2007年11月13日

「ドル本位制」の「終焉」

 かんべえさんが「コンプライアンス不況?」を書いた。失礼ながら、泣き笑いの世界だなと。そう思っていたら、ぐっちーさんが「CDO惨禍・・本当の原因はバーゼルII?」を書いた。究極の「ネガティブ・インディケータ」(by匿名さん)が賞賛すると、碌でもないことが起きるので怖いが、知的刺激に富んでいて、楽しい。前半のCDOの分散に関する説明は、格付けという点からきれいだ。後半の「バーゼルII」の説明にいたっては、私が世間知らずで不勉強なだけかもしれないけれど、クリアカットだ。あまりにクリカットなので、疑ってしまうぐらい。ひねくれ者の私は、きれいすぎる説明を疑ってしまう。ただ、リスクウェートを「適正」にしようとするルールが、かえってリスクマネーの動きを制御不能にするというのは刺激的。世間は、株安円高で騒いでいるようだけれども、これは幸せな気分だ(もう一息で一枚追加したいのが手に入りそうだし、ドルは早々に一部放出済み)。さあ、寝よう。

 というわけで、「闇の組織」が蠢いているようですが、まじめな話は両巨頭(少なくとも、お一人は悪徳商人ですので用心する必要がありますが)にお任せするとして、「時の最果て」ではもっとどうでもいいことを考えましょう。「ドル本位制の崩壊」と書くと、おどろおどろしい感じがするかもしれませんが、 「と」の字が頭に浮かんだ方は、「寝言」に変換して下さい。案外、似たようなものかもしれませんが。というのも、経済学も経済書も無視して、私の「寝言」を書くだけですので。

 ブレトン・ウッズ体制の崩壊によって金ドル本位制と固定為替相場制の組み合わせは崩壊したものの、先進国の協調体制はまだ不備でアメリカのリーダーシップでドルを「基軸通貨」とすることで変動為替相場制への移行のショックを抑制してきたのが、1970年代から2000年代。

 結論を書いてしまうと、アメリカのリーダーシップが後景に退き、国際協調体制が代替するのが、「ドル本位制」の「終焉」です。あるいは、「通貨の通貨」としてのドルが"one of them"になる状態ともいえるでしょう。貨幣の機能である、(1)決済手段、(2)価値尺度、(3)価値の保存を国際的にドルが代表する時代の終わりです。「寝言」らしくちゃらんぽらんなことを書くと、今の混乱で「ドル本位制」が崩壊したわけではなく、アメリカのリーダーシップに国際協調体制が代替しうるのかも不透明です。ただ、私の浅い理解では、バーゼルIIに象徴される金融機関のリスク管理に関するルールづくりの分野では国際協調体制が主になっている印象があります。このことが「通貨としての通貨」というドルの地位を直接、崩すものではないのでしょうが、経済的相互依存の深化とともに、経済レベルでは国際協調体制が中心的役割を果たす可能性が高いと考えます。
 
 他方で、「ドル本位制の崩壊」あるいは似たような表現を用いる方は、ユーロや人民元がそれにとって代わるということを意味することが多いという印象があります。その裏側には、通貨をめぐる大国間のソフトパワーとハードパワーの変化を読む向きもあるようです。私は、もっと素朴に、ドルにとって代わる通貨がない状態でも国際的な資本市場が機能するのかという点に疑問をもっています。大胆なことを書いてしまうと、国際的な決済手段やアメリカ以外の国における外貨準備高に占めるドルの割合が現在よりも低下し、アメリカの通貨政策が国際資本市場に与える影響がはるかに弱まったときに、他の国や地域の通貨ではなく、国際協調体制が成立して、資本市場の不備を支えることができるのかという問題です。

 ブレトン・ウッズ体制もアメリカ主導とはいえ、戦前の金本位制の崩壊から生まれた国際協調体制です。教科書的には、金とドルの交換比率を固定し、各国の通貨当局にのみドルと金との交換を認めた上で、金に裏打ちされたドルと他の為替レートを固定することによって、国際通貨体制を安定させました。他方で、この体制の下では各国の通貨当局は固定レートを維持するために為替介入の義務がありました。このような安定化のためのしかけは、国際的な資本移動が増加するにつれ、投機筋による挑戦を受け、各国の中央銀行の「裏切り」もあって、最終的には崩壊してしまいます。極論すれば、ブレトンウッズ体制というのは、戦前の金本位制から今日の変動為替相場制への移行期であったと思います。

 他方で、ブレトンウッズ体制が崩壊しても、ドルはただちには「通貨の通貨」としての地位を失うことはありませんでした。同時に、1985年のプラザ合意のように、固定為替相場制では実現できなかった形で為替レートに関する国際協調体制が一時的とはいえ、機能しました。ただし、ブレトンウッズ体制に代わる恒常的な国際協調体制は、私が無知なだけかもしれませんが、まだ誕生していないと思います。

 グローバル化には多様な側面がありますが、「カネ」のグローバル化という点から見たときに、特定の国あるいは地域の通貨が資本市場のグローバル化を担保するということはないのかもしれません。「ドルの凋落」を考える際に、米欧中の角逐を議論する向きには「気の抜けたビール」のような話でしょうが、資本市場のグローバル化がありきで、それに各国の通貨当局が後追い的に協調したり、対立したりしながら、混乱が生じるのでしょう。また、「ドルの凋落」がただちに国際関係におけるアメリカの地位の低下を意味するのかは、カネという面からのみ説明するのはあまりに一面的だと思います。歯切れの悪い「寝言」ですが、資本市場のグローバル化とともに顕在化してきた市場の不完備性を特定の国や地域が是正することは難しい時代に入ったと思います。この変化は、少なくとも1970年代から始まっていたのかもしれません。

2007年11月09日

相互依存の深化と反発

 「旬」が過ぎた頃に、他所様で熱く語られた「古戦場」を訪れるのはわび・さびのあるものです。まずは、いかれた「外道」の悪趣味というところでしょうか。ちょっと驚いたのは、今日もふだん政治の話に興味がなさそうな若手から尋ねられて、野党第1党というのはバカにできないなあと実感いたしました。

若い人:なんで、小沢党首は辞めないのか?あそこまで言い切ったんだから、党を割ってほしかった。
:ところで、小沢さんが辞めたら、君のお給料は上がるの?
若い人:……。(ムッとした表情で)関係ないでしょ。
:小沢さんが留任したら、君のお給料が下がるの?
若い人:……。あ、どうでもいいってことですね?
:おお、さすがだ。よくぞ気がついた。君はまだ若いし、前途はある。無駄なことで時間を潰さない方がいいよ。

 一介の給与所得者の給与へ野党第1党の党首の「進退」をかけるのはどうかとは思うのですが、このぐらいの塩加減が妥当かなと。「余震」が続いているようで、野党第1党を侮りすぎていたなと思います。ちなみに今回のことで何が変わったのでしょうという問いもあったのですが、「これでもう一回、辞意を表明したら、撤回できなくなったてなところかな」と答えて、周囲を絶句のち笑わせて楽しみながら、彼らには知られないように実際は溜まった仕事をこなしてゆく日々が続きます。

 徐々に政策協議自体は進んでいるので、「大連立」が幻に終わっても、実務的に与野党でコンセンサスを築いてゆく作業自体は、今回の騒動で加速はしても、進んでゆくと見ております。また、それでよいとも。自民党から見ても、野党との協議で妥協を迫られる局面も多く、今回の一連の騒動で自民党だけが一方的な利益をえたというのはあまりに一面的な見方だと思います。議会制民主主義では妥協とコンセンサス形成によってよりよく統治が機能するという、明治以来の本質が現状では際立っているということだと考えております。

 さて、海外の動きが気になるところですが、こちらを拝見して、「イラン戦争?」という話もあるようでして、さすがに、これは。直近の状況さえ追えていないので、『世界の論調批評』で紹介されているDavid Ignatiusのコラム"Walking Into Iran's Trap"と10月7日の"A Way Out' for Iran"をあわせて読むと、ブッシュ政権の基本政策は、一方で制裁と武力による圧力をかけ、他方で穏健派の力が増大し、イラクを安定化させる方向で進むことを促進することだと理解できます。10月7日のコラムでは、国連(事実上、安保理理事国が主要なプレイヤーですが)による緩やかとはいえコンセンサスが存在し、アメリカの金融制裁や中露(とりわけロシアの影響力が大きいと指摘されています)がイラン問題でアメリカ側にいること、フランスのリーダーシップでEUも共同歩調を崩す可能性が低いことなどが指摘されています。

 問題は、アフマディジャネードがこれらの圧力をどのように評価しているのかという点が大きく、予備的交渉が不首尾に終わっている状態で、強硬派の圧力への評価が不透明な点にあるのでしょう。イランの強硬姿勢自体は虚勢も含んでいますが、アメリカに有効な軍事的オプションがなく、なおかつ軍事的オプションがイランにとって以上にアメリカにとって耐え難いという打算にもとづいているとイグネイシャスは見ているようです。「イランの罠」というのは、『世界の論調批評』にもあるように、アメリカの軍事力が十分に発揮できない状態で戦争へと引きずり込み、西側諸国へ経済的打撃を与えることでしょう。もちろん、戦争による人的被害が最大の問題ですが、イランへの軍事行使が実現したとしても、戦いを支える西側諸国の国内体制と世論に打撃を与えて、戦争を続けることができないという状況に至れば、イランの核武装を阻止することは事実上、不可能になります。いずれにせよ、『世界の論調批評』で指摘されているように、「アメリカが、イランの核開発を容認するか、核施設を攻撃するかの二者択一しかない立場」に追い込まれれば、「不測の事態」であり、なおかつ解が見出せないリスクがあります。

 イスラエルによるシリア空爆や非対称戦争の問題なども挙げられていますが、ここでは割愛します。「生兵法怪我のもと」ですので、表面的な観察にもとづいたものですが、アメリカの対イラン政策では、対北朝鮮政策(アメリカが「混乱」している印象もありますが)よりも、核放棄という点では確実な政策が実行されていると思います。他方で、世界の政治・経済におけるイランの不安定化の「重み」と北朝鮮の「重み」を比較すれば、前者の方がはるかに大きく、日本にとってはアメリカの北朝鮮政策の方に目がゆきがちですが、アメリカの外交上のリソースはイランを中心にアフガニスタンから中東に集中しており、北朝鮮に割くことができるリソースが限られていることを抑えておくべきでしょう。対イランと比べて北朝鮮では腰が引けているという批判自体はまったく的外れではないと思います(ヒルの独断専行は目に余るものがありますが)。

 しかし、アメリカが世界で最も影響力が高い国である同時に、経済的相互依存だけでなく、国連や他の主要国との協調を不要としないほどのパワーを有している国ではなく、多様な相互依存の中で選択肢が限られていることを忘れてしまうと、アメリカの行動を理解することは難しいと思います。イランでは北朝鮮以上に核放棄という点では手厚い「布陣」を敷いているのにも拘らず、ただちに外交的成果を挙げることは難しいでしょう。また、相互依存といっても、基本は互恵的関係であっても、異なる国と国の関係である以上、フリクションも避けることができません。国連という超国家的組織に過大な幻想を抱くのには批判的ですが、その根本には、超長期的な展望はともかく、現実には主権国家の多様なレベルでの相互依存によって各国が利益を追求するとともに、協調をしているというのが今日の世界だという私自身のナイーブな認識があるからです。相互依存の下ではアメリカのような超大国ですら、選択肢が限られてしまうのです。

 ここまでお読みいただいた方には、ないないづくしではないかという感想をもたれたかもしれません。政治や経済の相互依存の深化は、従来よりも主権国家の主体性を制限してゆくでしょう。他方で、そのような現実は、他の諸国にとっても同じです。ありきたりの「寝言」になってしまいますが、外交というのは元来、そのようなものだということをわきまえた上で、少ない選択肢の中でよりマシな選択を行うという作業の積み重ねであるということです。そして、情勢分析が正確であることが望ましいけれども、どれだけ精密に情勢分析を行っても、その時々の情勢認識の的確さには限界があります。こちらで書いたように、事前の情勢分析を徹底して行うと同時に、個々の政策は、必ずしも、ある統一した戦略、もっとくだけた表現をすれば、原理原則から導かれるのではなく、ときどきの状況に応じて関連が薄かったり、場合によっては齟齬をきたすこともあるのでしょう。そのような政策を事後的に評価し、よきものを残してゆくことが、戦略的行動なのかもしれません」という視点をもつことが肝要だと考えます。

2007年11月01日

国際石油市場データに見る経済的相互依存の深化(後編)

 他方で、消費面から見ると、私が迂闊なだけでしょうが、びっくりするようなデータでした。まず、大雑把なまとめを示します。

表2 世界の石油消費に占める各国・各地域の割合

                  1965年	1985年	2006年

アメリカ合衆国 36.9% 26.5% 24.6%
ヨーロッパ・ユーラシア地域 37.9% 37.7% 24.5%
アジア・太平洋地域 10.5% 17.7% 29.4%
日本             5.5% 7.5% 6.2%
中国 0.7% 3.1% 8.9%
OECD諸国 74.4% 62.7% 58.6%


 原データでは実数は一日あたりの消費量を千バレル単位で示しています。まず、細かい点からみてゆきましょう。2003年に中国の石油消費量が580万3,000ガロン/日で日本の545万5,000ガロン/日をはじめて上回りました。2006年には中国が744万5,000ガロン/日で日本が516万4,000ガロン/日です。このデータから中国の成長ぶりもうかがえますが、同時に生産量が伸び悩んでいる状況を考えると、世界的な経済的相互依存に中国も組み込まれていることが、石油という資源・製品に限定しても、端的に示しているデータだと思います。中国の「資源ナショナリズム」と日本も無縁ではなく、ガス田などではむしろ当事者の一人ではあるのですが、中国の消費量は既に日本を凌駕しており、特定の国を囲い込むことで解消する問題ではないように思えます。同様のことは、日本にもあてはまる問題です。

 寄り道ついでに、中国の一日あたりの石油消費量(単位:千バレル)と伸び率を見てみましょう。

表3 中国の石油消費量と伸び率

1990	2323	-0.8%
1991 2524 8.7%
1992 2740 8.5%
1993 3051 11.4%
1994 3116 2.1%
1995 3395 8.9%
1996 3702 9.0%
1997 4179 12.9%
1998 4228 1.2%
1999 4477 5.9%
2000 4772 6.6%
2001 4872 2.1%
2002 5288 8.5%
2003 5803 9.7%
2004 6772 16.7%
2005 6984 3.1%
2006 7445 6.6%


 以前から、中国のGDPデータを「疑惑の目」で見ておりますので、私の中国経済に関する見方には先入観が強いと思っていただいた方がよいのですが、私が何に疑問をもっているかといえば、成長率のデータを見ていると、景気循環がないかのような、フラットな成長を遂げているデータがでてきます。景気循環がどのような要因で生じるのかは、まだ説明が付いていない部分が多く、そのようなフラットな成長もありえないことはないのでしょうが、日本の高度経済成長期でも景気循環は存在したわけで、景気循環も多様な「市場の失敗」の結果としてみる立場からすれば、景気循環が存在すること自体が、ある程度まで市場が機能している(したがって、機能不全も生じる)と見ることもできるでしょう。上記のデータを見ると、1998年と2001年、2005年(この年は前年が極端に高い数字である結果の可能性がありますが)には石油の消費量の伸び率が明らかに低下しており、また、2002年から2004年(この年の数字はあまりに極端な印象もありますが)には高い伸び率を示しています。石油の消費量がGDP成長率と直結していると考えるのは危険ではありますが、ある程度の相関があることを考慮すると、上記のデータは、GDPデータでは現れていない景気循環が中国経済にも存在している可能性があることを示唆していると考えます。まどろこっしい言い回しが続きましたが、要は、中国も通常の市場経済へと進みつつあり、世界的な経済的相互依存関係へ組み込まれつつあるということです。また、中国の経済成長は、クルーグマンが1990年代の韓国や東南アジア諸国に関して指摘した要素投入型の成長として見ることもできるかもしれません。今回、参考にしているデータではそこまで踏み込むのは危ういので、可能性があるというあたりでとどめます。

 再び、表1に戻ると、1965年の時期には、原油という資源の偏在以上に、消費がOECD諸国で75%を占めるという極端な状況であったことがわかります。1960年代に原油価格が安定していた理由としていわゆる「石油メジャー」の存在がよく挙げられますが、同時に買い手も集中した状態で、「政治的資源」も西側諸国に集中していたこともあって、買い手の立場が強かった時代だったと思います。また、1965年のデータを見ると、アメリカ一国の石油生産量が中東地域全体の生産量を上回っています。先進諸国が原油の生産、消費、政治的影響力という点で産油国を圧倒していた時代なのでしょう。他方で、1950年代から1960年代は旧植民地の独立が相次いだ時期でもあり、ベトナム戦争で植民地解放という第2次世界大戦後の世界的な政治的動向が後戻りすることがにないことも示されます。しかし、独立を果たした新興国は、先進国に対して共同して影響力を行使するほどの力はまだありませんでした。

 1970年代に入ると、イスラエルとアラブ諸国の関係が極端に悪化し、中東地域でのナショナリズムは、キッシンジャーが"Years of upheaval"と回顧録に表現したとおり、単に冷戦という枠組みだけでなく、いわゆる「非同盟諸国」を中心に独立から反米ナショナリズムの高揚によって世界中が政治的にも経済的にも混乱した時期でした。これは、ベトナム戦争後、孤立主義的な傾向を強めたアメリカの影響力の低下とソ連の影響力の増大という側面もあります。さらに、ブレトン=ウッズ体制の崩壊など国際経済体制の劇的な変化と先進諸国においてスタグフレーションが進み、国内での財政金融政策の模索と同時に国際協調体制の再編が図られた時期でもあります。原油価格の上昇は、直接的には先進国の経済へインフレーションという形で影響をおよぼしましたが、同時期に起きた政治的・経済的混乱によって、OECD諸国が一方的に交易上、有利な条件を途上国に強いることは難しくなり、国際協調体制の再編によって、より自由主義的で開放的な経済的秩序を構築する模索の時期であったと思います。1970年代から1980年代のこの試みがどの程度まで成果を評価することは、私の手に手に余ります。「自由主義的で開放的」と書きましたが、「プラザ合意」などによる為替レートの誘導など場当たり的な対応が行われた事例も少なくありません。

 国際石油市場の安定という点で国際協調体制がどの程度、効果をもったのかという点に絞っても、評価は難しい問題です。表2に示されているように、1985年の時点でもOECD諸国は世界の石油消費の約62.7%を占めていました。これらの諸国が、消費国として協力してOPEC諸国に圧力をかければ、価格の引下げが起きたのかもしれません。しかし、現実には、カルテル内部での利害の対立や「アウトサイダー」の存在など、サウジアラビアの減産停止に象徴される「カルテル破り」に有効なパニッシュメントの構築の失敗など、カルテルそのものがもつ不安定性が大きく作用したようにも見えます。これは、あまりに経済的な側面に偏った見方かもしれませんが、消費国が偏在しているという実態を先進諸国は積極的に活用せず、イラン・イラク戦争におけるアメリカのイラクへの援助のように、イラン革命の波及を押さえ込むという政治的な対応がメインであって、そこには国際石油市場を安定化するという目的は希薄であったと思います。こちらでボブ・ウッドワードによるグリーンスパンのインタビューを紹介しましたが、グリーンスパンは、イラク開戦にあたって、ブッシュ政権に国際石油市場の安定という観点は希薄であったと指摘しています。もちろん、キルクーク油田などには手回しが良すぎるほど兵力を展開したために、戦争目的が石油利権の確保ではないかという疑念を招く一因とはなっているのですが。

 いずれにせよ、OECD諸国の国際石油市場への対応と国際政治における実際の対応は、サミットのようにある程度、経済的な動機に裏付けられた部分があるとはいえ、国際石油市場の安定ということを目的とした戦略的行動として説明することは難しいでしょう。OECD諸国は、国政石油市場において生産側以上にはるかに高いシェアを1960年代から1980年代まで維持してきました。それにもかかわらず、1970年代以降、OPECの「石油戦略」やイラン革命などに戦略的に対応したと評価するのは無理があると思います。原油、あるいはより一般的に石油のように、戦略的な資源でさえ、ある政治的アクションを説明するのには限界があるのではないか。そのように思います。別の側面から考えれば、海賊による日本のタンカー襲撃が示すように、原油へのアクセスを直接に企図していない国際協調が結果としてそのような効果をもつこともあります。原油が戦略的資源であることは否定できないと思いますが、過度に戦略性を追求することには限界もあるでしょう。表2が示すように、消費側から見ても、あるいは生産側から見ても、今日の国際石油市場は、カルテルや排他的取引など戦略的行動によって特定の国だけが利益をえることは難しくなっていると思います。

 2006年のデータを見ると、OECD諸国の消費量に占めるシェアは58.6%にまで低下しています。中国の成長だけでなく、世界的に見て経済では「多極化」の流れが進んでいるということを示しているのでしょう。他方で、1965年から1985年の期間と1985年から2006年の間におけるシェアの低下を比べれば、後者の方が低下のスピードが鈍化していることが明白です。経済の「多極化」にもかかわらず、やはりOECD諸国の生活水準・経済活動の活発さは抜きんでていることを示しているのでしょう。また、地球環境問題への取り組みやや省エネルギー技術でOECD諸国が先進的であることは否定できないものの、これらの国々が国際石油市場そのものへ直接、安定化を図る努力以上に、限られた天然資源を有効に活用する更なる取り組みが、結果として国際石油市場の安定にも長期的につながってくるのでしょう。

 既に、原油価格の高騰はそのような圧力を巨大な消費国に与えているのでしょう(原油価格の高騰自体は、ファンダメンタルズや需給をベースに金融市場とのリンケージから生じているのでしょうが)。とくに北米では他地域とは比較にならないほど中間流分に対して軽質留分の消費量が莫大な量になっています。北米の人口の地理的分布から、公共交通機関による私的交通の代替は困難な問題も多く、ガソリンへの依存を直ちに抑制することは困難でも、石油価格の上昇は、燃費効率の改善や代替エネルギーの開発など別のインセンティブを与えているように思います。経済でも政治でも戦略的行動というのは困難で、ことが起きてから対処することが多いのでしょう。

 石油の話から外れてしまいますが、政治や経済では最初から首尾一貫した原理原則から導かれる戦略的行動というのはむしろ例外であって、多様な試みの中から、優れたものを残してゆくという作業が、地味ではありますが、戦略的行動なのだろうと思います。「個々の政策は、必ずしも、ある統一した戦略、もっとくだけた表現をすれば、原理原則から導かれるのではなく、ときどきの状況に応じて関連が薄かったり、場合によっては齟齬をきたすこともあるのでしょう。そのような政策を事後的に評価し、よきものを残してゆくことが、戦略的行動なのかもしれません」。日本人は、このような意味での戦略的行動を意識的に追求することを軽視する傾向があるように思う今日、この頃です。

2007年10月31日

国際石油市場データに見る経済的相互依存の深化(前編)

 雪斎先生の「石油の一滴は血の一滴」という記事は、情理をつくしており、論旨には概ね共感を覚えます。他方で、コメント欄で紹介されているデータは、私の迂闊さをあえて記しておりますが、原データを見るのは初めてでして、参考になりました。BPのデータを見ていると、エクセルで簡単な計算をしながら、様々なことを思います。例によって、「時の最果て」らしくとりとめがありませんが、データを見た感想をあれこれ書いてみます。なお、思ったより長くなってしまったので、2回にわけて掲載いたします。なにか特定の政策的インプリケーションを導こうという意図もなく、単に雪斎先生の記事で紹介されていたデータを眺めながら、楽しんでいた感想文ですので、お世辞にもまとまっているわけではなく、「寝言」にお付き合いくださる、お暇な方(失礼!)のみ、クリックしてください。なお、今週末から来週にかけて予定が立て込んでいるため、更新を行わない日が増えると思います。


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2007年10月24日

命をカネで代替できるのか?

 この方がけれんのない文章を載せるときは、拝聴しておけばよく、特別、感想も浮かばないです。まあ、「寝言」を書くのは蛇足というものですが、「時の最果て」らしく、よけいなことをしておきましょう。私の備忘録以外の何者でもなく、なにかを主張しようという面倒な欲もないのですが。

 冒頭の話題からかけ離れて恐縮ですが、故佐藤誠三郎氏との対談を岡崎久彦氏がまとめた『日本の失敗と教訓 近代160年の教訓』(扶桑社 2000年)という本があります。ずいぶん、昔に伺った話ですが、佐藤氏が岡崎氏の日米同盟論を厳しく問い質すというやりとりがあったそうです。どのようなやりとりであったのかは詳しくは知らないのですが、岡崎久彦『日本は希望の新世紀を迎えられるか』(廣済堂出版 2000年)には5人の方たちが論考を寄せていて、佐藤誠三郎氏は「現代世界における平和と文化」という論考を寄せていて、単行本で8頁強ほどですが、視野が広く、普通はその分、内容が薄くなるものですが、個々の論点について簡潔ながら、深い洞察を示されていて、驚いた覚えがあります。このような議論に私が関与するにはほど遠いのでしょう。

 これは、5年以上前のことですが、私よりも一つ上の方が、この問題にどのように答えますかと尋ねられて、困ってしまいました。正確に言えば、困ったわけではないのですが、こういう一瞬はある意味で怖いものでして、私自身の姿が鏡に映ってしまう。正確に言えば、このやりとりがあってから、あらためて佐藤氏が岡崎氏に投げかけた問いを読み返したのですが。このときは、十分に議論のバックグラウンドを理解していない状態でした。実際に考えたのは1、2秒でしょうが、「考えに考え抜いて、疑いに疑いぬいてこれだけは理屈ぬきで前提とせざるをえないものは公理として話が始まりません。それがなければ、考えること自体をやめることがありません」とお答えした記憶があります。喫茶店での気軽な会話の後で非常にリラックスしておりましたが、このときはポーンと公案を投げ出された若造のような気分でした。

 「日米同盟は日本の安全にとって自明の公理である」と私自身が断言できるほど、考え抜いたわけではありません。しかしながら、「虚構」を置かなければ、見えない現実というものもある。もっと言えば、「虚構」なしで現実を見ることができないように、人間の認識というものはできているらしいと感じることがあります。始原を「無」におくなど、作為的な「虚構」の最たるものでしょう。「仮想現実」という言葉を聞くと、どことなく違和感があります。テクノロジーが発達する前から、人間は仮想現実であがき、もがいている。そんなありように等しく敬意を払いたいと思う一方、私も「私」である以上、濃淡が生じてしまうことを感じます。

 冒頭の話に戻りますと、あまり付け加えることがありませんが、日英同盟が切れた後、先の大戦で敵味方に分かれたとはいえ、イギリスという旧同盟国というのは、よくものが見えていて、現在の日本政治の混迷に手厳しいながらも、ありがたいものだと思います。こちらを見ると、日本を肯定的に見ているイギリス人が多いのだろうと思います。いわゆる「好感度」調査に過ぎないでしょうし、だからイギリスのインテリの話をきけということでもなく、彼の国には野蛮さと同時にあらためて高貴さを感じます。他方で、この国では命の問題をカネで代替できるかのような発想の方が少なくないご様子で、彼我の違いを感じてしまいます。冒頭で引用させて頂いた記事で救われた気分になりました。救いようがないように見える状況下で、カネで代替しようと言われると、絶望的な気分になりますが、人間味に触れると、厳しいながらも現実を見てゆこうという気分になります。

2007年10月03日

「新BSディベート:日中国交正常化35年」を視聴して

 こちらを拝見していたら、伊藤洋一『スピードの経済』(日本経済新聞社 1997年)を文庫化しようという計画があったのに、ご自身が潰してしまったとのことで、ちとがっくり。今日では「ドッグイヤー」とか陳腐化した用語が多数、含まれているとはいえ、市場経済のダイナミクスをあれほど専門知識が乏しい人にもわかるように書いてある本はまれなので、これは嫌味やお世辞ではなく、本当にもったいない。『日本力。』もよい本だと思いますが、やはり若い人に読ませたい経済書としては、『スピードの経済』が勝るように思います。もったいないなあ。

 思えば、「四酔人シリーズオフ会」に参加させていただいたときに、伊藤師匠に私が不躾な質問をしてしまい、伊藤師匠が一瞬、リアクション不能に陥り、それを見ていたかんべえ師匠が「プッ」という笑みを浮かべておりましたなあ。あのあたりで「極悪」のネーミングが頭の片隅にあったのかもしれません。

 前置きはこれぐらいにして、「新BSディベート:日中国交正常化35年 新たな関係をどう築くか」(NHK BS)を見ました。日曜にゆっくり時間がとれないので録画ですが。HDDレコーダーはあるのですが、CATVのチューナーといったいのものでDVDに落とす機能がないので、『風林火山』は怖くて録画できないんですね(約24時間が録画限界)。雪斎先生の記事を拝見していて「しまった」という感じ。「日中国交正常化35年」は、NHKの番組にしてはずいぶん踏み込んでいて、ちょっと驚きました。もっと、まどろこっしい番組かなと勝手に先入観を抱いておりましたので。ちなみに、こんな記事を書きましたが、仕事とその他でお付き合いする中国人のイメージは全くといってよいほど違うので、世間じゃこんなに「嫌中感情」があるのか、私があまりに牧歌的なのかと落差を、この1ヶ月ぐらいで感じたしだいです(シイタケだけは許せないのですが)。年上だったり、同世代ぐらいですと、完全に「堕落」して民主主義+市場経済にどっぷりとつかって私みたいな最悪の俗人ともワイワイガヤガヤ。間違っても、道で痰を吐いたりしませんね。若い人など下手な日本人より礼儀も正しいし、頭もはるかによいので、(私を「先生」扱いするのでこれは止めさせようと思っておりますが。「知的荒廃」を他者に広めるほど厚顔無恥ではないので)こういう「頭脳」をどうやって日本に取り込んでゆくのか、とてつもなく悪い頭で「悪知恵」を働かそうとしております(『らんま1/2』で精神的に堕落させるのは完了。怖いんですが、下手な日本人より麻生太郎ファンになってしまい、今、「フフン語」の特訓中。やっぱりだめか…)。

 ……失礼しました。番組の話に戻ります。外交関係などの話もおもしろいのですが、NHKのBSだからなのでしょうか、NHKにしては率直な意見がでていたように思います。もっとも、これは地上波・CSに限らず、テレビの討論番組をめったに見ないせいでしょうか。中国の経済成長が「脅威」であるかについては、番組内では「脅威ではない」という一致があったように思います。経済という次元に限れば、私もほぼ同意見です。番組ではGDPの金額ではなく、1人あたりのGDPでは中国が日本にキャッチアップするのは困難だという点を議論されておりましたが、現実的な見通しは別として、仮に中国が1人あたりのGDPで日本を上回ったとしても、「驚異」ではあっても、「脅威」ではないでしょう。日本が「経済大国」であるということに、この国の誇りを見いだす方は別として、他国の経済成長がこの国の経済を停滞させるというわけではなく、感情的な意見が生じるのはやむをえないにしても、経済レベルで中国が裕福になることがこの国の「貧困」を意味するわけではないでしょう。他方で、中国経済が世界経済で占める割合が増大するにつれて、中国経済の混乱が世界経済に打撃を与える程度は、徐々にですが、増大してゆくでしょう。後半で問題になった中国製品の品質・安全性は、確かに世界中にごく短時間で情報が流れるという状況で過度に警戒されている側面があるのでしょうが、むしろ、それだけ中国経済の問題が世界に与える影響を増していることを示しているのでしょう。

 ちょっと驚いたのは、長期では中国企業が日本企業を凌駕し、日本企業の競争力が失われると言う指摘をされている方でした。あのような発言は、中国人から発するべきではないでしょう。その見通しが正しいかどうかという問題以前に、いずれにせよ、日本企業は中国企業だけではなく、先進国の企業やその他の諸国の企業と競争をしているわけで、MAでの遅れなど問題はあるのでしょうが、これは日本企業が努力する問題にすぎない。このような発言は、単に中国が世界を制するかのような印象を与え、「中国脅威論」を煽る、拙劣な発言のように思いました。この無神経さは、私にはわからない。「釣り」かなと思いましたが、それにしても下手くそな「釣り」だなというイメージ。

 問題は、中国の経済成長そのものというより、経済成長の果実が軍備に回り、軍拡競争(この国は防衛費を抑制どころか削減し、間違ったシグナルを発信していると思いますが)へと回ることです。1960年代後半から日本の軍事費の増加を指摘しているパネリストの方がいらっしゃいましたが、あれは冷戦期の話で現在の中国の軍拡と比較するのはあまりに時代背景を無視しており、現在の中国と事情が異なることは明白で、むしろ、冷戦期の日本をもちださざるをえないことが論拠の苦しさを示しているという印象です。討論番組はたいていつまらないのですが、多様な立場の方の発言を聞いていると、説明が苦しいということが示されることがあるという点では、それなりに意味があるのかもしれません。

 伊藤洋一さんが、政治体制としての社会主義が経済活動における個人・組織の自由な創造性を妨げているという指摘をされていました。この点は興味深い。私自身が、中国経済に関しては全く無知なので、実例(難しいでしょうけれど)があるとこの点は議論が深まるでしょう。ただ、政治体制の相違は、後半の、とりわけ環境問題では深刻だと思います。露骨に言えば、たとえ中国共産党の一党独裁体制が経済活動にとって制約になっていたとしても、それは中国の成長を制約するのであって、その他の国にとってそれほど問題かといえば、それ自体は中国の問題であって、他の国にとってそれほどの問題ではないでしょう。中国で事業を行っている企業や中国内の事業所と取引がある場合には、中国の政治体制というよりは、法制度の問題は深刻でしょうが、少し区別をした方がよいのかなと思います。

 最も違和感を感じたのは環境問題に関する話ですが、品質や安全性に関する中国当局者の発言。なんとなく途上国だからという言い訳が目立って、これでは中国製品にたいする不安感を煽るだけではないかという印象を受けました。知り合いで中国繊維を扱っている人に聞いた話では、中国製の生地もランクがあって、あるランクを超えると、質はかなり高い。しかるに、中国のWTO関係者だったかな、中国製品にも上・中・下があって、最終的には消費者の問題だという発言をしていたのには、スタジオと同じくひいてしまいました。こちらでは、あくまでネタですが、「無責任なことを書いてしまうと、支払い余力のない方にはリスクをとってコストが低い製品を選択する余地を残すためには、中国製品も必要ではないかと」などと書いておりますが、中国当局がこのようなメッセージを発してしまうと、品質も高く安全性も高い製品まで忌避されてしまう。やはり、政治体制と自国への過大な「忠誠心」が中国の信用を損ねている印象をもちました。

 中国の環境問題は疎いのですが、五島列島で光化学スモッグが発生しているというのは、恥ずかしながら、あの番組で知ったので、無知そのものです。石川好さんだったかな、この点では中国への国際協力が必要だという点で一致しましたねとまとめておられましたが、私はまるでそんな感じがしませんでした。番組では、スタジオでの参加者に加えて、北京の学生さん、上海のビジネスマンの方などが参加されていましたが、みな口をそろえたように国際協力が必要だと主張していて、それは理解できないではない。しかるに、中国ではこれだけの努力をしています。近隣諸国にも影響が出ていて、これにも中国に責任がある。ただ、それを中国だけでは解決することはできない。だから、具体的な分野を指定して、この分野では中国へ協力してほしいという、普通だったらそういうロジックを立てるだろうと思うのですが、とにかく技術を移転してほしい、協力してくれでは、問題が解決しそうにない。中嶋嶺雄さんが「もう手遅れ」と発言していたのに、伊藤洋一さんが猛烈に反発していて、そんなことを言ったらなにも進まないじゃないかというのは理解できるのですが、中嶋さんとは異なる立場から、これは無理だろうと。中国の大気汚染、水質汚濁などは中国国内の人たちがまず苦しんでいて、それをまず自ら解決しようとするのが筋だろうと。そのような努力に関する言及がなく、やれ国際協力だ、やれ技術移転だというのでは、仮に実行したとしても、中国がそれを国内で真剣に解決しようとするために利用するのか、信用ができませんね。

 極論すれば、資金とノウハウだけ受け入れて他国に製品やサービスを売りかねない。まず、中国国内で環境破壊を抑制するための仕組みをつくり、中国自身が支出し、努力をした上での国際協力であって、そのような意欲を感じない状態では空理空論ではないかと。国際協力をするというのなら、中国にある程度、プレッシャーをかけた上で独自に対策を打つしくみを明確につくり、実際に活動を行った上で、足りない部分を協力するのが筋で、そのようなしくみをつくるために国際協力をしたところで、それが本当に環境対策に回るのか、確証がまるでもてませんでした。露骨に言えば、あの番組内での中国人の発言は、自国の環境破壊に他人事のようで、各国が協力するのが当たり前だととられてしかたがないものが目立っていました。国際協力を受けるのなら、当然、内政干渉という問題ではなく、中国自身が環境破壊に対して目に見える取り組みを行うことが前提でしょう。そのような「外圧」ぬきで協力などありえない。

 岡崎久彦さんは、日本人と中国人の違いとして、日本人は腹を割って真情を吐露するのと対照的に中国人は自分にとっていかに有利になるかということを踏まえて相手に耳障りのよいことだけを述べるという対比をされていたことがあったと記憶しています。これは、中国人を貶めようと言う意図ではなく、中国人が大人だということでしょう。中国人を相手にするときには、こちらも自らの利益を明確にして主張することが肝要だということです。ただし、あの番組を見る限り、中国共産党の一党独裁体制の下で一方的に自己利益のみを主張し、他国と互恵的な関係を築こうとする人材が十分に育っていないという印象を受けました。番組のサブタイトルである「新たな関係をどう築くか」という点に関しては、日本単独でやるべきこともあるのでしょうが、利害を共通する国と中国に対して「外圧」をかけ、中国が一方的に利益をえさせるような関係ではなく、通常の互恵的関係を築くことが必要だと思います。日中でも互恵的な関係を築く基盤が欠けている以上、「アジア共同体」というのは現状では「幻」でしかないないと思います。あえて、アジアという枠にとらわれることなく、アジア以外の国々とも協力して中国を自由で民主主義的な世界に包摂して行くことが肝要であるということが、今日の「寝言」です。

 この番組の底流にある中国の国内体制と経済の関係は非常に刺激が大きいのですが、この点は、機会があれば、また考えたい問題です。

2007年09月01日

いい加減に財政を考える

 気がついたら、9月です。残暑が厳しいのが恒例ですが、今年はどうなりますやら。気象庁のHPをほとんど欠かさず見るくせに、今夏は冷夏という予想をまったく知らなかったので、気象庁の予測が外れたと怒っている人たちを見て、世間の話題への疎さに恥じ入るばかりです。露骨に言ってしまうと、予測など外れることの方が普通なのだから、冷夏でも猛暑でもどちらでもよいように準備(上着が多少変わる程度ですが)をしておくというちゃらんぽらんな人間なので、予測など見ない方が対応という点でも精神衛生という点でもよいというのが、後付けの理由ですね。理由になっていないか。

 気象庁には失礼な話ですが、天気予報よりもあてにならないのが、経済予測。経済成長率が代表ですが、株価や金利、物価など数値で表現できるものになると、まず外れて当然という感じでしょうか。岡崎久彦さんなどは手厳しく、経済関係の人たちは何度も丸坊主にならなきゃいけないようなミスをしてあらためる雰囲気がないと1990年代の論説では書かれています。なにしろ数値や指標で予測をすると、「鬼が笑う」というのが普通でして、丸坊主程度で済むなら、私もやってみようかなと思いますが、予測の前提になっているパラメータや諸条件でどこが狂ったのかを突っ込んで示していれば、外れた予測にも意味があるのかなと。多少、マシになるという程度でしょうが。そうじゃないとあんまり変わらないでしょうね。

 えー、まったく脈絡がなくて恐縮ですが、予測は苦手なんですが、長期的なトレンドで変化しない確率が高い事象を見るのは大切でして、私自身は、経済のなかで「財政の硬直化」というのは変わらない可能性が高い事象だと考えております。あれこれと迷いながら書いていたら長くなってしまいましたので、要旨のみを記し、「寝言」にお付き合いしていただける方は「続き」をクリックしてくだされば、幸いです。なお、「論拠」は薄弱ですので、突っ込みたい方はご自由に。

【要旨】

(1)わが国の財政が既に「大きな政府」というべき状態にあるという指摘がある。これには疑義がある。国レベルに限定すると、予算規模(2007年度)が粗生産(2005年)に占める割合は約4分の1程度であり、付加価値ベースでは約22.4%(2006年)である。比較の手法としては乱暴な点を含むが、概ね、わが国の経済は民間部門が主役であって、公的部門ではない。なお、これは民間部門に対する公的部門の権限を捨象した検討にすぎない。

(2)財政そのものの問題に絞ると、国レベルで一般会計全体における国債費の増加による「財政の硬直化」が進んでいる。さらに、一般会計内の一般歳出を見ると、社会保障費の割合が極めて大きく、費目ごとに見ると、年金・医療・介護など今後の社会構成の変化を考慮すると、削減が困難な分野が予算全体でも大きな割合を占めている。このことは、いわゆる「財政の三機能」のうち、(A)資源配分の効率、(B)所得再分配、(C)景気安定化のうち、(A)や(C)の機能を発揮することは困難になりつつあり、所得再分配を重視する方向に進んでいることを示すと考える。

(3)上記の検討ではあまりに乱暴な点も多いが、消費税率の引上げに関しては、実体経済をはじめとする景気への影響を無視しても、慎重な考慮を要する。消費税率の引上げによってある程度、「財政の硬直化」を緩和することができるだろうが、他方でそれらを社会保障関係費などに目的税化しようとしまいと、社会保障関係費が漸増する現状を追認するだけで、財政の自由度を高めることに貢献することは困難であろう。

(4)「大きな政府」、「小さな政府」という議論は、財政規模だけでなく政府の民間部門への権限も含んでいるため、財政規模だけで判断することは一面的であろう。さらに、財政規模に限定しても、適切な財政規模がある範囲内で特定化できなければ、意義が少ない。ただし、現下の財政状況を考えると、「大きな政府」を指向する立場は、概ね財政改革に否定的であるか、「現状維持」を基調としつつ、さらに予算措置を含む積極的な政策を主張する立場と考える。他方で、「小さな政府」を志向する立場は、財政が拡張する傾向への「抵抗勢力」であると考える。「小さな政府」を主張する立場からは国債費だけでなく、今後の社会保障関係費の増大を抑制する方策がなければ、現実的な政策提言は困難であろう。他方で、この立場は財政の基本的な機能のうち、所得再分配による非効率と非効率を抑制することを重視する立場である。


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2007年08月01日

見落とされている「格差」?

 あまり他のブログを読まないで記事を書いたら、もっと熱のこもった、真摯な分析を拝見しましたので、安倍総理の話題は打ち切りです。一言だけ「時の最果て」らしくお下劣なことを書いておきます。若い人にプレゼンの練習をするときに、安倍総理の演説を見せて、「なにをおっしゃっていたかわかる?」と尋ねると、「ええと…」となります。要は、悪いプレゼンの見本として活用していただいております。『日経』の2007年1月3日の塩野さんがインタビューで国際会議における安倍総理の演説の内容をせめて半分にしてもらわないと国益を損なうとおっしゃっていましたが、むべなるかなというところでしょうか。幹事長時代の安倍総理と岡崎久彦さんの対談をネットで拝見しましたが、北朝鮮の脅威で日本人が日米同盟の大切さを痛感したという結論部分にいたるまでのプロセスが異常に複雑で聞き手役の岡崎先生も安倍幹事長(当時)の言葉に真剣に耳を傾けつつも、結論に至るまで理解が難しいご様子でした。まあ、自民党には安倍総理の首を頂こうという覇気のある方は見当たらないですし、民主党も党首候補はいても総理候補が見当たらないので、失礼ながら、安倍政権がじりじり出血して衆院解散後はさらに凡戦という感じでしょうかね。無節操なのが丸出しですが、集団的自衛権の行使ができないという現行解釈の下で当面10年をどう凌ぐのかということも考えておかざるをえないかなと思います。

 参院選に関して唯一、驚いたのが47都道府県の選挙区のうち、いわゆる「1人区」が29、全体の6割強という数字でした。参院選も半ば以上は小選挙区制に近い状態になっているわけで、今後も極端な結果になるのかもしれません。

 今回の選挙は、「時の最果て」としてもかなり変な「寝言」ですが、「国家の品格」対「格差社会」の対決だったとも見えるわけでして、書籍の売れ行きはともかく、表面的には「格差社会」に「軍配」があがったようです。どちらも「同根」と見るのが「時の最果て」のスタンスですので、正直なところ、どちらに「軍配」があがってもどうでもよいのですが。民主党の農家への「個別所得補償制度」にはしびれました。国語が苦手な私には農業の活性化ではなくて、農業はホスピスに入る状態でカンフル剤ではなく、麻薬を打って痛みを和らげようというのはなるほどと感心してしまいました。「格差是正」は無理だから、格差の痛みを和らげようというわけで、カネがかかりそうなのでご免こうりますが、このわかりやすさには感心しました。

 格差がらみではかんべえさんがしきりに愛知県の有効求人倍率を取り上げていますが、雇用の、それも地域間のミスマッチの解消は厳しいと思います。『三原・生島のマーケットトーク』では都道府県単位の雇用行政の是正を挙げておられましたが、沖縄県の方が愛知県で働こうという気になりますかね。かんべえさん自身が愛知県に何度も足を運ばれて魅力を感じないとこぼすところへ雇用機会だけで移動するかなあというのが率直な実感。

 愛知県の構造的な人手不足は当面、解消するのは難しいと思います。雇用の内容にもよりますが、他の都道府県から若いうちに愛知県、あるいは東海地方に移動する機会の一つとして大学進学がありますが、非礼を承知で申し上げると、愛知・静岡・岐阜・三重の東海4県はともかく、他地方から見て積極的に進学したいという「名門大学」がほとんどないというのが現状です。「めいだい」と言って名古屋大学を真っ先に思い浮かべるのは、愛知県と静岡県でも浜松あたりまでぐらいでしょうか。静岡市になると、名古屋大と明治大のどちらになるのかが微妙です。岐阜や三重は土地勘がないのでちょっとわからないです。余談ついでですが、両親がとりあえず「目指せ!名古屋大学」と言っていたので、高校2年生ぐらいまでは名古屋大学を目指しておりましたが、恥ずかしながら高校3年生になってから旧帝大だということを知ったというぐらい、ローカルなイメージです。さらに、放談ついでに静岡の中学生の大半は静岡大学(しずだい)を目指すようですが、たいていは無理となるわけで、まあ似たようなものかと。手遅れ感がありますが、どちらも素晴らしい大学ですよとフォローしておきます。

 いずれにせよ、愛知県の景気が安定しているのは事実ですが、内閣府の「平成16年度県民経済計算(平成19年3月6日)」データを見てちょっと驚きました。1996年度(平成8年度)から2004年度(平成14年度)のデータが掲載されていますが、中部と近畿の各ブロックの県内総生産(実質・連鎖方式)の合計の差が2兆円弱にまで縮小していて、同期間内の平均成長率は近畿が約0.5%、中部が約9.8%です。なお、関東ブロックは同期間で平均成長率が約9.9%。統計的にはかなり粗い部分もあるとは思いますが、関東・中部が成長し、近畿が停滞していたことが一目瞭然になります。さらに、中部・近畿のなかで東海4県(岐阜 静岡 愛知 三重)と京阪神(京都 大阪 兵庫)をとりだすと、前者の平均成長率が約10.7%、後者がなんと−0.3%です。もちろん、単純な規模では中部が関東の4割弱、近畿が4割強なので関東の成長率の高さは、成長率を計算する際の分母の大きさを考慮すると、際立っています。地域間格差という場合、たいていは大都市圏と農村部との格差を指しますが、大都市圏でもこれだけ成長の「格差」が広がり、とりわけ近畿圏が停滞した状態で続くと、まず近畿圏の生活水準を維持することが困難になるのは当然としても、西日本の地域に波及効果や雇用機会を与えるという役割を期待することは難しいように思います。中国や山陰、九州あたりから他地域に移動する場合、まず京阪神が浮かび、次に首都圏が浮かぶようです。最近は、首都圏への指向が強まっているという話も聞きます。このあたりは私の調査能力の不足で正確な意識調査が見当たらないのですが、東海圏のプレゼンスは首都圏や京阪神圏と比較すると、非常に低いのだろうと思います。的確な雇用に関する情報が全国的に提供されても、現実にはあまり効果を期待しない方がよさそうです。もちろん、やらないよりはマシだとは思いますが。

 率直なところ、地域間の雇用のミスマッチの解消は、現在のところ、有効な政策手段がないと思います。戦後復興期から高度成長期にも、様々な「二重構造」が指摘されましたが、成長率の上昇が決定的で、農村部から都市部への人口移動が成長を支えたというのが、大雑把な構図でしょうか。雇用機会を地域に広げるために工場などの立地の分散を図る政策をとった先進諸国は少なくありませんが、めぼしい成果は挙がりませんでした。ちょっと悲しいのですが、これらの事情に政策レベルで対応するとすれば、人口移動や地方への諸事業の分散を妨げているディスインセンティブを丁寧に取り除くことぐらいしか思い浮かばないです。数年前に地方での新しい産業集積を生み出すインセンティブを与えたり、はては起業家支援までインセンティブの一つとして取り上げられましたが、費用対効果の点で分析している文献を見たことがなく、基本的に成長というのは民間部門の自発的な経済活動の結果というあまりにベタな私の思考様式からすると、なんとも無駄なことばかりやっているように映ってしまいます(根本的に意地が悪いので、これらの施策は結局、新しい利権づくりじゃなかったのかなと。これは寝言そのものですけれど)。

 「続き」は、内閣府のデータの要約です。お好きな方は御覧ください。

(追記)「続き」を含め、平均成長率の値に誤りがありました。下線部を訂正しました(2007年8月1日)。


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2007年06月06日

「政治とカネ」 勘定と感情

 いろいろな出来事が重なって、書けずにいたことがありました。躊躇う最大の事件は、松岡利勝氏の自殺でした。政治家の「スキャンダル」が世間で問題になる場合、倫理的な問題が大半を占めます。このことから私自身が自由ではないでしょう。「政治とカネ」の問題は、程度にもよりますが、政権交代を招くほどの事態にいたることも少なくありません。私自身は、昔ならば、贈収賄などの汚職、最近では「官製談合」など自体は、形式的かもしれませんが、法に則って適切に処理されることが望ましいと思います。他方で、この種のスキャンダルには「政治責任」の問題が避けられない場合がほとんどでしょう。「政治責任」が問題となる場合、ほとんどは倫理的な問題です。先ほども述べたように、私も倫理的な問題から自由ではありません。率直に言えば、嫌悪感を覚えます。他方で、「政治とカネ」の問題が過度に政治の中で重視されることには違和感を覚えます。政治家特有の職権を利用すること自体は、非難に値するでしょうが、ゆきすぎれば、職権の濫用の結果に比して、「罰」があまりに大きくなることも少なくないと感じるからです。

 テレビを見ないので活字メディアだけで、それも最近は十分に目を通しておりませんが、松岡利勝氏の自殺はさすがに周囲でも話題になりました。私も含めてこの事件で同情的な意見は皆無でした。他方で、農政に詳しい方の中には松岡氏の農政の「構造改革」を高く評価し、惜しむ意見も目にしました。そのなかでとりわけ明快に松岡氏の農政の「構造改革」を評価した上で、雪斎先生はこの記事で、次のように書かれています。「『有能で黒い政治家』と『無能で白い政治家』どちらかを選べといわれれば、雪斎は、躊躇なく前者を選ぶべきであろうと思うのだが…」。私自身も、「有能で黒い政治家」を選ぶ方がはるかによいと思うのですが、この選択は、倫理という点を抜きにしても、非常に難しい問題をはらんでいるように見えます。以下、松岡氏の問題を離れて、この問題について考えてみます。

 「有能で黒い政治家」というのは、カネ以外の要素も含んでいるのでしょうが、「有能」というのは政策立案能力と政策遂行能力を指し、「黒い」という形容詞が指す内容は、カネにまつわる問題が大半を占めるのでしょう。政治から遠い位置にいる者としては、「有能で白い政治家」が望ましいわけですが、残念ながら、麻生太郎外相のように有数の資産家ではない限り、現実には難しいのでしょう。他方で、「無能で白い政治家」というのは、事実上、政策立案はともかく、政策遂行という、素人目には最もお金がかかる分野(分野によっておおいに濃淡があるのでしょうが)でも「無能」なわけですから、どんなに優れた政策立案能力があっても、実際の政治では結果を残すことは難しいでしょう。「無能で白い政治家」よりも「有能で黒い政治家」が望ましいということは、倫理上の問題を捨象すれば、ある程度、納得がゆく話ではあります。

 問題は、「有能」であるということと「黒い」ということが両立するのか否かという点です。政策遂行にあたっては、基本は説得と国務大臣であれば大臣の権限によって利害関係者を政策を実現する方向に誘導するのが基本なのでしょう。しかし、説得にも限界があり、時間を要することもあって、現実には利益誘導によって政策を実現することもやむをえないのかもしれません。具体的な事実にもとづいてこの記事を書いているので、想像に過ぎませんが、「利益誘導」という言葉は、どうしてもネガティブに捉えられがちですが、「利益誘導」を受ける側の利害と政策遂行にあたって必要な措置が一致すれば、言葉による説得以上に効果的な側面があるのではないかと考えております。これも、事例にもとづいた検討ではありませんので、空理空論なのかもしれません。

 この他にも、「利益誘導」が有効な説得の手段となるための条件がありそうですが、私があまりに知識不足なまま書いておりますので、割愛いたします。問題は、「利益誘導」を受ける側の利害によって「利益誘導」を行うことによって実現する政策が本来の趣旨から外れてしまうことです。この場合、「有能」なはずの「黒い」政治家は、政策を実現できないばかりか、政治的資源をムダにしてしまうことになります。多くの場合、「利益誘導」から政治家が私利をえることに非難が集まりますが、それ以上に政治的資源が有効に活用されないことは「無能」となんら変わらない、場合によってはそれよりも悪い事態を招く可能性すらあります。

 私自身は、「政治とカネ」の問題で国会での議論が空費されたり、世論が感情論に流されてしまうことに危惧を覚えます。私自身も、この種の問題では情緒的になることが少なくありません。ただ、「『有能で黒い政治家』と『無能で白い政治家』」という表現を用いるには、「黒い政治家」による政策遂行が、政治的資源のムダを上回る効果を生むことが最低限の前提だと考えます。このような判断に必要な情報が、私自身もそうですが、政策遂行の実務に携わっていない大多数の国民に伝達されない以上、世論が「政治とカネ」の問題で過度に反応すること自体は、ある種の自然現象のようなものではないかと思います。このような世論はしばしばゆきすぎますが、政治的資源の浪費を抑制する側面もあるのでしょう。感情論は感情論であるがゆえに、かえって政策遂行をより効率的に行う圧力となる側面があると思います。もし、これが冷徹な利害計算にもとづかなければならないとすると、大多数の国民に膨大な情報が伝達されなければなりません。仮にこれが実現することが望ましいとしても、膨大な費用と国民の側のやはり膨大な労力が必要になります。もちろん、感情論はゆきすぎるのが常で、必要以上に政治家の行動を制約してしまう危険があります。

 しかしながら、国民の代表として統治にあたる方たちには、「政治資金規正法」改正以上に、世論の感情論をいかに統治の効率を高める「圧力」として活用することを期待したいのです。失礼な話ですが、感情論を宥めるために倫理を厳しくすればするほど、以前に比べれば些細なことがバカバカしいほど騒ぎになる印象がありますので。

2007年04月20日

ユニバーサルサービス制度(4)

 今回でユニバーサルサービス制度の話は終わりですが、歯切れが悪くなります。「ユニバーサルサービス制度の将来像に関する研究会(第1回)」の資料1−4「ユニバーサルサービス制度の現状と課題」(PDFファイルですので、リンク先の該当資料をクリックする際はご注意ください)が主たる資料ですが、たとえば、スライド番号14枚目の「最も低いコストの局」の札幌と青森の加入数のセル中で桁数区切りであろうところが、小数点になっていて数字自体は信用しても大丈夫なんでしょうが、なんとなく不安になります。パッと見た目はExcelで作成した表をPowerPointに貼り付けたのでしょうが、元の表を作成する際にコンマを手で打っていたのでしょうか。通常はセルの書式設定で済む話でしょうが、細かいところで少しでも狂いがあると、この話は結局、数字の問題になるので、すべてが狂ってしまう。このあたりの無神経さはお役所らしくないですね。いかれた「外道」が「寝言」を綴る「時の最果て」では珍しくないのですが。

 そんなわけで慎重になってしまいますが、スライド番号14の数字を信用するものとすると、全国で最もコストが高い局が属するMA(Message Area:資料では単位料金区域)は夕張で、夕張内のこの局ではわずか3回線でコスト単金が405,305円ですので、3回線に1,215,915円ほど費やされていることになります。離島が高コストになりそうですが、東京都で最も高コストの局が存在するのは八丈島。八丈島内のこの局はコスト単金が157,864円で加入数が247ですので、38,992,408円が費やされています。 これらはMA全体の数字ではなく、あるMA内で最も高い局を抽出した数字ですので、極端な数字になります。ちなみに、MAというのは単純に言ってしまうと、東京でたとえば「03」、大阪で「06」の市外局番で統一されている区域を指します。一つの市町村が複数のMAに分割されることはありませんが、MAが複数の市町村(東京の場合、特別区を含む)を含むことがあります。高コスト地域の損失を低コスト地域の収益で補填することは当然の前提となっていますが、実はこの点は難しい部分があります。

 念のため、申し上げておきますと、長期増分費用のように競争的な水準でのコスト算定や高コスト地域のコスト削減努力などもうたわれています。本質的な問題は、低地域コストでえられた収益を低地域コストに投資した場合にえられたであろう便益と比較して、低コスト地域でえられた収益を高コスト地域の損失を補填する場合にえられるであろう便益が大きいのかという問題でしょう。さらにいえば、公正を重視するのなら、高コスト地域の損失負担の便益が仮に小さい場合でも、ユニバーサルサービスを維持すべきでしょうが、低コスト地域の消費者の厚生を無視するのは、「公正」という点でも、正当化が困難でしょう。これは効率の観点であって、ユニバーサルサービス制度のように、公正を問題とする議論にはなじまないという考え方が支配的なのでしょう。しかし、報告書では、このような視点すら見あたらず、読みながらやや苦痛を覚えます。露骨に言ってしまえば、公正の問題だけを論じていて、効率の問題はまったく無視されているといってよいでしょう。

 効率と公正の問題を、それだけを取り出して論じることは、私の手に余ります。しかし、公正と効率が一致しないにしても、公正を確保する際に効率の問題を無視することは、長期的に非効率を拡大するばかりで、「公正」な制度を保つことは困難になるでしょう。この資料では、私の偏見にすぎませんが、費用効率のみが問題となっている印象があります。効率という場合、費用効率だけでなく、消費者の厚生を含むというより、こちらを重視するのが通常だと思います。「採算地域」でえられた収益を、ごく一部とはいえ、「非採算地域」の損失補填に充当することによって発生するであろう非効率に関してはまったく無視されていて、現状では地理的公平が確保されているのかどうかすらわからないというのが率直な印象です。場合によっては、低コスト地域が地理的に不公平な状態にある可能性すら否定できないでしょう。  

 さらに「ユニバーサルアクセス」、すなわちブロードバンドへのアクセスの地理的公平を確保することは「IP化の進展に対応した競争ルールの在り方に関する懇談会報告書」にでてくる概念ですが、ずいぶん贅沢な話だなあと思ってしまいます。お役所の報告書らしく慎重な留保は着いているものの、競争が進展した場合、ユニバーサルサービスにせよ、ユニバーサルアクセスにせよ、地理的公平を確保するための原資は確実に減少してゆくでしょう。肝心の部分に関してはほとんど触れられていない。現状ではNTT東西への補填対象額が約152億円程度ですので、金額からすれば大したことはないのかもしれません。しかし、ユニバーサルサービスがユニバーサルアクセスに拡大した場合に、補てん対象額が現状よりもどの程度、変化するのか、資料からは見当もつきませんし、「採算地域」においても、ブロードバンドサービスを利用しない利用者が「非採算地域」のユニバーサルアクセスを確保するための原資を負担すべき正当な理由は理解できないです。

 これはわき道にそれますが、スライド番号15では「平成17年度ユニバーサルサービス収支表」が示されています。この収支表は加入電話と第一種公衆電話に区分されています。ユニバーサルサービスにせよ、ユニバーサルアクセスにせよ、根幹は地理的公平なのでしょうが、公衆電話は地震など緊急時の通信手段としては移動体通信と同様に、場合によってはそれ以上に有効に機能することもありえます。ユニバーサルアクセスの場合で、"essentiality"(国民生活に不可欠であるという特性)の概念は重要でしょうが、高コスト地域でのサービス・アクセス維持の問題に議論が偏っていて、低コスト地域・高コスト地域を問わない"essentiality"にはほとんど注意が払われていないようです。この資料のあら捜しをしているわけではないのですが、どうも、「次世代ブロードバンド戦略2010」の整備目標が先走っていて、それを正当化するために議論が行われている印象が拭えません。 

 ユニバーサルサービスからユニバーサルアクセスに発展するにせよ、スライド番号8が問題を集約していると思います。この図で示されている「補てん対象地域」の設定には、ある種の恣意性がともないます。先述の「低コスト地域」の収益で「高コスト地域」の損失を負担することに関して消費者の厚生の観点、あるいは便益評価が事実上、無視されている状態では、「補てん対象地域」の設定は、いつまでも恣意的なものに留まるでしょう。IP化やFMCの進展による市場の変化にユニバーサルサービスを対応させること自体は大切でしょう。しかし、ユニバーサルサービス制度による非効率が明示されていない現状では、競争の進展ともに、ユニバーサルサービス制度は複雑化し、恣意性を高めてしまうでしょう。「公正」の確保を議論することはけっこうなことです。それが効率という冷徹な計算を欠く場場合、「善意」なるものから悪しき制度が生まれるものだという「寝言」が浮かんでしまいます。

 「格差是正」にも、多様なレベルがありますが、ユニバーサルサービスは、「所得格差」や「デジタル・ディバイド」とは異なる地域間格差にかかわる問題です。「政治と経済の関係あるいは無関係」というカテゴリーから離れた話になってしまいましたが、冷戦下で影響をもった「経済的土台が上部構造を決定する」という、社会主義の発想でも、極度に図式化された、ものの見方はいまだに影響力があります。経済的相互依存と政策決定過程の関係に理論的に明確な法則性が存在するのか否かすら私には確信がありませんが、内政という点からこの問題を考えるときに、政策決定とその執行過程は、一国の統一性を保つために、市場機構の性能や経済的相互依存の恩恵を犠牲にすることが少なくないように思います。外政という点では、他国という自国だけでは動かしがたい変数がある以上、互恵的な関係を破壊することがありうること、それを避けうる手段が限られていることは否定しがたいと思いますが、内政では政策の決定・執行にあたって非効率が避けられないにしても、その非効率を的確に評価し、可能な限り抑制する発想が少しでも省みられることを願ってやみません。「市場原理主義」などというまったく意味をなさない言葉が、無意味であるという自覚すらないまま、メディアや論壇で用いられているのを見ると、遠い道のりであることは覚悟せざるをないと、「寝言」をつぶやいてしまいます。

(追記)記事タイトルを「ユニバーサルサービス制度(4)」に訂正いたしました。また、下線部以外にも記事をエントリーした後で訂正した部分があります(2007年4月20日)。