代わるとは思えないというのが率直な実感です。アメリカという「重石」が軽くなったからといって各地域に新しい国際関係の秩序が生まれる必然性はないと思います。他方で、経済レベルでは、国際的な金融システム不安に続いて各国でインフレーションが、濃淡があるとはいえ、進んでいます。経済的相互依存はアメリカ中心でなくても自発的に進んでゆくのでしょう。経済のレベルではアメリカの意向にかかわらず世界全体の一体化が進む一方で、政治のレベルでは別の意味でアメリカの影響力の低下と一体化して「多極化」というよりも分裂が進んでゆく。あまりに大雑把なイメージですが、今後10年間はそんな世界になると覚悟しておいた方がよいと感じます。

2008年04月19日

経済から見る日中関係あれこれ

 なんだか珍しい体験をしました。メールの後で電話があって「君だったらなんとかなるだろう」と言われて、「はあ」。「中国経済について話してもらいたいんだけど」。「え!私、ど素人ですよ」。「いいんだよ、話のネタふりさえしてくれればいいんだから」。「でも、全然わからないですよ」。「若い人の話が聴きたいっていう人が多いから、多少、粗くても大丈夫」。てなわけで、とある小さな集まりでしゃべる機会に恵まれたと申しますか、「災難」にあったと申すべきか。

 ちゃらんぽらんなので、旬のネタは伊藤洋一さん記事がメインでした。最初は1時間ほど話せとのことでしたが、こちらからお願いして30分程度に圧縮して頂いて、質疑応答の時間を長めに。あとは、世銀データでちょっと強引なぐらい引っ張ってゆこうと。会議室を開けてびっくり。全体で20人たらずでしたが、50代から60代ぐらいのご婦人が半分ぐらいいらっしゃっていて、地は神経質で内向的な私は緊張しちゃいました。あとでわかったのですが、みなさん、株や外為投資をされているとのことでこちらが教わる側かなと。主宰者の方が冗談を交えて紹介してくださったので、こちらも少しだけ硬さがほぐれました。

 資料は時間がないので、基本的なデータにとどめて、まず、ナイーブな中国脅威論は意味がないですよというあたりから入りました。控えめにみても、中国の経済規模は日本の2分の1を超えてはいるけれども(2006年の日本のGDP:4兆3,684億35百万ドル 中国のGDP2兆6,446億81百万ドル)、一人当たりのGDPでは日本は落ちたものの世界で19位(38,630ドル 2006年)に対して中国は130位(2,000ドル)で中国の生活水準は大雑把に言えば日本の約20分の1程度で経済成長の水準自体がまるで異なるというあまりに素朴な話です。日本に格差がないわけではないが、一人当たりで2,000ドルの国で東京のど真ん中で裕福な生活をしている人と同程度の生活水準がいるということは、粗い話ですが、かの国の格差のすさまじさを示しているだろうと。こんな話はあまりに素朴すぎてどうかなと思いましたが、意外と反応がよいのでびっくりしました。

 そんな状態で物価上昇率が8%を超えると、農村部にまで市場経済が浸透している現状では都市部のバブルも大きいけれど、金融を引き締めざるをえませんね。為替レートも切り上げざるをえない。憶測にすぎないけれども、為替レートに関してはアメリカと相談しているでしょう。コミュニケーションをとっていなかったら、あまりにもまずいですが。他方で、金融政策と通貨政策で金融引締めと人民元の切上げをしているようでは、中国は先進国の経済レベルの国際協調体制には入ることができない。世間ではチベット問題で反中機運が高まっているようですが、経済の視点から見ると、中国が日本のように高度成長の結果、先進国の仲間入りをするという絵を描くのは難しいでしょう。それが日本にとって好ましいのかそうでないのかは判断が分かれるところですが。そんな粗い話をして質疑応答をしました。若い人たちと異なる点は「狂乱物価」という表現をリアルタイムで経験した世代の方たちだったので、非常に楽でした。そうはいっても、私自身はインフレを実感をもって体験していたわけではないのですが。

 意外だったのは中国の一人当たりGDPの低さに驚く方が多くて、こちらが驚きました。念のため、日中の差がはるかに小さく描写されるであろう購買力平価で評価した値(日本:32,840ドル 中国:4,660ドル)も示しましたが、それでも約7分の1という数字は意外と知らない方が多かったようです。年配のご婦人が多いので韓国と比較しても約5分の1程度ですよと申し上げると、さらにびっくりされたご様子。中国の「バブル崩壊」に関しては質疑応答にとっておきましたが、こちらは知っている方が多くて、ちょっと残念。やはり相場を見ていれば、こういう話はどこかで耳に入るようです。中国経済が不況になったら日本は大丈夫でしょうかという、素朴ではありますが厳しい質問もあって、実は対中貿易では日本は出超ですよと申し上げると、これまた驚く方が大半で、「難問」はちょっと腰がひけました。もちろん、影響がないわけがないのですが、どの程度かというところまでは計算する準備ができなかったので、問い詰められれば、わからないとお答えするしかないのですが。

 コーヒーを頂きながら、あとは雑談でした。今度はこちらが驚く番に。おそらく、同世代では福田総理の評判は前任者の辞め方がひどかっただけに安定感を求めて失望している方が周囲では大半なんですが、女性は厳しいですね。「もう、一日でも早くお辞めいただきたい」。「時の最果て」で散々こき下ろしておいてリアルの世界では弁護に回りましたが、日銀総裁のゴタゴタもどっちもどっちと映っているようで、こちらが「撤退」せざるをえませんでした。男性陣がニヤニヤしながら見てましたね。どうも、きれさせた要因は物価上昇に「しょうがない」の一言だったようで、そういえば、若い世代でも女性の反応はシビアだったなあと。そうはいっても市場経済の国で物価を中央銀行が完全にコントロールするのは無理ですよと無駄な抵抗をしてみたものの、「そんなことはわかってるわよ。だけど、『しょうがない』じゃあまりに無責任」と一蹴されてしまいました。ふと思えば、消費税の導入の際に敏感に反応したのは女性でありまして、有権者の約半数は女性であることを考えると、これは怖いなと。「お茶会」では圧倒されるばかりでしたが、最後は今日の話は勉強になったわと言って頂いたので、無事、スピーカーの役目を終えました。意地悪な主催者の方が「次もどう?」とか底意地の悪そうな笑顔で尋ねてこられるので、素で絶句してしまって、「今日は助かったよ。ドタキャンされて慌てていたところだったから」と一礼されて、こちらもお辞儀をしてあとにしました。討論ではあまり話題にならなかったのですが、先進国間の国際協調体制の蚊帳の外に中国が置かれるとしたら、彼らがどう振る舞い、この国はどのように対応するのだろうととりとめのないことが浮かびました。


続きを読む

2008年03月09日

塩野七生『ローマ世界の終焉』と公共心

 相変わらず、体調がすぐれない状態です。吐き気は収まりつつありますが、時々、ぶり返します。「寝言」も途中まで書いて破棄したこともありました。集中力を持続するのが厳しい状態です。なんとなく、いまの「経済危機」が一過性のものか国際経済体制の変化に及ぶものなのかを感が足りもしました。あまりまとまらず、根拠はまるでないのですが、1929年の世界恐慌から1944年のブレトンウッズ協定の成立までが約15年、1971年の「ニクソンショック」(金ドル交換停止)から1985年の「プラザ合意」の成立までが約14年と体制の再編といっても意識的な設計者がいるわけではないのでしょうが、長引くものだなと。その間がまったくの停滞の時期ではないのですが、因果関係は明確ではありませんが、国際経済の混乱と国際政治の混乱は手に手をとって進むことが少なくありません。国際経済体制の再編が避けられないとすると、意外と混乱が長引くことも覚悟しておいた方が気が楽かもなどといい加減なことを考えておりました。アメリカの実質金利がマイナスになっているという推計を鵜呑みにはできないのでしょうが、他にも推計がでてきて確認がとれれば、今回の「危機」の度合いを象徴しているのでしょう。乱暴に言えば、「ゼロ成長」時代の前触れの可能性もあるでしょう。

 そんなとりとめのない思考をしていたので、少し疲れて本棚を見たら、塩野七生『ローマ人の物語XV ローマ世界の終焉』(新潮社 2006年)が目に入りました。気がつくと、この本を出版当初に入手しましたが、読まずに「積読」しておりました。これでこのシリーズも終わりなんだなあと思うと、「物語」の終わりを読むのが惜しく、そのままになっておりました。こういうパターンは非常に珍しく、たいてい買ってきた本はもったいないので元をとるべく速攻でざっと出も目を通すのですが、私には、「お別れ」にたえられない珍しいシリーズです。この本を読み始めたのが、土曜日の晩でそのまま、朝まで止められなくなって一晩中かけて読み終えました。

 目次すら目を通していなかったのですが、読む前にローマ帝国の終わりというより、「ローマ世界の終焉」をどこに置かれたのだろうということが気になっておりました。ローマ帝国の分裂後、476年に西ローマ帝国が滅んだという中学校でも習う通説のとおりには塩野さんは描かないだろうなあと。読み終えて、よい意味で読者を裏切る方だなあと。この「終わり」が正しいのかどうかは歴史学者にお任せで、素人の私にはローマ人を見送る気分になって、胸が一杯になりました。「『なぜ』よりも、『どのように』衰亡していったのか」を描くことは一流の方でも難しいと思うのですが、それを最後まで貫いた塩野さんには脱帽です。ローマ人の「終わり」、ローマ帝国の「終わり」、そしてローマ世界の「終焉」が重層的に描かれていて、シリーズの「終わり」が悲しくてしょうがないという小心者も、惜別のつらさはありながらも、余韻が残る「終わり」でした。

 批評めいたことがまるで浮かばないのですが、印象に残ったことをちょっとだけメモしておきます。いくつも引用しては考えたいところばかりですが、きりがなくなりそうなので、一箇所だけです。私の仕事の根底にかかわる部分で、思わず、唸らされました。

 「共同体」(res publica)と「個人」(privatus)の利害が一致しなくなることも、末期症状の一つであろうかと思ったりしている。そして、公共心も、個人が、自分の利害と自分が属す共同体の利害は連動する、と思えた場合に発揮されるものではないか、と(前掲書 73頁)。

 こんな「寝言」でぐだぐだと書いてあるところを、本質だけ射抜いてばっさりと100字程度でまとめられてしまうと、つくづく「格差社会」を実感してしまいます。もちろん、頭の中身の「格差」ですが。個人の利害と共同体の利害が一致する「メカニズム」をどこかで求めてしまいますが、膨大なことを歴史は教えはしないが、無言で考える以前のなにかを語りかけてくる。そんな感覚をもちました。「なにか」について語るのは野暮ですが、なにかとりとめもなく「寝言」になるようでしたら、またの機会に。

2008年03月05日

中国への「関与」と「強制」

 困ったことに、先週が「土砂降り」だったとすると、今週は「曇り一時雨」という感じです。汚い話で恐縮ですが、吐き気がするものの、くだってはいないので、かえって嫌な感じです。おまけに、かかりつけの先生まで倒れてしまった様子で、迂闊な医者に診てもらうのは失礼ながら怖いので、病院にもゆけず、困っております。内科の先生というのはありがたいもので、私がお世話になっている先生は、「あたしゃ藪だけど、友だちは優秀なんで」と紹介していただけるので助かるのですが。

 吐き気ごときなんのそのとゆきたいのですが、さすがにきついです。午後はどうしようもなかったのですが、幸い、夕方には回復しました。仕事やそれ以前の作業はなんとかやれるのですが、「寝言」が浮かばず、手抜き状態です。ふと夕食の準備にスーパーによってふだんはほとんど立ち寄らない冷凍食品のコーナーを見ていたら、冷凍餃子が味の素一社のものしか置いてませんでした。以前の状態がわからないので、中国の殺人毒ギョーザの影響なのかなんなのかはわからないのですが。

 これまでも、何度か中国の経済成長と「中国脅威論」との関係を「交通整理」しようとしてきましたが、思ったより難しいようです。これは私が学生時代の話(1980年代後半)ですが、中国が経済成長をして10数億人が車を乗り回すようになったら、環境汚染がどうたらこうたらと主張している人がいました。こういう主張の背後にあるのは、中国の経済成長に脅威を感じ周囲を説得したいけれども、それを適切に表現する術がなく、言いたいことはわからないでもないけれど、ちょっとなあという感じです。ただ、この時点で中国の脅威を感じていた感性は侮れないのではありますが。

 「中国脅威論」や「チャイナ・リスク」、逆の中国への期待感など中国論は巷であふれるほどあるので、もう私もお手上げ。体調も今一つですので、ちょっとした「寝言」をば。安全保障の面では、私自身は「タカ派」的な見方をしておりますが、戦後国際経済体制の維持という点から見れば、秋田浩之さんの『暗流 米中日外交三国志』の第2章「立ちはだかるキッシンジャーの『王国』」で描写されているアメリカの「関与政策」は不可欠であろうと。話がそれますが、『暗流』では人物の描写が興味深く、キッシンジャーの対日警戒心などは冴えた描写かなと。ただ、彼が親中であるのは、ビジネスという側面も無視はできないのでしょうが、やはり彼の戦略的発想(同時に東アジア情勢への認識不足)が大きいのではと素人目には映ります。「経済大国」にまで成長を遂げたのにもかかわらず、日本は本格的な再武装に踏み切らないのは、アメリカのパシフィズムに辟易しているとはいえ、キッシンジャーには理解不能なのではないかと。こちらは本題からそれるので深入りせずに、戦後国際経済体制の維持にはアメリカの対中関与が不可欠だと私自身は考えていることに留めます。

 戦後国際経済体制というのは非常に曖昧な言葉です。私のような、いかれた「外道」が定義するのは憚られますが、あえて「定義」いたしますと、主としてモノ・カネの面で自由化を進める拘束力のある合意が先進国間に存在する状態という、「定義」になっていない悲惨な内容になってしまいます。ただ、モノやカネの自由化を進めるという大雑把ではありますが、戦後国際経済体制の大きな方向はこんなあたりでしょうか。

 もう一つ肝心な点は、「拘束力のある合意」の存在です。戦後国際経済体制の出発点はブレトンウッズ体制ですが、最も「拘束力のある合意」の存在が明確だった体制であったといえるでしょう。以前、こちらでも書いたように、極論すれば、まずアメリカが戦勝国に軍事・政治・経済の優越を基盤に連合国に合意を強制し、その後、「冷戦」下で自由陣営の国々に拡大していった体制でした。「ニクソンショック」とその後の変動為替相場制への移行によってブレトンウッズ体制は崩壊しますが、「拘束力のある合意」はより緩やかになったとはいえ、その後も先進国の協調体制として機能してきたと思います。ちなみに、今の金融危機は、そのような協調体制を崩壊させるほどのインパクトがあるのかという点に注目しております。

 さて、中国の問題に話題、というより「寝言」のお題を戻しますと、現在のアメリカの対中関与政策はそのような点から見てかならずしも好ましくないように思います。外交の実務で安全保障の問題と経済上の問題を截然と分けることは不可能なのでしょう。ただし、対中関与の主目的は、国際経済体制へ中国を包摂してゆくことにあると考えております。今でも話題になっている中国製品の安全性などは、もちろん対中貿易の相手国からすれば国民の安全にかかわることですから、関与といっても、単純に互恵的な関係を政治的に顕在化させるだけの甘い話ではないでしょう。ここで戦後国際経済体制に中国を包摂する手段として関与が望ましいという場合、それは事実上、アメリカを中心に中国に「拘束力のある合意」を強制することだというのが今日の「寝言」です。

 これは、「寝言」の域を超えますが、各国の自発的な意思(あるいは拘束のない下での自国の国益計算に裏打ちされた自発的な協力)によってのみ、国際的な経済秩序を維持することはできないのではと考えております。やや、話が大きすぎるかもしれませんが、国際的なレベルで見た場合、経済的相互依存と政治的相互依存にはおおいに関係があるけれども、経済的相互依存の深化の前提は政治的相互依存、露骨に言えば、アメリカを中心とする先進諸国が「拘束力のある合意」を強制する意思と力をもっていることだということです。

2008年02月22日

外航海運に関するメモ(2)

 外航海運に関してあらためて別のところでお話を伺う機会がありました。非常に刺激的でした。おつきあい頂いたなかでも、とくにHさんとGさんには示唆していただくことが多く、あらためて御礼申し上げます。以下は、こちらの「続き」ですが、「政府規制等と競争政策に関する研究会」を「規制研」と略しております。前回の記事にもリンクしてありますが、規制研の報告書は、公正取引委員会のHPから報道発表資料の平成18年分(こちら)をクリックして12月8日発表分で入手できます。元ネタをあたりたい方はこちらをご覧下さい。PDFファイルですので、直接リンクするのは避けました。書いていたら、予想はしていたのですがむやみに長くなってしまったので、お読みになりたい方は「続き」をクリックしてください。


続きを読む

2008年02月12日

経済成長の「グランドデザイン」?

 コンタクトの交換にでかけたのが失敗でした。地下にお世話になっている眼科がありますが、空気がカラカラ。あらかじめコンタクトをケースに入れてメガネをかけておりましたが、「ドライアイ」状態になりました。暖房入れすぎでしょうと思っていたら、喉が渇いてようやく痛みが治まったのにまずいなあという感じ。だんだん老眼が近づいてきたのか、左目が過矯正になっていたようで、右・左とも1.2にしてもらったら、ずいぶん楽になりました。目の調子がよいのでついついデパ地下をうろうろしていると、菓子のコーナーがバレンタイン一色でご縁がないなあと。ビックカメラにてルーターなどを買い込んでついつい1万円を越える散財をしてちょっと後悔しました。レーザータイプのマウスを買って使っているのですが、反応がよすぎて使いづらいぐらいです。コンタクトの過矯正がどうにかなったと思ったら、マウスが「過矯正」になってしまいました。風邪がつらいですし、オチもついたので終わりとしたいところですが、ちょっとだけ「寄り道」してみましょう。


続きを読む

2008年01月04日

民主主義は市場経済である?

 1月3日の新年会で新年の行事は終わりです。明日からは、お仕事ですが、生活のリズムが完全に来るっています。まずいなあ。まあ、今年の新年会も楽しかったので、自分用のメモです。

 本題の前に「事務連絡」ですが、コメント欄の入力に認証コードを導入しております。一時的に収まったコメントスパムが再度やってくる状態でして、当面、この方法で運営いたします。基本的に半角英数のみのコメントは受け付けない状態になっておりますが、それをすり抜ける方法を学習しているようでして、承認制を一度は導入しましたが、スパムとそうではないコメントが混ざると、うっかりスパムではないコメントを削除してしまう可能性があります。コメントを頂くのに認証コードを要求するのは無粋ではありますが、やむえをぬ措置としてご理解頂ければ、幸いです。なお、他のプロバイダーのブログと異なって、URLの入力の有無などにかかわらず、すべてのコメントに対して認証コードの入力が必須です。情けないことに私自身も入力しなければならず、バカバカしいのですが、こんな過疎地にもスパムがくる時代ですので、泣きたい気分ではありますが、事情をお察しください。

 さて、2日は旧友と飲んでへべれけの状態になりまして、ブログが更新されているのですが、あまり記憶がなく、いつ書いたのかという支離滅裂な状態です。二日酔いの状態で新年会に「遅参」しましたところ、老先生のおそばという「特等席」が空いておりまして、みなさまの考えていることや気分は同じなのだなあと思いました。実際には遠慮深い(これは嘘ではありませんよ)私には畏れ多いのですが、とりあえず着席。飲みすぎでボロボロの状態ですので遅刻いたします、申し訳ありませんとの旨のメールを差し上げておりましたので、ぐびぐびビールを飲み干す私を見つめながら、「若いというのはいいなあ」とからかわれて、恐れ入るばかり。世間話が一通り終わったところで、老先生が語りかけてきたので、酔っ払っているせいもあって、「脊髄反射」状態になってしまいました。酔いというのはおそろしいものでして、ふだんはもっと上品な会話になるのですが、「お下劣モード」の私が老先生を困らせるという展開になって私自身が困惑してしまいました。ちなみに老先生は、マルキストではないので、念のため。

子曰く、「マルクスはヘーゲルの逆立ちを直したえらいやっちゃ」。

Hache曰く、「逆ですよ。勝手な逆立ちしたのはマルクスでヘーゲルはまともです」。

子曰く、「それは、どのような理由か?」

Hache曰く、「マルクスの思想から社会主義が隆盛してさらに格が落ちるレーニン、スターリンでさらにややこしくなりましたが、みんな逆立ちという憑き物が降りて、正常化している時代でございます」。

子曰く、「……。マルクスは哲学で留まればよかったのかのお。経済学に手を出したのが失敗だったのかもしれぬ」。

Hache曰く、「哲学自体がおかしいですから、なにをしてもムダでしょう」。

子曰く、「……。フランシス・フクヤマなる人物を知っておるか?彼の御仁は、ヘーゲルを援用して資本主義の勝利が『歴史の終焉』と説いた。これはいかに?」

Hache曰く、「あの御仁はネオコンでも、とるに足らない人物です。ヘーゲルを引用していますが、所詮は思い上がりを正当化するための手段でしょう。それと、彼が主張したのは市民的自由と民主主義の勝利であって、資本主義ではなかったのでは?」

子曰く、「ならば問う。民主主義とは、資本主義ではないのか?」

Hache曰く、「資本主義というのはわかりにくいので、市場経済でもかまいませんか?」

子曰く、「しかり」。


 てな感じで酔っ払っていたので、もっと高尚な会話だったと思いますが、かなり雑な記憶に頼っております。「資本主義」というのは、意図的な「主義」からうまれたのか、それはいかなる経済を表すのかがいまだに得心できないので、市場経済と言い換えておりますが、「民主主義とは市場経済である」というのは乱暴かもしれませんが、ちょっとした思索を誘います。

 この話に入る前に、私がヘーゲルを高く評価しているのは、ある経験があります。20代前半の私の文章を読んだある人が、笑いながら、「これ、もろトリアーデになっている」と指摘されて、言われてから初めて気がつきました。ヘーゲルの弁証法というと、「正−反−合」の「弁証法的統一」なんでしょうが、私の感覚では、Aなるものがあれば非Aがあり、さらに観察すれば、Aなるものと非Aなるものはその本質において同一であり、かつ相反する。「有」、「無」、「成」が最も単純ですが、外的に概念を「弁証法的」に「統一」するのではなく、この同一であり、複雑な交互作用を行っている要素がまさに交互作用しているという点で概念と事物の運動を示しているという感じです。

 ヘーゲルなんて読む前からそんな感じで世界を捉えていたので、ヘーゲルの叙述のまねをするという感覚はまるでありませんでした。傲慢なことを書くと、ヘーゲルを読んだことはありますが、私と同じ体質ですね、絶対精神を認識したヘーゲルは自らが神であり、そこでは主客の二元論など考える、すなわち実践の場では意味をなさない。まったくもって同感というすちゃらかな読み方しかしておりません。

 本題に戻ると、「民主主義は市場経済だ」という老先生の表現は、一見、乱暴ですが、酔っ払いながら、ハッとさせられました。まず、浅いレベルでは、例えば、市場経済の導入とともに高い成長率を誇ると同時に共産党一党独裁の中国は、まだ「移行期」から完全には脱していません。中国の「改革開放」路線が本格化する1990年代の半ば頃に中国は民主化という市場経済の「大前提」と論者がみなすとことを先送りして、市場経済という果実を手に入れようとしているが、これは可能か、ある程度まで実現したとしても、市場経済化が進展した場合、政治体制は維持可能かという議論も周囲ではありました。この手の議論は、今でも見ることがあります。この種の議論は、私にはあまり重要ではないように感じます。というのは、政治体制の民主化はただちに市場経済化とダイレクトに結びついているわけではなく(もちろん、民主化を求める原動力の一つとしてより自由な経済体制への移行を求める人たちの存在があることは否定できませんが)、また、市場経済が民主主義体制の下でのみ機能するのかは疑問の余地があります。もちろん、民主主義という政治体制と市場経済の組み合わせが先進国のほとんどであることも事実です。ただし、両者の関係は、私には自明では内容に映ります。

 より本質的な問題は、民主制という政治体制も、市場経済という経済のありようも、どちらも分権的社会の構成要素なのであろうと。市場経済を支える市民的諸自由は人々がモノやサービス、カネなどを取引する最低限の前提であり、生産や消費、交換といったプロセスが自発的に行われるための前提であると同時に、これらのプロセスが効率的に結び付けられる情報のやり取りという点でも、前提になっています。市民的自由は、その他に職業選択の自由など重要な点を含んでいますが、それらは自生的な側面と同時に政治的に認知されることで円滑に機能することが可能です。

 他方で、民主制は政治的意思決定のプロセスをより多くの諸個人・組織に委ねることによって、分権的な制度の中で、他の政治体制以上により強いコンセンサスの下で集権的な意思決定を可能にするメカニズムをもたらす可能性を秘めています。同時に、コンセンサスの形成がなければ、民主制もその驚くべき機能を十分に果たすことはできません。同様のことは、市場経済でも生じます。市場の機能不全の原因として不完全競争や外部性・公共財の存在などが挙げられますが、ここではとくに、公共財に関するコンセンサス形成が行われない、言い換えるならば、価格という市場が分権的であると同時に参加者に課す共通の情報が機能しない場合、市場は混乱をきたしてしまいます。

 以前、「『権力のコントロール』へのコメント」という駄文を書きましたが、コメント欄でmitsuさんややじゅんさんからコメントを頂きましたが、まだ消化不良の問題が多いです。

 「国家権力を、コントロール可能な公共財とみなすか、利益を見ずにコントロール不可能な市民に対立する存在とみなすか、という2つの議論があるとします。この2つの考え方は対立するものでもなくかといってどちらも正しいというものでもなく、実は後者は前者の特殊なケースのように私には思えます」というご指摘は鋭く、この点を整理するのは今でも難しく感じます。「公共財」のもっとも本質的な要素は、経済学の文脈では非排除性、すなわち対価を支払うことなくただ乗りができるという性質として扱われます。このことから、公共財に関する分析では「等量消費」、すなわち、私的財では価格に応じて各個人が消費量を決定するのに対し、消費量がまずあってそれに応じて各個人の支払意思額が決まるものの、それを的確に把握し、徴収し、供給を決定するメカニズムの問題になります。公共財で問題になるのは、個人の私的インセンティブと社会的に見て妥当な公共財の水準が実現できるのかという対立が生じます。国家権力への「不信」以前に、公共財をコントロール可能かどうかという点で、まず、そのような私的インセンティブと社会的インセンティブが両立するメカニズムが存在するのかどうかが問題になります。また、仮にそのようなメカニズムが存在するとしても、遂行(implementation)できるのかという問題があって、すべての人を満足させることはなかなか難しいものです。

 やじゅんさんは、さらに難しい問題を投げかけてこられました。「最後に目指すべき大目標として『個人の尊厳』の確保があって、民主主義も自由主義もその確保のためのツールに過ぎない、もちろんその重要さゆえに限りなく至上の原理に近いツールではありますが、目標達成のために、これらの原則の中身をどう決めるのかは、先に述べた通り、現実に存在する諸前提によって色々変わるわけですから」。

 これは、法や国家権力と個人の根本に関わる問題で、ややお手上げではあるのですが、金銭的インセンティブに限定しても、難しい上に、金銭的インセンティブのみでは説明のできない問題です。もっといえば、金銭的インセンティブの問題よりもはるかに深刻ではありますが、平たく言ってしまえば、「原理の中身をどう決めるのか」という点に関しては、分権的社会ではコンセンサスが形成できるかどうかにかかってきます。民主制といえども、コンセンサスにもとづいた、ある種の強制が不可欠なわけでして、やじゅんさんが問題にしているのは、「原則の中身」ですが、その中身が妥当かどうかは最終的には国家権力以前のコンセンサスが形成されるのかどうかと表裏一体になってきます。ここで、民主制と市場経済の端的な相違が出てきます。すなわち、民主制といえども、国家権力という人格的な機構がなければ成り立たないのに対し、市場経済はそれ自体が非人格的な機構でもあるという点です。両者とも分権的メカニズムではあるとはいえ、民主主義的な意思決定が場合によっては市場経済を制限することも、極端な条件の下ではありうるということになります。他方で、市場メカニズムということに限定しても、権力の設定したルールを乗り越えてしまう場合(旧共産圏での「地下経済」が端的な例ですが)もあるわけです。これを国家権力とより広い活動である個人の生活全般に拡張するのは危険ですが、適切な「原理」の設定というのは、最終的に諸個人の行動がそれに従うことによって、私的利益と両立するのかという問題になってくると考えております。

 ずいぶん長くなってしまいましたが、「民主主義とは市場経済である」という老先生の言葉を考えているうちにムダな考えが長くなってしまいました。国家権力、あるいは政治と経済の関係は、私のように過度に抽象化して考えてしまう性癖がある者からしてもかならずしも明確にある原則から導くことは困難なように見えます。他方で、現代の民主主義や市場経済に関して様々な「病理」が指摘されてはいるものの、概ねなんとかなっているという現状を説明することが課題なのでしょう。「政治と経済の関係あるいは無関係」というカテゴリーは、岡崎久彦さんの「政治と経済の間」という論考が出発点でしたが、考えるほど難しいというのが頭の悪い者の実感です。


続きを読む

2007年12月23日

外航海運に関するメモ

 年末であちらをフラフラ、こちらをブラブラしております。欠けているのは「ラブ」でしょうか。おかげで今年もクリスマス・イブに余計なお金を使わずにすみそうです(涙)。そんな「不都合な真実」というよりも、あまりにも残酷で冷たい「悲惨な現実」から目をそらして、情報や知識に関しては「入超」という「厳しい現実」に直面しましょう。いろいろ刺激を各所で頂いておりますが、これは恥ずかしながら知らなかったという話です。

 スライドを目で追いながら、外航海運が独占禁止法の適用除外であることを知らず、恥ずかしい思いをしました。ありゃまという感じでしょうか。公取は適用除外を解除しようというので、目が点に。海運には土地勘がまるでないので、適用除外ということは、カルテル、あるいはそれに類似する協定を容認していることかなと思いながら、事情を聴いていると、考え込んでしまいました。米国では1984年海運法で二重運賃が廃止され、最近になって反トラスト法の適用除外の撤廃が検討されているとのこと。また、EUでは適用除外が検討され、解除が決定している。他方で、EUなどでは外航海運の寡占化が進んでいるという指摘がありました。この状況下で日本が独禁法の適用除外を解除すると、次のような事態が予想されるとのことでした。

(1)当初は、競争の激化によって運賃が低下する。

(2)他方で、外航海運では自然独占性が存在する可能性がある。

(3)このため、主として国際的に見て規模が小さい邦船社が撤退する、あるいは外航船社の支配下に入る可能性がある。

(4)結果として、適用除外の解除によって独占または寡占価格が設定され、運賃が結果的に上昇してしまう可能性がある。

 問題は(2)の自然独占性の有無でして、これが存在しなければ、競争が非効率であるとはいえないでしょう。逆に自然独占性が存在する場合には、競争が結果的に非効率となる可能性があります。土曜日の勉強会で伺った範囲では、自然独占性の有無に関しては明確な結果がえられていないとのこと。これは、思ったより面白そうです。ただし、これらは船主協会と国土交通省の立場からの説明です。公取の立場がよくわからないので、帰宅してから、公正取引委員会のHPを見てみました。

 サーチャージや安定供給など私の知識では危ういので、2006年の報道発表から12月6日「外航海運に関する独占禁止法適用除外制度について」と付随文書である「規制研報告書」と「参考資料集」を読みました。これを読むと、海運同盟の歴史から最近の主要航路に関するデータが揃っていて、読み耽ってしまいます。まず、欧州航路・北米航路・日中航路のいずれでもHHI(ハーフィンダール・ハーシュマン指数)が低下し、上位5社累積集中度(CR5)も低下していることが読みとれます。欧州航路ではPIL(シンガポール)とWang Hai(台湾)が共同で新規参入し、ANL Container Line(オーストラリア)が新規参入したことがHHIやCR5の低下につなっがと分析されています。他方、Maersk Sealand(デンマーク)とP&O Nedlloyd(オランダ)の合併によって欧州航路・北米航路で20%のシェアを占めることになることも触れられています。新規参入が進む一方で既存キャリアの再編が進みつつあることが読みとれます。新規参入が進んで市場が競争的になり、既存キャリアは合併などを通して生産性や費用効率を高めているのかもしれません。ただし、残念ながら、外航海運の自然独占性の分析は見当たりませんでした。

 規制緩和あるいは自由化の効果を評価する際に、(1)効率的な事業者による参入、(2)競争による既存事業者の生産性向上や費用削減、(3)新規サービスの創出、(4)価格の低下による消費者の厚生の増大などが主要な指標となります。これらのすべてを満たさなければ、規制緩和の効果が薄いというわけではありませんが、当該市場で自然独占性が強い場合、新規サービスの創出以外の効果はあまり見込めないでしょう。まず、自然独占性の強い市場では新規参入自体が非効率となってしまいます。したがって、競争によって既存事業者の生産性の向上や費用効率を高めるインセンティブを与えることは困難になります。社会的に見ても、新規参入は非効率になってしまいます。また、価格規制を外してしまうと、既存事業者の市場支配力が強化されてしまうため、価格は、新規参入者を排除する期間には低下するでしょうが、排除してしまうと価格が上昇するでしょう。

 外航海運において自然独占性が存在するのかは、私の貧しい知識ではわかりません。ただ、他の分野の専門家に尋ねると、自然独占性が存在する可能性が十分にあるとのことでした。今は、他にも仕事がありますのですぐには手が回りそうにないのですが、年末最後の勉強会で面白いネタを入手できたのは収穫でした。

 それにしても、まだまだ自由化の流れは続くようです。先に示した自由化の成果の評価は、ごく一部にすぎません。1980年代のように民営化も同時に進んだ分野では、補助金の削減など多様な側面から評価する必要もあります。海運に関しては、勉強会で話を伺った際にはドメスティックな部分に偏っていたような気がいたします。これは、変化というものに留保をつけがちな私の性癖かもしれませんが、1980年代の自由化よりも今日の自由化は市場がグローバル化した現実を後追いしている側面が強いように思います。地球的規模である産業が自然独占性をもつということは考えにくく、旧来の慣行が強く残っている分野ではグローバル化へ対応すべくルールを見直してゆかざるをえないのかもしれません。他方で、国際市場といえども、ローカルな市場の組み合わせという側面もあるのでしょう。各地域の独自性が再び強く作用する場合には、自由化の内容も変化してくる、そんな感覚があります。

 そんなわけで、年明けもいろんな分野をブラブラしそうです。たぶんですけど、欠けているのは「ラブ」という状態は変わっていないのでしょうね(号泣)。

2007年12月21日

「グランドデザイン」のない国際経済

 まあ、「パニック?」というより、「パニック一歩手前」という状態でしょうか。モルガン・スタンレーが9−11月期の決算で96億ドルの損失を公表したという話を最初に見たのがこちら。「ニューヨークの金融業界のメルトダウンのような事態」というおっかない表現を見て、ちとびっくり。ただし、記事そのものは冷静で先進国間の協調体制にSWFをのけ者にするのは難しいという論調が基本だなと思いました。

 あとは、予想が外れてご本人がパニックの状態になっているので読むのが苦痛だったりします。エコノミスト、エコノミストの批判をする人たち、どちらも事態を冷静に捉えることができない人がほとんどではないかという印象をもってしまいます。予想が外れて混乱している人たちが多数派になっている状態をパニックと定義するなら、ネットの一部は既にパニックなんでしょう。伊藤洋一さんを除くと、冷静な観察が少ない印象があって、中国のマネーがアメリカの投資銀行に入ることによる効果もまるでわからない。「米中融合」へ過度に重点をおくと、事態がわかりにくい印象があります。

 他方で、伊藤洋一さんは金融市場の混乱による米国債の値上がりという日本側の利益を認めながら、それ以上に事態が進んだ場合、日本も政府系ファンドの活用を考えるべきだという主張をされていますが、かんべえさんの記事を読むと、かなり厳しい印象。CICがMSに出資した金額が50億ドルですから、今から政府系ファンドを立ち上げても間に合わないかもしれません。資金が仮にあっても、それを活用する人材がいないのでしょうから。それにしても、MSの次はどこと不謹慎なことを考えていたら、あっさり「次」が出てくる始末。

 伊藤洋一さんの2007年12月21日の記事によると、メリルリンチも50億ドルのテマセックから資本注入を受ける可能性があるとウォール・ストリート・ジャーナル紙が報道したとのことです。こうなってくると、危機が収まったときに起こりうるであろうことよりも、危機の「マグニチュード」(最近ではガルですか)がまるでわからなくなります。確実なことは、資本注入など欧米の圏外の政府系ファンド(SWF)を頼らざるをえないということで、欧米諸国の中央銀行の協調だけでは解決しそうにないということでしょうか。おそらくは、「震源地」であるアメリカがもっとも失うであろう資産が大きく、EU圏が次というぐらいで、まるで規模がわからない。大手金融機関が「招かざる客」を投資家に加えたことには各国内の投資家の反発が強まりそうで、どうなりますやら。素人の目に映るのは、経済的依存のレベルでは先進国だけで「新しい中世」とはならないかもしれないということでしょうか。

 SWFの実態は素人にはよくわかりません。ノルウェーの「国家石油ファンド」の場合には、安達正興さんによると、非常に厳しい制約が課されているようです。素人的にはアジアやアラブ圏の、SWFの強みの一つは、欧米流のルールに従う必要がないことだと考えております。彼らが欧米の金融機関への資本注入に手を上げるということは、欧米圏内に(中央銀行や政府を除くと)資金の出し手がいない状態でしょう。単純にカネが不足しているというだけでなく、さまざまな制約もあってとてもじゃないがよその面倒を見る余裕がない。さらに、MSでも追加損失が出る状態ではリスクも読み切れないでしょう。「ナイトの不確実性」で説明することも可能でしょうが、期待効用関数に関しては、加法性以外にも修正が進んでおり、将来を予想する理論自体がまだ粗いことを示しています。いずれにせよ、欧米圏内の金融機関には資金の出し手がなく、少なくともアメリカでは日本とは異なって政府が資本注入を行うわけにはゆかない。いきおい、欧米圏外でリスクをとれるだけの資金をもち、政府による余計な制約から自由で、かつリスクをとって利益を上げようとする意思があるファンドに頼らざるをないということでしょう。UAEやシンガポール、中国などにはそのような条件を満たすSWFがあったということで、もし彼らの存在がなければ、欧米諸国はルールを変更するか、ずるずると「パニック」に引きずりこまれるかという選択に迫られていたのかもしれません。もちろん、一連の資本注入にもかかわらず、「パニック」を避けることができるという保障はどこにもありませんが。

 厄介なことに、CDOが、金融機関だけでなく事業会社も含むカネの面での相互依存関係を集約して象徴する商品であることでしょうか。様々なリスクをヘッジするために作られた商品が、サブプライムローンを発端に悲観を市場が覆う状態になってしまうと、リスク計算そのものが困難になってしまい、悲観が悲観を呼ぶという淵源になってしまいます。この状況では一点で起きた「事故」が、他の経済主体にも拡大して波及してしまう。元々、市場自体がそのような相互依存そのものではありますが、資本市場は実体経済と比較すればはるかに調整速度が速く、同時にレバレッジなどで波及効果が拡大する性質が強く出ます。資本市場の「パニック」は、人々に適切な将来の予想(あるいは期待)を形成することを困難にしてしまいます。現状では「パニック一歩手前」と見ておりますが、資本市場が機能不全に陥った場合、少なくとも期待形成という点で、実体経済に影響がでるのは避けられないでしょう。もちろん、CDOに組み込まれている債券やローンなどだけでも十分に影響が既にでているわけですが。資本市場の振幅自体がわからない以上、実体経済への影響を考えることは無理がありますが、資本市場という現在の経済と将来の経済を結ぶ最も太いラインが機能しなくなった場合、アメリカやEU圏が相当の混乱を起こすことを考えておく必要があるのでしょう。

 再び、アラブ圏やアジア圏のSWFに話を戻すと、政治色などからこれらを敵視とまではゆかなくても、「無法者」扱いする傾向がG7でもありました。欧米流の資本市場のルールでは規制できないという点では、そのような扱いはやむをえないことも多いのでしょう。他方で、経済的相互依存の主体になる金融機関は「無法者」に資本を頼らざるをませんでした。センセーショナルな書き方をすれば、「欧米がアジア・アラブに頭を下げる時代の到来」となるのでしょう。「時の最果て」の中の人はボーっとした人なので、もっとどうでもいいことを考えてしまいます。

 欧米の資本市場の混乱が示しているのは、田中明彦先生の『新しい中世』の第一圏域も、第二圏域から超然としていることはできず、両者が経済的相互依存という点では、対立と協調という問題だけでなく、第一圏域内のみならず、第一圏域と第二圏域の相互依存が深化してゆくという意味での「多極化」が避けられないということでしょう。そのような実態に対応して国際協調体制も、少なくとも経済のレベルでは、第一圏域のみにとどまることはできなくなる可能性があります。その善悪是非にかかわらず、です。いずれにせよ、先進国中心の経済レベルにおける国際協調体制も、実際には体制外の存在によって補完される可能性が高いのでしょう。

 他方で、アメリカの政治的リーダーシップが弱くなれば、協調体制そのものを維持することが困難になるかもしれません。政治レベルでは協調体制から排除されている政治上の主体の統治下にある国の経済主体が、経済のレベルでは徐々に国際的な市場でプレゼンスを高めているわけですから、これらを排除した協調体制が維持できるのかどうか疑問でしょう。そして、かれらのプレゼンスを高めているのが、アメリカの金融機関との相互依存である以上、アメリカがこれらの国々を排除して政治的リーダーシップを発揮することは難しくなるでしょう。

 目の前にある「危機」から遠く離れてしまいますが、ブレトンウッズ体制はアメリカの政治・経済・軍事の総合的な国力をもとに西側諸国を経済のレベルで協調するよう強制する強力な力をもっていました。それは、あえてアメリカを偽悪的に描けば、アメリカ国内の管理通貨制度に西側諸国を組み込む効果をもったとも考えます。他方で、この体制は頑健ではありませんでした。ブレトンウッズ体制の下でアメリカ以外の西側諸国は経済的にも復興し、固定為替相場に象徴される国際的な政府による資本市場の規制の枠組みを資本市場自身が乗り越えてしまい、ドル危機が生じてしまいます。最近は、このような表現を好まなくなりましたが、ブレトンウッズ体制は成功したがゆえに破綻したというところでしょうか。アメリカの強制があったとはいえ、別の側面から見れば互恵的であるがゆえに成立し、少なくとも30年間は存続することができました。

 ブレトンウッズ体制の崩壊後は、資本市場への規制は、BISによるものをはじめ、分散化、あるいは分権化する傾向を示しています。見方を変えれば、アメリカによる強制という側面は後退して、各国の自発性のウェートが高まったとも言えます。他方で、協調体制が各国の自発性のみで成立するか否かは自明ではないのでしょう。少なくとも現在までは、アメリカの政治的リーダーシップと各国の自発性は、完全ではないにしても、基本的に補完関係にあるのでしょう。現時点からさらにアメリカのリーダーシップが低下した場合、国際協調が存続しうるのかはわかりません。憶測に憶測を重ねると、国際協調がない場合に資本市場が機能するか否かもまったくわかりません。資本市場が完全に自らを律することができるのかといえば、現状を見れば悲観的にならざるをえません。もちろん、国際的なルールがかえって資本市場を不安定にする側面も無視できませんが、資本市場の自発性のみで適切なルールができると考えるのは私には楽観的すぎるように感じます。

 今回の資本市場の混乱が示している側面の一つは、相互依存と分権化が地球的規模で拡大している市場レベルの問題と資本市場を律する国際的な枠組みが合致していないということだと考えております。もともと、両者が完全に合致することなどないのかもしれません。ただ、世界経済に関する国際協調体制は、アメリカの「覇権」をEU(遺憾ではありますが、日本は「圏外」)が代替するという古典的な発想ではなく、相互依存を後追い的にカバーしてゆく緩やかなものにしてゆく、より拘束力の弱い発想にもとづかざるをえないだろうと。もっと露骨に言えば、まず国際協調体制を築く政治的リーダーシップをアメリカにとって代わるほどの国はなく、アメリカのリーダーシップも他の国に超越する形ではなく、"one of them"としてものに変化してゆくのであろうと。

 市場の立場から見れば、ブレトンウッズ体制は、アメリカの強制によるものではありつつも、国際的な財や資本の市場の「設計図」を示したものでした。おそらくは、今後、そのような「設計図」にもとづいて市場が機能するという幸福な時代はしばらくはこないのであろうと。まず、取引という相互依存があり、そこから様々な慣行や習慣が発生し、それを事後的に律するという形に国際協調の重点が、既に変化しつつありますが、さらにそのような方向へと変化してゆくと考えます。

 ただし、このような国際協調体制は、実はより強いリーダーシップによって補完しなければ、機能しないのではないかと危惧しております。市場に関するルールづくりで肝要な点は守られるべきルールを明確にするために余計なルールを作らないことだと思いますが、多様な経済主体が存在する下で余計なルールを作らないこと自体、非常に強いリーダーシップが必要でしょう。さらに、国際協調では各国の政治的思惑を排除することは困難でしょう。国際協調体制に参加する国の数が増えるほど、適切なルールづくりは困難になることも多いでしょう。確実なことは、事前に「グランドデザイン」を描いてそこへ各経済主体を落とし込んでゆくというタイプの規制は難しくなっているということです。これまでルールづくりではアメリカとEU、場合によっては日本も加わる、先進国内の「覇権」争いに比喩されることが少なくありませんでしたが、そのような時代もすでに過渡期として見る時期に来ていると思います。